ワームテールが、ハリーの縄目を解いた。
その瞬間、ほんの一瞬だが隙があった。ひょっとしたらその隙に、ハリーは逃げることができたかもしれない。けれど、草ぼうぼうの墓場に立ち上がったとき、ハリーの足は恐怖に竦んでいた。
死喰い人の輪が、ハリーとヴォルデモートを囲んで小さくなり、逃げ出せそうな隙間も埋まってしまった。
ワームテールが輪の外に出て、ハリーの杖を持って戻ってきた。杖をハリーの手に乱暴に押しつけると、そそくさと見物している死喰い人の輪に戻っていく。
「ハリー・ポッター、決闘のやり方は学んでいるな?」
闇の中で赤い目をギラギラさせながら、ヴォルデモートが低い声で言った。
その言葉でハリーは、二年前に参加したホグワーツの決闘クラブのことを思い出した。
けれど、ハリーがそこで学んだのは、「エクスペリアームス、武器よ去れ」という武装解除の呪文だけだった……それが何になるというのか?
たとえヴォルデモートから杖を奪ったとしても、死喰い人に取り囲まれている。少なく見ても三十対一の多勢に無勢だ。こんな場面に対処できるようなものは、いっさい何も習っていない。
ダンブルドアの守りもない。今度は、誰も守ってくれない……僕は無防備だ……。
ハリーは服の上から、縋るように胸元のペンダントを握り締めた。
「ハリー、互いにお辞儀をするのだ」
ヴォルデモートは軽く腰を折ったが、蛇のような顔をまっすぐハリーに向けたままだった。
「さあ、儀式の詳細には従わねばならぬ……ダンブルドアはおまえに礼儀を守って欲しかろう……死にお辞儀するのだ、ハリー」
死喰い人たちはまた笑っていた。ヴォルデモートの唇のない口がほくそ笑んでいた。
ハリーはお辞儀をしなかった。殺される前にヴォルデモートに弄ばれてなるものか……そんな楽しみを与えてやるものか……。
「お辞儀しろと言ったはずだ」
ヴォルデモートが杖を上げた――すると、巨大な見えない手がハリーを容赦なく前に曲げているかのように、背骨が丸まるのを感じた。死喰い人が一層大笑いするのが聞こえて、ハリーはひどく泣きたい気持ちになった。
「よろしい」
ヴォルデモートがまた杖を上げながら、低い声で言った。ハリーの背を押していた力もなくなった。
「さあ、今度は、男らしく俺様のほうを向け……背筋を伸ばし、誇り高く、おまえの父親が死んだときのように……」
嬲るような猫撫で声で、ヴォルデモートが囁いた。
「さあ、決闘だ」
■ ■ ■
未成年の魔法使いと、多くの魔法使いを震撼させてきた闇の魔法使いの決闘。
ハリーはこれまで二度、ヴォルデモートを退けた。けれど、もうハリーを守ってきてくれた母親の守りはヴォルデモートに通用しない。ダンブルドアもいない。ハリーがここにいることを誰も知らない。ハーマイオニーやロンだっていない……。
魔法の熟練度で、ハリーがヴォルデモートに適う道理があるはずもない。二人の戦いは決闘とは名ばかり、ハリーがなぶりものにされるばかりの一方的な展開となっていた。
「これは決闘だぞ、ハリー」
今度はこっちへ、次はあっちへ。
身動きすらできない間に次々と繰り出される「傑の呪い」、闇の魔法による衝撃と痛みがハリーを襲い、墓場をピンポン球のように転がり回らせる。
自分が今、どこにいるのかもわからない。頭が激痛で爆発しそうだった。
ハリーはこれまでの生涯でこんな大声で叫んだことがないというほど、大きな悲鳴をあげていた。
「そんな無様な有様では、ダンブルドアもさぞ嘆くだろう。ん? さあ、もう少し抵抗らしいことをしてみるがいい……勇猛なるグリフィンドール生らしくな」
ヴォルデモートの残酷な、冷たい声がふってくる。
自分の手を切り落としたあのときのワームテールと同じように、ハリーはどうしようもなく体が震えていた。それでも、ハリーは決して命乞いはしなかった。
