浮かぶ端から夢は消え、夢見る端から途切れて終わる。
くるり。くるり。くるり。くるり。
夢は夢だ。いつだって、万華鏡のように移り変わって去っていく。そこに脈絡はなく、取り留めもない。
くるり。くるり。くるり。くるり。
サイコパワーの過剰行使による心身の消耗。制御の手綱を離れた力は夢になる。
くるり。くるり。くるり。くるり。
器とのバランスを保とうと、遠い未来/近い未来をのべつまくなし手繰り寄せては消費する。
くるり。くるり。くるり。
夢見る端から忘れ去る。忘却する。澪に沈む。
くるり。くるり。
取り残された断片すら、ムンナの腹の中へ消え。
そのはずなのにあふれる夢は、繰り返し繰り返し、同じ未来を紡いで映す。
呪いのように。祈りのように。神託のように。
くるり。くるくる。
ぴちゃん。
潮の気配が、足元を浚った。
「――我々は、汝らと関わるにあたって幾つかの制約を抱えている」
涼やかで、穏やかな音がそう語る。
忘れかけていた声で。
まったく違う口調で。
聞いたことのない温度で。
「招かれるにあたっても同様だ」
こぽり。ぷくぷく。
細かな泡が、一面の黒の中で立ち昇る。ぷくぷく、ぷくぷく。
あぶくが弾ける。ぴかぴか光る、おおきな塔が現れる。
ぴかぴかギラギラ、魑魅魍魎が蠢く闇を投げかける、さかしまにそびえる円錐の塔。
「ゆえに■■は鈴以外、招来にまつわる一切を破棄した。プロメウが再び、ラチナへ降り立つ事の無いように」
隣に立つのは、記憶と同じシルエット。
ツキネより高い、けれど記憶に残るよりも距離の近くなった背丈。夜の海を溶かし込んだ、ゆるくうねる長い髪。冷涼と仄白い面差しの中、鮮やかに映える赤い唇……。
これは夢だ。ツキネは思った。明瞭であるようで筋道を欠く思考、浮かぶ端からほどける閃き、意味を理解する前にするすると零れ落ちていく言の葉。隣り合う、見知った顔の知らない誰か。
「おかあさまでは、無いのですね」
「容を失って久しいゆえ、語るにあたって借り受けた」
ゆらゆら、ぷくぷく。水の音がする。
ゆらゆら流れる透明な黒が、現れたものを砂上の楼閣のようにのみ込み、黒の中へと押し流す。
「あれを見よ」
つい、と伸べられた指先が、前方を示す。
波紋が広がる。あぶくが弾ける。
陰鬱に暗い路地裏の、更に暗い影から影へ、小さな影が縫うように走っていく。
……マーシャドーだ。保護し、今はポケモンセンターで眠っているはずのマーシャドー。
その足取りは引きずるように重く、疲弊しきっている事がはたから見ても分かるほど。
「プロメウの羽根は汝らの試金石であると同時に、あれにとっての許可証でもある。そちらへ干渉する為のな」
だからマーシャドーは焦っているのだと、ツキネは理解した。
鈴さえ奪われなければいい訳ではない。とうめいなスズは、あくまでも神降ろしの補助具に過ぎない――鈴無しでも神降ろしは成立しうる。だから一刻も早く、あのニンゲンから羽根を奪わなければならないのだ。
そうしなければ、降りてくる。プロメウ様が降りてくる。
三千年を経た今もなお、変わらぬ熱量の怒りを抱えて。
――自ら出向くとは、ポケモン風情にしては感心なこと。
闇の奥。更に深い場所から、鞭が飛んだ。
不意打ちの殴打。疲弊しきった身体では避ける事など到底叶わず、マーシャドーが吹っ飛ぶ。
壁に叩き付けられるより先に、伸び上がった毛むくじゃらの腕が掴んだ頭を地面めがけて叩き付けた。かは、と短く呼気を吐いて、マーシャドーの全身から力が抜ける。
しなる鞭が路地を打つ。マーシャドーへ追撃を加えようとしていた、ガオガエンがピタリと動きを止めた。背後にラグラージを従えて、鞭の主である女が呟く。
――ウォーミングアップにもなりませんでしたわね。
ニンフィアを連想させる見目をした、美しいニンゲンの女だ。
絢爛と咲き誇る大輪の美貌に、完璧としか言いようのない黄金比の四肢。豪奢に巻かれた桃色の髪を飾るのは、真黒の色をした羽根飾り。どうしてか不思議と目を惹くその羽根は、見ていると、不安で不安で、落ち着かなくなる。
「にじいろのはね……」
虹色とはお世辞にも呼べないそれに、自然とその単語が口を突く。
「左様」
吐息のような肯定に、ぞ、と血の気が引いた。
ぷくぷく、ぷくぷく。
水の音がする。
「仔よ。汝なれば、逃げ切る事も叶おうが」
ぷくぷく、ゆらゆら。
あぶくが弾ける。
透明な黒が路地裏を呑み込む。女が、ガオガエンが、ラグラージが、マーシャドーが、さらりと崩れて消えていく。
これは夢だ。未来の夢。サイコパワーの見せる、可能性の夢。夢。
――……本当に?
