平穏だった去年が嘘のように、三年目はハリーにとって波乱に満ちていた。
そうして、この奇妙な群れこそがその集大成と言えるだろう。クルックシャンクスが先頭に立ち、そのあとを父と母の友人で『闇の魔術に対する防衛術』の先生でもあるルーピンと親友のロンが、死んだと思われていた裏切り者のペティグリューを逃がさないよう、まるでムカデ競争のように鎖で繋がって進んでいく。
シリウスがスネイプの杖を使って気絶したスネイプ――何かとハリーに突っかかってくる、嫌な先生だ――を宙吊りにし、ハリーとハーマイオニーがしんがりだった。
「これがどういうことなのか、わかるかい?」
ホグズミードの『叫びの屋敷』からホグワーツの校庭にある暴れ柳へ繋がるトンネルををノロノロと進みながら、出し抜けにシリウスがハリーに話しかけた。
「ぺティグリューを引き渡すということが」
「あなたが自由の身になる」
シリウスがアズガバンに投獄されたのは、ペティグリューが自分のやったことをシリウスになすりつけたからだ。
ネズミのスキャバーズとしてウィーズリー家に隠れ潜み続けてきたペティグリューが捕まれば、シリウスの無実は証明される。
「そうだ……」
シリウスが続けた。
「しかし、それだけではない。誰かに聞いたかも知らないが――わたしは君の名付親でもあるんだよ」
「ええ、知っています」
ホグズミードで、ハグリッド達が噂しているのを偶然聞いて知った事だ。
あの時は、今まで経験したことがないほどに激しい憎しみで明け方近くまで眠ることさえできなかった――真の裏切り者が誰だったかを知った今でも、まだハリーは感情の整理が追い付いていない。
「つまり……君の両親が、わたしを君の後見人に決めたのだ。もし自分たちの身に何かあればと……」
シリウスの声が緊張した。ハリーはどきりとした。
「もちろん、君がおばさんとこのまま一緒に暮らしたいというなら、その気持ちはよくわかるつもりだ。しかし……まあ……考えてくれないか。わたしの汚名が晴れたら……もし君が……別の家族がほしいと思うなら……」
動揺のあまり、ハリーは天井から突き出している岩にいやというほど頭をぶっつけた。
小さな頃、ハリーは誰か見知らぬ親戚が自分を迎えにやってくるのを何度も何度も夢に見てはうなされた。それがまさか、こんなところで現実になるなんて――。
「おばさんと別れるの?」
「むろん、君はそんなことは望まないだろうと思ったが」シリウスが慌てて言った。
「よくわかるよ。ただ、もしかしたらわたしと、と思ってね……」
トンネルの出口に着くまで、二人はもう何も話さなかった。
クルックシャンクスが最初に飛び出した。ルーピン、ペティグリュー、ロンの一組が這い上がっていったが、クルックシャンクスが暴れ柳を大人しくさせる幹のコブを押してくれたらしい。獰猛な枝の音は聞こえてこなかった。
シリウスはまずスネイプを穴の外に送り出し、それから一歩下がって、ハリーとハーマイオニーを先に通した。ついに全員が外に出た。
校庭はすでに真っ暗だった。明りといえば、遠くに見える城の窓からもれる灯だけだ。無言で、全員が歩き出した。ペティグリューは相変わらずゼイゼイと息をし、時折ヒーヒー泣いていた。
ハリーは複雑な気持ちだった。ペチュニアおばさんと離れて、父さん、母さんの親友だったシリウス・ブラックと一緒に暮らす……困ったことに昔うなされたほどには、ハリーはそれを嫌だと思わなかった。ペチュニアおばさんと、シリウスと、三人で暮らせないだろうか? ハリーは我ながら素晴らしいアイディアだと思った。けど、テレビに出ていたあの囚人と一緒に暮らさないかと言ったら、ペチュニアおばさんはなんて言うだろう?
