「こんにちは、ペチュニア。ここに座ってもよろしいかな?」

 暑い、夏のとある日のこと。
 カフェで新聞片手に涼んでいたペチュニアは、横合いから親しげにかけられた声に、視線をその主人へと投げかけた。ヒョロリと背が高く、髪やひげの白さからみて相当の年寄りだ。髪もひげもあまりに長いので、ベルトに挟み込んでいる。ゆったり長いローブの上に、地面を引きずるほどの長い菫色のマントをはおり、かかとの高い、留め金飾りのついたブーツをはいている。高い鼻は途中で少なくとも二回は折れたように曲がっている。淡いブルーの瞳が、半月形のメガネの奥で、キラキラと輝きながらペチュニアを見ていた。
 ペチュニアはいつもの物憂い顔で、新聞に視線を戻す。

「どうぞご自由に、ミスタ・ダンブルドア。ハリーの在学中に、一度はおいでになるだろうと思っていましたよ」
「では、わしは随分と遅刻してしまったようじゃな」

 ダンブルドアは穏やかに微笑んで、ペチュニアの向かいに腰掛けた。
 やってきたウエイトレスはダンブルドアの格好に何を言うでもなく、それが当たり前であるという顔で注文をとって去っていった。

「お礼を言わねばならんと思っての」

 穏やかに、ダンブルドアが言う。

「わしら魔法使いの問題で、君にはずいぶんと負担をかけた。妹が魔女であったとは言え、身を守る術のないマグルの君には、不安な事も多かったじゃろう……」
「お言葉ですが、ミスタ・ダンブルドア」

 新聞を置いて、ペチュニアは冷えた声音で言った。

「私にとって、ハリーは唯一残された家族です。そうである以上、あの子を育てるのは私の義務です。礼を言われる筋合いはありませんわ」


 ――“七月の末、闇の帝王に三度抗った両親から生まれる子供は、闇の帝王にはない力を持つ。闇の帝王自らがその子を比肩し示す。”


 ハリーにはついぞ伝えなかった事だが、ペチュニアはダンブルドアからハリーが生き残った理由についてと、襲われる発端となったその予言を、手紙を通じて伝えられていた。
 リリーはハリーを守って死に、その愛はヴォルデモートを退けた。
 ハリーがペチュニアの庇護下にある限り、リリーが命懸けで残した愛の魔法は効果を発揮し続ける。無論、庇護される立場である限りという条件はあるものの、その年齢に到達するまでには自分の身を守れるだけの力はついているだろう――。だから頼む、と。
 元々、ほとんど絶縁状態だった姉妹だ。そんな理由でもなければハリーはおそらく、血縁ではあってもマグルのペチュニアではなく、魔女か魔法使いで、リリー達の友人の誰かに引き取られていたに違いなかった。

「ここに来るのに、セブルスも誘ったんじゃがのう。断られてしもうた」
「それは良かった。あの男の顔なんて、可能な限り見たいものではありませんので」

 一般的には幼馴染み、と呼べる関係ではあるのだろう。しかし出会ってから今まで、セブルス・スネイプとペチュニアの仲が良かった事など一度もない。幼い頃とはいえ、手酷くプライドを傷付けられた苦い思い出もある――徹頭徹尾、リリーしか眼中にない男だった。顔を合わせても、不愉快な思いをするだけなのは目に見えている。ペチュニアは不機嫌に顔を歪めた。
 ウエイトレスが、コーラフロートをダンブルドアの前に置いてそそくさと去る。
 ダンブルドアは苦笑しながらペチュニアを見ていた。

「月日が流れるのは早いのう。ハリーをあなたに預けたのが、まるで昨日の事のようじゃ」
「……預けたでなく、置き去ったの間違いでは?」

 今でも、ハリーが来た日の事は鮮明に覚えている。
 どんよりと雲の垂れ込めた、やけにうす寒いの夜だった。当時、大学卒業を目前に控えていたペチュニアは、恩師であるからの“頼まれ事”をこなす為と卒業論文の取材も兼ねて、留学先のアメリカから、イギリスに戻ってきていたところだった。
 魔法界の事情は知っていた。知っていたが、魔女でないペチュニアにとって、それらはどうでも良い、気に留める意義すら感じない些末事でしかなかった。リリーに手紙を出そうとペンをとっても嫌味ばかりになってしまうのが常だったので、随分と昔に手紙を出そうとする努力は投げ出してしまった。
 最後の数年に至ってはほとんど没交渉状態だったが、それでいい、とすらペチュニアは思っていた。
 リリーとはもはや、住む世界が違うのだから、と。

