バーンデル通りのアパルトマンの一室で、ハリー・ポッターは目を覚ました。
 仰向けに横たわって荒い息をしながら、ハリーは両手を顔にギュッと押しつける。
 その指の下で、稲妻の形をした額の古傷が、今しがた白熱した針金を押しつけられたかのように痛んだ。ベットに起き上がり、片手で傷を抑えながら、ハリーは先程まで見ていた生々しい夢を反芻する。

 思い出すのは、小男がいた暗い部屋だ。暖炉マットに蛇がいた。小男はピーター・ペティグリュー。ハリーの両親を裏切り、死の原因となった男だ。そして、冷たい甲高い声。両親だけでなく多くの人間を殺し、魔法界を震撼させた闇の魔法使い――ヴォルデモート卿の声だ。
 そう思っただけで、胃袋に氷の塊がすべり落ちるような感覚が走った。
 ハリーは固く目を閉じて、ヴォルデモートの姿を思い出そうとしたが、できない。ヴォルデモートの椅子がくるりとこちらを向き、そこに座っている何者かが見えた。それを見た瞬間、恐ろしい戦慄で目が覚めた。それだけは覚えている。それとも傷跡の痛みで目が覚めたのだろうか?
 なんだかすべて混乱している。ハリーは両手に顔を埋め、あの薄明かりの部屋のイメージをしっかりとらえようとした。しかし、とらえようとすればするほど、まるで両手にくんだ水がもれるように、細かな事が指の間からこぼれて落ちていった。
 ヴォルデモートとペティグリューが誰かを殺したと話していたのに、それが誰だったか、ハリーは名前を思い出せなかった。それに他の誰かを殺す計画を話していた。僕を。

 ハリーは顔から手をはなし、部屋を横切り窓のカーテンを開けて外の様子を窺った。
 どの家のカーテンも閉まったままだ。まだ暗い街には見渡す限り人っ子一人、蜘蛛の子一匹いなかった。ハリーはなんだか落ち着かないままベッドに戻り、座り込んでもう一度傷跡を指でなぞった。
 狭いアパルトマンだ。だから、唯一の同居人のペチュニアおばさんが戻ってきていない事は確認するまでもなく明白だった。ハリーの育て親であるおばさんが大学に泊まり込むのは、今に始まった事ではない。いなくて良かった、とハリーは胸をなで下ろす。傷が痛むだとか、ヴォルデモートの事が心配だとか――相談しても魔法使いではないおばさんにはどうしようもない、という事もあるが、ハリーはあまり、おばさんに心配をかけたくなかったのだ。

 では、誰に相談しよう? 親友の一人、ハーマイオニー・グレンジャーならなんと言うだろうか。
 考えれば、たちまち頭の中のハーマイオニーが甲高い声で叫んだ。しかも指を突きつけ、目を爛々と輝かせながら言い募る姿の幻付きで。

「傷跡が痛むんですって? ハリー、それって、大変な事よ。ダンブルドア先生に手紙を書かなきゃ! それから、私、”よくある魔法病と傷害”を調べるわ。呪いによる傷跡に関して、何が書いてあるかもしれない」

 ハーマイオニーらしい忠告だが、本が役に立つとは到底思えなかった。ハリーの知る限りヴォルデモートの呪いほどのものを受けて生き残ったのは自分一人だけだ。つまり、ハリーの症状が”よくある魔法病と傷害”に載っているとはほとんど考えられない。
 校長先生に手紙を送るのは悪くないアイディアだ。ハリーのペットであるふくろうのヘドウィグなら、ダンブルドアがどこにいようと手紙を届けてくれるだろう。でも、なんと書けばいいんだろう?

