空が燃えていた。
否、燃えているのは大地だ。
苛烈に荒れ狂う地上の篝火に照らされ、宵蒼の空が赤黒く輝く。
一面の赤、阿鼻叫喚の紅蓮絵図、逃れる事など赦さないとばかりの激たる猛火。
ありとあらゆる人間、魚人、巨人、天竜人、そこに存在する全ての者が己の命を救うためだけに、ただ一心不乱に逃げ惑う。悲鳴と怒号、混乱が交錯する中で、只一人、周囲とは明確に違う反応を示す存在がいた。
「ふ、ふふふ……あははっ」
少女は笑う。少女が笑う。
炎に抱擁されて崩れ落ちる屋敷の中、歓喜に頬を染め、血染めの絨毯を踏み躙りながら、まるで楽園にいるかのように楽しげに笑う。くるくるとでたらめなステップで踊る少女は、心底からの幸福を高らかに歌い上げていた。
「はは、あははははっ、はは、あ、ああ……っ」
轟々と熱気に炙られながら、うっとりと恍惚の吐息を漏す。
弾ける火の粉が、まるで風に舞う花弁であるかの如くに少女は両腕を広げて戯れていた。
ふとすれば身を炙る火も、焙られる髪先も、焦げ付いて炭化する皮膚さえ気に留める事のない無邪気さで。
「あ、は、ふふふふっ……。なんて素敵、なんて爽快、なんて清々しい……!」
ひらひらと蝶さながらに舞いながら、慈愛を込めて少女が微笑む。
「ほら、最高の舞台でしょ? こういう演出、好きだったよね。
痛みにのたうつ人間を見るのが大好きな貴方の為にわたし、とびっきり頑張ってみたの」
恋した人に愛を囁くような熱を込めて、少女は男に語りかける。
男は答えない。見動きひとつ、瞬きすらできぬままにただ荒く息をつくのみだ。
例え舌を切り落とされていなくとも、答える言葉など無かっただろう。無様に壁に縫いとめられた四肢を痙攣させて白眼を剥く男が、まっとうに思考できる状態にあったとして、の仮定だが。
反応の無い男に笑みを消し、少女は転がっていた蜀台を男の腹へと振りかぶった。
「ギ、あ゛ァ゛あ゛ア゛アぁア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛ア゛アア゛ああ!」
新たに増えた楔に、男は血を噴水さながら撒き散らして絶叫する。
それを見て少女はまた、花のように微笑んだ。
「良かった、まだ生きてた」
労わりすら感じさせる手つきで、痙攣する男の頬をやさしく撫でる。
「この程度で死んだら駄目だよ。
平等に、均等に。奪ってきた分だけ、貴方も奪われるべきだもの」
「……それが、あんたが“ここ”へ戻ってきた理由か?」
静かな、けれど何処か遣る瀬無い響きを帯びた声が、少女に問うた。
いつからいたのか、なんて。そんな言葉に意味は無かった。彼女にとっても、問うた男にとってみても。
伸び放題の髪とヒゲをざんばらに乱して纏わりつかせた、おそらくは労働用に買われたのであろう魚人の青年。
眉間にしわを寄せ、険しい顔をしたぼろぼろの男に向かって、少女はあまやかな笑顔を向けてみせた。
「ふふ」
両手を広げ、おどけた仕草でくるりと回る。
己の作り上げた情景を、見せつけでもするかのように。
「貴方は思わない? あんなにも偉そうにふんぞり返っていた天竜人が、惨めに死にゆくさまの愉快な事。
家畜以下だと思ってきた相手に命乞いするさまの、無様な有様」
詩でも奏でるように。
物語の一節を謡うように。
あくまでも柔らかい口ぶりでありながら、少女の唇が紡ぐ言葉は侮蔑と嘲笑に満ちていた。
貴方だって、天竜人に苦汁を舐めさせられたんでしょう?
明確に言葉にせずとも、彼女は確かにそう語っていた。憎め、恨めとほのめかす、かぎりなく悪意に満ちた唆し。
渋面の男を見ることもなく、少女は夢見る眼差しで独白する。
「相応しい死に様を与えられればいいって、願ってた。
罵られて足蹴にされて、ありとあらゆる痛苦に塗れて死ねばいい。
夢見たものが目の前にある。なんて、嬉しい。なんて愉しくて、楽しくて、たのしくて。……おぞましい」
ぽつりと落とされた乾いた言葉は、あるいは自嘲であったのかも知れない。
男は、淀み蕩けた瞳の少女に否定も肯定も返しはしなかった。
「捕まっていた連中は、大体あんたの用意した船に乗り終わった。
いい加減あんたも逃げた方がいい。大将が来るぞ」
「平気。逃げるつもり、無いもの」
「……何?」
明日の天気でも話すような軽い一言に、男が険しく表情を歪めた。
「あんたまさか、復讐さえ済めば死んだっていいとでも思ってるのか!?」
「不思議な事を言うのね」
がらがらと音を立てて、焼けた建材が崩れ落ちる。轟音の中にあってすら、少女の声は不思議とよく通った。
何故男が憤怒の形相であるのか理解できないと言いたげに、かくり、と首を傾ける。
「私なんかが生きてて、なんの意味があるの?」
「――ふざけるな!」
一喝に、大気が震えた。
半死半生の天竜人が、怒気にあてられてぶくぶくとどす黒い血の泡を吹く。
かつて少女を買い、厭しめ、弄んだ男。彼女の人生を、取り返しのつかないまでに歪めた最悪の元凶。
けれど今は、仁王立ちするぼろぼろの魚人の方が視線を惹いた。
二人を隔てる距離がなければ、胸ぐらでも掴んでいたのではないかと思える気迫で男が吼える。
「ふざけるなよ、意味ならある! おれ達はあんたに救われたんだ!
