――ここは、どこだろう。
ハリーは立ち上がると、暗い、草ぼうぼうの墓場を見回した。
つい先ほどまでハリーはホグワーツで、三校対校試合最後の課題に挑んでいたはずだった。
セドリックとのデッドヒートを辛くも制し、優勝杯に触れた瞬間にそれは起こった。
臍の裏側のあたりがグイと引っ張られるように感じたのだ。両足が地面を離れ、セドリックの姿が一気に遠ざかった。風が唸り、色の渦の中、優勝杯がハリーを引っ張っていって……。
そうして、気付けばここにいた。
優勝杯が移動キーになっている、なんて話は、誰からも聞いていない。
右手にイチイの大木があり、そのむこうに小さな教会の黒い輪郭が見えた。左手には丘が奪え、その斜面に堂々とした古い館が立っている。ハリーには、辛うじて館の輪郭だけが見えた。ホグワーツを取り囲む山々さえ見えない。どうやら何キロも、いや、もしかしたら何百キロも遠くまで来てしまったらしかった。
周囲は深閑と静まり返り、薄気味が悪い。ハリーは杖を出した。
だれかに見られているという、奇妙な感じがしていた。暗がりでじっと目を凝らしていると、墓石の間を、間違いなくこちらに近づいてくる人影がある。
顔までは見分けられなかったが、歩き方や腕の組み方から、何かを抱えていることだけはわかった。
誰かはわからないが、小柄で、フードつきのマントをすっぽり被って顔を隠している。
そして、その姿がさらに数歩近づき、二人との距離が一段と狭まってきたときハリーはその影が抱えているものが、赤ん坊のように見えた……それとも単にローブを丸めただけのものだろうか?
その影は、二人からわずか二メートルほど先の、丈高の大理石の墓石のそばで止まった。
一瞬、ハリーはその小柄な姿と互いに見つめ合った――瞬間、何の前触れもなしに、ハリーの傷痕に激痛が走った。これまで一度も感じたことがないような苦痛だった。
両手で顔を覆ったハリーの指の間から、杖が滑り落ち、ハリーはがっくり膝を折った。
地面に座り込み、痛みで全く何も見えず、いまにも頭が割れそうだった。
あまりの傷痕の痛さにうずくまるハリーを、フードを被った小柄な男が、手にした包みを下に置き、杖灯りを点け、大理石の墓石のほうに引きずっていく。
杖灯りが、チラリと墓碑銘を照らし出した。
“トム・リドル”
ハリーは無理やり後ろ向きにされ、背中をその墓石に押しつけられた。
フードの男は今度は杖から頑丈な縄を出し、ハリーを首から足首まで墓石にぐるぐる巻きに縛りつけはじめた。ハッハッと、浅く荒い息遣いがフードの奥から聞こえた。ハリーは抵抗し、男がハリーを殴った――そのときハリーはフードの下の男がだれなのかがわかった。ワームテールだ。
「おまえだったのか!」
ワームテールは答えなかった。縄を巻きつけ終わると、縄目の堅さを確かめるのに余念がなかった。結び目をあちこち不器用に触りながら、ワームテールの指が、止めようもなく小刻みに震えていた。
ハリーが墓石にしっかり縛りつけられ、びくともできない状態だと確かめると、ワームテールはマントから黒い布を一握り取り出し、乱暴にハリーの口に押し込んだ。
それから、一言も言わず、ハリーに背を向け、急いで立ち去った。
ハリーが赤ん坊だと思ったローブの包みは墓のすぐ前で、じれったそうに動いているようだ。包みを見つめると、ハリーの傷痕が再び焼けるように痛む。
足元で音がした。見下ろすと、ハリーが縛りつけられている墓石を包囲するように、巨大な蛇が草むらを這いずり回っている。ハリーは奇妙な違和感を覚えた。
蛇のように見えるソレが、何故だか、別の生き物のように思えたのだ。
やがてワームテールが石の大鍋を押して、ハリーの前に戻ってきた。
何か水のようなものでなみなみと満たされた大鍋を、ワームテールが火にかける。表面がボコボコ沸騰しはじめたばかりでなく、それ自身が燃えているかのように火の粉が散りはじめた。包みの中から、甲高い冷たい声が命じる。
「急げ!」
いまや液面全体が火花で眩いばかりだった。ダイヤモンドを散りばめてあるかのようだ。
「準備ができました。ご主人様」
「さあ……」
冷たい声が言った。ワームテールが地上に置かれた包みを開き、中にある物が顕わになった。
ハリーは絶叫したが、口の詰め物が声を押し殺した。
ワームテールが抱えていたものは、縮こまった人間の子供のようだった。
