ハリー・ポッターの体が、冷たい墓場へ横たわる。
勝利の歓声は上がらなかった。死喰い人同様、ヴォルデモートもまた、喜んではいなかった。
本当にハリーが死んでいるのか、という疑心に駆られている様子だった。
――ズル、ズル
静かだった。
誰しもが声を出さない中、虫の羽音すらぱたりと止んだ闇の中。
蛇の、ナギニの這いずる音だけが響いている。
――ズル、ズル、ガリッ……
「ナギニ?」
その異変に真っ先に気付いたのは、ヴォルデモートだった。
声をかけられ、大蛇は鎌首をもたげた。
ぼとり。
首が落ちる。体が崩れる。
大蛇の姿は瞬く間に輪郭を失い、小さな何かになって、草むらへと散っていく。
それは蜘蛛だった。蛇の形を装っていた、無数の小蜘蛛。
――カシャ。カシャッ……カシャッ……
音が変わる。蛇の這いずる音から、何か、固いものが擦れ合う音へ。
それは一つでは無かった。草むらから。木陰から。地面から立ち上るように、闇のそこから木霊するように、地の奥深くから這い上るように――無数の、何かが擦れる音が聞こえてくる。
――カシャッカシャッカシャッカシャッ
自分と死喰い人達を取り巻く異音に、ヴォルデモートは油断無く杖を構えて周囲を見回す。死喰い人達を叱り飛ばしている余裕は無い。もはや、先程まで優先順位第一位であったはずのハリー・ポッターの事すら、ヴォルデモートの意識には残っていなかった。
いる。
何かが。
「誰だ? 姿を現わせ!」
無言呪文による衝撃が、墓石を砕き、地面を抉る。
“いる”のに“いない”。“いない”はずなのに――間違いなく、何かが“いる”。
じっとりと。べっとりと。張りつくような粘着質な視線が、自分をどこからか凝視している。ヴォルデモートのことだけを、見つめている。雑音が、歌が鼓膜に突き刺さる。
――カシャカシャカシャカシャカシャカシャ
見られている。
見られている。
見られている。
見られている。
心を覗けないようにする“閉心術”などお構いなしに、ソレは覗き込んでくる。見られている。後ろから。横から。下から。上から。真正面から。体を。心を。魂を。あまさずすべてを、ヴォルデモートの精神さえもじいいいいいいっと、なにかが、見つめている――!
「――敬虔にして忠実な、愛しい信徒、同胞達――」
音が、止んだ。
「今宵、此の度。偉大にして慈愛深き我が師にして、我等が女神の結婚式にお集まり下さいましたこと。大変嬉しく思います」
耳の痛くなるような静寂に、厳かなソプラノの声が響く。
声の主は女だ。夜に同化する黒い服の、背が高くほっそりとした、金の髪をした女。
いつからいたのか。ヴォルデモートにさえその出現を気取らせなかった女は、まるで最初からそこに佇んでいたかのようですらある。しろく闇に浮かび上がる面長の顔は涼やかなものだが、何処か恍惚と、ぞっとするような熱っぽさをその両眼に湛えていた。
「アバダ・ケダブラ!」
わき上がる警戒心と嫌悪感の命じるままに、ヴォルデモートは女――ペチュニア・エバンズに向かって、死の呪文を唱えた。緑の閃光が迸り、ペチュニアの手前で、ぱちん、と弾ける。
釣られたように、慌てて死喰い人達もまた、死の呪文を唱えた。緑の光が幾筋も走り、同じようにぱちん、ぱちんと弾ける。瞬きもせず、熱に浮かされたペチュニアの目がぎょるりと動いて死喰い人達を捉えた。
「跪け」
耳穴から氷を突っ込むような、無慈悲で冷ややかな声が奇妙におぞましい響きを伴って傲慢に命じる。途端、一人を残した全員の死喰い人が等しく地面に這いつくばった。
ペチュニアの唇が、嘲りに歪む。
「喜びなさい、神さえ忘れ果てた異教徒の末裔共――おまえ達には今宵、この祝いの席において。信徒等へ振る舞われる供物となるという、至高の栄誉が与えられたのだから」