「多くを願うのであれば、疾く往け」
ぷくぷく、ゆらゆら。
閃きが、泡と弾けてすり抜ける。
ゆらゆら、こぽこぽ。
自分のものでない記憶/知識がするりと剥離する。
こぽこぽ、くるり。
すべてを知っていたはずなのに、ひとつ、ふたつと消えていく。
波が浚う。遠ざかる。
「動かぬ者に、何も掴めはしないのだから」
くるり、ぱちん。強い光が網膜を灼く。あぶくが弾ける。
そうして、ツキネは目を覚ました。
■ ■ ■
びり、と空気が肌を刺す。
とても大事な夢を見た気がする。
けれど、奇妙に胸を急き立てる焦燥を、咀嚼しているゆとりはどうやら無さそうだ。状況がよく理解できず、ツキネは眠りの余韻を引きずりながら、とりあえずもそもそ身を起こした。
「ぷゅあーぅ!」
「むぷっ」
瞬間飛んできたピンク色がぽみゅんと視界を占拠する。転がって素早く掛け毛布へ潜り込み、足元からぴょこん! と頭だけ出して前方を見たムンナの視線を、顔をさすりながら追ってみる。
ツキネが寝かされていたソファの前を遮るように、メタングとグラエナが立っていた。
そして、更にその先。ニンゲンで作った小山の上に、それが玉座であると言わんばかりの態度で堂々と座すニンゲンの男に、ツキネは一瞬、真っ赤な血の色を幻視した。
凍えた色の目をキュウと眇め、男は大きく口角を歪ませてニッタァ~と、至極楽しそうで毒々しい笑顔を浮かべる。
「よ~ぉクソガキィ! 派手にやってくれたじゃねーか」
言うが早いか投げられた何かを、ツキネはとっさにサイコパワーで叩き落とす。
即座に飛び掛かろうとしたグラエナを、メタングが腕で制止する。甲高い金属音が、悲鳴のように反響しながら尾を引いた。
直角の軌道を描いて床に転がったのは、何か、金属でできた残骸のようだった。
無事、グラエナが正気へ戻った様子である事に内心で胸を撫で下ろしつつ、眉をひそめて男へ視線を投げかける。
真っ黒いファーコートに、にごった血の色のスーツを纏った男は上機嫌に鼻を鳴らした。
「フッツーに堕ちたんなら、地面にブッ刺さったりはしねぇよなぁ。マシロのエスパー少女チャンよォ?」
男の言葉を眠気の残る頭で咀嚼し、ややあって、それが飛空艇の件だと気付く。
たどり着くのが想定外に早い。驚きをどうにか内心だけで留めたツキネに、警戒に尖った声音でグラエナが唸る。
「言葉を交わしてはなりませんよ、ツキネ」
「ダメだ、おばさま。それでどうにかなる段階じゃない」
苦り切ったメタングの言葉に、確かに、と声には出さずに同意した。
初対面だというのに身元まで割れている。ポケモンセンターの住人達が無反応だったからと、アンノーン達もスタッフの誰かのポケモンだろう、と考えたのは失敗だったようだ。
ヒト山に座る男の斜め後ろ。影のように立つ女侍従の周囲をヒュンヒュン飛び回るアンノーン達に、ツキネは目を伏せて嘆息する。
アンノーンは総じて、古代文字に限りなく近い姿を持つ。あれだけの種類と仲が良いのであれば、言葉の分かるツキネや、テレパシー持ちのポケモンほどではなくとも、通常より細やかな情報のやりとりが可能だろう。
「――ちょっと、ダメだってば! 当分は絶対安静って言ったろ!」
「ごめーん! 今だけ見逃してジョーイさん!」
バンッ!