 長らくの薫陶を受けてきたペチュニアにとって、今や魔法族の使う魔法も魔法界も、魅力あるものではなくなっていた。それよりもペチュニアの頭を占めていたのは、いつ、どのタイミングでこの低俗な一般社会から姿を消すか、という問題に尽きた。
 両親は既に亡く、唯一の血縁である双子の妹とは没交渉。親戚もいない。知人と呼べる存在は何人かいたが、深いところまで踏み入らせた相手は、ただの一人もいなかった。
 ペチュニアがいなくなったところで、困る人間も、探す人間も誰もいない……。

 卒業旅行にでも行って、そのまま行方をくらますのが適当だろうか――恩師と食卓を囲んだ後、そんな事を考えながらほろ酔いでモーテルまで帰ってきた時、ペチュニアは我が目を疑って立ち止った。同じモーテルに泊まっている人々は、血の気がひいたペチュニアを横目に、足を止める事なくモーテルへと入っていく――玄関先に置かれた毛布の包みに気付かずに!
 どこからどう見ても赤ん坊だった。小さな手に手紙を握りこんだ、黒髪に稲妻の傷を持つ赤ん坊……。
 おそるおそる抱き上げると、甘いミルクの匂いがした。しっかりと握られた手紙の宛先が、かろうじて見える。ペチュニア・エバンズ様。
 羊皮紙に緑色のインクで書かれた自分の名前は、リリーの字では無かった。興味さえなかった、知識にしか過ぎなかった魔法界の現状が頭を過ぎる。妹の身に起きたのであろう不幸を察して、ペチュニアの顔は蒼白になった。気付けば、地面にへたり込んでいた。がくがくと全身を震わせて、腕の中の赤ん坊を抱き締める。
 会ったことはなかったが、ペチュニアはその子を知っていた。きっと緑色の目をしているのだろう。最後に届いた、リリーからの手紙にあった。夏に生まれたというリリーの子供。ペチュニアの甥。

――ハリー・ポッター……?」

 初めて会う叔母の腕の中で、ハリーはぐっすりと眠っていた……。
 向かいの席で、ダンブルドアが困ったように微笑む。

「置き去った、か。そう言われても仕方がないのう。しかし、必要なことじゃった」
「存じております」

 静かなダンブルドアの言葉に、ペチュニアは同じく静かな声音でそう返した。
 人道的に考えれば、魔法使い達のしたことは決して褒められた事ではない。秋の寒空の下、手紙ひとつ持たせて年端もゆかぬ赤ん坊を置き去りにしたのだ。
 けれど、その行為は確かに、ハリーを守るために必要な処置だった。

「きみは本当に優しい子じゃな。聡明で、愛情深い……」

 ダンブルドアは、独り言のように言う。

「突然背負わされた責任に、憤る事もあったのではないかね?」
「そうだったとしても」

 ペチュニアは淡々と言った。

「今となっては全て、昔話に過ぎませんわ」
「……うむ。まったくもって、その通りじゃな」

 フーッと長く息をついて、ダンブルドアはメガネの奥で、深い影を背負って沈み込むような目を細めた。気を取り直すようにコーラフロートを口に運んで、ニッコリと笑う。

「ここのコーラフロートは絶品じゃな。逃げ回らないところも実に良い!」

 ペチュニアは無言を貫いた。
 動く上にやけにリアルなカエルチョコ、思わず吐き出したくなる味まで混じった百味ビーンズ等が魔法界のスタンダートであることは承知している。どちらもリリーが学生時代、「人気のお菓子を買ってきたわ!」と持ち帰ったものだった。チョコレートとはいえ異様にリアルな動くカエルには引いたし、好奇心で口にした百味ビーンズなど一つ目で地雷を引いた。腐った卵味だった。その年のクリスマス休暇中、ペチュニアはリリーと徹底して口を利かなかった。正直今でもトラウマである。