言って、ペチュニアは唯一残った死喰い人を見た。
「ご苦労でした、ミスタ・マルフォイ。おまえの手際の良さには我が師、我等の女神もいたく満足しておいでです」
「は――……まこと、まっこと光栄な事でございます……」
「ルシウスぅう……!」
恐怖に震える声で、それでも大仰なまでに恭しい動作でルシウス・マルフォイが平伏する。ギリギリと歯ぎしりをしながら、ヴォルデモートは毒づいた。
元々抜け目のない男だ。世間的には立派な対面を保ちながらも、昔のやり方を捨ててはいないと聞き及んでいた。忠実とは呼べない男だ。小賢しいが、しかし、それゆえに使い勝手の良い男でもある。だからこそ、ある意味では信用していた死喰い人だった。
そのルシウスがこうもあからさまに、ヴォルデモートではなく女に向かって膝をついてみせた。何より、どんな手を使っているのかは知らないが、死の呪文すらものともしていない。
杖先をペチュニアから外さないようにしながら、ヴォルデモートは問い質した。
「女……貴様、何者だ」
「浅くとも、一度は我等の領域にも踏み入った事がおありでしょうに。既にご存じのはずですわ、ミスタ・ヴォルデモート――トム・マールヴォロ・リドルとお呼びした方がよろしいかしら?」
「俺様をその名で呼ぶな!」
怒りのままに放たれた呪文に、ペチュニアの背後にあった墓石が砕けた。
さして堪えた様子も無く、「失礼、ミスタ」とペチュニアが優雅に、嫌味たらしいほど余裕たっぷりに腰を折る。
殺意に沸騰する頭を宥め、ヴォルデモートは考えた。
この女は今、“我等の領域”と言った。“浅くとも、一度は”。つまり永遠の命を探求する中で手を出した何か、それも、深くは突っ込まず早々に手を引いた何か。若い頃から闇の魔術、それに類するものを手当たり次第に試してきたヴォルデモートだ、その試行回数も「不要」と断じて見切ったものも、数え上げればキリが無い。
何だ、何だ。俺様は、何に関わった?
“我等が女神”。
“女神”。
――“神”?
気分が悪い。頭が痛い。音がうるさい。思考が纏まらない。
―― ――
音。
違う。
これは、歌だ。
遠くから響いているように聞こえるその音楽は、この墓場の木陰から、そこかしこの暗闇から、墓石の下から、無数に重なり合って響いている歌声だ。
神を讃え、神を崇め、神に捧げる――聞くもおぞましい、吐き気のするような歌。
――いあ、いあ
――いあ、いあ
「――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ! しゃめっしゅ、あいあい、しぐなす、なぷるむ、いえ、いえ、くなぁ、あすぐい、りんか、うが、なぐる、むぐるうなふ!!」
ペチュニアが歌う。高らかに。賛美歌のような音律で。
墓場から歌が聞こえてくる。響いている。高らかに、唱和するように。
この世のものとは思えない邪悪な歌が、墓場へ荘厳に響き渡る。
いつしか忘我の面持ちで、這いつくばっていた死喰い人達は惚けていた。
恍惚と焦点の合わない目で、口は開きっぱなし、涎も垂れるままにしている彼等にはもはや、そこかしこに音もなく現れた巨大な蜘蛛達を認識すらできてはいないだろう。
ペチュニアに合わせ、蜘蛛達が歌う。高らかに神を讃える。愛を、限りなき崇拝を込めて。
――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ!
――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ!
――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ!