『ダンブルドア先生。休暇中にお邪魔してすみません。でも今朝、傷跡が疼いたのです。さようなら。ハリー・ポッター』

 ナシだな、とハリーは顔を顰めた。
 もう一人の親友ロン・ウィーズリーがどんな反応を示すか想像してみる。ソバカスだらけの鼻の高いロンの顔が、フゥーッと目の前に現れた。当惑した表情だ。

『傷が痛いって? だけど、だけど例のあの人が今君のそばにいるわけないよ。そうだろ? だって、もしいるなら、君、わかるはずだろ? また君を殺そうとするはずだろ? ハリー、僕、わかんないけど、呪いの傷跡って、いつでも少しはズキズキするものなんじゃないかなぁ。パパに聞いてみるよ』

 ロンの父親は魔法省に勤めるれっきとした魔法使いだが、ハリーの知る限り呪いに関しては特に専門家ではなかった。いずれにせよ、せっかくロンがクィディッチ・ワールドカップに誘ってくれているのだ。
 滞在中に傷跡はどうかと心配そうに何度も聞かれたくなかったし、ウィーズリー夫人はハーマイオニーよりも大騒ぎして心配するだろう。ロンの双子の兄、十六歳になるフレッドとジョージだって、ハリーが意気地なしだと思うかもしれない。そんなのはごめんだった。

 ハリーは拳で額を揉んだ。誰かいないだろうか。大人の魔法使いで、こんな馬鹿な事を、と思わずにハリーが相談できる、闇の魔術の経験がある誰か。
 するとふっと答えが思い浮かんだ。こんな簡単な、こんな明白な事を思いつくのにこんなに時間がかかるなんて。
 シリウスだ。ハリーはベッドから飛び降り急いでキッチンに向かった。机の上に出しっぱなしになっている羊皮紙を一巻引きよせ、鷲羽ペンにインクを含ませ『シリウス、元気ですか』と書き出した。そこでペンが止まった。どうやったら上手く説明できるのだろう。初めからシリウスを思い浮かべなかった事にハリーは自分でもまだ驚いていた。しかしそんなに驚く事ではないのかもしれない。そもそもシリウスが自分の名付け親だと知ったのはほんの二ヵ月前の事なのだから。

 バーンデル通りに戻ってから、ハリーはシリウスの手紙を二通受け取った。
 どちらも、元気そうならいいが必要な時にはいつでも連絡するようにと念を押ししていた。
 そうだ。今こそシリウスが必要だ。よし。夜明け前の冷たい灰色の光がゆっくりと部屋に忍びこみ、そのうち太陽が上り部屋の壁が金色に映えはじめた頃、ハリーはようやく書き終えた手紙を読み直した。



シリウス、元気ですか。この間はお手紙をありがとう。こちらは何も変わっていません。ペチュニアおばさんにもシリウスが無実なことを話しました。おばさんは信じてくれました。もしロンドンに立ち寄る事があれば、遠慮無く尋ねて来てもらって構わないそうです。おばさんはとても話の分かる人なので、心配しなくても大丈夫です。ただ、今朝、気味の悪い事が起こりました。傷跡がまだ痛んだのです。この前痛んだのは、ヴォルデモートがホグワーツにいたからでした。でも、今は僕の身近にいるとは考えられません。呪いの傷跡って、何年も後に痛む事があるのですか? 返事を待っています。 ハリーより



 よし、これでいい、とハリーは思った。夢の事を書いてもしょうがない。それに、あんまり心配しているように思われたくもなかった。羊皮紙を畳み机の脇に置き、羽を伸ばしに行っているヘドウィグが戻ったら、いつでも出せるようにした。それから立ち上がり、伸びをしてキッチンの窓を開ける。

「アイタッ!」

 小さな灰色のふかふかした何かがハリーの額にぶつかった。
 ハリーは額をさすりながらぶつかった何かを探した。豆ふくろうだ。片方の手の平に収まるくらい小さいふくろうが迷子の花火のように、興奮して部屋中をヒュンヒュン飛び回っている。気がつくと豆ふくろうはハリーの足元に手紙を落としていた。屈んで見る。ロンの字だ。封筒を破ると走り書きの手紙が入っていた。



ハリー、パパが切符を手に入れたぞ。アイルランド対ブルガリア。月曜の夜だ。ママが君のおばさんに手紙を書いて、君が家に泊まれるように頼んだよ。電話の方が早いって言ったんだけど、パパはマグルの郵便を使ってみたくてたまらなかったみたいだ。どっちにしろ、ピッグにこの手紙を持たせるよ。



 ハリーは”ピッグ”という文字を眺めた。それからブンブン飛び回っている豆ふくろうを眺めた。こんなに”ピッグ”らしくないふくろうは見た事がない。ロンの文字を読み違えたのだろうか。ハリーはもう一度手紙を読んだ。