ただし、こんなに子供らしくないものは見たことがない。髪の毛はなく、鱗に覆われたような、赤むけのどす黒いものだ。手足は細く弱々しく、その顔は――この世にこんな顔をした子供がいるはずがない――のっぺりと蛇のような顔で、赤い目がギラギラしている。
ワームテールがそれを持ち上げた。その生き物を大鍋の縁まで運ぶとき、ワームテールの顔に激しい嫌悪感が浮かんだのをハリーは見た。ジュッという音とともに、その姿は鍋の中へ見えなくなった。弱々しい体がコツンと小さな音を立てて、鍋底に落ちたのをハリーは聞いた。溺れてしまいますよう。ハリーは願った。傷痕の焼けるような痛みはほとんど限界を超えていた。溺れてしまえ……お願いだ……。
両目を閉じ、杖を上げ、恐怖に声を震わせながら、ワームテールが夜の闇に向かって唱える。
「父親の骨、知らぬ間に与えられん。父親は息子を蘇らせん!」
ハリーの足下の墓の表面がパックリ割れた。
ワームテールの命ずるままに、細かい塵、芥が宙を飛び、静かに鍋の中に降り注ぐのを、ハリーは恐怖に駆られながら見ていた。ダイヤモンドのような液面が割れ、シュウシュウと音がした。四方八方に火花を散らし、液体は鮮やかな毒々しい青に変わった。
ワームテールは、今度はヒーヒー泣きながら、マントから細長い銀色に光る短剣を取り出した。ワームテールの震える声が、恐怖に凍りついたような啜り泣きに変わった。
「しもべの、肉、よ、喜んで差し出されん。しもべは、ご主人様を、蘇らせん」
ワームテールは右手を前に出した――左手にしっかり短剣を握り、振り上げる。
ハリーは両目をできるだけ固く閉じた。夜をつんざく悲鳴、何かが地面に倒れる音、ワームテールが苦しみ喘ぐ声……。何かが大鍋に落ちる、バシャッといういやな音。
目を開ける気には到底なれなかった。しかし燃えるような赤い光が、閉じたハリーの瞼を通して入ってくる。
ワームテールは苦痛に喘ぎ、呻き続けていた。その苦しそうな息がハリーの顔にかかって、はじめてハリーは、ワームテールがすぐ目の前にいることに気づいた。
「敵の血、……カずくで奪われん。……汝は……敵を蘇らせん」
きつく縛りつけられたハリーに、抗う術はなかった。
銀色に光る短剣の切っ先が、右腕の肘の内側を貫くのを感じた。鮮血が切れたロープの袖に滲み、滴り落ちた。ワームテールは痛みに喘ぎ続けながら、ポケットからガラスの薬瓶を取り出し、ハリーの傷口に押し当て、滴る血を受けた。
ハリーの血を持ち、ワームテールはよろめきながら大鍋に戻り、その中に血を注いだ。
鍋の液体はたちまち目も眩むような白に変わった。
ワームテールはがっくりと鍋のそばに膝をつき、手首を切り落とされて血を流している腕を抱えて地面に転がりながら喘ぎ、啜り泣いていた。グツグツと煮え立つ大鍋を睨みながら、ハリーは必死に願った。
溺れてしまえ。どうか失敗しますよう……。
大鍋から出ていた火花が消えた。濛々たる白い蒸気がうねりながら立ち昇る。
濃い蒸気がハリーの目の前のすべてのものを隠した。
失敗だ。ハリーは思った……溺れたんだ……どうか……どうかあれを死なせて……。
しかし、そのとき、目の前の靄の中にハリーが見たものは、氷のような恐怖を掻き立てた。
大鍋の中から、ゆっくりと立ち上がったのは、骸骨のように痩せ細った、背の高い男の黒い影だった。
「ローブを着せろ」
蒸気のむこうから、甲高い冷たい声がした。
ワームテールは、啜り泣き、呻き、手首のなくなった腕をかばいながらも、慌てて地面に置いてあった黒いローブを拾い、立ち上がって片手でローブを持ち上げ、ご主人様の頭から被せた。
痩せた男は、ハリーをじっと見ながら大鍋を跨いだ……ハリーも見つめ返した。
骸骨よりも白い顔、細長い、真っ赤な不気味な目、蛇のように平らな鼻、切れ込みを入れたような鼻の穴……。
ヴォルデモートが復活した。
ただ見ているだけしかできないハリーの前で、ヴォルデモートがワームテールの腕の印に、長く蒼白い人差し指を押し当てる。それは、口から蛇が飛び出した髑髏だった。クィディッチ・ワールドカップで空に現われたあの形と同じ、ヴォルデモートの“闇の印”。
「全員がこれに気づいたはずだ……そして、いまこそ、わかるのだ……いまこそ、はっきりするのだ……。それを感じたとき、戻る勇気のあるものが何人いるか――そして、離れようとする愚か者が何人いるか」
