夜の海はくろい。
寄せては返す波は、宵闇を溶かし込んで底が無い。
星のみえない夜だった。薄い雲に覆われた空は月さえ隠して光のひとかけらも見えない。
斜檣の先端で、はシャボンティ諸島の島影へと視線を向けていた。話しかける者はいない。
火の落とされた船団。昼間に騒ぎ過ぎた為だろうか、それとも来たる戦いに向けて、今から英気を養おうとしているのか。波の音だけが響く海は、その下に何が潜んでいるかもわからない。
ざぁん、ざざぁん。ざぁん、ざざぁん。ざぁん、ざざぁん。
波の音が重なる。何度も何度も、幾重にも、幾重にも。
重なり合ってぶつかりあって、波涛に呑まれてずぶずぶと暗い淵に沈んでゆく。
「シャボンティ諸島攻略かぁー。海軍さん、どれだけの数おいでになりやがると思う?」
「さぁ」
「あっこれは考えてすらいない返答」
物見台の上で、今日の見張り番はゆめうつつに微睡んでいる。
はただひとり、風の凪いだ海を眺めている。他に人影は無い。その唇は、陶器のように微動だにしていない。
ざぁん。揺れる波間で影が笑う。げらげらと。明るい調子でたのしげに笑う。ざぁん、ざざぁん。波の音に重なりながら、悍ましい声で嗤っている。
「やっばいなー、もう原作とか欠片も覚えてない。なんか名前は聞いた事あるんだよね、シャボンティ諸島。なんだっけ。なんかイベントあった気はするんだけど、忘却の彼方だ。どうしよ」
「そう」
「うんやっぱどうでもいい事だと思ってるよね、同感だけどさ。
ここまで来ちゃうと原作とかどうでもいいっていうか、軌道修正する気すら起きないもんね。
そもそもあと何年後かすら曖昧だし。原作は原作。現実は現実。混同しちゃいけません。オーライ?」
「ん。」
「良い子のお返事ありがとー」
太陽の光を喪って、夜の闇は身体の芯を凍えさせる。
ひっそりと忍び入って心の奥まで冷たい氷にしてしまいそうな寒さは、けれどには馴染み深い。
はぁ、と。密やかに吐き出した吐息が、空気に解けていく。呼吸は白く凍る事も、息をするたびに、肺腑を凍らす事も無い。塩気を含んだ海の空気は、悪魔の実を食べた彼女を厭っているのだろう。するりと服の上を滑っては避けてゆく。くろぐろとした波の底で、くろい影がわらっている。
「敵は海軍、獲物はお膝元の諸島をまるっとひとつ。
三大将と元帥まとめて相手するくらいの気概ではいる訳なんだけども。……ね。勝てると思う?」
「さぁ」
「だよねぇ。勝算とか、一度だって考えた事ないもんね」
「必要?」
「まっさかぁ。大事なのは、どれだけあいつらの首を落とせるか。……でしょ?」
ゆらゆら、ゆらゆら。水面は波で浚われて、ひとときとして安定しない。まっくろな影が深淵の底で、ぱっくりと口を開けてを見返している。ざぁん、ざざぁん。寄せる潮の響きが耳孔を舐めていく。
ぱちり、と彼女はひとつ、瞬きを落とした。
「最近じゃ海軍も賞金稼ぎも、一目散に逃げちゃうようになっちゃったし。
みんなもだいぶ強くなったから、手柄独り占めはいけないし?
