太陽の差し込む明るい海から、深くふかく、闇に閉ざされた深海へ。
上層から下層へと、大挙して押し寄せていく海流の滝に添って船が順調に下降していく。
深海。それは、海の暗黒街だ。並の生物では生存すら許されず、身の程を弁えない航海者は、この深海に巣食う住人達の胃の腑に収まる運命にある。
しかし船員の大半が魚人達な現状、この海の暗黒街すら彼等にとってはただの地元。
更に、自船の周囲を我が物顔に回遊するクイックも存在まであるとなれば、むしろ不用意に近付いた者の命を心配した方がいいという有様である。
不用意に近付いてクイックに玩具にされ、現在進行形でズタボロになりながら逃げ惑う船を眺めながら、めでたく海底初探索のジャブラと小人族のコトロ、ミンク族のリプラは興奮気味に大盛り上がりしていた。
「すごいぬー! 呪われた船“フライング・ダッチマン”! 実在したのかぬ!!」
「ひぎゃぁああああオバケぇえええええー!! ナンマンダブナンマンダブ……!!!」
「あっ、マスト折れまちたねー」
完全に物見遊山の観光客状態である。
頭領であるも、無言ではあるものの、その視線は船の外に釘づけだった。
じっと外を見詰めて瞬きもしないを、ほっこり顔で眺める一部船員達とタイガー。
騒ぎ立てる三人にあれこれと解説してやりながら、やいのやいのと魚人達が野次を入れる。
「クイックー、あんま苛めてやんなよー」
「あいつも戦力になるんじゃねェ?」
「嫌だぞ今近寄るの。クイックがキレるだろ」
「あれくらいなら死なねえだろ。どうせ拠点は知れてんだ。後にしとけ、後に」
「皆、あのゆーれーさん知り合いなんでち?」
「ありゃあ幽霊じゃない、その子孫だ。
“バンダーデッケン九世”……ここらじゃちょっとは名の知れた海賊さ」
光の無かった深海が、少しずつ、薄皮を剥ぐようにしてその色調を明るくする。
更に下、太陽のような眩しい光に照らされて、巨大なシャボン玉の都市が鎮座していた。
「ぬ! あれが魚人島ぬ!? 幻想的だぬぅー……!」
「すっげェな……まさに海底の極楽じゃねェか!」
「きらきらしててきれぇー……」
差し込む光の下、色とりどりの巨魚が優雅に身をくねらせる。
艶やかで色鮮やかな、楽園と呼ぶに相応しい国の姿に歓声が上がった。
それに面映ゆそうに笑み崩れながら、タイガーが口を挟む。
「盛り上がってるところすまんが、まだ潜るぞ」
「ふえ? あそこ行くんじゃないでちー?」
「あっちは本島だからな」
「あちらの出身者もいるが、ワシらのようなはぐれ者はもっと下層……“魚人街”の出身じゃからな」
クイックを恐れての事だろう。ゆったりと泳ぐ巨体の群れが、あからさまに避けて行く。
ぽっかりと空いた船の周囲の空白地帯。それを我が物顔に占有して、クイックがゆるりと尾をうねらせた。
オウム返しに、が「魚人街」と呟く。
「ああ。おれ達の故郷……魚人街“ノア”だ!」
船が、穏やかな速度で光溢れる場所を徐々に逸れていく。
目指すのは苔に覆われ、海底に鎮座する巨大な船。その影が薄暗がりを作る街。
旭海賊団に所属している多くの魚人達が、生まれ育った場所。
久方の帰還を祝福するかのように、何処かで海獣が一声鳴いた。
■ ■ ■
魚人街“ノア”。
その街は巨大な船の周辺に、寄り集まるようにして其処に在った。
元はみなし子達を預かる大きな保護施設だったものが、王の目の行き届かない立地であった事も作用し、はぐれ者達の集まる無法地帯に変貌。そのまま取り締まられる事も無く、国の暗部として現在に至る街である。
集った住人達の気質以外にも、巨大船が光を遮っているから、という面もあるのだろう。
雑然とした薄暗いこの街は、足を踏み入れる事を躊躇わせる、何処か排他的な雰囲気があった。
「良く集まってくれた! 我が、愛しの同胞達よォ!!」
が、それはあくまでも外部から来たよそ者にとってしてみればの話。
此処で生まれ育った魚人達にしてみれば、ノアは懐かしき故郷だ。最初期からいる元奴隷の中には十年単位で帰って来れなかった者も多く、旭海賊団結成後に加入したアーロンやジンベエ達の一党も、少なくとも五年ぶりの帰郷である。古い友人や知り合い、身内との再会を喜ぶ者達の傍ら、傍目にも分かるほどの上機嫌振りでアーロンが大仰に演説を始める。
「今……おれ達は大仕事をしようとしている!
