“リトル・モンスター”の新たな手配書が旭海賊団の手元へ舞い込んだのは、その更新から遅れに遅れた五ヶ月後、即ち彼等が奴隷という立場を脱し、海賊として体裁を為して半年ほど経過してからの事であった。
紅蓮に禍々しく揺らぐ黒い空を背景に、鉄色の髪を風に靡かせている。おそらくは逃亡する際、海軍の船に攻撃を行っていた時に撮影されたのであろう。
新しい手配写真は遠距離からの撮影であっただろう割に、はっきりと顔形の分かるものだ。
だがそれを元奴隷、現船員から見せられた船長兼手配者当人に、特に言葉とするだけの感慨は無い。
賞金額が跳ね上がったのも手配写真が更新されたのも、マリージョアを襲った以上は予測されて然るべき展開である。不測の事態であったとしても、今更少女の表情筋をどの程度揺るがせたかは疑問が残る所だ。
要するに、少女にとってそれはかなり“どうでもいい”事に分類される出来事だった。
むしろ、その手配書に興奮気味に群がり、騒ぎ立てる船員達の方が理解し難いくらいである。
「うッす、それじゃあお前ら静ッ聴ォオオオーッ!」
背に焼き付けられたタイヨウの刻印を堂々と晒して、年若い手長族の青年が楽しげに声を張り上げる。
広い船の甲板上、何故そなたが仕切るのじゃ!だの、うるせぇ俺がルールだだの、いいぞもっとやれだのといった喧々囂々の言い合いと野次が飛び交うのに額を抑え、正式に副船長となったタイガーが原因共に容赦なくゲンコツを見舞った。
「話が進まん、お前らちょっと黙れ」
「つぅ~~~……っ!」
「頭がッおれッちの頭がぁああッ!?」
片や無言で悶絶し、片や床を転がって痛みを堪える二人を放置して、タイガーは船長である少女に頷いてみせる。
騒動の意味は理解できずとも、船員達に娯楽が必要だという辺りは理解できていた。
騒ぐ理由が欲しかったのだろうと自己完結し、船員達が自分達の擁する船長、“リトル・モンスター”の名が轟く事を誇っているのだという心の機微を汲み取れない少女は船員達をざっと見渡し、事前に配られた杯を軽く掲げ。
「好きなだけ騒ぎ、飲み明かすといい」
「と、いう事だお前ら。騒ぐのはいいが暴れるのは程々にしておけ!」
簡潔に無礼講の許可を出す船長に次いで、副船長が釘をさす。
早々に樽に手をかけている巨人族の男が、咆哮にも似た大音声で音頭を取る。
「ほんじゃまー、我らが頭領が四億ベリー首になったのを祝ってぇー」
「「「「「「 かんぱぁあーい! 」」」」」」
各所で爆発的な歓声が上がり、乱痴気騒ぎが始まった。
早々に喧嘩を始める者、酒樽に頭から突っ込む者、手配写真を奪い合う者、旭海賊団についてや“リトル・モンスター”について書かれた新聞記事を朗々と読み上げて子供の船員達に語り聞かせる者。
主役であるにも関わらず喧騒に混じる気もない様子で、少女は手元の手配写真の束へと視線を落とす。
情報収集も兼ねて集められたそれらは、かつての記憶に触れるものよりはかすりすらしないものの方が圧倒的多数を占めている。だが、だからといって見知らぬ海賊達が弱いという訳でも無いのだ。
グランドラインらしい高額首が立ち並ぶそれらを無表情に眺めながら、少女は己の首を指先でなぞる。
「四億、か」
懸賞金の額は結局、政府が下した評価だ。危険度が高ければ懸賞金は高額となるし、低ければ小額になる。
要するに、必ずしも戦闘能力と直結してはいないのだ。ニコ・ロビンや少女はその最たる例だろう。額に見合う戦闘力を身につけるまでは逃げるばかりだったし、今の戦闘能力がこの額に見合うレベルだとも思えない。
船員には戦える者もいるが、非戦闘員が半数以上を占めている。
自分の身くらいは守れるようにと各々で鍛錬を行ってはいても、グランドラインの海賊達と殺し合いを行うには心許ない。それなりに目を引く動きを見せる船員もいるが、脆い事に変わりは無いのだ。
少女を除けばこの船で一番強いだろうタイガーでさえ、少女にしてみればさほどの難敵でもない。
それはつまり、少女と同格かそれ以上の連中とあたれば詰む、という事である。
「…………」
少女に、自分の手配書に対する感慨は無い。その程度の物事に動く情緒はとうに無い。
けれど。感慨は無くとも、渇望はあるのだ。無力に、惨めに、ただ踏み躙られるだけの、いいように弄ばれるだけの、どうしようもない虫けらであった頃の残滓。死んだ過去の置き土産。
“ミニ”を名乗っていた少女の、心臓を灼き焦すような。臓腑を引き千切るような、力への渇望。
「気になる奴でもいたか、」
「ん。」
料理が無法に詰まれた皿を無造作に机に積み上げるタイガーの問いに、少女は否定を込めて首を振った。
そうか、と頷くと、タイガーは彼女の手に押しつけるようにしてフォークを握らせる。
「まぁ、考えるのは腹を満たしてからだな。間違っても泥化して取り来むなよ」
「噛むの、面倒」
「面倒がるな。今日は厨房の連中、特に気合入れてたからな……あいつら泣くぞ? ちゃんと味わって食ってやれ」
「……ん。」
逃亡生活では、衛生状態や味を気にしなくていい泥化しての栄養摂取の方が多かったからだろう。
こうして海賊として生活するようになり、きちんと調理された料理が出されるようになっても、経口摂取する習慣はなかなか戻って来なかった。そもそも、転生して以来まともに調理された料理自体と縁遠かったのだ。味覚はほとんど死んでいる。美味しいのだろうが、明確に味を理解できない食事を口内へ押し込む。
