世界は万華鏡のようなものだ。見る角度によって様相が変わる。
 マグルの間では実在しないとされるドラゴンやゴブリン、トロールといった存在が、魔法族にとって当たり前であるのと同じこと。魔法使いが知り得えない世界の深淵というものもまた、存在する。
 イギリスの首都、ロンドンの地下もその一つだ。
 バッキンガム宮殿の真下。人類誕生の遥か以前、この星を支配していた恐ろしくも邪な旧支配者達――偉大な蜘蛛神の娘たる神の巣が、そこにはある。

 幼き日から今日まで。約定が続く限り、永遠に美しく在る薔薇を胸元に。
 そうして手には、かの邪悪な女神がこよなく愛する、鮮やかな血色の薔薇の花束を。

 師の下を訪れる日は、決まって晩餐が行われる日だ。
 その食卓を飾る薔薇を欠かさず携えていくのが、ペチュニア・エバンズが彼女と過ごす日々の中で自分に定めた、第一の規則だった。

「今宵、親愛なるバーストの神官殿方を我が晩餐に招けた事を嬉しく思う。さて。我等の晩餐がお口に合えば良いのだけれどね、フィッグ司祭?」

 豪奢極まりない食堂で、多足の侍従達を従えた女が笑う。
 雪のように白い肌、長く艶やかな黒檀の髪。薔薇より赤く魅惑的な瞳。
 この世の誰よりも美しく輝かしい。それでいて吐き気のするほど邪悪な、相反する印象を見る者に与える女。
 フィッグと呼ばれた老婆が、の言葉にカラカラと笑う。

「司祭だなんてとんでもない! あたしゃまだまだ神官としちゃ未熟者でございますのでね、さっさとこの次元をお暇して、ウルタールの神殿に入りたいものだと考えておりますよ」

 バースト。それは、かつてエジプトにおいてバテストの名でも崇められていた女神だ。
 その神官であるフィッグが身に纏う白い神官服は、それ故にだろう。何処か古風な印象を見る者に与える。現代において、かの女神を崇拝する人間は極めて少ない――それでも、皆無という訳ではないのだ。そしてフィッグは、その数少ない崇拝者の一人であった。
 フィッグの言葉に、が悪戯っぽく瞳をきらめかせる。

「おやおや、ご謙遜だ。ニールズ達の教化は君以外には成し得なかった、と聞いているよ。ねえ? ミス・ノリス」

 テーブルの上。くつろいだ様子で敷布に腰掛けた優美な黒猫が、目を細めて至極愉快そうにニャアと鳴いた。ペチュニアも、力強く同意する。

「我々の協定も、マダム・フィッグのお力添えあってこそです。それに、あなた以上に安心して甥を預けておける方はいません。永らくこちらの次元においで頂ければ、と個人的にも願ってやみませんわ」

 照れくさそうに頬を掻きながら、「まいったね、どうも」とフィッグがはにかむ。

「ダンブルドアの頼みもあるからね。あんたがこっち側と知った時はどうしたもんかと思ったが、蜘蛛の娘神様もあんたも、話の通じる相手で良かったよ。ブリチェスターの連中も、魔法族の騒動に紛れて勢力を伸ばしつつあることだし……」
「ああ、グラーキやアイホートかい。シュブ=ニグラスおばさまとも連携して、セヴァーンで改めて蟄居して頂く予定ではあるけれど。どうにもあの連中は、愛がなくていけない」

 不愉快だと言いたげに、が美しい顔をおおきく歪める。
 ペチュニアは慎み深く目を伏せた。一部の隙も無く――不自然なまでに完全な美の体現者たる師の背後。その本性を示す蜘蛛の影を、決して視界に入れないように。

「ダンブルドアといえば」

 ペチュニアが、何処までも淡々とした調子で話題を変える。

「ミス・ノリスはその後如何でいらっしゃいますか? ホグワーツで迷い子を教え導いている、と伺いましたが」

「フィルチの坊やかい」とフィッグが呟く。
 ノリスが小首を傾げ、何処か疲れたような調子でナォウと鳴いた。

「……ふぅん、難しいねえ。イゴーロナクが好きそうな子かい。そっちに転ばれると、学校をそのまま供物の祭壇にしてしまいそうだ」
「魔法族の学校でも、ですか?」
「たかが魔法族だろう? ミス・ノリスの見立て通りなら資質もあるようだし、かの神は熱心な信徒へは比較的気軽に加護を与える方だからね。チュニー、他の神々を知るのも大事なことさ」
「はい、先生」