勢いよくドアが開き、先導してきたらしいルリリが躍り出る。
「ピゥ! ツキネおはよーじゃ! ホトリ達起きたじゃー!!」
キャッキャとご機嫌なルリリに、ヒト山を背もたれにして、床にあぐらをかいていたスリーパーがぱっと目を煌めかせてピューイ! と口笛を吹いた。にたぁと目を細める。
そんなリアクションに、何やら嫌なものを感じたらしい。
スン、と露骨にテンションダウンしたルリリの後ろから、続いて人影が進み出る。
ゴルダックに支えられ、シャワーズに付き添われて現れたニンゲンの少女を一目見るなり、ドア前を固めていたナギサのポケモン達が「ほとりー!」「ホトリだ!」「元気なった! 元気なった!?」とにわかに沸き立った。
「よぉルーキー、出張かァ?」
お愛想程度の爽やかさでコーティングされた毒気を込めて、男が残念そうに肩を竦めた。
「ショー・ウインドウに並ぶにゃ、まだ早かったみたいだな」
「アンタが並んできなさいよ!」
威勢よく吠え、ホトリが中指を突き立てた。
その勢いが好ましかったらしい。ヘラヘラとする男に、ツキネはその正体に思い当たった。カジノの街の総元締め。不夜城の帝王。
「ゴートシティジムリーダー……」
「察しは悪くねぇらしいな。能力ばっかのパァ子ちゃんじゃなくてヨカッタヨカッタ」
「若人煽って悦ぶ倒錯した変態に、褒められたくはないのです」
「言うねぇ」
男がパチン、と指を鳴らす。応じて、ルリリへ脂下がった視線を向けていたスリーパーが、床にあぐらをかいたままですいっと両手を上げた。見えない糸に強制されて、床に転がっていた不良のなんにんかが立ち上がる。
「?」
ツキネ達の困惑をよそに、スリーパーが指揮者のように手を振る。
流麗な手さばきとは正反対にカクカクとした不格好な挙動で、不良達が雑巾を引き千切るような濁音を吐き出しながら動き出す。操り人形の悲鳴など知った事ではないとばかり、スリーパーの手は淀みない。
くるくるぐるぐる。
逃げるひとりの動きが止まり、くねくねゴキャリと軟体動物さながらの動きで床に倒れる。
追い回していた他複数が、両手を上げて襲いかかるようなポーズで倒れた仲間の上下左右を飛び回り――男がしめくくる。
「こうしてゴーストプリンスは浚われ、エスパー少女はとぼとぼとお家に帰るのでしたァ。めでたしめでたしっと」
操られていた不良達が盛大な激突事故を起こすと同時、まとめて床に投げ出される。上がった絶叫をBGMに、スリーパーがあぐらのままで胸に手をあて、気取った様子で一礼した。
ムンナが目を丸くしてツキネを振り仰ぎ、ルリリが驚きもあらわに叫ぶ。
「小さい黒いの、浚われてたの?」
「悪いやつ来てたじゃ!?」
メタングにテレパシーで真偽を問えば、アンノーン達とスリーパーから視線は外さないまま、固い声音で答えが返る。
「……マーシャドーなら、いなくなってるのは確か。でも、侵入者がいたとは聞いてない」
ここにはいないアンノーンからの情報か、別口……残るハンターからの情報か。
起き抜けの焦燥が戻ってくる。
そうだ、このままでは――。
「プロメウ様が降りてくる。怒れる神が、降りてくる……」
呼吸と共に立ち昇る泡のように。
夢の断片は、自然と唇から滑り落ちた。
「……ツキネ?」
戸惑ったようにグラエナが振り返る。寒々しくも不穏な気配をかぎ取って、スリーパー以外のポケモン達が一斉にツキネを凝視した。異様な雰囲気に、男がヒュウ、と口笛を鳴らす。
ツキネは唇を押さえた。
こんな事は初めてだ。ムンナが夢を食べたから、だろうか?
