普遍的な人生だった。
一般的な人生だった。
最低限を保証された、平凡な人生だった。
現代日本に産まれた人間であれば、大半が何の疑念を挟む事も無く享受できる程度にはありふれた人生だった。
差異こそあれど、生きていくのに必要な物も、権利を主張する自由も当たり前のように肯定されていた。
親に庇護され、甘え、反発し、憎み、理解し合い。
友人と笑い、遊び、語らい、仲違いし、許し合い。
誰かに恋をして、誰かを嫌いになって、誰かに共感して、誰かを罵り。
学校の成績に一喜一憂し、楽しい事に夢中になり、失敗して落ち込んで、時々泣いて。
それなりに平和で、それなりに恵まれ、それなりに愛され、それなりに守られた。
守られて、いたのだ。
「……お……かあ、さ…………?」
からから、からからと音が鳴る。
じっとりと肌に絡み付く潮風が、乾いた音を奏でてゆく。
きらきらと陽の光を受けて輝く青い海とは裏腹に、往時の面影を完膚無きまでに破壊し尽くされた廃墟の港町。
復興の気配もなく放置され、風化するに任せられたその只中に、それは在った。
磔刑のキリスト。
あるいは処刑台の魔女か。
黒ずんだ十字架から吊り下げられた髑髏に、もはや生前の面影など欠片も無い。
四肢を穿ち骨に喰い込んだ無数の杭。執拗なまでの数でありながら、その全てが見事に重要器官を外していた。
致命傷を綺麗に避けたそれらは、対象を確実に苦しみ抜かせる為の物。かつて肉がついていた頃には苦悶の表情であった事だろう。最早それすらも想像するしかなく、辛うじて残る衣服だけが往時の名残であった。
それが母だと、明確な確証があった訳ではない。
もはや骨でしかない骸を見て生前の姿を判別できるほど彼女の眼力は人間離れしてはいなかったし、そもそも彼女が浚われたのは十年近く前の話だ。はっきりと覚えているはずもない。
「あ、……あぅ、ぁ……ぁあ゛……」
けれど代わりに、断定できるだけの要素があった。情報があった。
帰る途中で立ち寄る町々。進めば進むほどに寂れていく、略奪と戦火の爪痕を生々しく残したかつての故国。
道すがらに受けた、素朴な問いかけ。あるいは忠告。他人事の噂話。とうに過ぎ去った出来事。
「あの町にはもう、誰も住んじゃいないよ」
「有名な話さ。“リトル・モンスター”、知ってるかい?」
「化け物が産まれた町だとかでね。子が子なら親も親だろうって」
「王様が直々に指揮してねぇ。人相書きも張りだされてさぁ」
「そりゃあ大がかりな捜索だったよ! 似てる女はみーんな引きずって行かれっちまって」
「手当たりしだいだったから、さすがに非難も上がったんだけど」
「最終的には別れた亭主に売られてね」
「え? そりゃ処刑されたさ。なにせあの大犯罪者の母親だ、碌なもんじゃねぇ」
「ああでも、その後もまた凄かったねあれは」
「何があったのかって?」
「ほら、“リトル・モンスター”ってあんな小さな子なのに酷い犯罪者でしょ」
「だから親だけじゃなくて、あの町自体が犯罪者の巣窟だったんだろうって事でね」
「あんまり手間もいらなかったそうだぞ。なにせ激戦区の一つだったし、生き残りも少なかったらしくてな」
「 皆 殺 し に す る の っ て 」
“■■ ■■”は、平穏の中で生きた人間だった。
劣悪な状況でなければ、排斥されてしまうような異常性を持たず。
(知るはずのない事を知り、己の事を己で為す乳飲み子など正しく化物以外の何物でも無い。)
分別がなければ、安物の労働力として売られるような環境に置かれず。
(奴隷の行く末など売り主が決める。道理の通らぬ幼子など、本来ならばひと山いくらの価値だ。)
機を伺う忍耐力と、策を練る知恵のどちらかでも欠けば、死より外無い運命も持たず。
(誰が想像するだろう。博打だった部分もあるとはいえ年端も行かぬ幼子が、理知的に逃亡を企てるなど。)
「……や、あ゛あ゛あ゛……っ」
飢えて土すら口にするひもじさも、理不尽な暴力に耐える屈辱も、闇の中で孤独に取り残される恐怖も、死臭のする大地に隠れ這う嫌悪も、狙われ続ける事への憤怒と諦念も、なにもかもを知ることなく。
ひたすらに鞭打たれる事も、家畜のように焼印を押される事も、爪を剥がれて針で刺し貫かれる事も、腕を折り踏み躙られる事も、ありとあらゆる痛苦を責め苦を罵倒を嘲りを誹りを受ける事もなく。
それは、ほんの十数年前。
彼女が“ミニ”でも“■■■”でも無く。
この世界で生を受け、与えられてきたありとあらゆる悪意に縁遠かった頃。
現代社会に生きる日本人の“■■ ■■”だった時代の話。
「 ぁああぁあアアああアあァアアAAAAA■■■■■■■■■■■■!! 」
何がいけなかったのか、何が間違っていたのか。
答えは、出ない。
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