クソみてェなゴミの分際で、地上でふんぞり返ってる権力者共!
魚人を蔑み! 人魚を食い物にしている連中! それを許すウジ虫の大掃除だ!!
弱い奴ァ必要ねェ! 臆病風に吹かれる奴もだ!! シャボンティ諸島の連中に魚人族の力を示せ!! “旭海賊団”の旗を!! 共に掲げる気概のある奴ァ前に出ろ!!!」
おおおおおおおおおおおおおおおおぅううう!!!! と方々から歓声が上がる。
ある種独特の熱気が蔓延する空間に、お客様待遇のジャブラ達は呆気にとられて置いてきぼりな状態だった。平然としているのは日頃からさしたる情動を見せないくらいである。
「……扇動向いてんのなァ、アーロンの奴」
「アーロンはアレで面倒見が良いし、まァ義理堅いからのう。
タイのアニキほどじゃあないが、ここらじゃそれなりに顔が通っておるのさ」
「……放っといていいのか? アレ」
「構わん。わしよりはアレの言葉の方が、ここらの連中は動くじゃろう」
憮然としながら、ジンベエが深々と溜息をつく。
対するジャブラは浮かない顔だ。無理もないだろう。アーロンが、この魚人街の仲間達を煽るために使った言葉の端々からは、“人間”に対しての敵愾心が滲んでいたのだ。
“旭海賊団”には、結成時に決められた絶対の掟が幾つかある。
数も少なくシンプルなものだが、この掟の執行者は他ならぬ旭海賊団頭領、“リトル・モンスター”その人だ。日頃、ほとんど船団の方針に口を挟まないであるが、この件に関してだけは厳格だ。
その掟の一つに、“種族、出身を理由とする差別的行為を禁ず”というものがある。
上手いもんだ、とジャブラは素直に感心した。アーロンは元々、種族主義者の傾向がある男だ。
それがおそらく、本来の魚人族全体の風潮なのだろう。
同胞達を煽りながらも、旭の掟に。何よりの琴線に触れないように言葉を選んでいる。
「……」
「ぬ? リプラ、うかない顔だぬ。調子悪いぬ?」
「! ん~……きのせいだよぉ、コトロちゃん」
種族主義者特有の、排他的な空気が合わないのだろう。
きょとんとするコトロの横では、へにゃりと兎耳を萎れさせて、中途半端な笑顔を浮かべたリプラがちらちらとの様子を気に掛けている。は無言だ。その表情は人形か何かのように微動だにしておらず、青磁色の眼差しは硝子玉そのままに、何ひとつとして映していない。
「そういえば、副長と王様って仲良いぬ? わざわざ会いに行くとかびっくりしたぬー」
「アウウー、おれはよくしらないんだなぁ」
コトロの何気ない疑問に、船員の一人が困り顔で仲間を見る。
そう。副長であるタイガーは、この魚人街“ノア”へ到着すると挨拶もそこそこに、竜宮城にちょっと話を通してくる、と出て行ってしまったのだ。なお、権力者を蛇蝎の如く嫌ってやまない頭領殿は「……ん。」と普段の無表情で、しかし若干嫌そうな雰囲気を醸し出しながらタイガーを送り出していた。
の耳に入らないようにこっそりと、副長って王様と仲良いのか? と内緒話で聞き合う船員達。
両手を頬にあてて、リプラは夢見る面持ちで呟いた。
「竜宮城かぁ。いいなぁ、あたちもいってみたいですー」
「――なにを浮ついているんだ、お前達!」
一つの思想を共有する、場を染め上げる熱気。
ともすれば暴発しかねない、そんな伝播する狂気に冷水を浴びせかけたのは、怒りに満ちた一喝だった。
演説に水を差されたアーロンが顔を顰め、場の視線が声を上げた人物へと集中する。そこにいたのはまだ年若い、魚人の青年達だった。縞模様の特徴的なオオセの魚人を筆頭に、誰も彼もがひどく苦々しい顔つきで、旭の一党を睨んでいる。怒りの形相で言葉を次いだのは、シュモクザメの魚人だった。
「アーロンさん……あんたには失望したドスン!