言葉にできない引っ掛かりを覚えはするが、意味不明の焦燥感の正体は、これだったのだと腑に落ちる。
「プロメウさま?」
ムンナが不安そうに、けれど、それは誰だと言いたげに繰り返す。
「ざっくり言うと、すごく強いポケモン……らしい。……母様だったら詳しかったんだろうけど」
プロメウの招来。それ自体は、母が駆け出しの頃、主題としていたという研究テーマだ。
書きかけの草稿ごと、希少な資料をごっそり盗まれ投げ出してさえいなければ、きっと、その研究はツキネ達の助けになってくれただろうに。少しばかりの口惜しさを覚えながらも、ツキネはソファからふわりと降り立って冷然と目を細めた。
「〝みらいよち〟が使えるポケモンのひとりやふたり、身の回りにいるでしょう。……おまえ、分かっていてハンター共を野放しにしておいたのではないですか」
どの地方でも、ポケモンジムには特定タイプのエキスパートである事が求められている。
ゴートジムはエスパータイプのエキスパート。そしてエキスパートとするタイプというのは海辺の街なら水タイプ、雪深い街なら氷タイプというように、大抵その街の風土と結びついているものだ。
ゴートに多い野生ポケモンは毒とエスパー。ジムトレーナーでなかろうと、街の出身トレーナーであればその二種に馴染み深いこの環境下で、何の予兆とも無縁でいるなど有り得ない。
ツキネの指摘に、男が笑う。
良い仕事をした! と満足げな時の、三つ子を思い出させるような朗らかさで。
「俺は面白いことをやるやつが好きなんだよ。お前を含めてな」
「……話はいまいち見えないけど」
剥き出しの威嚇と警戒に混じりけない怒りを乗せて、ホトリが唸るように吐き捨てた。
「つまり、アンタはあのハンターとこの子を戦わせたいワケだ」
「おいおい、言ったはずだぜ。〝こうしてゴーストプリンスは浚われ、エスパー少女はとぼとぼとお家に帰るのでした〟……ってな」
わざとらしい泣き真似を交えながら、男はオーバーリアクションに肩を竦めた。
「帰って欲しいの?」
「どっちでも」
ニヤニヤとした瞳の奥に、値踏みするような色がある。
どちらにせよ、この男にとっては愉快なのだろう。
ナワバリのヌシとしての誇り、ジムリーダーとしての責任感など欠片も期待はできなさそうだった。
「――」
グラエナの殺気が膨れ上がる。
メタングの制止を超え、ともすればその頭を噛み砕きにかかりかねないグラエナを、ツキネはそっと抱き止めた。
わざとらしくため息をつき、侮蔑を込めて男にピシャリと言い放つ。
「今更舞台に上がってきて、やるのが脚本家ごっこですか。どちらでもいいなら野次馬らしく弁えて、黙って見てるがいいのです」
グラエナが、危険を犯してまで排除する価値のある相手ではない。
ツキネは大丈夫、という気持ちを込めて、荒れた毛並みを優しく撫でた。
ゴートジムリーダーが出てきて、わざわざ茶化してくるとは予想外もいいところだったが、誰が何を言おうとも、ツキネのする事は変わらない。不愉快なジムリーダーを視界から除外し、メタングに告げる。
「マーシャドーの行き先は分かっているのです。助けて、残りのハンターをぶっ飛ばしてやるですよ」
グラエナが驚いたようにツキネを見上げ、メタングが「予知夢か。珍しくタイムリーだね」と察して頷く。
「夢……?」
何故だかムンナは納得いかなそうだが、うっすらと思い出せる断片を辿る限り、見た事に間違いはない。それに、だ。
――ヌシの若造ならわしらに聞くまでもなく答えを知っているよ、無慈悲な暗夜の女王様!