僕は死ぬのだ。
情け容赦のない赤い目がそう語っている。
僕は死ぬんだ。何もできずに……しかし、弄ばせはしない。
ヴォルデモートに屈するものか……絶対に、命乞いなどしない……。
せめてもの意地で、ハリーはヨロヨロと立ち上がる。
見物している死喰い人の輪に、ハリーはフラフラと横ざまに倒れ込んだが、死喰い人はハリーをヴォルデモートのほうへ押し戻した。
「――?」
押し戻された一瞬。ハリーの鼻先を、甘い、濃密な匂いが掠めた。
それは、ハリーにとっては子供の頃から馴染んだ、よく嗅ぎ慣れた匂いだった。薔薇の匂い。ペチュニアおばさんの匂い。ハリーは思わず死喰い人の方を振り返った。
おばさんはホグワーツだ、ここにいるはずがない。事実、フードに仮面といった格好の死喰い人達はおばさんとはシルエットからして似ても似つかない。
「よそ見とはいい度胸だな、ハリー」
ヴォルデモートが杖を上げる。
クィディッチで鍛えた反射神経で、ハリーは横っ飛びに地上に伏せた。
トム・リドルの墓石の裏側に転がり込むと、ハリーを捕らえ損ねた呪文が墓石をバリッと割る音が聞こえた。
「俺様から隠れられるものか。もう決闘は飽きたのか? ハリー、いますぐ息の根を止めて欲しいのか?」
ヴォルデモートの冷たい猫撫で声がだんだん近づいてきた。
死喰い人が笑っている。それに混じって、何かの音が聞こえる。
蛇の這いずる音――違う、蛇じゃない。よく似ているけど、まったく違う。何故だろうか。何処かで聞いたことのある音だとハリーは思った。ハリーの心を穏やかにする、密やかな音の連なり。
荘厳な、敬虔な気持ちが心の奥底からわき上がってくるような、不思議な音楽。
ハリーはそっとペンダントに触れた。
「出てこい、ハリー……出てきて遊ぼうじゃないか……あっという間だ……痛みもないかもしれぬ……俺様にはわかるはずもないが……死んだことがないからな……」
望みはない……助けは来ない。
ヴォルデモートがさらに近づく気配を感じながら、不思議と、ハリーの心に怖れは無かった。
気付けば、体の震えは止まっていた。死喰い人の笑い声に、ヴォルデモートの声に混じって音楽が聞こえてくる。勇気付けられるような。一人ではないのだと言われているような。何も、心配する事などないのだと教えてくれるような。
僕は死ぬんだ。
ヴォルデモートの、蛇のような顔が墓石のむこうから覗き込む前に、ハリーは立ち上がった。
ハリーの頭を占めているのは、今や、天啓のようなその考えだけだった。
神様が、それを望んでいる。
音楽が聞こえる。荘厳で、慈悲深い――母親のように暖かな音色が。
遠くから響いているように聞こえる音楽は、その実、そこかしこから聞こえる歌だ。神を讃え、その愛に感謝を捧げる命の歌。それはこの墓場の木陰から。そこかしこの暗闇から。墓石の下から、無数に重なり合って響いている。
これまで感じたことのないほど敬虔な気持ちで、ハリーは杖をしっかり握り締めると体の前にすっと構え、墓石をくるりと回り込んで、ヴォルデモートと向き合った。
ヴォルデモートも用意ができていた。
「アバダケダブラ!」
「エクスベリアームス!」
ハリーの杖から赤い閃光が飛び出したのは、定められた通り、ヴォルデモートの杖から緑の閃光が走ったのよりほんの数秒だけ遅かった。
「――パーフェクトよ、ハリー」
これまで聞いたこともないほど満足そうな優しい口調で、ペチュニアおばさんの声が囁く。
やり遂げた気持ちで、ハリーは顔をほころばせる。
笑って、そうして――すべてが消えた。
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