「実は、きみには確認せねばならん事もあっての」
「マグルであるわたしに、ミスタ・ダンブルドアの満足ゆく回答ができるとは思えませんが」
「魔法の才の有無と知性の有無は別問題であると、わしは思っておるよ。
 ……さて。確認せねばならん事というのは、ハリーの予言についてでのう。実は、きみに伝えていない部分があったんじゃ」


 闇の帝王を打ち破る力を持った者が近づいている。
 七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者たちに運命の子が生まれる。
 そして闇の帝王は、運命の子を自分に比肩する者として印すであろう。
 しかし運命の子は、闇の帝王の知らぬ力を持つであろう。
 一方が他方の手にかかって死なねばならぬ。
 なんとなれば、一方が生きうるかぎり、他方は生きられぬ。
 闇の帝王に破滅の運命を運ぶ子が、七つ目の月が死ぬときに生まれるであろう。


「“――約束された勝利の末、邪神の食卓に、束の間の安息がもたらされるであろう”」

 ダンブルドアが、静かな瞳でペチュニアを見る。
 ペチュニアもまた、静かな瞳でダンブルドアを見返した。

「あの子の勝利は、元より決まっていたのですか」
「うむ。……じゃが、わしが気になっておるのはこの、『邪神の食卓』という部分での」

 果てのように深い、心の奥底まで透かし見るような瞳で、ダンブルドアは問う。

「わしにはさっぱり思い当たらぬが、きみなら、何か知っているのではないかと思ってな」
「世の中には」

 言って、ペチュニアは微笑んだ。

「知らない方が幸せな事もある。そう思いませんこと、ミスタ・ダンブルドア?」

 美しい笑顔だった。

 誰しもが見惚れずにはいられないほどに美しく、輝かしい。それでいて吐き気のするほど邪悪な、相反する印象を見る者に与える笑顔。人間とは思えないような・・・・・・・・・・・
 ダンブルドアが息をのんだ。他にも客はいるはずなのに、周囲の喧騒は奇妙に遠い。コーラフロートのグラスの中、ぷくぷくと弾ける気泡の音すら聞こえてきそうだった。ぷくぷく、ぷくぷくと、細かな炭酸の気泡が立ち昇る。溶けたバニラアイスの白が、吸い込まれるようにしてコーラの黒の中へ落ちて、呑まれて見えなくなっていく……。
 ゆっくりと残っていた紅茶を飲み干すと、ペチュニアはティーカップを置いて淡々と告げた。

「仕事が山積みですので、これで失礼させて頂きます。――さようなら、ミスタ。二度とお目にかからない事を願ってやみませんわ」

 一人分には少し多い代金を置いて、いつも通りの物憂い顔で一礼する。
 険しい顔をしながらも、ダンブルドアが彼女を呼び止める事は無かったし、ペチュニアも振り返る事はしなかった。
 ひんやりと涼しいカフェから出ると、一転して夏の日差しに熱された空気が押し寄せてくる。じりじりと焼け付く太陽が、通りのそこかしこに陽炎を作っていた。
 ふと目に入った教会に、自然、ペチュニアの足が止まる。

 ――世の中には、知らない方が幸せな事もある。

 リリーが、魔法族の夫と一緒に死んでしまって。
 気付けばペチュニアは、妹の墓の前に立っていた。唯一の肉親であるにも関わらず、ペチュニアは葬儀には呼ばれなかった。連絡の取りようが無かったのかも知れないし、連絡してもこないだろうと思われていたのかも知れない。あの頃の記憶は夢の中のように曖昧で、心の整理ができた今となっても、ほとんどがよく思い出せなかった。

 ざく、ざく、

 ざく、ざく、

 正直なところを言えばペチュニアは、“魔法族”を見下していた。
 幼い頃抱いた憧憬も執着も、神である恩師の薫陶によって盲を開かれ、力を得た後となっては無知故の気の迷いにしか過ぎなかった。神によって力を与えられたというのに、その神を忘れ、いずれ力を失う愚かな種族。彼等の扱う神秘など、ペチュニアの扱うそれに比べれば児戯でしかない。同じ土俵に上がることさえ馬鹿馬鹿しい。
 世界の真なる有り様も知らぬ癖に、自分達は優れた種族なのだと粋がる哀れなイキモノ。