――ヌシの若造が知っていることはあんた様も既にご存知だとも、夜をもたらす祝の娘!
よく分からない呼び方でツキネを呼んでいた、魔女達の言葉を思い出す。
何日か前にどうでもいいボックスに放り込んだ、炎に巻かれる大地の中、無残に焼け崩れる塔の夢も。
プロメウ様が降りてくる。怒れる神が、降りてくる。――降りるとしたら。ハンターがいるとしたら、思い当たるのは一ヶ所だけだ。
「賭けをしようか、オッサン」
強い決意が溢れる声で、ホトリが男へ挑むように告げる。
「あたしはこの子の勝ちにあたしの全てを賭ける。チキって降りるとは言わさないわよ」
唐突な発言に、ツキネは面食らって目を丸くした。
表向き、ゴートシティは多種多様のギャンブルを取り揃えた享楽の街、カジノの街として通っている。
そうである以上、ギャンブルを挑まれて逃げるのはジムリーダーとしての面子に関わる、というのは理解できる。
けれど。取り返しのつかないモノをチップにしてまで賭けを挑む、その意図が読めない。
「何を――」
「いいぜ、ナギサのジムリーダー。テメェが勝ったら今回の件、俺が直々にケツ持ってやるさ」
ニタァ、と笑みを深めて上機嫌にのたまった男に、ツキネは賭けた意図を察して苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……ヤなニンゲン」
同じく意図を察したメタングが、心底嫌そうに毒づく。
ツキネは既に顔が割れている。これから何をするかもだ。
もしもホトリが賭けを言い出さず、そのまま戦いに赴いていたなら――勝敗に関わらず、この男は今回の件に関しての精算を、ツキネにさせる腹積もりでいたのだろう。それがどういう形でのものであれ、ロクでもないものだったのは確かである。
心配そうにキュウキュウと鳴くポケモン達をなだめながら、ホトリが陽気にウインクする。
「後の事はあたしが請け負う。……情けない話だけど、頼んだよ」
床に足裏をつけて立ち、ツキネはホトリに向かって深々と礼をする。
誇り高く勇敢な、尊敬すべきニンゲンへ。
心からの敬意と感謝の意を込めて。
「助力、ありがとうございます。――少しの間、おばさま……グラエナのことをお願いします」
「分かった。任せて」
頼もしく即答するホトリに唇を綻ばせ、「いいねぇ。無鉄砲な正義の味方同士、麗しい友情ゴッコってやつぅ?」と茶化す男を黙殺する。
ふわりと浮いたツキネの裾を、クン、とグラエナが噛みつき引いた。
行ってはいけない。絶対に。
強く目で訴えるグラエナに眉をハの字にして微笑んで、ツキネはグラエナをぎゅうっと抱き締める。
「ごめんなさい、おばさま」
ガオガエンとグラエナが心配する気持ちを汲んで、できるだけ言う通りにしてきた。
旅に出ないで家にいた。ガオガエンのナワバリから、なるべく出ないようにした。時々行くジムチャレンジも、必ず家の者を付き添わせたし、挑戦が終わったら、寄り道せずにまっすぐ帰るようにしてきた。
だけど。
――ここで、今まで通り。帰る訳にはいかないのだ。
「……信じて欲しいです。絶対、おじさまを連れて帰るですから」
囁いた言葉に、動揺したグラエナの噛みつきが緩む。
その隙にさっと身を翻し、ツキネはメタングの上へと、羽根のように降り立った。
「行くですよ、めた!」
「了解!」
「吾も行くのじゃー!」
「むーちゃんもぉ!」
ツキネ達に勢い込んでルリリが飛びつき、ムンナが毛布を飛び出しそれに続く。
サイコパワーで全開になった玄関ドアから、テレパシーで共有された行先目指し、メタングはトップスピードで飛び出した。
■ ■ ■
既に外は暗かった。
分厚い雪雲が夜空を重たく塞ぐ中、メタングが風を切って疾走する。
「ねーツキネ! おじさまを連れて帰るって!」
「そう! おじさま、残りのハンターが連れてるのです!」
「ラグラージも戻ってないじゃ! ぜーったいそやつのとこなのじゃ!」
ツキネの腕の合間に収まったルリリが、上下に身体を揺らしながら怒りと共に主張する。
頷き、ツキネはメタングの背にある突起にしがみついているムンナに、声を張り上げて忠告した。
「むー! おまえ、ここで帰っても良いのですよ!」
ツキネ達には、それぞれ戦う理由がある。
けれど、ムンナは違うのだ。おそらくは飛空艇の時以上に危険だろう戦いに、わざわざ付き合う必要は無い。
逃げるなら今の内だというツキネの言葉を、しかしムンナは断固たる意志で(やーよぉ)とはねつけた。
(むーちゃん、瀬戸際の楽しさ? っていうの、もうちょこっとお試ししてみたいもの!)
