魚人島は、グランドラインの前後半の海を繋ぐ唯一の“海路”だ。
大海賊時代が始まって以降、数多の海賊達の被害を被った島であるからこそ、入国する船は種類如何に関わらず審査を受ける必要がある。安全に航海するためには船へのコーティングを必須とする海域の性質。深海という、魚人以外にとっては過酷でしかない環境。国全体を強固に包むシャボンは外敵の侵入を拒み、よしんば侵入されたとしても、襲い掛かる反動が侵入者達を無事ではいさせない。
強引に入国しようと関所を突破したところで、待ち構える精鋭達が取り押さえるのみだ。
白ひげの加護と、厳しい入出国管理。この二つが、リュウグウ王国の平和を保ってきたのである。
――今日、この日までは。
「遅い! いつまで待たせる気だえ!!」
口汚い罵声と共に、銃弾がばら撒かれる。
苛立ち交じりな、目測も狙いもつけずに放たれた弾丸が、不幸にも居合わせた住民の肩を抉った。悲鳴が上がる。傷口を押さえて蹲る女性。近くにいた者が慌てて駆け寄ろうとするも、更に撃ち込まれた弾丸は、更なる犠牲者を増やす結果に留めた。張り詰めた空気の中、銃弾の主である男は憎々しげに舌を打つ。
「膝を付いて面を上げぬ、その程度の礼すら守れぬとは。まったく不快な魚類共だえ」
「クリストフ聖。竜宮城に先触れを出し、歓待の準備を整えるよう命じておりますが……」
「要らんえ! こんな魚臭い掃き溜めにわちきを長居するつもりかえ!?」
「は。出過ぎた真似を致しました」
「おまえも! 撃たれたくらいでぎゃあぎゃあうるさいんだえ!」
痛みに呻く女性の腹を蹴り飛ばして、天竜人が吼える。
蹴り転がされる民間人の姿に、けれども助けに入るわけにいかず、衛兵達はぎりりと歯を食い縛った。偶然居合わせた他の人々もまた、天竜人の背後に控える海軍の姿に無言で頭を垂れたまま震えるしかない。意見しようものなら、より手酷く罰せられるのは火を見るより明らかだった。
それが天竜人の意向であるならば、白いものすら黒くなる。
誰から見ても理不尽な悪しき行いであろうとも、天竜人が行うのであれば、それに異を唱える事は赦されない。
「海兵どもも! 分かっているのかえ!?
おまえらがいつまでも奴隷の小娘一人捕らえられない無能だから、わちき指揮をとってやっているんだえ!!
この国にいるのは分かっているんだから、さっさとわちきの前に引き摺ってくるんだえ!」
警護のために立ち並ぶ海兵達に怒鳴り散らしながら、天竜人は発砲の熱が燻る銃身で、その一人の横っ面を引っ叩く。苦痛に顔を歪めながらも、「……はっ! 申し訳ございません!」と歯切れよく応答してみせた海兵に鼻を鳴らし、天竜人は最初に撃たれて転がった女性の髪を掴んで、無理やり引き摺り起こす。
「ふん……女魚人か。新しく作った水槽に入れれば、まぁ映える鱗だえ」
落とされた呟きに、痛みに青褪めていた女の肌が蒼白になる。
恐怖に顔を引き攣らせながら、途切れがちな声で許しを乞う姿に、けれど天竜人は楽しげですらあった。
「やめろ! その人を離せ!!」
「馬鹿、よせ!」
耐え兼ねたように声を上げ、天竜人に向かって突進する少年。
けれどそんな無謀な行動が通るはずもなく、少年はあっという間に海兵に取り押さえられた。
暴れながら、天竜人をまっすぐに睨み付けて少年が怒鳴る。
「はなせ、はなせよ! その人が何し、ムグッ!」
「黙ってろこのクソガキ!! っだ! 噛みやがったこいつ!」
「なんだこいつめちゃくちゃ歯が鋭いぞ!?」
「失礼しましたクリストフ聖、すぐに叩き出しますので!」
なおも暴れる少年を押さえつけながら、海兵が厳しい顔つきで敬礼する。
それに鷹揚に頷きながら、天竜人は「良い。そのまま押さえておくんだえ」と言って少年の腹へと銃口を定めた。抑え込まれ、口を塞がれていてなお、怒りを込めて天竜人を睨み続ける少年に、天竜人がにたりと笑う。
「光栄に思うがいいえ、魚。
高貴な者に対する礼儀と言うものを、わちきが手ずから教えてやるえ」
撃たれた者達の苦悶の呻きを聞きながら、少年の無残な姿を予想して魚人達が顔をそらす。
天竜人の言葉に含まれた、明らかな嗜虐の意図。少年を押さえ込んでいた海兵達の手が、無意識にか意図的にか、わずかに緩んで。
――ドォンッ!!