タイガーもニョン婆も、無暗に殺すなって怒るから、すっかり我慢が板についちゃったもんねー……」
彼女の双眸が、憂いに翳る。
海の水は透き通ってどこまでもくろい。黒い色だけが天と地を染めて、船も島も人も呑み込んで腹の中に収めて、それでも尚足りないのだと揺蕩っている。透明な瞳を飴玉のように蕩かして、はひとり、夜に囁く。
「たのしみ。……ね」
「そうだね。いっぱいいっぱい、いっぱい殺そう。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺そう。殺した数だけ報われる。殺した数だけ救われる。殺した数だけ赦される。殺した数だけ■■もわたしも、私だって世界を愛せる。生きている今を証明できる。死んでしまったおかあさんたちのたむけになるの。積み上げた数だけ、あれらの罪は贖われる。
正義を自称するなんて愉快で愚かしい傲慢さ、血でもって報いてあげなければいけないからね。
大多数であるが故の低能振りは前世でも覚えのある馬鹿さ加減ではあるけれど、それが少数派を弾圧し、弱者を見捨てる理由にはならないと彼等は血肉で以ってしか理解しないだろうから」
ざぁああああん。砕け散る残響を残して、一際大きく波が嘶く。
きらきらと落ちる飛沫を眺めながら、はひとり、小鳥めいた仕草で首を傾げる。
「私の話は難しかった? 逃げ惑うだけの私でもなく、追われて狩られるだけの弱い■■でもなく、ましてや■■■■にすらなれないわたし。だいじょーぶ。やる事は結局いつも通りの事なんだから、好きにすればいいよ」
「……ん。」
揺れる波間で黒い影が揺れている。
くろいくろい、くろい影だ。闇の奥で、けれど水を厭うように、忌まれるようにして其処に在る。
瞬きする毎に醜くも美しくもみえるその影が、死ぬまで添うている事を彼女は知っている。熱で蕩けたふたつの空洞は彼女を賛美し、彼女を乞うている。それは彼女の細胞、一片に至るまでを啜っているというのに、意識を向けてやる度、尾を振り千切らんばかりの犬より浅ましく、彼女に全部おくれと喚き立てるのだ。
「そのうち。ね」
定型となった言葉を落として、は踵を返す。
ざぁん、ざざぁん。ざぁん、ざざぁん。ざぁん、ざざぁん。
寄せて返す波が重なる。重なり合ってぶつかりあって、何度も何度も。幾重にも、幾重にも。
夜の海はくらかった。それは深淵の底のような、全てを塗り潰したような、黒だった。
■ ■ ■
「納得いかぬ! 何故わらわが留守番なのに、ジャブラがそちらに乗っておるのじゃ!!」
キィイイイイ! とハンカチを引き千切らんばかりの勢いで、絶世の美貌を怒りに染めて女が吼えた。
シャボンティ諸島。海賊船の集まる、無法地帯の一角にて。
海底へ行くためには、船に特殊なコーティングをしてもらう必要がある。
しかしそれには手間も費用もかかるし、そもそも魚人島へ行くのは大仕事前のちょっとした一時寄港でしかない。コーティングの済んだ船を奪う方が遥かに手軽である、という結論に達したのは至極当然の成り行きだった。怒り狂う美女を指差して爆笑しながら、ジャブラは略奪した船の縁でふんぞり返った。
「ぎゃははははは! これが人徳の差ってェやつよォ!」
「てめぇの何処に人徳があんだよチクショー! こんな時だけ勝ちやがって!
てめぇジャブラぁ! アーローン! ちゃんと土産買ってきやがれよチクショー!!!」
「へーへー、覚えてたらなァ」
魚人達は一時帰郷も兼ねているが、他の船員は別である。
ほぼ行って戻ってくるだけという点や、その後に控えるシャボンティ諸島攻略を考えれば大人数を動かして海軍の注意を引くのは悪手であるという点が加味された結果、魚人達と頭領他定員枠三名という少ない席を巡って、旭船内で熾烈なジャンケン競争が繰り広げられたのは未だ記憶に新しい。
ジャンケン決勝で惜しくも敗退したハンコックが、よよよと泣き崩れてハンカチを噛む。
「くうう、何故じゃ……わらわの方がジャブラよりよほど役に立つというのに!
わらわの美しさが人魚に勝ると! それを証明する絶好の機会であったというのにっ!!」
「お可哀想な姉様……」
「大丈夫よ姉様……! 姉様なら戦うまでもなく勝ちは確定だわ!」
「またやってんぞあの姉妹」
外野をまるっと無視して、麗しの姉妹愛劇場を繰り広げるボア三姉妹。
それを指差して笑っていたジャブラだったが、チュイン、と頬を掠めていった弾丸にひくり、と頬を引き攣らせた。
弾丸の飛んできた方向を見れば予想通り、老いを刻んだ顔を殊更険しくしながら、ジャンケンで初戦敗退した老翁が銃口を下ろすところだった。自隊の副隊長へ威嚇射撃してみせたテールが、音高く舌を打つ。
「ジャブラ。隊の顔に泥を塗る真似はするでないぞ」
「うっす」
それぞれに名残を惜しむ船員達。
その様子を横目に、タイガーはニョン婆と最後の打ち合わせを行う。
「三日ほどで戻る予定だ。何か動きがあれば電伝虫で連絡してくれ」
「うむ。まぁ今のところ、ただの帰郷と見て海軍も静観しておるようじゃしニョう。
長らく戻っておらニュじゃろう? おぬしも少しは楽しんでくると良い、タイガー」
「……ああ、そうだな」
ふ、とタイガーが表情を柔らかくする。
音も無く、小さな人影が船の縁へと降り立った。
賑やかだった場に、波紋が広がるように沈黙が落ちる。
ゆるく伏せられた青磁色の双眸が、見送りに集まった者達を睥睨した。
自然、全員が姿勢を正す。静謐な声で、が告げた。
「留守を任す」
「「「「「はっ!」」」」」
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