ハリーは目を閉じていた。
体中の力が抜けてしまったようだった。頭がひどくクラクラして、体の下で地面が、船のデッキのように揺れているような感じがした。四方八方から声がする。足音が、叫び声がする……音の洪水で、頭がひどく痛んだ。ハリーは騒音をうるさく思いながら、じっとしていた。
二本の手が乱暴にハリーをつかみ、仰向けにする。
「ハリー! ハリー!」
ゆっくりと、ハリーは目を開けた。
見上げる空に星が瞬き、多くの人達が、かがんでハリーを覗き込んでいた。
ロンがいた。ハーマイオニーがいた。ウィーズリーおばさんがいた。ダンブルドア校長がいた。セドリックがいた。マクゴナガル先生がいた。他にも、たくさんの黒い影が、ハリーの周りを取り囲んでいるようだった。
みんなの足音で、頭の下の地面が振動しているような気がした。
ハリーは、迷路の入口に戻ってきていたようだった。スタンドが上のほうに見え、そこに惹く人影が見え、その上に星が見えた。口を開くのも、何かを考える事さえもおっくうで、ハリーはふわふわと宙を浮いているような気持ちのまま、星を見ていた。
「奇跡だわ」
ウィーズリー夫人の、震える声が聞こえた。
「奇跡だわ……そうとしか言いようがない……良かった、本当に……!」
「ハリー、ああハリー!」
感極まった様子で、ハーマイオニーがわっと泣き出す。
「ハリー、大丈夫か? 体は平気か?」
喜びと心配の入り交じった顔で、ロンが泣きそうな声で問う。
かがみ込んでハリーを抱き起こそうとしたダンブルドアを、知らない男の人が制する。
「彼には休息が必要です」
途切れ途切れに、いろんな声で「ピーター」「裏切っていた」「いつから」「ヴォルデモート」「復活」「レギュラス」「決闘」「どうして」と話す声が聞こえてくる。
もやがかかったようなハリーの耳には誰が何を言っているのか、いまいち理解できなかったけれど、ロンが安心させるように「大丈夫だ、ハリー。僕らも一緒だ。医務室に行こう……」と言ってくれたのだけは、不思議とはっきり耳に届いた。
「――……」
次に目を開いた時、ハリーがいたのは医務室だった。
誰かがメガネを外したらしく霞む視界には、見慣れた人の姿がある。黒っぽい服に、すらりとした体つき、長い金色の髪……。
「おばさん」
「ハリー」
静かな声が、名前を呼ぶ。落ち着いた、耳に心地よいソプラノ・ボイス。
ひんやりとした手が、ハリーの頭をやさしく撫でる。その感触に頬を緩めながら、夢見心地にハリーは語る。
「おばさん。ぼく、かみさまに会ったよ」
「そう。それは、とても栄誉な事ね」
「うん」
口調は淡泊なものだったが、相槌を打つ、その声音は柔らかい。
うつらうつらとしながら、ハリーは続ける。
「おまもり、なくなっちゃった」
「役目を終えたからでしょう。気にする事ではないわ」
「そっか」
ふわふわ、ゆらゆら。
視界が揺れる。世界が揺れる。それは、とても心地よい感覚だった。
「おばさんは、いつからかみさまと知り合いだったの?」
「……ハリー。神様は、いつだって私達の傍においでになるものよ」
「そうなんだ……」
「ええ」
はぐらかされた、とハリーは感じた。
ほんの少し抱いた不満は、けれど、押し寄せる眠気と浮遊感にあっさりとかき消える。
いつも通りに淡々とした。それでいて、優しく、厳かな声でペチュニアおばさんが囁いた。
「……もう少しお眠り、ハリー。
おまえはようやく、ヴォルデモートから解放されたのだから」
「はい、おばさん――」
夢すら見ない深い眠りが、抵抗しがたい波のように押し寄せてくる。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。曖昧な思い出が、“かみさま”との記憶が、砂上の楼閣のように薄れ、静かに奥底へと埋もれていく。それにほんの少しの寂しさと、奇妙な安堵を覚えながら、ハリーは今度こそ、泥のようにぐっすりと眠った。
■ ■ ■
ハリーがようやく医務室から出られるようになった時には、全てが終わっていた。
ヴォルデモートの最期。そして死喰い人達の結末や今回の成り行きについて、既にルシウス・マルフォイとレギュラス・ブラックが、周囲に語っていたからだ。