 ざく、ざく、

 ざく、ざく、

 どうでも良かった。魔法も、魔法界も、魔女として生きる妹も。
 どうでも良かった。魔法界で起きている騒動も、妹の結婚相手も、その周囲も。
 見下していた。魔女だ魔法使いだと言いながら、その営みがマグルとどれほど違うというのだろうか。欲するところも、願うことも、醜さも、愚かしさも、何一つとして変わらない。“特別”なのだと言いながら、やっている事はまるきり同じだ。“魔法”という“特別”を持ちながら、“特別”なのだと嘯きながら、まるで進歩というものがない。

 ざく、ざく、

 ざく、ざく、

 師、は“愛”というものをたいそう好んでいた。
 ペチュニアには理解できない事だった。が神であり、その“愛”が極まった相手を捕食せずにはおれない蜘蛛の女神であった事もそれに拍車をかけたと言っていい。
 師が好むのであれば、それを理解するのは弟子の務めだ。しかし恋愛感情を抱こうにも、当時のペチュニアにとってヒトとはすべからく会話ができる家畜と同義であったし、そんな存在相手では、友愛すら築けるはずもない。では親子の情愛はといえば、これも正直よく分からなかった。両親に、昔は何かしら思うところもあったような気はしている。けれど彼等の葬儀ですら、ペチュニアが感じるものは何も無かった――魔女である妹を誇り、自慢に思っていた両親は、どれだけ成績が良かろうと、ペチュニアをリリーと同じほどには気に掛けてはくれなかった。いつだって、ペチュニアを導き、気に掛け、助けてくれたのは師であるだったから。努力はしていたが、師のように全身全霊で、愛せる相手ができるとは到底思えはしなかった。

 ざく、ざく、

 ざく、

 見下していた。魔法族を。妹を。
 愛など理解できなかった。理解できそうにもなかった。


 ――では。自分は、今、なにをしているのだ?


 爪が折れ、剥がれかけた手は泥まみれだった。
 当然だ。だって、墓を掘り返していたから。

 口の中に違和感があった。
 当然だ。だって、それを食べていたから。

 抱え込んだそれは、動かなかった。
 当然だ。だって、とうに死んでいるのだから。

 ペチュニアは呆然と目を見開いた。自分のしていたことが信じられない。けれど目の前のモノが、五感が、それが真実なのだと突きつけてくる。じわじわと、腹の底からこみ上げてくる衝動にたまらずペチュニアはえづいた。

「ぅ゛――え゛ッ、あ゛あ゛――

 現実が、ひたひたと脳に染み入ってくる。
 感情が、ひたひたと思考に追い付いてくる。

「あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛――!!」

 知りたくなかった。

 知らなければ幸せだった。

 食べた。妹の、リリーの死体を食べた。この上なく美味しく食べた。
 殺して欲しかった。誰でもいいから罰して欲しかった。浅ましく妹を貪り喰う自分を、生きているうちに食べたかったと思ってしまった自分を――ようやく妹と。リリーとひとつになれたと、どうしようもなく高揚する、ひとでなしのペチュニア・エバンズという化物を。

 かつて、ペチュニアは魔法に憧れた。魔女になりたい、と強く願った。願っての手を取った。
 でも、違った。本当に願ったのは、必要だったのは魔法じゃなかった。
 ペチュニアはただ、リリーと同じになりたかったのだ。
 立場が逆だったとしたら、ペチュニアは魔法を疎ましく思っただろう。生まれる前からずっと、ずっとそばにいた。魔法の才が二人を分かつまで、何をするにも一緒だった双子の妹……。

 ゆるく頭を振って、感傷を追い払う。教会に背を向けて歩き出す。
 今となっては昔話だ。誰もペチュニアを罰してはくれなかったし、殺してもくれなかった。
 彼女の師であるはむしろ、「おや、ようやくかい」と微笑ましそうに祝福さえしてみせた。
 知っていた。ペチュニアの神は、そういう“存在モノ”だ。

 深淵を覗く者を、深淵もまた、見返している。

 ペチュニアも、いずれは人間性を全て失う日が来るだろう。
 けれど、それは今ではない。少なくとも、ハリーが手元を離れるその時まで、ペチュニア・エバンズは“ヒト”であらねばならないのだ。そうでなければきっと、ペチュニアはハリーを食べてしまうから。そうなってしまっては、リリーに合わせる顔がない。

 神は食卓を去り、けれど、ペチュニアは残り続ける。
 愛に溢れたこの世界で、自らの食事あいを遂げるその日まで。




BACK / TOP