ヴォルデモートが墓場を見渡し、残忍に呟く。クィディッチ・ワールドカップで”闇の印”を見たときの不吉な予感が、今、ハリーの目の前に実体を持って立っている。
墓場を見ていたヴォルデモートが、またもハリーを見下ろした。
「ハリー・ポッター、おまえは、俺様の父の遺骸の上におるのだ。マグルの愚か者よ……ちょうどおまえの母親のように。しかし、どちらも使い道はあったわけだな? おまえの母親は子供を守って死んだ……俺様は父親を殺した。死んだ父親がどんなに役立ったか、見たとおりだ……」
ハリーの反応を見もせずに、楽しそうにヴォルデモートは続ける。
「丘の上の館が見えるか、ポッター?
俺様の父親はあそこに住んでいた。母親はこの村に住む魔女で、父親と恋に落ちた。
しかし、正体を打ち明けたとき、父は母を捨てた……父は、俺様の父親は、魔法を嫌っていた……やつは母を捨て、マグルの両親の元に戻った。俺様が生まれる前のことだ、ポッター。
そして母は、俺様を産むと死んだ。残された俺様は、マグルの孤児院で育った……しかし、俺様はやつを見つけると誓った……復讐してやった。
俺様に自分の名前をつけた、あの愚か者に……トム・リドル……」
ふと、ヴォルデモートが低い声で言った。
「俺様が自分の家族の歴史を物語るとは……なんと、俺様も感傷的になったものよ……しかし、見ろ、ハリー! 俺様の真の家族が戻ってきた……」
墓と墓の聞から、イチイの木の陰から、暗がりという暗がりから。
フードを被り、仮面をつけた魔法使い達――ヴォルデモートの“死喰い人”が一人、また一人と集まってきた。ゆっくりと、慎重に、まるでわが目を疑うというふうに……。
死喰い人達が跪いてヴォルデモートのローブにキスすると、無言のまま全員が輪になって立った。その輪がトム・リドルの墓を中心に、ハリー、ヴォルデモート、そして啜り泣き、ピクピク痙撃しているワームテールを取り囲む。
輪には切れ目があった。まるであとから来る者を待つかのようだった。
けれど、ヴォルデモートはこれ以上来るとは思っていないようだ。
「よう来た。『死喰い人』たちよ」
“真の家族”と口にしながら、その言葉には何の温かみもこもっていなかった。
目の前で交わされる死喰い人達とヴォルデモートの会話をよそに、ハリーは必死に願った……警察が来るといい。……だれでもいい……なんでもいいから……。
しかし、去年のような助けが来る気配もなく、どれだけもがいても拘束は解ける気配が無い。ハリーは歯噛みした。
ハリーの足掻きなど素知らぬふうで、ヴォルデモートが輪の一番大きく空いているところに立ち、虚ろな赤い目でその空間を見回す。
「ここには、六人のデス・イーターが欠けている……三人は俺様の任務で死んだ。
一人は臆病風に吹かれて戻らぬ……思い知ることになるだろう。一人は永遠に俺様の下を去った……もちろん、死あるのみ……そして、もう一人。最も忠実なる下僕であり続けた者は、すでに任務に就いている」
死喰い人たちがざわめいた。
「その忠実なる下僕はホグワーツにあり、その者の尽力により今夜は我らが若き友人をお迎えした……そう。ハリー・ポッターが、俺様の蘇りのパーティにわざわざご参加くださった。俺様の賓客と言いきってもよかろう」
ヴォルデモートの唇のない口がニヤリとめくれ上がり、死喰い人達の視線がハリーのほうにサッと飛んだ。沈黙が流れる。ヴォルデモートは構わず続ける。
「俺様が不死を求めていたのは、おまえたちも知っておろう――だが、一度は力も身体も失った俺様は、目標を低くしたのだ……昔の身体と昔の力で妥協してもよいと。
しかし、失脚のときより強力になって蘇るには、俺様が使わなければならないのはただ一人だと、俺様は知っていた。ハリー・ポッターの血が欲しかったのだ。
十三年前、我が力を奪い去った者の血が欲しかった。
さすれば、母親がかつてこの小僧に与えた守りの力の名残が、俺様の血管にも流れることになるだろう……」
ヴォルデモートは蒼白く長い指の一本を、ハリーの頬に近付けた。
ハリーは冷やりとした蒼白い長い指の先が触れるのを感じ、傷痕の痛みで頭が割れるかと思うほどだった。ヴォルデモートはハリーの耳元で低く笑い、指を離した。
「しかし、どうやってハリー・ポッターを手に入れるか?
