町の中心からはポツンと一軒離れた場所。小高く切り立った崖の上にあるのが、ツキネの家だ。
イッシュかぶれだったという祖母がこだわり抜いたというお屋敷は、ポケモンの目から見てもたいそう立派なものである。マシロにある他の家が六、七軒はまるまるすっぽり入ってしまうくらい広い敷地もあいまって、そこだけ別世界のようだ。
大ケガしたポケモンを家に連れて帰った翌日。
ルーローシティのペルシアン・ストリートで大きなデモがあったらしいとか、ナギサタウンの古い灯台が誰かに半壊させられたらしいとか、そんな最新ニュースをうつらうつら聞き流しながらの食事の後。
ツキネとメタングは、マシロタウンのヌシであるガオガエンに拉致された。
「よォーしオマエラ、ちょっと付き合え」
ゆらゆら尻尾を眺めながら連れて行かれたのは、今は亡き母の書斎である。
ぎっしりと壁を圧迫するような本棚には分厚い本が立ち並び、机の上には奇麗にファイリングされた書類が整然と立ち並んでいる。
昔爪とぎした前科があるからと、ガオガエンひとりでは絶対に入れてもらえない場所だった。
眠い目をこすりながら、ツキネはガオガエンを見上げる。
「オマエラが昨日、連れ帰ってきたヤツなんだが」
本にとって直射日光は大敵だ。昼間であってもカーテンを引かれた室内は暗く、けれど定期的な清掃と換気のかいあって、ホコリっぽさは一切ない。漂うのは古い本特有の、甘い花を思わせる、独特の臭いだけだった。
器用にカーテンを開け、遠い記憶をたどるように目を細めてガオガエンは首をひねる。
「アイツ、アネさんのホンで見た気がするんだよなあ」
「おかあさまの?」
「母様?」
揃ってはてなマークを浮かべるふたりに、ガオガエンが「オウ」と頷く。
「オレサマより記憶力いいだろ、なんか覚えてないか」
ふたりは難しい顔で視線を交わした。
今でこそ父の手持ちだが、ガオガエンはかつて、母の手持ちだったポケモンだ。最初のトレーナーでもあった母とガオガエンの付き合いは、ツキネやメタングよりはるかに長い――考古学者だった母の蔵書には入手困難な古書や絶版本、稀覯書も多く、過去には書きかけの草稿ごとごっそり泥棒に持って行かれたこともある。
貴重な資料をそれまでの努力ごとまるまる盗まれた母は、さすがに心折れて、泣く泣く当時の研究テーマを断念したとか何とか。
なので下手をすると、盗まれた蔵書の一冊、という可能性もある訳だが。
「おじさま、それっていつの話なのです?」
「忘れた」
ガオガエンの回答は、いっそ清々しいまでに無責任なものだった。
問題ない、わりと想定の範囲内だ。
ツキネとメタングは菩薩のような面持ちで、どちらともなく捜索を開始した。ガオガエンは一番日当たりのいい机の上に丸くなって、早々に昼寝の体勢に入った。母の蔵書で遊び始めないだけマシである。
ガオガエンがイタズラ心を出さないように祈りつつ、ツキネはうぅんと首を傾げる。
ちらとでも記憶にあれば間違いなく、ツキネもメタングも、あのポケモンを見つけた時点で分かったはずだ。
となればふたりが読んだことのない本のどれかで、ガオガエンの記憶に残っているなら挿絵か、もしくは図版の入っている本なのだろう。
「神話に出てきたポケモン……?」
ラチナ神話といえば真っ先に浮かぶのは炎の天神プロメウと、火を盗んで地の奥底へと封じられたテセウスか。
このふたりについては他地方の呼び方である、ホウオウ、ヒードランという名称の方が一般的だろう。
あとは有名どころとなると、テセウスをそそのかし、荒野へ追放されたバルジーナ。尽きそうになったトモシビの聖火を絶やさないため、自らその身を捧げた敬虔なワタッコ。美しさに驕り高ぶり、その美しさで身を滅ぼした傲慢なニンフィア。プロメウが選んだ英雄のひとりを導き、生涯支え続けた忠実なムーランド。妖精の宴に迷い込み、ヒマナッツとオニスズメに姿を変えられた親子。海の巫女の良き友として寄り添い続け、悲劇的な結末を共にした優しいマフォクシー。涙ながらに聖獣ファイアローを売ったニャース。
大半は現代でもラチナのあちこちで見かけられるような、ごく普通のポケモンばかりだ。
となるとマイナーな話で、なおかつ神話にしか語られていないようなポケモン、という事になる。
それらしい本を引っ張り出し、パラパラ読んでは棚に戻す。そんな作業を九回ほど繰り返したところで、メタングが「ギゥウア……」と形容しがたい呻き声を上げた。
「どうしたのです、めた」
ガオガエンを起こさないよう小声で問えば、本棚の向こうからしんなりとしたオーラを背負って出てきたメタングが、無言で一冊の古びた本を差し出した。
タイトルは〝水の悪魔と海の魔女〟。