「ちょっとでも変なまねをしてみろ、ピーター」
ペティグリューの胸に杖を突きつけながら、ルーピンが脅すように言った。
みんな無言でひたすら校庭を歩いた。窓の灯が徐々に大きくなってきた。すると、そのとき――。
雲が切れた。突然校庭にぼんやりとした影が落ちた。一行は月明りを浴びていた。
スネイプが、ふいに立ち止まったルーピン、ペティグリュー、ロンの一団にぶつかった。シリウスが立ちすくみ、片手をサッと上げてハリーとハーマイオニーを制止した。
ハリーはルーピンの黒い影のような姿を見る。硬直していたその姿の、手足が震え出した。
「どうしましょう――あの薬を今夜飲んでないわ! 危険よ!」
ルーピンは狼人間だ。満月の夜、いつもなら薬を飲んで理性を保ち、人を襲わないようにしているのだが――今夜は、それを飲んでいない。ハーマイオニーが絶句した。
「逃げろ」シリウスが低い声で言った。
「逃げろ! 早く!」
しかし、ハリーは逃げなかった。ロンがペティグリューとルーピンに繋がれたままだ。ハリーは前に飛び出した。が、シリウスが両腕をハリーの胸に回してグイと引き戻した。
「わたしに任せて――逃げるんだ!」
恐ろしいうなり声がした。ルーピンが、見る見る間に狼人間に変貌する。三人を繋いでいた手錠が捻じ切られる。巨大な、熊のような犬に変身したシリウスが躍り出た。狼人間の首に食らいついて後ろに引き戻し、ロンやペティグリューから遠ざける。
二匹の戦いに目を奪われている間に、ペティグリューが動いた。ルーピンの落とした杖に飛びついていた。行きがけに暴れ柳に片足を折られ、不安定だったロンが転倒する。
バンという音と、炸裂する光――そして、ロンは倒れたまま動かなくなった。またバンいう音――クルックシャンクスが宙を飛び、地面に落ちてクシャッとなった。
「エクスペリアームス、武器よ去れ!」
ペティグリューに杖を向け、ハリーが叫んだ。
ルーピンの杖が空中に高々と舞い上がり、見えなくなった。
「動くな!」
ハリーは前方に向かって走りながら叫んだ。
遅かった。ペティグリューはもう変身して逃げ出していた。背後から、一声高く吼える声と低く唸る声とが聞こえた。ハリーが振り返ると、狼人間が逃げ出すところだった。森に向かって疾駆していく。
「シリウス、あいつが逃げた。ペティグリューが変身した!」
ハリーが大声をあげた。シリウスは血を流し、鼻づらと背に深手を負っていたが、ハリーの言葉に素早く立ち上がると、足音を響かせて校庭を走り去った。ハリーとハーマイオニーはロンに駆けよった。
「ぺティグリューはいったいロンに何をしたのかしら?」
ハーマイオニーが囁くように言った。ロンは目を半眼に見開き、口はダラリと開いていた。生きているのは確かだ。息をしているのが聞こえる。しかし、ロンは二人の顔がわからないようだった。
「さあ、わからない」
ハリーはすがる思いで周りを見回した。
ブラックもルーピンも行ってしまった……そばにいるのは宙吊りになって、気を失っているスネイプだけだ。
「二人を城まで連れていって、誰かに話をしないと」
ハリーは目にかかった髪を掻き上げ、筋道立てて考えようとした。
常に冷静に。おばさんの言葉が頭の中をグルグル回る。けれど、いろいろな事がありすぎて、どうにもうまくできそうにない。ハリーは頭を振った。
「行こう――」
しかしその時、暗闇の中から、キャンキャンと苦痛を訴えるような犬の鳴き声が聞こえてきた。
「シリウス」
一瞬、ハリーは意を決しかねた。しかし、いまここにいても、ロンには何もしてやることができない。しかもあの声からすると、ブラックは窮地に陥っている――。
ハリーは駆け出した。ハーマイオニーもあとに続いた。甲高い鳴き声は湖のそばから聞こえてくるようだ。全力で走りながら、ハリーは寒気を感じたが、その意味には気づかなかった――。キャンキャンという鳴き声が急にやんだ。
湖のほとりに辿り着いたとき、それがなぜなのかを二人は目撃した――シリウスは人の姿に戻っていた。両手で頭を抱えている。
