世界一周の海路“グランドライン”は、“赤い土の大陸”を基軸に、二つに分断されている。
前半と後半。その航海難易度の差から、一度でも後半の海に立ち入った事のある者は口を揃えて、前半の海を“楽園”と呼ぶ。しかし、怖れを知らぬ荒くれ者達は先達の忠告を鼻で笑い、後半の海――“新世界”へと勇んで踏み入っていくのである。
「“新世界”に入る前に、拠点の島を得ようと思う」
旭の定例会議にて。
フィッシャー・タイガーが放った一言に、一堂に会した幹部達がにわかに色めきたつ。
即座に方々から上がりかけた声を、しかし「静粛に!」とニョン婆が一喝の下に黙らせた。
「“新世界”へ入る事、拠点を得る事。どちらも、頭領の決定じゃ」
その一言に、全員の視線がへと集まる。
常と変らない、人形めいた無表情。空虚な硝子玉の眼差しが、室内を一巡する。
「“新世界”出身者。挙手」
「は、はいですなー?」
「はぁいー、あたちも新世界出身ですー」
「魚人島もまあ、新世界っちゃ新世界かのう……」
「ふむ。己れも同様か」
「おれもだなぁー」
「僕もだね!」
顔を見合わせ言葉を交わしながら、我も我もと手が挙げられていく。
およそ三分の一ほどの手が挙がり切ったところで、「そういう事だ。もう下げていいぞ」とタイガーが難しい顔をしたまま頷いた。ニョン婆が補足を入れる。
「旭が結成されてより六年。
前半の海の出身者で帰郷できていない者は、もはや一人としていニャいじゃろう。
順番が回ってきたというだけの事じゃ。……まあ、事と次第によっては年単位遅れるじゃろうがニョう」
「おいおいニョン婆、まさかこの大所帯で“新世界”入りするってのかぁ?」
「阿呆」
「ンだとぐぉらぁクソジジィいいい! ケンカ売るなら買うぞアアン!?」
完全に馬鹿にしきった一言に、机を蹴って手長族の青年が中指おったてて吼える。
周囲の幹部らが「やめぬか頭領の前で!」「まあまあ、テール爺さんが嫌味なのはいつもの事だろ」「はーいユーデルどうどうどーう」「鎮静剤いっとく? いっちゃう??」と宥めにかかるのをスルーして、顎を撫でながらジンベエが問う。
「ニョン婆よ。“新世界”へ行くんなら、魚人島を通る海底ルートしか無かったと思うのじゃが」
もう一本ルートがあるにはあるが、そちらはまっとうな航海者、あるいは海軍専用のルートだ。
世界政府にとって目の上のタンコブである旭海賊団に、そのルートを使う、という選択肢は無い。
そうなれば自然、ルートは魚人島を通る海底ルートに絞られる。
しかし、そのルートを通るとしても避けられない問題があるのだ。
蛇のような長い首をぐりんぐりんとうねらせながら、カルトレイメが顔を顰める。
「魚人島といったら四皇の一人、“白ひげ”のシマだわさ。
うちは規模がデカいし、悪名も通ってる。入国で揉めやしないかい?」
「心配いらん。通るだけでガタガタ言うほど、“白ひげ”のオヤジは小さい男じゃないさ」
「いや、それより問題はシャボンティ諸島だろ? あそこは海軍本部のお膝元だぜ」
「三大将。或いは元帥が出張ってくる可能性も大いにありますな」
旭海賊団が新世界へ行く上での、おそらくは最大だろう問題点。
それは、海底ルートを通るために停泊しなければならないシャボンティ諸島が、海軍本部に非常に近い位置にある事。そして、海底へ潜るための船の準備で、確実に数日間停泊していなければならない、という点だった。その事実に思い当たったのだろう。シャボンティ諸島についてよく知る者達が、おもわず顔を見合わせて背筋を正す。
シャボンティ諸島。
無法地帯と海軍による支配地域の混在する、“悪しき風習”の残る土地。
旭海賊団頭領、がおそらくは世界でもっとも憎悪するだろう“天竜人”さえ出入りする事のある。
人身売買を、現在も黙認している場所だ。
「シャボンティ諸島を、獲る」
平坦な、けれど不思議とよく通る、静謐な声が宣言する。
数秒に渡る沈黙が、場を支配し。
「「「「「ええぇええええええぇえーっっ!?!?!?」」」」」
一斉に上がった驚愕の叫びが、船団全体を揺るがした。
「……まぁ、そうなるな」
「じゃニョう」
耳の痛くなる絶叫をしっかり耳を塞いでやり過ごし、タイガーとニョン婆がため息交じりに頷き合う。
沈黙から一転、怒号に近い悲鳴のような抗議だったり驚きだったりで一気に慌ただしくなった室内を、は表情を動かす事無く眺めていた。掴みかからんばかりの勢いでジャブラが叫ぶ。
「ちょ、正気か頭領! シャボンティ諸島だぞ!?
