気付けばハリーは、不思議な場所に座っていた。
 ぼんやりと霞がかったような頭を動かして、ゆっくりと周囲を見回してみる。
 そこは明るく清潔で、広々とした開放的な空間だった。ホグワーツの大広間よりずっと大きい。頭上には大きなドーム型のガラス天井が、陽光の中で輝いている。
 宮殿かもしれない、とハリーは思った。けれど本当に宮殿なら、そこは奇妙な宮殿だった。
 椅子が数脚ずつ、何列か並び、切れ切れの手摺があちこちに見える。そこでようやく、ハリーは隣に腰掛けている人物に気付いた。

 そこにいたのは、とても美しい女の人だった。
 雪のように白い肌、長く艶やかな黒檀の髪。薔薇より赤く魅惑的な瞳……。
 ぱっと頬を赤らめて、ハリーは思わず姿勢を正した。なんとなく、この人にだらしないと思われなくなかったのだ。

「あの、こんにちは」

 何かを言わなければいけない気がして、ハリーは迷った末、そう挨拶する事にした。どぎまぎしながら頭を下げると、その女の人はにっこり微笑んで、「うん、こんにちは」と朗らかに言葉を返してくれた。

「あの」
 ハリーは躊躇いながら、女の人に問いかける。

「ここは、どこなんでしょう」
「ぅふふ。さて、ね。君はどこだと思う?」

 女の人に問い返されるまで、ハリーにはわかっていなかった。
 しかし、いまはすぐに答えられることに気づいた。

「……キングズ・クロス駅みたいだと、思う……。
 でも、ずっときれいだし誰もいないし、それに、僕の見るかぎりでは、汽車が一台もない」
「キングズ・クロス駅!」

 女の人は、楽しそうにクスクス笑った。

「なんとまあ、そう見えるのかい」
「あなたには、違うふうに見えるんですか?」
「ぅふふ。そうだね、違うとも言えるし、同じだとも言える。けれど――どちらであろうと、さして重要ではない事だ」

 ハリーには、女の人が何を言っているのかわからなかった。
 ハリーは困惑に顔をしかめたが、そのとき、いまどこにいるかよりも、もっと差し迫った事実を思い出した。

「僕」

 不思議な気持ちで、ハリーは体を見下ろした。

「死んだはずなのに、どうして生きてるんだろう」
「それなら簡単さ」

 女の人が、歌うように告げる。

「お守りの力だよ、ハリー」
「僕の名前を知っているの?」

 ハリーは意外な気持ちで聞いた。けれど同時に、それが当然なのだという思いも心の中にあった。
 この女の人は、何でも知っている。そんな気がしてならなかった。そうしてハリーもまた、この女の人のことを、ずっと、身近に感じていたような気がしていた。

「少し話そうか、ハリー」

 女の人が言った。

「はい」

 ハリーは素直に頷いた。

「人の子にとってはそれなりに昔の出来事になるがね。とある魔法族が、“死の秘宝”というものを作った。そのうちの一つ、死者の魂を呼び出す蘇りの石……それが、君に与えられたお守りの正体さ」
「死の、秘宝」

 ハリーは戸惑いながら、その言葉を繰り返した。

「とある廃屋に埋められているその石を見つけたのは、他の捜し物のついでだったのだけれどね。ただ、その石の効力――死者を蘇らせるという力を知って、君に下げ渡してやって欲しいと嘆願されたのさ。これから死に向かっていく君の、命の保障としてね」

 言って、女の人は「まあ、他にもあれこれと守りを重ねていたようだけれど」と微笑ましそうに付け足す。ハリーはなんとなく、むずがゆい気分でうつむいた。

「君は死ぬことが定められた子供だった。定命の者等は誰しも死ぬ定めを背負っているけれども、君ほど明確に、運命に死期を定められていた子供はそうそういないだろうね」
「……そうだったんですか?」
「ああ。だからこそ、君にとって命の保障は必須だった」

 微笑みながら、女の人は頷いた。

「実はその石、使用条件があってね。本当の持ち主になっていなければ、蘇りの魔法は機能しないようになっていたんだ」
「本当の持ち主? それは、どういう……?」
「『死』から逃げようとしない者であること」