「ぅふふ」
ヴォルデモートの耳元で、女が笑った。
ひんやりと冷たい腕が、するりと絡みつくようにしてヴォルデモートの首へと回される。柔らかな、弾力のある体がしなだれかかってくる。どっと全身から嫌な汗が噴き出す。瞬きも、呼吸すら忘れて、ヴォルデモートはゆっくり、ゆっくりと視線を落とした。
そこにいたのは、女だった。白磁の肌に黒檀の髪、深紅の薔薇色をした瞳。
美しい。そんな陳腐な形容詞では到底表現できない、天上の、人間とは思えない美貌を備えた女だった。
異常なほどに魅惑的な、恐怖に体のしんまでつめたく冷え切ってしまうほどに、震えが止まらなくなるような、邪悪な美貌の、目が離せなくなる女。
「ああ、ヴォル――これでようやく、君の全ては私のモノだ!」
女が破顔する。
そうして。女の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
■ ■ ■
世界は余さず神の庭であり、イギリスはの食卓である。
イギリスにヴォルデモートがいるという事は即ち、自らの皿へと上がっているのと同じ事。
他の神々、旧支配者ないしは旧神の庇護下にでも無い限り、蜘蛛の巣にいる以上はどう足掻こうと到底、逃げ切れるはずもない。
ぐちゅり。
歓喜の声と共に、湿った音がした。
汁気たっぷりの果実を押し潰すのにも似た、粘着質で背筋のあわ立つ寒々しい水音。
「ぅふ、ぅふふふっ! ああ、私の中にヴォルがきている! なんて素敵、なんてたまらない! ああ、ああ、あああ! 素晴らしい、格別だ――ああ、これでこそ、君が肉体を取り戻すまで待った甲斐があるというものだ!」
リドルの墓地に、悲鳴が響く。
それでも、ヴォルデモートが死なない事をペチュニアはよく知っていた。
分霊箱の中身、ヴォルデモートの魂は全て彼女の師、の胃の腑に収まっている。消滅してはいないのだ。そうである限り、ヴォルデモートは死ぬ事ができない。そして、がわざわざその不死性を損なうはずが無い――何故なら、これはヴォルデモートが不死であるからこそ叶う結婚の儀式で、蜘蛛神の、愛の表明なのだから。
たおやかな仕草で両腕を広げて、ペチュニアは厳かに告げる。
「さあ、祝宴の時間としましょう――我等が女神からの下げ渡しです。存分に新鮮な肉を堪能なさい、皆」
興奮したようなカシャカシャという音が、そこかしこから響く。
それは蜘蛛達の会話だ。鋏を打ち鳴らしながら、蜘蛛達が喜び勇んでローブ姿の供物達へと殺到する。
「レギュラス。回収は滞りなく済んだのかしら」
「はい、エバンス教授。ホグワーツに潜入していた死喰い人も、供物として献上してきました」
「結構。レギュラスはミスタ・マルフォイと共に、ハリーとそこのソレを連れてホグワーツへ戻りなさい。いつまでもいると、皆はおまえ達までうっかり供物にしてしまうでしょうから」
やペチュニアとは違い、信徒達は生きる為の“食”を必要とする身だ。
まして今宵は祝いの席。はしゃぎ過ぎて、少しばかり羽目を外しすぎる可能性は大いにあった。
「そうします。ですが、エバンズ教授。この男まで連れて行ってよろしいのですか?」
少しばかり不可解そうに、レギュラスはペティグリューを蹴り転がす。
目の前で他の者達が今まさに喰い殺されている最中だというのに、ペティグリューは逃げる様子も正気に返る気配もなく、ただ忘我の面持ちで涎を垂らして恍惚としている。ペチュニアが、昆虫めいた無機質な動きで首を傾けた。
「おまえ、コレ如きが贄の栄誉を受けるに足るとでも?」
「――……失言、でした。どうかご寛恕下さい、エバンズ教授」
即座に姿勢を正して許しを乞うレギュラスに、ペチュニアは淡々と告げる。
「構いません、おまえを十分に教導してやれていないのはこちらの手落ちなのですから。
それに、コレにはもっとふさわしい末路を用意してあります。おまえが気にかける必要はありませんよ」
「……寛大なお言葉、ありがとうございます。あちらの対応はお任せ下さい。――では、お先に失礼します」