そこを獲るとなりゃあ、海軍本部に真っ向からケンカ売るようなもんだぞ!!」
「ちょっとちょっとぉ、今までとは訳が違っちゃうわよぉ……!?」
「然り。先ず間違い無く、世界を揺るがす大戦争に相違無い」
「はわわわわわわわたいへんですーたいへんですぅー」
「メンツに泥を塗られたとなれば、世界政府も黙っておるまい」
「自殺行為にも程度があんだろ。……本気か、頭領」
アーロンの問いかけに、青磁色の双眸がすぅい、と細まる。
小さな唇がゆるく、けれど傍目にも分かりやすい笑みの形に吊り上って。
「今更」
吐息のように落とされた言葉には、明確な殺意が籠っていた。
聞くだけで。耳にするだけで全身総毛立つような、地獄の淵を覗き込むような。
囁くような返答。その一瞬に零れた死神の如き禍々しい覇気に、全員がぴたりと口を噤んだ。
「……そういう事じゃ。頭領は、一度決めると譲らんからニョう。
“旭海賊団”結成以来の大事業、参加せずとも咎めはせニュとお墨付きじゃ。
海軍との殴り合いに参加せんでも、やらねばニャらん事はあるからニョ」
殊更に軽い口調で宣言し、ニョン婆が茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。
あからさまに緩んだ空気を引き締める様に咳払いをひとつして、タイガーが全員を見回した。
「事が事だ、損害は免れん。
戦えない者はカームベルトにある、ログにない島で待機になる。
暴れる気のある奴は本隊として、海軍駐屯地である六十番代のグローブを皮切りに、シャボンティ諸島七十九の島を順次落としていく予定だ。戦況次第では撤退戦になる可能性もあるからな。
退路を確保しながら、万全を期して事にあたる必要がある」
「んん? それじゃ、“新世界”はどうなるんだい?」
「シャボンティ諸島を陥落した後に状況を見て、じゃニョう」
「成程、そういう事かい。了解さねニョン婆」
「では改めて――シャボンティ諸島攻略会議を開始する!」
■ ■ ■
「「「「「シャボンティ諸島をぶんどる~っっ!?」」」」」
甲板の上で、野太い絶叫が複数上がる。
それに遠い目をしながら、ジンベエが額を抑えて溜息をついた。
「そうなるわなァ……」
今から頭が痛い、と言わんばかりのジンベエとは対照的に、上機嫌にアーロンが笑う。
「シャハハハ! まったくもって、頭領の頭はイカれてるぜ!」
「チュッ!? ホントなのかアーロンさん、ジンベエ隊長!」
「あの頭領の事だ。言ったからには獲るか死ぬか、じゃろうな」
「つー事で、オレらは“本隊”だ。今のうちに気合入れとけテメェ等」
「モハハハモハモハモハハハハ! ……本隊ィ!? 死ぬの!? おれら死ぬのォ!?!?」
「うるせェ! 魚人のプライドに賭けて、この大一番でケツまくって逃げるような無様さらせるかァ!!」
ムンクの絶叫みたいな形相で掴みかかってくる仲間を足蹴にしながら、アーロンがキレ気味に啖呵を切る。
それに「マジで?」という目で何人かが隊長のジンベエを見れば、ジンベエは少し気まずそうに視線を逸らして「すまん」とだけ言った。なんだかんだでこの隊のトップ二人、どちらも血の気が多いのである。