地面が揺れる。砂埃が舞い上がる。深く鋭く、大地を抉る無数の影。
その爪痕だけで、察する事ができる明確な殺意。肺を圧迫するようなプレッシャーは、獲物を掠め取られた苛立ちからか。その矛先を向けられている天竜人はといえば、白目を剥いて泡を吹きながら痙攣している。
先程の攻撃の際に気を失っていなければ、圧だけで心臓が止まっていても可笑しくは無い――その程度には凶悪な覇気に、なんとか救出した天竜人を部下の方へ放り投げて、男は常に上がり気味な口角を引き結んだ。
ふぅわり、と。
少年を背に庇うようにして、音も無く、人形めいた少女が降り立つ。
苦しげに喘ぎながらも「とうりょう」とほっとしたように呼ばう少年の声に、悍ましい威圧感が霧散する。
光を灯さない、泥土の如き青磁の双眸。天竜人を真っ直ぐに追っていた視線が、つい、と逸れて男を射抜いた。
「――あなた。わたしの敵、ね?」
「……お早い到着だねェ、“リトル・モンスター”……!」
■ ■ ■
海軍の軍艦による、リュウグウ王国の港の占拠。
それだけでも前代未聞だというのに、さらには天竜人までいるとなれば最早落ち着いてなどいられるはずもない。
竜宮城の官吏達が右往左往の大混乱真っ最中でありながらも、議会を収集すると同時に、王の意向を問いに慌ただしく訪れたのは妥当な判断と呼べるだろう。
「軍を編成せよ! 海軍といえど、この国で好き勝手はさせぬのじゃもん!」
「は、畏まりました! ただちに!」
「失礼致します王よ、天竜人の使者が来ておりますが――」
「このような時に……!」
天竜人が乗船している以上、使者が竜宮城へ訪れるのは至極当然の流れと言える。
だが、リュウグウ王国は世界政府に加盟してこそいるが、国を実質的に庇護しているのは海賊“白ひげ”――海軍すらおいそれとは敵に回せぬ実力者だ。地理的な問題、そして“魚人”に対する根強い差別意識。それらの多くの要因もあり、これまで公式非公式を問わず、海兵がこの国に足を踏み入れた事は一度として無かった。
「火急の時じゃ、しばらく待たせておくんじゃもん!」
「しかし王、相手は天竜人の使者です。何か無理難題を言われるのでは……」
「分かっておる! じゃが、野放しにしておる間に何をするか分かったものではない!