「ふーん――っておまえテレパシー使えたの!?」
「えっなんで今まで使わなかったです、というかどうして今使ってるです!?」
(さっきトゲトゲとぶつかったから、お喋りすると痛いのよぉ)
束の間、一行を何とも言えない空気が包む。
ツキネは無言で、そっとムンナを頭の上へと移動させた。
「のーツキネ! 思ったじゃが、ぴゅって移動するので行った方が早くないかの!?」
ルリリの提案に、ツキネは首を横に振った。
「この距離ならそう大きく違わないのです!」
メタングは、一般的にはすばやさの遅い種族だ。
けれど同時に、彼等は時速百キロでの飛行を可能とする種族でもある。矛盾の理由は単純な話だ。小回りが効かない。ホエルオーがバチュルの歩幅では動けないように、たかだか数メートル、数十メートル程度の距離〝だけ〟を時速百キロで縦横無尽に動き回れるほど、メタング達は器用ではない。
けれど単純な直線移動なら、メタングは十分、すばやいポケモンの範疇に入る。目的地まで、ここからならせいぜい八分程度。テレポートを使うほどの距離でもない。
それに、相手方にはガオガエンとラグラージがいる。ガオガエンは言うまでも無いし、ラグラージだって、ジムリーダーの手持ちが生半な相手のはずもない――ノープランで突っ込むのではなく、行動指針を定め、それを念頭に動くべき相手だ。
……先の飛空艇での戦い。得た知見がひとつある。
即ち。洗脳されたポケモンは、命令される以外で自ら攻撃してくる事は無い。
なら話は簡単だ。
ふたりが命令を受けるより、プロメウが降りて来るよりも先に。
「残りハンター、真っ先にぶっ飛ばしてやるのですよ!」
「うん! それで、おじさまを連れて帰ろう!」
「ラグラージもじゃ! ぜーったい取り返すのじゃ!!」
(ふぁーいとぉー☆)
「「「おーっ!!」」」
一路、向かう先はただひとつ。
ゴートシティ中心街に、天高くそびえるさかしまの円錐。
夢が語る、天神プロメウが降り立つ罪業の塔。
巨大カジノホテル〝バベル〟。
■ ■ ■
コンディションはパーフェクト。
後が無い状況ではあるが、緊張はしすぎず、余計な力みも存在しない。
空気は凍えるほどに冷たいものの、今夜の風は慎ましく、吹きすさぶ事を忘れたよう。
天上では分厚い雪雲が鈍帳を下ろして底なしに暗く、人工の光を目映いばかりに際立たせる。
――りぃ――ん、――りぃ――ん……、
鈴が鳴る。音が、きらきらとした波紋を描いて広がる。
黒に染まった〝にじいろのはね〟と、共鳴しては呼び掛ける。
はりつけにされるような格好で、機械に組み込まれたマーシャドーが苦痛にか細い呻きを漏らす。
長いつき合いだった持ち主の痛みなど知らぬとばかり、体内に隠されていた〝とうめいなスズ〟は、刻一刻、輝きを強めながら天に向かって呼び掛ける。
『……以上、天気予報のコーナーでした。では次に、リクエスト曲のコーナーです。昔懐かしあの童謡。〝にじいろ数え唄〟――……』
不愉快な鈴の音を掻き消せよとばかり垂れ流しにされているラジオが、軽薄なメロディーに合わせて、鼻にかかったような、気取った女の歌声へと切り替わる。
♪ ニンフィア いそいそお出かけさ
鼻持ちならないうぬぼれや
〝世界でいちばん あたしがキレイ!〟
ニンフィア いそいそお出かけさ
素敵におめかしするために……