あんたにもジンベエさんにも、そこで当然みたいな顔で人間なんぞに従っている連中にもだ!! いくら奴隷解放の英雄とはいえ、そいつは“下等種族”! 魚人に従わせるのが道理ってものドスン!!」
「然り、腑抜けるにも程があるっヒ! 人間に媚びへつらうなど……」
「ンだと?」
アーロンの額に青筋が浮かび、魚人達の間にざわめきが走る。
今にもブチ切れそうなアーロンの後ろでは、旭の船員達がシイを取り囲んで引き攣り顔ながらに「まぁまぁ頭領! 若いモンのいう事なんだし穏便に! 穏便にな!?」「ニュー! あいつらにはきつく言って聞かせとくから! 深呼吸すると落ち着くそうだぞ!」「ほらタイガーのアニキも大人しくしてろって言ってましたし! ね!? 勘弁してやりましょ!?」「あああああすいませんすいません! 命ばかりは勘弁してやってください!!」「ほらここはアーロンの奴に任せてやりましょうや!」「そうっすここはどっしり構えて!」と生き急ぐ若人達の命乞いをしていた。
彼等が旭海賊団に所属して、短い者でも六年の月日が流れた。
日々苦楽を、生死を共にしてなお、人間への敵愾心を拭い去れない魚人も確かにいる。
新たな同胞とも呼べる、“旭海賊団”の仲間達。圧倒的実力で以って、彼等の上に立つ頭領。
その実力や人間性を認め、時に敬意を払ってはいても、幼少期から擦り込まれた嫌悪感は一朝一夕に拭い去れるものではない。
シイは無表情だ。情動の浮かばぬ凪の表情、硝子の瞳には一欠けらの感情も伺えない。伺えないがしかし、彼等の頭領は殺気ひとつ発さないままで敵対者の首を撥ね飛ばす事に定評がある。奴隷の海賊団、などと揶揄してみせた敵は語るも憚られるような凄惨な死に様を晒す羽目になった。
未だ“人間”を許容できない彼等をして同情を抱いた末路を、同族の未来ある若者に辿らせたいなどと誰が思うだろうか。唯一シイを止められるタイガーが事前に釘を刺していったとはいえ、地雷ワードたっぷりな侮蔑を言われるままに聞き流してくれるほど、旭海賊団の頭領は手緩くは無い。
早くも若人達の冥福を祈り出したコトロの横では、下等種族呼ばわりの流れ弾にキレて飛び出そうとするジャブラを、ジンベエとリプラが二人掛かりで抑え込んで黙らせている。静かな、しかし熱い戦いの繰り広げられる背後を余所に、アーロンが浮かんだ青筋そのままに、凶悪に口元を吊り上げる。
「世間知らずの若造共が、好き勝手言ってくれるじゃあねェか……!
おれら“旭海賊団”の同胞達や頭領を、そこいらの薄汚ねェゴミ共と一緒にするたぁなあ!!」
シャハハハハハ! と大仰に両腕を広げ、哄笑してみせるアーロン。しかし、その目は一切笑っていない。凶悪に底光りする眼光に、けれど青年達もまた、一歩も引かずに「人間如きに入れ込むとは、ずいぶんとまぁ堕ちたものだ!」と嘲笑する。緊迫する空気を裂いて、新たな闖入者が現れたのはその時だった。
「てめェら! そこをどけェ!」
怒声が響く。どぉん、と地面が大きく揺れた。
足音荒く近付いてくる一団に、ぎょっとした様子で魚人達が慌てて道を空ける。
先頭を歩くのは、テンガロンハットを被ったネコザメの魚人の男だ。笑っているようでもある猫のような口元を盛大に歪め、その眼光はぎらぎらと血走って鋭い。「あ、バンダー・デッケンじゃないか。意外と元気だな」「ほらやっぱ生きてたろ」「いやあれキレてないか」と、彼の怒りの理由を知る旭の船員達がこそこそと囁き交わす。
それが聞こえていたのだろう。呑気な会話にデッケンの額に青筋が増える。
「バホホホホホ! やっぱりさっきの海王類はてめェの仕業か……!