「タイガー」
「何だ?」
「今。タイガーは楽しい?」
「質問の意味がよく分からんのだが……」
ビールジョッキを呷る手を止めて、タイガーは脈絡の無い船長の言葉に首を傾げる。
半年前に出会った頃から、フィッシャー・タイガーにとって少女は謎の塊だった。
あの出会い以来、絶対的な暴力で以って旭海賊団を守護し養っている当人であるにも関わらず、彼女自身は初期に決定された最低限の規律に抵触しない限り、内部事情を顧みるそぶりすら見せなかった。
日が経つに連れて酷くなる船員同士の軋轢に、元は奴隷の船頭役にする予定で雇われたというニョン婆やタイガーを始めとした何人かが苦言を呈しに行ったが、返って来たのは「任せる」の一言である。
君臨すれども統治せず、を地で行くこの船長に代わって無法になりがちな海賊団の内部を整え、纏める事ができたのは、タイガー自身の実力や手腕もあるが、船長であるにもっとも近しく、意見できる存在である事が大きい。
賑やかな甲板の喧騒へと視線を移し、タイガーは無意味にあごを撫でながら「ふむ、」と独りごちる。
楽しいか、楽しくないか。
そんな簡潔な二元論で現状について述べられるほど、この状況を受け入れられている訳ではない、というのがタイガーの嘘偽り無い本心であった。荒れる船内の状況を見過ごせずに走り回った結果として副船長になってはいたが、そもそも根本的な問題としてフィッシャー・タイガーは、人間をあまり好いていない。嫌悪していると言っていい。
マリージョアでの環境を考えれば当然だろう。同じ人間ですら奴隷というだけで家畜以下の扱いを受けるというのに、魚人の彼がそれ以上の扱いをされるはずもない。
虐げられる同族達。自由も尊厳も何一つなく、鞭打たれ罵倒され気紛れに殺される日々。目の前で殺される者を見殺しにしなければ己の命すら危うい綱渡りの毎日の中で、その感情が芽生えるのは至極自然な成り行きだろう。
あの日。燃え盛る地獄の中、を探して駆けた理由の大半は打算だった。
四歳でマリージョアから逃げおおせた少女の逸話は、確かに本人に語った通り、奴隷にとって希望だった。
だが、ある程度外の知識と考える頭があれば気付く。奴隷にとっての希望を示してみせた少女が、外では大犯罪者と呼ばれている事に。ここから逃げ出したとしても、元の生活には戻れないのだと。
待つのは死か、連れ戻されるだけの現実なのだと。
真実が常に良いものであるとは限らず、タイガーもまた、真実を知る側だった。
だから、奴隷達がひそかな支えとしている少女の逸話には逆に苦々しいものすら感じていたのだ。
少女が逃げ出さなければ、中途半端な希望を抱く事もなかったのに、と。
けれど。
「……まぁ、悪くはないな」
今でも、つい先ほどの事のように思い出せる。
唐突に上がった火の手。あっという間に聖地を覆い尽くした炎。戸惑い逃げ惑う人々。苛立ちのままに奴隷達へ暴言をあびせ、自身を守るよう命令する天竜人。その胸を無造作に、何の脈絡もなく貫いた土の槍。
驚きに立ち尽くす自分達に。否、その場にいる全ての奴隷に淡々と逃げ道を示してみせた、少女の声。
「そう」
濁すような回答に、は平坦な声で相槌を打った。
情動の気配もない無機質な面持ちには、僅かな変化も伺えない。
とろりと恍惚に澱んだ瞳も、甘い毒を注ぎ込む物言いも、悪意を造形した幸福な笑顔も。
破壊され尽くしたマリージョアの中、少女を探した理由の大半は打算だった。
奴隷の逃亡は大罪である。だが、少女は四歳にしてマリージョアから逃げおおせ、今まで政府から逃げ切り、マリージョアを容易く蹂躙して見せるだけの力を持って戻ってきた。
タイガーに言わせてみれば、奴隷達に必要なのは希望ではない。もっと即物的な、少女が示したような力、だ。
何もかもを跳ねのけ、理不尽を蹂躙し、我を貫き通す圧倒的な戦闘能力。
偽善だろうと同情だろうと義憤だろうと何だって良かった。この場を無事に逃げ切るために、もっとも有力な手札を放棄して行く訳には行かなかった。協力を取り付けるために少女の行方を探し、追って、
過去に浸りながら眺める、の横顔に表情は無い。
あの地獄で、天竜人を嬲って嗤っていた少女。
あの地獄で、祝福のように呪いと暴虐を撒き散らしていた少女。
あの日あの時、彼女に声をかけた理由の大半は打算だった。
けれど。少女に怒鳴った時、彼を動かしていたのは衝動でしか無かった。打算など何処にも無い。
腹の底から突き上げるような衝動に、気付けば叫び、懇願じみた願いを口にしていた。
彼女が生きてくれるのならば何だってすると、誓った言葉に偽りはない。
人間は未だ、好きにはなれない。嫌いと言っていい。それでも、彼女へ捧げた決意に嘘は無い。
「……ソース、口元についてるぞ」
出会いは偶然で、関わり合った理由の大半は打算だった。
今でも、かつて自身を突き動かした衝動につけるべき名を、タイガーは持たない。
「 私なんかが生きてて、なんの意味があるの? 」
呆れながらも手近な布で口元を拭ってやれば、変わらぬ音調の声が「ありがとう」と礼を告げる。
その事実に仄かな喜びを覚えながら、タイガーは柔らかく目元を緩めた。
かつての未来。人間を愛せないと泣いた奴隷の英雄は、もう、どこにもいない。
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