「やめろおおお」シリウスがうめいた。
「やめてくれええええ……頼む……」
吸魂鬼だ。アズガバンの看守達。少なくとも百人が、真っ黒な塊になって、湖の周りから滑るように近づいてくる。
氷のように冷たい感覚が体の芯を貫き、目の前が霧のようにかすんできた。
次々現れる吸魂鬼が、三人を包囲している……。
「ハーマイオニー、何か幸せなことを考えるんだ!」
ハリーが杖を上げながら叫んだ。目の前の霧を振り払おうと、激しく目をしぼたき、内側から聞こえはじめた微かな悲鳴を振り切ろうと、頭を振った。
「エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ! エクスペクト・パトローナム!」
ブラックは大きく身震いして引っくり返り、地面に横たわり動かなくなった。死人のように青白い顔だった。
大丈夫、まだシリウスは助けられる。ハリーは自分に言い聞かせる。……乗り越えられなくて、命や、大切なものを失うとしても……。考えちゃダメだ。ハリーはその言葉を必死に追い払おうとした。
「エクスペクト・パトローナム! ハーマイオニー、一緒に! エクスペクト・パトローナム!」
「エクスペクト――」ハーマイオニーも囁くように唱えた。
しかし、ハーマイオニーはうまくできなかった。吸魂鬼が近づいてくる。もう三メートルと離れていない。ハリーとハーマイオニーの周りを、吸魂鬼が壁のように囲み、二人に迫ってくる……。
「エクスペクト・パトローナム!」
ハリーは耳の中で叫ぶ声を掻き消そうと、大声で叫んだ。
杖先から、銀色のものが一筋流れ出て、目の前に霞のように漂う。
同時に、ハリーは隣のハーマイオニーが気を失うのを感じた。
ハリーは一人になった――たった一人だった。
「エクスペクト――エクスペクト・パトローナム!」
ハリーは膝に冷たい下草を感じた。目に霧がかかった。渾身の力を振り絞り、ハリーは気を失うまいと戦った――シリウスは無実だ――無実なんだ――僕たちは大丈夫だ――僕はシリウスを助けるんだ――この試練に打ち勝つんだ――。
「エクスペクト・パトローナム!」
形にならない守護霊の弱々しい光で、ハリーは吸魂鬼がすぐそばに立ち止まるのを見た。
吸魂鬼はハリーが作り出した銀色の靄の中を過り抜けることができなかった。
マントの下から、ヌメヌメした死人のような手がスルスルと伸びてきて、守護霊を振り払うかのような仕草をした。
「やめろ――やめろ――」ハリーは喘いだ。
「あの人は無実だ……エクスペクト――エクスペクト・パトローナム――」
吸魂鬼たちが自分を見つめているのを感じた。ゼイゼイという息が邪悪な風のようにハリーを取り囲んでいる。一番近くの吸魂鬼がハリーをじっくりと眺め回し、腐乱した両手を上げ――フードを脱いだ。
目があるはずのところには、虚ろな眼窩と、のっぺりとそれを覆っている灰色の薄いかさぶた状の皮膚があるだけだった。
しかし、口はあった……ぽっかり空いた形のない穴が、死に際の息のように、ゼイゼイと空気を吸い込んでいる。
恐怖がハリーの全身を麻痔させ、動くことも声を出すこともできない。守護霊は揺らぎ、果てた。真っ白な霧が日を覆った。戦わなければ……エクスペクト・パトローナム……何も見えない……すると、遠くの方から、聞き覚えのあるあの叫び声が聞こえてきた……エクスペクト・パトローナム……霧の中で、ハリーは手探りでシリウスを探し、その腕に触れた……あいつらにシリウスを連れていかせてなるものか……。
しかし、べっとりした冷たい二本の手が、突然ハリーの首にがっちりと巻きついた。
無理やりハリーの顔を仰向けにした……ハリーはその息を感じた……僕を最初に始末するつもりなんだ……腐ったような息がかかる……耳元で母さんが叫んでいる……。
「ハリーだけは、ハリーだけは、どうぞハリーだけは!」
「どけ、バカな女め! ……さあ、どくんだ……」