守りを固める方が優先じゃ!」
「落ち着かれよネプチューン王! 貴方がそのような事でどうされる!」
険しい顔のネプチューン王を、ジンベエが一喝する。僅かに殺気を乗せて発せられた言葉に、ネプチューン王は反射的に警戒態勢を取り――ジンベエの姿を認めて肩から力を抜く。
「! ……おぬし。ああ、旭海賊団のジンベエじゃったな」
「おおジンベエ! 帰っていたのか!」
「うむ。懐かしい顔にあえたのは嬉しいが、旧交を温めるのは後じゃな。
――王よ、確かに悪名高い天竜人ではあるが、じゃからこそ、リュウグウ王国が付け入られる瑕疵を作るのはまずい。頭領やタイのアニキが先行しておる。悪いようにはなりますまい」
「むぅ……じゃがオトヒメも飛び出していってしまっておるし、国軍の面子もある。
国民も不安に思っておるだろうというのに、何もせんわけにはゆかんぞい」
「おそらくじゃが、狙いはわしら旭海賊団。
海軍と協力して追い出すふりでもしてもらえれば、やつらも出ていくと思うんじゃが」
海軍と天竜人。例え彼等の目的が違うものであったとしても、現場にが向かった以上、彼女を無視する事などできないだろう。あの権力者を嫌いぬいてやまない頭領が、手の届く範囲でうろつく獲物を前に指を咥えて黙って見ているはずが無いのだから。
ジンベエの提案に、ネプチューン王はひどく申し訳なさそうに肩を落とした。
「……おぬしらを悪役にする形になってしまうな」
「なに、海賊など元より悪役。頭領は元より、わしらの誰も気にはしますまい。
それより。船の出港準備もある――魚人街の仲間に繋ぎをとって頂けると助かるのじゃが」
「うむ。すぐ手配しよう」
大臣や衛兵達に、矢継ぎ早に指示を飛ばすネプチューン王。
駆け込んできた侍従が、王子達不在の知らせで場をさらなる混迷に叩き落とすのは、この少し後の出来事だった。
■ ■ ■
遠くで響いた地鳴りに、リプラは長い兎耳をぴくぴくと動かして耳を澄ませる。
聞こえてくるのは激しい戦いの音と複数の悲鳴や怒声。それ以外の音はかき消されて、彼女の聴覚を以てしても聞き取れない。とん、と屋根を蹴って、下の路地を走るジャブラの髪を掴む。
「っでぇっ!?」
「ジャブラちゃん頭領あっちでち!」
ぐきぃ、とジャブラの頸椎が嫌な悲鳴を上げた。
構わず一本結びの髪を掴んで走るリプラに、ジャブラはむしり取られそうな毛根と首を抑えながら叫ぶ。
「分かった! 分かったから引っ張んなてめぇハゲるハゲる!! 首! 首もげる!!」
「あっごめんでちジャブラちゃん。でもハゲてもジャブラちゃん素敵でちよ! 愛しのギャジーちゃんもきっとジャブラちゃんにめろりんラブになっちゃうでち!!」
「おっマジで? じゃあハゲても――って適当言うなごるぁ!!!!!」
鼻の下が伸びきった表情から一転して凶悪な顔になるジャブラに、しかしリプラはえへーと笑いながら「ごめんでちー」と流した。痛む首筋をさすりながら、目的地と思わしき方向を見てジャブラは舌打ちを零す。
「くそ、なかなか港に辿り着かねェな……王城の海獣でもガメてくりゃ良かったぜ」
「ここらへん結構めんどくさい作りになってますねー。うちの船員に出くわせば道案内頼めるでちけど」
美しい外観の街並み。しかし、幾重にも入り組んだ道は迷宮めいて歩みを惑わせる。
行きはタイガーの案内もあって、物見遊山な気分であったことも一因だろう。飛び出しておきながらさっぱり道を覚えていない二人にとって、頼りになる目印は音だけだった。ぴくぴくと兎耳を動かし、リプラは走りながら腕を組む。
「むむ。王妃様も港に向かってるみたいでちね、合流するでち?」
「おいマジか。気の立ってる頭領の前に王族放り出すなんざ、ついででブチ殺される未来しか見えねぇぞ」
「んー。というかあの王妃様なに考えて前線まっただなかへ赴いてるでちかね」
「おれに聞かれて分かるわけねぇだろーが」
白ひげを敵に回したくはない。
しかし、戦闘中の頭領に話が通じるかは微妙なところだ――敵が強ければ強いほど。
二人は数秒視線を交わしたまま黙考し、王妃の件を彼方に投げ捨てる事にした。
