夜の闇に沈んだ斜檣の先端で、鉄色の髪が海風になびく。
 決して弱いとは呼べぬ風に煽られているというのに、人影は、誂えられた飾りのように微動だにしない。
 水平線へと向けられた双眸は瞬きひとつ落とす事無く、ただ、その先をじっと見詰めていた。

「ニャニか、興味を惹くものでもありましたかニョ」

 少女の背後から声が掛かる。
 老いを感じさせぬ足取りで細い斜檣の上を歩みながら、小柄な老婆は穏やかに微笑む。

「ニョン婆」
「はい」

 名を呼んだきり、少女はまた、口を閉ざした。
 否。既に少女とは呼ばぬ年頃であった、と思い返してグロリオーサは微苦笑を零す。
 あの、シャボンティ諸島での出会いから六年の歳月が流れた。手配当初の年齢を考えれば、は既に女性と呼んでいい年齢に達しているはずである。それでも少女にしか思えないのは、彼女の平均より遥かに小柄な体躯や、いつまでも稚さの抜けない面差しが原因だろう。
 出会った時から大きく変わるところのないその容貌は、まるでただひとり、時間に取り残されたようでもある。

「……こうしておりますと、昔を思い出しますニョう……」

 拉致以外の何物でも無い、穏やかとは決して呼べない出会いだった。
 今よりもっと口数少なく、コミュニケーションという単語から縁遠かった。シャボンティ諸島から、聖地マリージョアまでの航海。途中で脱走したり、進路を誤魔化したりしなかったのは、に対する恐怖からでしかなかった。
 ニョン婆は、かつては郷里において最強を誇った“九蛇”の戦士だ。老い、衰えはしてもそこらの海賊程度に遅れは取らない。その彼女をして、心底から恐怖せしめた狂気。壊れた人間特有のがらんどうな瞳の中、誰へとも知れぬ悪意と殺意、憎悪が篝火のように燃えていた。

 あの時の彼女には、きっと、何も無かった。
 何ひとつとして持たず、請わず、思わず、願わず。
 復讐に身を捧げ、己が憎悪で聖地ごとその命を燃やし尽くすだろう、と。
 きっと、船に戻る事はないだろうと。そう思っていた。

「増えたね」

 ややあって、ぽつり、と囁くように言葉が落ちる。
 何を示すのかと数秒考え、おそらくは船員の数だろう、とグロリオーサはあたりをつけた。

「随分と、大所帯にニャりましたニョ」

 と、クイックと、グロリオーサと。
 奴隷達が加わり、彼等に縁のある荒くれ者が集い、行く先々で解放された者達が乗船し、悪名に惹かれてやってきた海賊やチンピラ、あるいは崇拝者が次々と乗り込んで。
 毎日が、まるでお祭り騒ぎのようだった。
 初期にあった悲壮な雰囲気、安住の地の無い身の上の悲哀など欠片も無い。

「来なくなった」
「ああ、海軍ですかニャ。確かに、最近はめっきり見なくなりましたニョう」

 たまに遭遇しても、こちらの海賊旗を視認するが早いか、逃げ出す様子さえ見られるようになってきた。
 まぁ、大抵は逃げ切るより前にクイックに船底を喰い破られるか、魚人の船員達に包囲され、我先にと乗り込んだ者達に身ぐるみ剥がされて終わるのだが。
 振り向くそぶりの無いの背中を見詰めながら、グロリオーサは目元を和ませる。
 海賊団の結成初期、まだ海軍に追い立てられていた頃。まだ戦える者も少なかった当時、軍艦を見つけて真っ先に走っていくのは、決まって頭領であると、クイックだった。

 何十隻も沈めた。皆殺しにした事もあった。
 二度と戦えない身体にされた海兵も数えきれず、その度、の懸賞金額は跳ね上がった。

 殺さなくなったのは何時からだったか。無暗に、傷つける事が無くなったのも何時からだったか。
 守られるばかりであった者達が、一人、また一人と武器を持つようになった頃だったか。
 か弱い者達が、少しでも自衛しようと努力を始めた頃だったか。
 奴隷だった子ども達が、仲間を守れるようになるんだと、決意を込めて語り出した頃だったか。
 クイックだけを供に、頭領が先陣を切らなくても戦えるようになったのは。
 頭領以外の者達が次々と、旭海賊団の幹部として悪名を轟かせるようになったのは。

「ニョン婆」

 囁くような、静謐な声が問いかける。

「正義とは、何だと思う」

 酷く、抽象的な問いだった。
 何を思っての問いであるのか。振り向く事の無い背中からは、その心境は窺い知れない。
 平坦な、あまり抑揚の無い声音は常と変らぬようにも思えた。

「……さて。各々の掲げる信念を、正義と呼ぶのじゃと。わしは思っておりますがニョ」

 意識してか、それとも無意識のものだったのか。
 の指先が、緩慢な動きで自身の右脇腹をゆるゆると滑る。

「世界政府は、正義らしい」

 凪いだ声音が、微かに揺れる。
 ひそやかに落とされ、滴るのは明確な悪意だ。
 チリチリと肌を灼くような。心の臓まで凍えるような、憎しみの色。

「あんなものが正義なら」

 衣服に覆い隠された位置。
 そこに刻まれているものを知るからこそ、グロリオーサは唇を噛む。

 旭の船員であれば誰しもが持つ、“タイヨウ”の印。
 世界貴族の奴隷の烙印。人間以下の証明。天竜人の、所有の証。
 “天駆ける竜の蹄”を。覆い隠し、消し去るための、庇護の象徴。

 けれど。

 が今なおその肌に残すのは、天竜人の紋章だ。

「……わたしは、悪でいい」

 彼女達の頭領は、奴隷の印を消さなかった。望む事さえしなかった。
 痛ましい過去の証明を世界に知らしめるかのように、無造作に晒す事さえある。
 それをあげつらって嘲笑した者は、一人残らず、見せしめとして嬲られた。逃げられない、忌まわしい悪夢をその身に抱え。けれど彼女らの頭領は、わずかにすらも揺らがない。
 頭領にとってはきっと、涸れぬ憎悪の象徴なのだろう。グロリオーサはそう思う。
 護るものが増えてなお、彼女の憎しみは衰えない。
 その炎はきっと、天竜人が死に絶え、“奴隷”という制度が無くなるまで――あるいは彼女自身を焼き滅ぼすその日まで、燃え尽きる事はないのだろう。

「ニャれば、この世に正義なぞありますまい」

 虐げられる者、排除される者、否定される者。行き場の無い者達に、は極めて寛容だ。
 旭の船にはそうやって、彼女に救い上げられた者は少なくない。
 その慈悲が悪と謗られるのなら。“正義”こそが、悪と呼ばれるべきだろう。

「このグロリオーサ。頭領が悪であるニョニャら、地獄の果てまで供をさせて頂きましょうぞ」
「……ん。」

 振り返ったが、口の端を微かに緩める。
 それに微笑み返しながら、グロリオーサは心の内で神に祈った。
 どうかこの優しい日々が、少しでも長く続きますように。



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