僕たち君を迎えに行くよ。ワールドカップを見逃す手はないからな。ただ、パパとママは君のおばさんにもちゃんとお願いした方がいいと思ったみたいだ。日曜の午後五時に迎えに行くから、それも伝えといてくれ。ハーマイオニーは今日の午後に来るはずだ。パーシーは就職した。魔法省の国際魔法協力部だ。家にいる間、外国の事は一切口にするなよ。さもないと、うんざりするほど聞かされるからな。じゃあな。  ロン



「落ち着けってば!」

 豆ふくろうに向かってハリーが叫んだ。豆ふくろうはようやくハリーの頭のところまで低空飛行してきたかと思えば、狂ったようにピーピー鳴いている。受取人にちゃんと手紙を届けた事が誇らしくて仕方ないらしい。

「ここへおいで。返事を出すのに君が必要なんだから!」

 豆ふくろうがパタパタ舞い下りた。ハリーはもう一度鷲羽根ペンを取り新しい羊皮紙を一枚つかみ、こう書いた。



ロン。もちろん、絶対行くよ! 明日の午後五時に会おう。待ち遠しいよ。  ハリー



 ハリーはメモ書きを小さく畳み、豆ふくろうの足に括り付けたが、興奮してぴょんぴょん飛び上がるものだから結ぶのが一苦労だった。メモがきっちり括り付けられると豆ふくろう出発した。窓からブーンと飛び出し姿が見えなくなった頃、入れ替わりにヘドウィグが戻ってきた。

「一休みしたら、長旅をお願いできるかい?」

 ヘドウィグは威厳タップリにホーと鳴いた。ヘドウィグと一緒に簡単な朝食を終えた後、ハリーは羊皮紙をもう一度広げて追伸を書いた。



僕に連絡したいときは、これから夏休み中ずっと、友達のロン・ウィーズリーのところにいます。ロンのパパがクィディッチ・ワールドカップの切符を手に入れてくれたんだ!



 書き終えた手紙を、ハリーはヘドウィグの足に括り付けた。

「シリウスのところによろしくね。君が戻るころ、僕、ロンのところにいるから。わかったね?」

 ヘドウィグは愛情を込めてハリーの指を噛み、柔らかいシュッという羽音をさせて大きな翼を広げ、開け放た窓から高々と飛び立っていった。


 ■  ■  ■


 その日の朝にはウィーズリーおばさんからの手紙も郵便で届き、ペチュニアおばさんから了承も得た。
 翌日十二時までには学用品やらその他一番大切な持ち物が全部ハリーのトランクに詰め込まれた。父親から譲り受けた”透明マント”やシリウスにもらった箒、ウィーズリー家のフレッドとジョージから昨年もらったホグワーツ校の”忍びの地図”などだ。呪文集や羽根ペンを忘れていないかどうか部屋の隅々まで念入りに調べ、ハリーはおばさんと待ち合わせ場所の“漏れ鍋”に向かった。

「やあ、ハリー! それにミス・エバンズ!」

 ハリー達がやってきた時には、ウィーズリー氏は既に到着していた。
 朗らかに片手を上げて挨拶してくるウィーズリー氏に、おばさんが「ご機嫌よう、ミスタ。この度は甥をお招き頂き、ありがとうございます」と丁寧に挨拶を返す。

「こんにちは、ウィーズリーおじさん! 今年もお世話になります!」

 ハリーはうきうきしながら、おばさんにならって会釈した。

「お気になさらず! 私らにとってもハリーは家族同然ですからね。ハリー、ロンも首をながーくして待っているぞ……ではミス・エバンズ。学校に戻る汽車に乗せるまで、ハリーを責任持ってお預かりさせて頂きます」
「ええ。度々お世話をおかけ致しておりますが、ハリーをよろしくお願い申し上げます。 奥様にも、どうぞよろしく伝え下さいね」
「はい、妻にも伝えておきましょう。甥ごさんについては安心してお任せ下さい!」

 ウィーズリー氏は背筋をピンと伸ばして勢いよく請け負った。
 ペチュニアおばさんがハリーを見る。

「いってらっしゃい、ハリー。楽しんでおいでなさいね」
「はい。いってきます、おばさん!」

 ハリーはニッコリ笑って言った。




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