仮にも一国の王妃なのだ。この国の人間が何とかするだろうし、そもそも屈強そうな王ならともかく、あの戦いと縁のなさそうな王妃様が命の危険まっただなかに突貫するとは思えない。頭領が暴れている現状、先行した彼女達がすべきは余計な被害を出さないように立ち回る事である。
「いたぞ! “三月兎”のリプラだ!!」
進行方向から、海兵達がわらわらと顔を出す。
一斉に銃口を向けて狙いを定めてくる海兵の姿に、しかしリプラは軽く耳を伏せて地を蹴った。
「えいやっ!」
「オラァッ!」
兎の脚力は凶悪だ。狙いを定めない威嚇の蹴りが地面を削る。
動揺した海兵達を、ジャブラがすれ違いざまに殴り飛ばして駆け抜ける。
二人の攻撃を辛くも逃れた海兵が、転がるように場を離れながら小電伝虫を繋ぐ。
「こちらF班、応答願う! “三月兎”を発見、場所は――」
ひゅん、と風切り音と共に海兵が吹っ飛ぶ。
壁に叩き付けられ、玩具のように転がる男を見る事無く、リプラは小電伝虫の通話機能を破壊した。
先を走るジャブラに跳躍一つで追い付いて、リプラはうむむと耳を揺らしながら眉根を寄せる。
「結構あちこちに海兵わいてるみたいでちねぇ。頭領のとこいくより、潰して回りますー?」
「ほっとけほっとけ。魚人連中は地の利もあるし、あいつら素で能力値たけーからな。あのくらいは勝てるだろ」
「むむー。ジャブラちゃん評価なら放っておいていいでちかね」
何年経ってもチンピラ臭さが抜けないジャブラではあるが、気難し屋なテール翁の副官を務めるだけあって、実力は折り紙つきだ。特に、粗野な性格に反した観察眼の鋭さは、誰しもが一目置くところである。
「……」
「? んだよ、人の顔ジロジロ見て」
「うん、ジャブラちゃんなんで未だに懸賞金ついてないでち?」
「おれが知るかァ!!!!」
どぉおおん、と派手な破砕音が木霊する。
びりびりと地面を、建物を断続的に揺るがす振動。次第に大きくなる喧騒が、目的地が近い事を知らせていた。
鼻をひくりと鳴らす。潮風と鉄、流血で構成された惨劇の臭い。リプラの肌を粟立たせる、大気に入り混じる戦意は慣れ親しんでなお恐ろしい頭領のそれでは無く。
「んー……? たぶん誰か船員いるでちね。戦えない、覇気に耐性ない子」
「……何人か本島出身のガキいたな。そいつらの誰かか」
足を止め、ぴぃんと耳を立ててリプラが首を捻れば、渋い顔でジャブラが呟く。
それに「でちね」と頷いて、ジャブラに向かって人差し指を立てて見せる。
「軍艦も近くあるっぽいけど、どっち行きますー?」
ケンカを売られて、おめおめ無事で帰らせるようでは“旭海賊団”の名が廃る。
何より、せっかくの帰郷に水を差された船員達の事を思えば獲物は多い方が良いだろう。
「軍艦だ軍艦! ガキのお守りなんぞしてられっか!」
「じゃ、あたちが頭領の方でちね――そこの連中もまとめてもらうですー」
ぴ、とリプラが指差せば、隠れる必要は最早ないと見て取ったのだろう。
油断なく銃を構えた海兵達が姿を現す。それに「あっずりぃ」とジャブラが不満を漏らせば、「それなら交代するでち?」とリプラがにぱぁと笑った。問われ、ジャブラは数瞬互いの役割を心の天秤にかけて。
「オウ、んじゃ先行くわ」
「はぁーい! そっちよろしくでちー」
トン、と地面を蹴って壁から屋根へ。
そのまま海軍の包囲を無視して先を行くジャブラに、海兵達の間に動揺が走る。
それを片手で制して、厳めしい顔付きの海兵が淡々と告げた。
「私は“海軍本部”ストロベリー少将である。
旭海賊団幹部、“三月兎”リプラ――“襲撃”及び“逃亡”の罪により、君を捕縛する」
険しい顔付きで、海兵達が照準を合わせる。
踵で地面を叩いて、リプラは仕方ないな、と言わんばかりの表情で宣告した。
「あたちも忙しいから、手早く済ませてあげるでちね?」
邪魔者のいない路地裏。
海兵達の悲鳴をBGMに、肉食兎は笑って跳ねた。
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