「ハリーだけは、どうかお願い。私を、私をかわりに殺して――」
母さんの声は、おばさんにとてもよく似ていた。
「――たすけて、おばさん……」
ハリーは胸元のペンダントを握り締めた。
すると、そのとき、ハリーをすっぽり包み込んでいる霧の向こう側から悲鳴が聞こえてきた。それはだんだんと数を増やしていく。ペンダントから伝わってくる温もりに、ハリーの体にじんわりと暖かさが戻ってくる……。
見えない誰かに支えられているような感覚に、ハッとした。僕が、みんなを守るんだ。ふらつき、吐き気を堪えながら、ハリーは力強く杖を振るった。
「エクスペクト・パトローナム!」
すると、杖の先から、ぼんやりした霞ではなく、目も肱むほどまぶしい、銀色の動物が噴き出した。
ハリーは目を細めて、なんの動物なのか見ようとした。
それは馬のようだった。頭を下げ、群がる吸魂鬼に向かって突進していくのが見える……何かがハリー、シリウス、ハーマイオニーの周りを、グルグル駆け回っている。
吸魂鬼があとずさりしていく。散り散りになり、暗闇の中に退却して――いなくなった。
守護霊が向きを変えた。ハリーの方に健やかに走りながら近づいてくる。
馬ではない。一角獣でもない。牡鹿だった。空にかかる月ほどにまばゆい輝きを放ち、ハリーの方に戻ってくる……。大きな銀色の目でハリーをじっと見つめるその牡鹿が、ゆっくりと頭を下げた。角のある頭を。そして、ハリーは気づいた。
「プロングズ」
ハリーが呟いた。
震える指で、触れようと手を伸ばすと、それはフッと消えてしまった。
湖に、暗闇が戻ってくる。その奥で、カシャッカシャッと大きな音が聞こえた。ハリーは暗がりに潜むように佇む、音の主を――主達を見た。
六本の恐ろしく長い毛むくじゃらの脚が、糸だるまにされた吸魂鬼を何体も抱え込んでいる。月明かりに照らされて、一対の鋏がギラリと鈍く輝いた。禁じられた森の方角、木陰に潜むようにして佇む無数の目がハリーをじっと見つめている……。
蜘蛛だ。ハリーは気付いた。馬車馬のような、八つ目の、八本脚の、黒々とした、毛むくじゃらの、巨大な蜘蛛たち。不思議と、味方だという確信がハリーにはあった。
やがて吸魂鬼を踏みつけにして、小型の象ほどもある蜘蛛がゆらりと現れた。
胴体と脚を覆う黒い毛に白いものが混じり、鋏のついた頭に、八つの白濁した目があった。――盲ている。
「ネズミを捕らえる事は叶わなんだ」
鋏をイライラと鳴らしながら、盲目の蜘蛛が言った。
「だが、おまえの求めには応じた。聖下もご理解下さることであろう」
ニャオウ、と猫の鳴き声が響く。ミセス・ノリスだ。ハリーはそう思った。
ミセス・ノリスの鳴き声は、蜘蛛以上に苛立たしげなようにハリーには感じられた。ニャア、とミセス・ノリスがまた鳴いた。蜘蛛の一匹が、それに応じるようにしてシリウスの体を鷲づかみにして持ち上げる。
「待って」ハリーはとっさに叫んだ。
「どこへ連れて行くの?」
カシャッカシャッカシャッカシャッ――辺り一面にいる蜘蛛たちが、いっせいに鋏を鳴らす。蜘蛛たちは、一言喋るたびに鋏をガチャガチャいわせているのだ。これは、蜘蛛たちの囁き交わす声なのだとハリーは気付いた。盲目の蜘蛛が立ち止まった。
「安全な場所へ」ゆっくりと、盲目の蜘蛛は言った。
「このままでは、勇敢にして聡明なるクルックシャンクス嬢の働きが無駄になる――この人間は隠しておかねばならない」
ハリーは、置き去りにしてきたスネイプのことを思い出した。波が引くようにして、蜘蛛たちが闇の奥へと去っていく。捕らえられた吸魂鬼を引きずる音と、シリウスの姿が遠ざかっていく。
「あの!」ハリーはどもりながら叫んだ。「ありがとう!」
カシャカシャという大きな音と、何本もの脚が擦れ合うザワザワという音が湧き起こり――すぐに止んだ。湖に静寂が戻ってくる。ハリーは、へなへなとその場に座り込んだ。
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