このタイトルは覚えがない。本を受け取って、ツキネはざっと目を通す。
「うぇあお……」
ツキネは顔をしわっしわにして、メタングそっくりの形容しがたい呻き声を上げた。
本の内容は、ありきたりな勧善懲悪の物語だ。
ラチナを滅ぼさんと企んだ邪悪な水の悪魔と、その手先として災いを振りまいたおそろしい海の魔女を、プロメウに選ばれた中でも最強と謳われる大英雄が倒す、という英雄譚。
だが、ツキネとめたがかつて寝物語に母から聞いたのは、民を守るため、最後まで戦い抜いた偉大な水の神様と、すれ違いと陰謀によって敵対し、大英雄に殺されてしまった気高い海の巫女の物語である。
海の巫女と友であった優しいマフォクシーまでもが、炎の民でありながらも水の悪魔の側に寝返った、唾棄すべき裏切り者として書かれている。作者が今も生きていたなら、文句を言いに押しかけていたところだ。
家の天井くらいは吹っ飛ばしてやったかも知れない。
「おかあさまのしてくれたお話と違うのです……」
「だね……」
やり場のない感情にそろってしんなりうなだれながらも、ふたりは本の上で額を突き合わせる。
細かな部分がだいぶ違っているが、全体の大筋としてはほとんど同じだ。
かつて、ラチナ地方には天神プロメウを崇める火の民による〝火の国〟と、今は名前も喪われた、他地方ではルギアと呼ばれる水の神を崇める、水の民による〝水の国〟があった。
水の神と海の巫女の力で、当時〝水の国〟は一大海洋国家として栄華の絶頂にあったが、〝火の国〟は長く続く不作に災害、トドメとばかりに流行った疫病によって、滅亡の危機に瀕していた。
寝物語ではすれ違いと陰謀によって。この本では邪悪な企みを挫くべく、火の国の若き王にして大英雄――後のラチナ統一王は水の国と敵対し、絶望的な力の差を覆して劇的な大勝利を収める。
昔聞いた話とこの本の内容の違い。それに現代のラチナで天神プロメウがもてはやされている事から考えるに、水の神様も海の巫女も歴史の敗者なのだろう。
追い落とし、徹底的に貶めることで信仰の息の根を止める必要があった。
歴史も物語も、勝者によって紡がれる。
たぶんこっちが神話的には主流なんだろうと無駄に冴えた察しの良さで気づいたふたりが、そろってしんなりからどんよりになった頃。メタングが、本の挿絵を見て呟いた。
「ツキネ。これ、あのポケモンっぽくない?」
描かれているのはボロボロになって膝をつく大英雄と、光を放つ天神プロメウの影。
本の内容と合わせてみると、どうやら魔女の姦計(!)によって神に疑心を抱いた大英雄に、天神プロメウの影から出てきたポケモンが試練を科す、というシーンのようだ。
曰く、影より導く者。天神の遣わす神の試練。守護者にして監視者。
「――〝天神の影衛〟マーシャドー……」
アォオオオオオ――オン!
屋敷中に響いたグラエナの遠吠えに、跳ね起きたガオガエンが闘志をむき出しにして駆ける。
「めた!」
「うん!」
ふたりも同じように、声のした方へ駆け出した。
■ ■ ■
音の発生源である、医務室はひどい有様だった。
カーテンはズタズタ、ベッドは逆さまになって窓から半分飛び出していて、備えつけの医療器具はしっちゃかめっちゃかに散乱している。医務室の隅ではお抱えのジョーイが、気絶したキュワワーを抱きかかえるようにしてぐったりとしている。部屋の中央ではグラエナが低く唸っている。――敵の姿は見えない。
「ガゥッ!」
ガオガエンがツキネを抱き込み跳躍する。
先程までツキネがいた場所を、グラエナの〝ふいうち〟が抉った。
隙間風にも似た、痛苦の悲鳴が上がる。部屋の影に半ば同化していた黒が、瞬く間にポケモンの姿を形作る。挿絵そっくりのポケモンの名を、ガオガエンの腕を押しのけながらツキネは叫んだ。
「マーシャドー!」
体勢を立て直したマーシャドーが、ぎょっとして硬直する。
ツキネの両眼にエメラルドの燐光が灯る。不可視の重圧が、すかさずマーシャドーに伸し掛かって動きを封じる。
音も無く、炎を纏って風が走る。重圧に膝を屈したマーシャドーへ、ガオガエンの〝ブレイズキック〟が炸裂した。
強烈な衝撃に、床が砕け、燃えながら割れる。
床へ半ばめり込むようにして、マーシャドーが倒れ伏す。
遅れて到着したメタングが、荒れ果てた室内に開口一番叫んだ。
「みんな無事!?」
「ジョーイとキュワワーが負傷しています。しばし暇をやった方が良いでしょう」
倒れたマーシャドーから視線を外さず、グラエナが答えた。警戒を解かず、ガオガエンが尋ねる。
「オマエは?」
「大過なく。……意識が回復したばかりで、混乱していたようです」
その回答に、ガオガエンはバツが悪そうにキュウと喉を鳴らした。