 戸惑いながら顔を上げたハリーに、女の人が言う。

「死ななければならないということを受け入れるとともに、生ある世界のほうが、死ぬことよりもはるかに劣る場合があると理解できる者であること。それが、本当の持ち主の条件だったのさ。その点、君はまさにパーフェクトだった!」

 パーフェクト。

 その言葉に、ハリーはふと、死ぬ直前の事を思い出した。すとん、と全てに納得がいったような心地がして、ハリーは自然と祈るように、両手を組んで微笑んだ。

「あなたが、導いて下さったおかげです」
「ぅふふ。こればかりは君自身に資質があったからこそだよ。誇りたまえね、ハリー」

 女の人が、慈悲深い眼差しでハリーを見る。
 そこでようやくハリーは、女の人の膝の上に、何か、小さな裸の子どもの形をしたものが丸まっている事に気付いた。肌は皮を剥がれでもしたようにザラザラと生々しく、誰からも望まれずに置き去りにされた存在のように、まるで女の人の目につかないようにするかのように身を小さくして、必死に息をしながら震えている。

 ハリーは、それが怖いと思った。
 小さくて弱々しく、傷ついているのに。慰めてやらなければならないと思いながらも、それを見ると虫唾が走った。そして、同時にひどく不思議にも思った――どうしてこの赤子のようなものは、こんなにも脅えているんだろう?

「案じる事はないよ。いずれ馴染む」

 深い愛情のこもった声で言って、女の人は、とても優しい手付きで、哀れっぽい声で泣いている生々しい赤子を撫でた。この人が言うのなら、きっとそうなのだろう。ハリーは何故だか、とてもほっとした気持ちで頷いた。

「僕」

 ハリーは尋ねた。

「帰らなければならないのですね?」
「ぅふふ。それは君次第さ」

 悪戯っぽく、女の人が言う。
 ハリーはびっくりして目を見開いた。

「選べるのですか?」
「勿論だとも。いつだって、選ぶのは自分の意思でさ」

 女の人が、ハリーに向かってウインクする。

「ここがキングズ・クロス駅に見えるのだろう? もし君が帰らないでいたいと願うのなら……そうだね。資格はあるのだから、乗車する事も叶うだろう」
「その汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
「至るべき場所へ。なんなら、こちら・・・へ共に来る事もできるけれど」

 女の人は、優しく目を細めて告げた。
 沈黙が流れた。離れがたく思えて、ハリーは黙って、女の人と並んで座っていた。
 この人と共に行く。その選択肢はとても魅力的なものに思えた――そして、この先へ行く事も。
 ここも、この先も。どちらも、温かく、明るく、平和な場所なのだとハリーは教えられなくとも知っている。
 そうしてきっと、この女の人と共に行く先も、安らかで、穏やかで、愛に満ちた場所なのだと知っていた。

 けれど。

「僕、帰ります」

 これから戻っていく先には痛みがあって、苦しいことや、辛いことがたくさんあると、ハリーはよく知っていた。
 けれど、それでも。そんな世界でも、ハリーを待ってくれている人がいる。
 もう一度、会いたい人達が待っているのだ。

「そうかい。うん。そうだね、それがいいだろうね」

 ハリーの言葉に、女の人は慈愛に満ちた、穏やかな声音で頷いた。
 立ち上がって、ハリーは女の人の膝の上で、震え、息を詰まらせている生々しい生き物にもう一度目をやる。
 きっと。ハリーは思った。きっと、彼も救われる。

「また会えますか?」

 ハリーは聞いた。

「君がそれを望み、挫けないでいられたのなら」

 女の人が底無しに深い愛を湛えて、微笑みながら肯定する。
 二人は互いに、長い間じっと見つめ合った。

「最後に、一つだけ教えてください」

 ハリーが言った。

「ペチュニアおばさんとは、どんな関係なんですか?」

 女の人は、弾けるような笑い声を上げた。
 明るい靄が次第に濃くなり、女の人の姿をみるみるうちにおぼろげにしていく。
 それでも、その笑い混じりの声はハリーの耳に大きく強く響いてきた。

「それは君が直接、あの子に尋ねるべき事さ!」




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