ハリー・ポッター自身でさえ気づかないほど、この小僧はしっかり守られている。その昔、ダンブルドアが、この小僧の将来に備える措置を任されたときに、ダンブルドア自身が工夫したある方法で守られている。
ダンブルドアは古い魔法を使った。親戚の庇護の下にあるかぎり、この小僧は確実に保護される。こやつがあそこにいれば、この俺様でさえ手出しができない……しかし、クィディッチ・ワールドカップがあるではないか……そこでは親戚からも、ダンブルドアからも離れ、保護は弱まると、俺様は考えた。しかし、魔法省の魔法使いたちが集結しているただ中で誘拐を試みるほど、俺様の力はまだ回復していなかった。
そのあとになると、この小僧はホグワーツに帰ってしまう。そこでは、朝から晩まで、あの鼻曲りの、マグル贔屓のバカ者の庇護の下だ。それではどうやってハリー・ポッターを手に入れるか?」
ヴォルデモートが言葉を切った。沈黙が訪れる。
動くものは何一つない。イチイの木の葉さえ動かない。死喰い人たちは、仮面の下からギラギラした視線をヴォルデモートとハリーに注ぎ、じっと動かなかった。
「そうだ……ホグワーツに送り込んだ、我が忠実な死喰い人を使うのだ」
ヴォルデモートが再び語り始める。
「この小僧の名前が『炎のゴブレット』に入るように取り計らうのだ。
我が死喰い人を使い、ハリーが試合に必ず勝つようにする――ハリー・ポッターが最初に優勝杯に触れるようにする――優勝杯は移動キーに変えておき、それがこやつをここまで連れてくる。ダンブルドアの助けも保護も届かないところへ、そして待ち受ける俺様の両腕の中に連れてくるのだ。
このとおり、小僧はここにいる……俺様の凋落の元になったと信じられている、その小僧が……」
ヴォルデモートはゆっくり進み出て、ハリーのほうに向き直ると杖を上げた。
「クルーシオ! 苦しめ!」
これまで経験したどんな痛みをも超える痛みだった。自分の骨が燃えている。
額の傷痕に沿って頭が割れているに違いない。両目が頭の中でグルグル狂ったように回っている。
終わってほしい……気を失ってしまいたい……死んだほうがましだ……。
ハリーはヴォルデモートの父親の墓石に縛りつけられたまま、ぐったりと縄目にもたれ、霧のかかったような視界の中で、ギラギラ輝く赤い目を見上げていた。死喰い人の笑い声が夜の闇を満たして響いている。
「見たか。この小僧がただの一度でも俺様より強かったなどと考えるのは、なんと愚かしいことだったか」
ヴォルデモートが自嘲混じりに言った。
「しかし、だれの心にも絶対にまちがいがないようにしておきたい。
ハリー・ポッターが我が手を逃れたのは、単なる幸運だったのだ。いま、ここで、おまえたち全員の前でこやつを殺すことで、俺様の力を示そう。ダンブルドアの助けもなく、この小僧のために死んでゆく母親もない。だが、俺様はこやつにチャンスをやろう。戦うことを許そう。そうすれば、どちらが強いのか、おまえたちの心に一点の疑いも残るまい」
ハリーを見下ろしながら、ヴォルデモートが残忍に囁く。
「さあ、縄目を解け、ワームテール。そして、こやつの杖を返してやれ」
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