裏付けの為、とダンブルドアには回復してすぐに呼び出され、あの日の出来事を話す事にもなったけれど、日を挟んだ事と当時の混乱もあって、今やあの墓場での出来事は、切れ切れにしか思い出せなかった。
なんにせよ、ヴォルデモートとの戦いはついに終わったのだ。
「生き返った男の子」のおかげで――。
しかし、この一大事件には箝口令が敷かれる事になった。
事の重大さに尻込みした魔法大臣のファッジが、公にすべきではないとかたくなに主張したからだ。日刊予言者新聞には第三の課題が終わった次の日、小さな記事でハリーが優勝した事だけが掲載されて、それっきりだった。
ロンは怒っていたが、ハリーにとってはそれよりも、シリウスの無罪が証明された事の方が大事だった。ヴォルデモートが死んだ事で、両親を裏切ったピーター・ペティグリューがとうとう捕まり、シリウスがようやくアズガバンから出られたのだ――ロンやハーマイオニーも、シリウスの釈放を我が事のように喜んでくれた。
ダンブルドアがハリーをそっとしておくよう、話をせがんだりしないようにと皆を諭しておいてくれた事もあって、ハリーは夏休みまでの短い残り期間を、ロンとハーマイオニーと一緒にのんびり過ごす事ができた。
三人で他愛のないことをしゃべったり、二人がチェスをするのを、ハリーが黙ってそばで見ていたり……。
リータ・スキーターが書いた記事で、ハリーが錯乱していて、危険性があるということを信じている生徒もいるらしく、目を合わせないようにして避けて通ったり、手で口を覆いながらヒソヒソ話をする者もいたが、それはあまり気にならなかった。
そうやって遠巻きにしてくるのは、ハリーにとってどうでもいい相手でしかなかったからだ。ハリーは、ロンやハーマイオニーと一緒にいるのが一番好きだった。
そうして迎えた夏休み。三校魔法対決でやってきた他校の選手達にも別れを告げ、キングズ・クロス駅に向かう戻り旅の今日の天気は、一年前の九月にホグワーツに来たときと天と地ほどに違っていた。空には雲一つない。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、なんと三人だけで一つのコンパートメントを独占できた。
「そういえば」
ハリーはふと、首を傾げて呟いた。
「リータ、あれ以来静かだね。ヴォルデモートの事、何かしら書いてくるかと思ってたんだけど」
「言われてみればそうだな。でもおかしいぜ。あのおばさんがこんなでかいニュースで黙ってるなんて」
ロンも首を傾げた。
ハーマイオニーが、得意げな顔で声を潜める。
「実はね」
ハリーとロンは、真剣な顔でハーマイオニーの方に身を乗り出した。
「リータ・スキーターはしばらくの間何も書かないわ。私に自分の秘密をばらされたくないならね」
「どういうことだい?」
ロンが聞いた。
「学校の敷地に入っちゃいけないはずなのに、どうしてあの女が個人的な会話を盗み聞きしたのか、私、突き止めたの」
「どうやって聞いてたの?」
「君、どうやって突き止めたんだ?」
ハリーとロンは、驚きを込めてハーマイオニーをまじまじと見た。
「そうね、実は、ハリー、あなたがヒントをくれたのよ」
「僕が? どうやって?」
「盗聴器。つまり、虫よ!」
困惑するハリーに、ハーマイオニーが嬉しそうに言った。
「だけど、君、それはできないって言ったじゃない――」
「ああ、機械の虫じゃないのよ。そうじゃなくて、あのね……リータ・スキーターは、無登録の『動物もどき』なの。あの女は変身して、コガネムシになるの!」
「嘘だろ!? まさか君……あの女がまさか……」
「いいえ、そうなのよ」
ハーマイオニーが、カバンから密封した小さなガラスの広口瓶を取り出す。
中には小枝や木の葉と一緒に、大きな太ったコガネムシが入っていた。
「病室の窓枠のところで捕まえたの。よく見て。触角の周りの模様が、あの女がかけていたいやらしいメガネにそっくりだから」
ロンがしげしげと、ハーマイオニーから受け取った瓶を目の高さに持ち上げる。
一緒になってハリーが覗くと、たしかにハーマイオニーの言う通りの模様が触覚の周りにあった。
