この夏一番の熱い太陽が、空からぎらぎらと照りつけていた。
 バーンデル通り3番地のアパルトメンも、地面から立ち上る陽炎にぐったりと静まり返った様子だった。アパルトメンだけでなく、ロンドンじゅうの人々が日陰を求めて涼しい屋内に引きこもり、吹きもしない風を誘い込もうとばかり、窓を広々と開け放っていた。
 そんなうだる暑さの中でも、痩せた黒髪の、メガネを掛けた少年――ハリー・ポッターは元気いっぱいだった。短い間にぐんと背丈が伸びたようで、昔はぶかぶかだった服も、今やそれなりに格好が付くようになっていた。
 TVから流れる朝食用のシリアル「フルーツ・ン・ブラン」印のコマーシャルソングを聞き流しながら、ハリーは対面で紅茶を飲むペチュニアおばさんに言う。

「ね、おばさん、いいでしょ? シリウスも大歓迎だって言ってくれてるよ?」
「そうは言うけれどね、ハリー」

 おばさんがため息をついて、ティーカップをソーサーに置く。

「ご厚意に甘えるにも限度というものがあるでしょう。
 おまえの言う通りミスタ・ブラックのお宅で間借りするにしても、踏んで然るべき手順というものがあるわ。
 いいこと? 引っ越しというのはね、そんな簡単にできるものではないのよ」
「でも、向こうならレギュラスさんもいるんだよ? あっちにいた方が仕事も進めやすいんじゃないかなあって思うんだけど……」

 レギュラスさん――レギュラス・ブラックは、ハリーの名付け親であるシリウスの弟だ。
 去年度末、ヴォルデモートと相打ちになって倒れたハリーを守って、ルシウス・マルフォイ(!)と一緒に死喰い人の猛攻をかいくぐり、なんとかホグワーツへ戻ってきた恩人、らしい。その辺りの記憶はまったくないが、少なくとも、「君が戻って来られて、本当に良かった」と、ハリーが息を吹き返したのも我が事のように喜んでくれたのは確かだ。
 十数年前に死んだと思われていた元死喰い人の弟を見るシリウスの顔は、なんとも言い難い、複雑怪奇なものだったけれど。

 長らくアメリカのマグル社会に潜伏しながら、ルシウス・マルフォイと密かに連絡を取り合い、ヴォルデモートを倒す機会を伺い続けていたというレギュラスは、驚くべきことにペチュニアおばさんにとっての仕事仲間でもあるそうだ。
 レギュラスには悪いが、シリウスとおばさんにもっともっと仲良くなって欲しい――そしてあわよくば、二人をくっつけられないかと目論んでいる――ハリーとしては、これを口実にしない手はなかった。

「プライベートでまで仕事の話をさせるものではないわ、ハリー」

 おばさんの返答はつれなかった。ハリーはふくれっ面をした。

「すぐ移る事はできないけれど、いつか引っ越し自体はするかも知れないのだからそんな顔をしないの。……それより、もうすぐ待ち合わせの時間では無かった? お友達と三人で遊びに行くと言っていたでしょう」
「ウワ、もうこんな時間!」

 時計を見て、ハリーは飛び上がった。
 セキインコが水上スキーを覚えたというニュースののんびり具合とは正反対に、ハリーはせわしなく、残りの朝食を流し込むように口の中へと詰め込んだ。「ごちそうさま」もそこそこに食器を流しに放り込み、部屋へ駆け戻って財布と杖をジーンズの尻ポケットへ突っ込む。……ダメだ、杖が収まらない……ハリーはパッと部屋を見回し、手近にあったパーカーを羽織った。パーカーのポケットに杖を押し込み、「いってきます!」と家を飛び出す。

 バーンデル通り3番地のアパルトメンに住む少年、ハリー・ポッターは特別な男の子だ。
 それは、ハリーが魔法使いであるというからだけではない。ヴォルデモート――十六年前、徐々に勢力を集めていった、今世紀最強の闇の魔法使い――が、ハリーの家にやってきて父親と母親を殺したその夜、ヴォルデモートはその杖をハリーに向け、呪いをかけた。
 勢力を伸ばす過程で、何人もの大人の魔法使いや魔女を処分した、その呪いを。
 けれど、その呪いは効かなかった。それどころか、呪いはヴォルデモート自身に跳ね返った。ハリーは額に稲妻のような切り傷を受けただけで生き残り、ヴォルデモートはかろうじて命を取り留めるだけの存在となって逃げ去った。隠された魔法社会を何年にも渡って震撼させてきた闇の魔法使いに打ち勝ったことで、ハリー・ポッターは有名になった。
 十一歳の誕生日、両親の死の真実と共に自分が魔法使いだと知らされただけでも、ハリーにとっては十分なショックだった。その上、魔法界では誰もが自分の名前を知っているのだと知ったときは、さらに気まずい思いだった。ホグワーツ校に着くと、どこに行ってもみんながハリーを振り返り、囁き交わした。
 昨年度の末には復活したヴォルデモートとの対決で、ハリーは一度死に、奇跡的に息を吹き返した。ダンブルドアの計らいで、なんとか残り期間を穏やかに乗り切る事ができたものの――またホグワーツに行けば、今度こそ質問責めにされそうで、それがどうにも憂鬱だった。
 苦手な先生や嫌いな奴もいるけれど授業は楽しい。親友のロンとハーマイオニーは助けてくれるだろう。それでもやっぱりハリーとしては、夏休みがもっと長くなって欲しいと願わずにはいられなかった。

 待ち合わせ場所の漏れ鍋では、既にロンとハーマイオニーが待っていた。
 ロンはこの一ヶ月の間にまた十数センチも背が伸びていて、ハリーと二人揃ってハーマイオニーに「あなたたち、いったいどこまで伸びる気でいるの?」と小言めかしたからかいを受けていた。しかし高い鼻、真っ赤な髪の毛とそばかすは変わっていない。目をきらきらさせながら、変わった様子のないハーマイオニーがハリーに手を振る。

「待ってたわよ、ハリー! さあ、作戦会議の続きをしましょう! 是が非でもおばさまとシリウスをくっつけるのよ!」

「ハリー、覚悟した方がいいぞ」ロンが重苦しい口調で言う。「今日は帰してもらえないってな」
 言い出しっぺのハリーは、賢明にも口を噤んだ。


 ――ハリー・ポッターは、特別な男の子だ。

 ヴォルデモートと決闘の末相打ちになり、それでもハリーは、死の淵から生還した。
 十六年前の出来事と同様、あの決闘が周知の事実になるかどうかは分からないけれど、それは、ハリーにとってはどうでも良い事だった。あの日以降、傷痕が痛んだ事はない――そして、ヴォルデモートはもういない。それだけで、ハリーには十分だった。
 ハリー・ポッターは、これ以上の特別を望んでいない。
 “英雄”だなんて、両親と引き替えにしてまで、欲しい称号では無かった。

 大切なものはこの手にある。親友達、名付け親、尊敬できる先生、温かい家、楽しい学校生活。唯一の血縁で、育て親である大好きなおばさん。なによりヴォルデモートのいない、自由な未来も。

 そうして、ハリー・ポッターは穏やかに笑う。
 波瀾万丈な『物語』の結末で、平凡な幸福を噛み締めながら。




BACK / TOP / NEXT