大海賊だか何だか知らねェが、ケンカ売られたまま黙っちゃあおけねェ! ワダツミィ!!」
「りょうかいなのら~!」
名を呼ばれ、小山のように大きなトラフグの魚人が、デッケンの指示に従って達のいる場所へと拳を振り下ろそうと迫る。即座に動こうとしたジンベエ達の動きを遮って、一歩、が前へと出た。
「! 頭領」
「いい」
軽い動きで地面を蹴って、はワダツミと呼ばれた魚人の鼻先まで跳躍し。
「ぐぶぉヴぇばらッ!?!?!」
鼻の頭から後頭部へ。脳を貫通する衝撃波に、巨体は勢いよく後方へと跳ね飛ばされて転がった。
ついでとばかりに進路上にいたデッケンの部下達を巻き添えにしたワダツミが、建物に盛大に叩き付けられる。一見すれば小柄な少女にしか見えないとワダツミの巨体を見比べながら、場に集まっていた魚人達がどよめく。
そんな郷里の仲間達の反応に、にやける表情を隠そうともせず旭の船員の一人が声を上げた。
「頭領ぉ―、ちったあ加減してやってくださいよー!」
「した」
頬にかかった髪を払いのけながら、は簡潔に返答する。
温度の無い、底の見えない青磁色の双眸。ひたり、と見据えられたデッケンが、喉奥でくぐもった呻き声を漏らして動きを止める。怒髪天の勢いから一転、一気に顔色を悪くする姿に旭の船員達はこっそりと頷き合った。視線がデッケンから外れる。よろよろと起き上がる乱入者の青年達、そして場に集まった魚人達を一巡していく眼差しは、何処までも静謐で波が無い。果ての無い透明な硝子の視線が、彼女独特の圧力を以て、全員に沈黙を強いていた。
旭海賊団の面々が、自然と背筋を正す。
「協力すること、強制はしない。傘下に入れと言う気も無い」
語る言葉は平坦で、凪の海にも似て穏やかだ。
抑揚に乏しい静かな声は、不思議と耳に滑り込むようによく通る。
「ただ――同盟を結ぶにしろ、何を選択するにしても。
首魁に納得がゆかないのなら同じこと」
すい、との目がゆるく細まる。何処かで息を呑む音がした。
呼吸すら忘れ、食い入るように見詰めてくる無数の視線を全身に浴びて、は何処までも平静だ。
変わらぬ表情、温度のかよわない硝子の瞳。ひらくたび、違和感を覚える陶器のくちびる。
“リトル・モンスター”。
幼い日、定められた通り名そのままに。
少女の造形をした小さな怪物は、魚人達を前に宣言する。
「主義も、種族も、性別も、年齢も。何ひとつとして問う気は無い。
力の伴わない主張は通らず、ただ死に絶えて怨嗟となる」
すぅい、と持ち上げられたしろい指先が、集まった群衆を指し示す。
ひらりと裏返された小さな手が、挑発するように手招いて。
「言葉は不要。暴力で以って、私に己の価値を示せ」
一瞬の空白。
街全体を揺るがすような、歓声とも怒声ともつかない雄叫びが大気を震わせた。
誘われるまま、惑わされたように頭領に挑んでいく魚人達。何気に他の魚人に混じってアーロン他数名の船員が頭領に挑みかかっていたが、それを指摘する者は、残念ながらこの場にはおらず。コトロとリプラが手を合わせて、きゃあきゃあと気が違ったようにハートを飛ばしながら「頭領すてきぃいいいいいい!!!!」と叫んでいる。
押さえ込まれていた結果、場の雰囲気に置き去られたジャブラが天を仰いで遠い目をした。
「まあ、手に負えるはずねェんだよなァ……」
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