深々と頭を下げて、レギュラス・ブラックはハリー達を連れて姿を消した。
ポート・キーになっていた優勝杯でホグワーツへ転移したのだ。
ここまで随分長かったものだ、と感慨に浸りながら、ペチュニアは慎み深く目を伏せる。決して、本性を顕わにした己が師を視界に入れることはしない。
偉大な女神の御姿を直視すれば、未熟なペチュニアはきっとあてられてしまうから。
忠実にの傍へ控えながら、ペチュニアは淡々と言う。
「先生。先ずはアトラク=ナチャ様に結婚のご報告をなさいませんと。愛を深めるのは、後でも遅くはありませんわ」
「ぁああああ! しまった、嫌だ、そうだったね! やだやだ、私ったら結婚式でもう、こんな、恥ずかしい……! ねえヴォル、違うんだよ! はしたない女だと思わないでおくれねっ!」
「…………」
ヴォルデモートは何も言わない。当然だ、言えるはずがない――そのための口が無くなってしまったのだから。それを理解していて、ペチュニアは指摘しなかった。
どうせ、この男が何を喋ろうと同じこと。神の決定は覆らず、神の愛も揺るがない。なら、沈黙していてくれた方が相手をする面倒が無いぶん、ペチュニアにとって有り難い話である。
「ぅふふ、お母様に報告、お母様に報告っ! ヴォルもお母様に“洗礼”して頂こうねっ! その後は……いやんっハネムーンだよヴォル! 二人っきりだ!!」
「はい、先生。どうぞ、お気の済むまでごゆっくりなさっていらして下さいませ」
「うんうん、師匠思いの弟子を持って私は本当に果報者だ! まあちょっと五百年ほど空ける予定でいたけれど、そうだね、そう言ってくれるなら思い切って数千年どっぷりハネムーンというのもいいかもしれないね!」
「それを先生がお望みとあれば」
いっそ無邪気な調子で言うに、ペチュニアは恭しく追従した。
仕える女神の伴侶となろうと、ヴォルデモートの意思など、ペチュニアにとっては石ころよりも価値が無い。
例えそれが人間にとって、どれだけ残酷な事であるかを知っていようとも、だ。そして、ヴォルデモートがヴォルデモートである限り、“ハネムーン”は彼にとって、死よりも苦しい拷問となるだろうとも、ペチュニアはよく理解していた。
だが、だから何だと言うのか。
の“愛”を受け入れ、真実夫婦となったとしても結末は変わらない。
偉大なるアトラク=ナチャの“洗礼”で変質しようと、不死であろうと同じ事だ。遅いか早いかの違いである――蜘蛛とは即ち、愛ゆえに相手を喰らい尽くすものであるからして。
――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ!
墓場に歌が満ちている。
墓場に愛が満ちている。
蜘蛛達が口ずさんでいる。供物を堪能し、そうして、女神の結婚を祝っている。
それが、彼等にとって永らき神の不在の始まりとなろうと――蜘蛛達は一心に、仕える女神を讃え、その幸福を言祝いでいる。
――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ!
――いあ、いあ、! いあ、いあ、アトラク=ナチャ!
空から薔薇の花が降る。
の愛する真っ赤な血の色をした、愛の色をした薔薇が降る。
「素敵な演出をありがとう、チュニー!」
「御心に叶ったようで幸いです、先生」
が笑った。幸福そうに。
ペチュニアも笑った。長く導いてくれた師に、愛を込めて。
――古人曰く。結婚は、人生の墓場である。
正しく、蜘蛛の結婚とは弱者側にとっての死を意味する。
ヴォルデモートは逃げられないだろう。たとえ多くの人々を震え上がらせた希代の闇魔法使いであろうとも、蜘蛛神の腹の中から、今更逃れ得るはずもないのだ。
「ご結婚、おめでとうございます」
心からの祝福を込めて、ペチュニアは告げる。
愛無き男が落ちる地獄としてはきっと、これ以上のものは無いと確信しながら。
BACK / TOP / NEXT