「私の考えが間違ってなければ、あなたの傷痕が痛んだ日、『占い学』の教室の窓枠にリータが止まっていたはずよ。この女、この一年、ずっとネタ探しにブンブン飛び回っていたんだわ。マルフォイも知ってたんでしょうね。だから、スリザリンの連中からあんないろいろお誂え向きのインタビューが取れたのよ。スリザリンは、私たちのとんでもない話をリータに吹き込めるなら、あの女が違法なことをしようがどうしようが、気にしないんだわ」
ハーマイオニーはロンから広口瓶を取り戻し、コガネムシに向かってニッコリした。
コガネムシは怒ったように、ブンブン言いながらガラスにぶつかった。
「私、ロンドンに着いたら出してあげるって、リータに言ったの。ガラス瓶に『割れない呪文』をかけたの。ね、だから、リータは変身できないの。それから私、これから一年間、ペンは持たないようにって言ったの。他人のことで嘘八百を書く癖が治るかどうか見るのよ」
落ち着き払って微笑みながら、ハーマイオニーはコガネムシをカバンに戻した。
コンパートメントのドアがスーッと開いた。
「なかなかやるじゃないか、グレンジャー」
ドラコ・マルフォイだった。
いつもならクラッブとゴイルがその後ろに立っているけれど、今は一人だ。
父親のルシウス・マルフォイがヴォルデモートを裏切っていた事が明らかになって、つるんできたスリザリンの仲間から爪弾きにされるようになったらしい。今までとは打って変わって、ホグワーツでもドラコの姿を見ることは無くなっていた。
マルフォイはコンパートメントに少し入り込み、憎々しげな顔で中を見回した。
「哀れな新聞記者を捕らえたってわけだ。そしてポッターはまたしてもダンブルドアのお気に入りか。結構なことだ」
マルフォイが吐き捨てるように言う。
「パパに守ってもらえないからって拗ねるなよ、ドラコ坊や」
ロンが席を立ち、皮肉るように低い声で応じた。
「どけよ、貧乏人。おまえに話してるんじゃない」
「出ていけ」
ハリーは怒りを込めて言った。
「君と話すことなんてないよ」
「半分『穢れた血』の、マグル育ちの分際で――」
マルフォイが顔を歪め、歯をむき出しにする。
「君は負け組なんだよ、ポッター! 言ったはずだぞ! 友達は慎重に選んだほうがいいと僕が言ったはずだ。憶えてるか? ホグワーツに来る最初の日に、列車の中で出会ったときのことを? せっかく僕がやさしく、君なんかに仲間になるチャンスをやったのに――」
「マダム・マルキンの店で初めて会った時、声をかけるなと言ったのは君だ」
ハリーはロンの隣に立ち、マルフォイに杖を突きつけた。
「これ以上僕の友達や、僕の家族をバカにするなら許さない。さっさと失せろ、マルフォイ」
マルフォイも杖を出そうとしたようだったが、ロンも同じく杖を出そうとしているのを見て、ぐ、と唇を噛み締めた。「いつか後悔するからな!」と叫び、荒い足取りで出て行くマルフォイの後ろ姿にそろって中指を立てて、ハリーとロンは自分達の座っていた席へと戻る。
「決闘でも始めるのかと思ったわ」
ハーマイオニーが明るく言う。
「そうならなくて残念だ」
真面目くさった顔で、ロンが嘆いてみせた。
残りの旅は楽しかった。瞬く間に時間は過ぎて、あっという間にホグワーツ特急は9と4分の3番線に入線していた。生徒が列車を下りるときの、いつもの混雑と騒音が廊下に溢れた。
柵の向こうで、ペチュニアおばさんが待っていた。ウィーズリーおばさんも、そのすぐそばにいた。
「じゃあな、ハリー」
「さよなら、ハリー!」
ロンがハリーの背中を叩き、ハーマイオニーは、これまで一度もしたことのないことをした。ハリーの頬にキスしたのだ。「それいいな!」と笑って、ロンも反対側にキスをした。
「ハーマイオニー……ロン……ありがとう……」
ハリーは気恥ずかしさと嬉しさの入り交じった気持ちでもごもごとお礼を言って、二人をぎゅっと抱きしめる。
「またね、ロン。ハーマイオニー!」
二人に満面の笑みで手を振ると、ハリーは鼻歌を歌いながらヘドウィグの籠を乗せたカートを引きずって、ペチュニアおばさんと一緒に駅を出た。
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