「……やりすぎたか?」
尻尾をへにょんとさせたガオガエンに、グラエナが首を横に振る。
「いいえ、アナタ。これだけのケガに関わらず、油断ならない強者でしたもの。
的確な判断でした。助力に感謝しております」
「オウ。なら、いい」
マーシャドーへの警戒をふたりに任せ、ガオガエンの腕からようやく脱出を果たしたツキネは、メタングと一緒にぐったりしているジョーイ達の状態を確認する。
目に見えて分かる大きな外傷はない。気絶しているだけのようだが、一応、精密検査を受けさせた方がいいだろう。
手近な空き部屋へジョーイ達をサイコパワーで運び、ついでに何事かと様子を見に来たメイド達へ、医者の手配や看病等の後始末を言いつける。
「ツキネ」
気絶したマーシャドーも別室へ移してようやく一息、といったタイミングで、とグラエナが普段よりワントーン低い、改まった声で呼んだ。ぎくり、とメタングが動きを止める。
お説教の気配を察知したツキネは、先手を打って頭を下げた。
「ごめんなさいなのです、おばさま。ケガをしているからといって、よそものを連れて来てしまって」
「そちらではありません」
けれどグラエナは、厳しい声音で告げた。
「おまえはニンゲンのトレーナーです。どうして手持ちであるめた坊やと一緒に来なかったのですか」
ツキネはぱっと上体を起こして顔を顰めた。
「だって」
「夫と一緒だったから、というのもですが。
対処できる自信があったから、大丈夫だと思ったから、というのは何ら理由にはなりませんよ」
続くはずだった言葉を、ピシャリとグラエナが遮った。
「おまえは我々と同じようにわざを使え、強い力を持っていますが、我々と違い回復にあまりにも時間を要する。ひ弱なコイキング達とて、ニンゲンほどには脆くないのですよ。おまえがいるべきは、めた坊やの前ではありません」
「だけどおばさま! トレーナーは、ポケモンと一緒に戦う存在なのですよ!? お父さまも……おかあさまだってやってたのに!」
「それはとても危ないことよ」
噛んで含めるように、グラエナは言う。
「脆く、幼いおまえが、同じようにして良い理由にはなりません」
「~~~っ!!」
ツキネの瞳に怒りがきらめき、うっすらと燐光を帯びて透明度を増す。感情に呼応して漏れ出した力に、室内の大気がにわかにその重みを増した。
医務室に散乱していた窓ガラスや床の破片、医療器具が、がちゃがちゃと不穏に騒ぎ出す。
グラエナが軽く首を振った。
「グァゥッ!」
「びゃんっ!」
波紋のように広がった〝あくのはどう〟に、ツキネは悲鳴を上げて落下した。
浮き上がっていた散乱物が、ツキネに合わせてぱたぱたと落ちる。
ドシン、と一際大きな音を立てて、危ういバランスを保っていたベッドが、窓の外へと落下した。
「っとぉ」床に追突する寸前でガオガエンに抱えられて目を回すツキネの頬を、ペロリ、と暖かな舌が舐める。
「賢い子、主のいとし子。どうか分かって頂戴ね」
打って変わって穏やかに、幼子をあやすようにグラエナが優しくたしなめた。
「おまえのためを思って言っているのですから」
ぐっと唇を噛んで、ツキネは無言を貫いた。
「ホレ、先に戻っとけ」ガオガエンからむっつりしているツキネを受け取って、メタングは頷く。「はあい」
言われるまま大人しくふたりの自室に引き上げながら、メタングは心底憂鬱そうに「あーあ」と嘆いてみせた。
「自分も後でお説教だろうなあ。……次はもっとうまくやろう」
「おばさまは分からずやなのです! おじさまはおじさまで、必要無かったのに庇ってくるし!」
ツキネはもうすぐ十一歳。
世間一般的には、既に旅立ちを始めとした、トレーナーとしての様々な権利が解禁されて然るべき年齢だ。子ども扱いされるほど幼くはない。旅にこそ出てはいなくとも、日帰りで行ける範囲でジムバッジだって集めている。所持しているジムバッジの数を思えば、グラエナ達はもっと信頼してくれたっていいはずなのだ。
「今に始まったことじゃないだろ。母様が亡くなってから、酷くなる一方だけど」
ガオガエンとグラエナ。
母のポケモンだったふたりは元々、トレーナーをえり好みする傾向の強い種族である。
だからこそ、なのだろう。シンオウにいるボールを引き継いだ父の元ではなく、マシロの屋敷にいてくれるのは。
ふたりのことは大好きだ。生まれた時からずっと一緒だった家族が近くにいてくれるのは、ツキネ達だってもちろん嬉しい。
――けれど、時々。なんだかとても、息苦しくなる。
ツキネとメタングは、そろって重たいため息をついた。
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