あんたは知らないだろうが、ここに来た連中にとっちゃ、あんたは希望だったんだ!
たった四歳でこの地獄から逃げ出してみせた。逃げ出す事が不可能じゃないって、身をもって証明してくれた!
それだけの話が、ここで生きる上でどれだけ救いだったか分かるか! あんたが助けに来てくれた事が、どれだけ嬉しかったか、それがあんたに分かるか!?」
今にも息絶えそうで絶えない天竜人を横目に、悦楽の余韻が色濃い澱んだ瞳で男を見詰める。
男の叫びは慟哭にも似たそれであったが、少女の視線にも表情にも、理解の色はなかった。共感も、ましてや戸惑いすらない。ただ、不思議なものを見る目で男を見ていた。
「生きる意味がないっていうなら、おれがあんたの意味になる。
あんたが望むなら、なんだって叶えてやる。だから、頼むから意味が無いなんて言わないでくれ……!」
かつて。
前世“■■ ■■”であった頃なら、その機微を幾許かでも汲み取る事ができたろう。
奴隷であった頃の“■■■”であれば、あるいは肯定への歓喜と、一人逃げた罪悪感に落涙したかも知れない。
巨人達を親とし恐竜を友とした頃の“ミニ”ならば、困惑しつつも喜んでその手を握り返せたはずだった。
今ではもう、なにもない。なにも。
「……醒めた」
少女の顔から、甘ったるい微笑みが消える。
無造作に一閃させた片腕の先で、ぽぉん、と磔にされた天竜人の首が宙を舞い、跳ねて転がり劫火へ消えた。
ごっそりと表情の抜け落ちた顔のまま、少女は燃え盛る床を軽い足取りで蹴る。
瞬く間に距離は縮まり、驚いた様子で目を見開く男を、底の無い青磁色の眼差しが見上げた。
「ねぇ。名前、なんていうの?」
「……タイガー、だ」
「タイガー」
戸惑った様子の男の名をオウム返しに呟きながら、緩慢な仕草でその喉に指先を添える。太い首だった。
少女の小さな手では、とうてい掴むことなどできない。けれど、脈打つ動脈を斬り裂くのであれば一瞬だろう。
この距離なら防御する暇すら与えない実力が、少女にはあった。タイガー、と舌先で覚えたばかりの名を転がす。
「私の意味になるって、言ったよね」
馬鹿みたいな言葉だった。論じる意味なんて、ちっとも見い出せない言葉だった。
世界の圧倒的大多数の人々にとって、自分が要処分の生ゴミである事など聞くまでもない。
結局、少女自身の善悪など瑣末事でしかないのだ。
世界政府が悪だと断じ、海軍が追い、狩人が狙い、民衆が彼女に石を投げる。それだけで少女は悪なのである。
実害の有無、来歴すら語るに足りぬのだと、もはや骸の墓碑となり果てたかつての郷里で少女は思い知ったのだ。彼女の命が刈り取られて嘆く者など、せいぜいお人好しな巨人達くらいだろう。
社会にとって異物である以上、末路にそう大差はない。ただその過程にどの程度の差があるかである。
「なんでも、叶えてくれるのね?」
タイガー。
その名を持つ魚人族の男を知っている。
フィッシャー・タイガー。奴隷解放を為した、魚人族の英雄。
のちにタイヨウの海賊団を結成し、原作が始まるはるか昔に死んだ男。
「あんたが生きてくれるなら、何だって」
まるで、熱烈な愛の告白だった。
喉に添えた指が、男の動脈を丁寧になぞる。ごくり、と唾を飲み込みながらも、抵抗する様子は無い。
抵抗できたとしても、きっと彼は抵抗しないでいるのだろう。そんな確信があって、少女は唇を綻ばせる。
自分の価値なんて欠片もない。
けれど、男には価値がある。
だから。
「貴方を、私に頂戴」
そうすればきっと、この奇妙な生に意味を見付けられる気がしたのだ。
例え、その先にどんな終わりがあるのだとしても。
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