ほぼ全員がシャボンティ諸島にほど近い、魚人島の出身者である魚人達。幼少期から、思うところはそれなりにある。苦笑気味に盛り上がる仲間達を見ていたエイの魚人が、「ん? 待てよ」と、はたと真顔になって呟く。それにはっとした様子で、横にいたタコの魚人が頷いた。
「なぁ、ハチ」
「そうだな、クロオビ」
「シャボンティ諸島を獲るという事は……」
「シャボンティパークで、堂々と遊べるようになるな!!」
「いやそれでいいのかよ!?」
ぅおおおおおおおおお!!!! と目を輝かせてどよめく魚人達。
身軽な動きで彼等の船に飛び移ろうとしていたジャブラが、スライディングしながら突っ込んだ。
「お、ジャブラ。どうかしたか」
「あ゛-……。うちのジジィが、連携について話がしたいからジンベエ隊長呼んで来いとよ」
「テール爺さんか。なら、ギリオンの奴も誘っていくとするかのう」
話の輪からジンベエが抜ける。「いってらっしゃーい」と気の抜けた様子で手を振りながら見送る魚人達を横目に、入れ替わりで輪に加わったジャブラが、ガリガリと頭を掻きながら問いかけた。
「で、なんでお前らそんな感動してんだ」
「バッカお前シャボンティパーク知らねえのか!?
シャボンティ諸島の名所! 一度は行って見たい夢の観光地!!」
「いや知ってるけどよォ。遊園地くらい別に良くねェか……」
「分かってないな。ロマンだよ、ロ・マ・ン!」
方々から口々に語られる熱い思いに、ジャブラの頬が分かりやすく引き攣る。
そこにはきっと、地上への憧れも含まれているのだろう。幼心に抱いた憧憬が、こうしてあらゆる島を走り回る海賊となってなお、魚人達の心に強く焼き付けられているのだ。
魚人である、人魚であると知られれば確実に浚われ売られる恐ろしい土地であると知りながらも、シャボンティパークは今もなお、魚人達にとっては憧れの対象だった。ニィ、とアーロンが不遜に笑う。
「シャボンティ諸島が旭のモンになりゃ、クソみてェな考えの人間共は一掃される……!
シャハハハハ! 長年の鬱憤ブチ撒けるにゃあいい機会だ!」
「あー……なるほどなァ。それでお前、その前に魚人島に行こうって提案してたのか」
シャボンティ諸島を攻略する上で、魚人を引き入れるべきだと誰より熱弁を振るっていたのはアーロンだ。
副長であるタイガー、隊長のジンベエが複雑な表情ながらもさしたる反論を行わなかった事。また、シャボンティ諸島を獲った後の事まで視野に入れれば、確かに有用であるとして、その提案はめでたく受け入れられる事となった。その成り行きに、ぐぬぬと悔しそうにアーロンを睨む幹部が数人ほどいたのは蛇足だろう。
「じゃあ、俺達は一足先に里帰りか」
「人魚はとびっきりの美人揃いだぜ、ジャブラ!」
「何だジャブラ振られたのか?」
「医療部隊のギャジーだっけか」
「うるせー! まだ! おれは! フラれてねぇー!!!」
不自然に肩を震わせながら背中を叩く仲間達に、ジャブラが怒鳴る。
晴れ渡った青空に、笑い声が弾けた。
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