機械の周りを飛び回っていたドローンが、椅子に腰かけ、リラックスするビューティーの前へとやってくる。
空中でホバリングしながら、ドローン。マークⅢが報告した。
『〝にじいろのはね〟と〝とうめいなスズ〟、周波数及び波長の調整を完了でゲス! 同調率誤差レベル。エネルギー充填を開始。百パーセントに達するまで、およそ十分と推定されますでヤンス』
「そう。充填が完了し次第、仕事を始めますわよ」
『ラジャーでヤンス!』
♪ ニンフィア いそいそお出かけさ
道で出会ったシャワーズは 素敵な黄の羽根飾り……
器用にお辞儀するような動作をして、マークⅢが機械の方へと戻っていく。
マークⅡから回収した映像データ。そこにあった邪魔者一行を脳裏に思い浮かべながら、ビューティーは綺麗に整った指先で、完璧に巻かれた髪をくるくると手持ち無沙汰にもてあそぶ。
何事にも予定外はつきものだ。飛空艇の件しかり、人生しかり。かつて、実家にいた頃のビューティーが、こうしてポケモンハンターになっている未来を考えた事もなかったように。
生まれついて、ビューティーは多くのものを持ち合わせていた。
誰もが振り返る美貌。優れた頭脳。天性の肉体。そして、ポケモントレーナーとしてに留まらないバトルセンス。
ビューティーは常に上を目指し、自らを磨くことを決して怠りはしなかった。百年に一度の逸材と、末はエンジュのジムリーダーかチャンピオンかともてはやされていた彼女は、しかし結局、たった一つの欠点ゆえに、その未来予想図を挫かれた。
♪〝あたしの方が似合うわね〟
ニンフィア いそいそお出かけさ……
最初のポケモンは必ずイーブイ。一族の決まりだ。
ビューティーも例外ではなく、最初にイーブイを与えられた。
次も。その次も。そのまた次も。
そういえば。両脇に控え、身じろぎもしないポケモン二匹をちろりと見やってビューティーは思う。ワンダフォーを切り捨てる以上、今後、この洗脳という便利な技術はもう使えませんわね、と。
道具の作り方もメンテナンス方法も、きちんと頭に入れてはある。
だからこれは単純に、コストとやる気の問題だ。ビューティーにとって、手が汚れる上融通の利かない機械相手にするよりは、以前のように鞭で躾けるやり方が、よほど性に合っていた。
道具の調教に必要なのは恐怖を骨髄まで叩き込む事。
だから、本当に愚かしいとビューティーは今でも思っている。
たかが道具を手懐けられなかった程度の事で、トレーナー資格をはく奪し、一族から除名するなど。
♪ ニンフィア いそいそお出かけさ
ななつ うばった羽根飾りつけて……
だから捨てた。だから奪った。
〝にじいろのはね〟を持ち出したのは、当時はただの腹いせだったが……。
空気が変わる。音が混じる。ビューティーは優雅に立ち上がり、椅子を後ろ足で蹴り倒す。
♪ なないろ虹の羽根飾り プロメウ様に叱られて
地獄に向かって――
振るった鞭に、ラジオが壊れて動きを止める。
準備は万全。思い上がったお子様ごときに阻止されるような温い計画ではないと、身をもって思い知らせてやるとしよう。
華麗に髪をかき上げて、ビューティーはサディスティックに微笑んだ。
「来ましたわね――エスパーの小娘!」
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