 ペチュニアは神妙な顔でうなずいた。

「不便があれば遠慮無く言っておくれ。ホグワーツにも我が従僕はいるからね、協力は惜しまないよ。せめてチュニーの坊やがホグワーツを卒業するまでくらいは保たせてあげたい」
「ご高配ありがとうございます、先生」
「おお、それはあたしらとしても有り難いことでございます」

 集った面々が面々だ。世界の同じ一側面を知悉しているのみならず、彼女達はその側面において、問題なく会話が成り立ってしまう程度には深みにいる。に至っては、その深淵の一端そのものだ。
 フィッグとノリスにとっては異教の神だが、敵対している訳でも無し。彼女達が敬意を払っている事、が神としてはだいぶ穏和で慈悲深い質である事が幸いし、雑談を交えながら、晩餐はなごやかに進んでいく。

「そういや、ブラックの件。あれは放っておいていいのかい? エバンズ。あんたにとっちゃ、妹夫婦の仇だろう」
「いいえ、マダム・フィッグ。仇はブラックではなく、ペティグリューです」
――なんと」
「従僕らが聞き知っていたよ。なんだったっけね、魔法族の獣化の術」
「アニメーガスかと、先生」
「そう、それ。それでネズミになって場を逃れたらしくて。人間に戻ってくれれば、まだ見つけようもあるのだけれど……」

 蜘蛛達は目も鼻も利かない。
 罠を張って獲物を狩る蜘蛛たちは、追跡者としては不適格だ。が肩を竦める。

「どうやら、ネズミのままで逃亡を続けているようです。
 ――見つかりさえすれば、生まれてきた事を後悔させてやれるものを」

 昏い激情を湛えた目で、ペチュニアが憎々しげに呟く。
 ノリスがニャア、と慰めるように鳴いた。「それは喜ばしい!」と、が破顔する。

「安心しな、エバンズ。
 ネズミを狩るのはあたしらの得意とするところだからね――このイギリスから逃がしゃあしないさ」
「……ええ、ええ。ありがとうございます、マダム・フィッグ。ミス・ノリス」
「ぅふふ、前準備というのは存外心躍る時間なものさ。君の愛しい妹殿を奪った者への応報については、じっくり悩んでおきたまえね」
「はい、先生」

 ペチュニアは、かすかに目を和ませて頷いた。

 女三人寄れば姦しいと俗に言うが、それは種族が違えど同じ事のようだ。
 話の種は次から次へ途切れもしない。魔法界の話が出たからだろう、フィッグが思い出したように、“生き残った男の子”と呼ばれるペチュニアの甥についてを話題に挙げる。

「魔法界についてはホグワーツに入る頃にゃあ知るだろうが、こっち側については教えんでいいのかい、エバンズ。導いてやるなら早いに越したこたないだろう」
「……私は、自分の意志で先生に師事することを選びました。叶うならあの子にも、自分の意志で住まう世界を選んで欲しいと思っております」
「魔法族は神を忘れて久しい。不心得者に染まりそうなもんだがね」

 ペチュニアの言葉に、フィッグが難しい顔で唸る。
 フィッグと同意見だと言いたげに、ニャアン、ナーオとノリスが鳴く。
 が苦笑いを零した。

「やれ、ミス・ノリスは手厳しい。でもねえ、坊やは筋で言えばイグ殿のところじゃないか。ヴォルとの事もあるから、私としても強引な真似はしたくないんだ」
「ほほ。蜘蛛の娘神様も、かの蛇神には少々お弱くていらっしゃいますかな」
「イグ殿、話は分かるけど怖い方なんだよ。まあ、ヴォルについては譲る気はないけれど」

 主人達のうすら寒い会話を決して遮らぬように、忠実なりし多足の侍従が、粛々と今日の晩餐におけるメイン・ディッシュをの前へと饗する。
 黒いプレートの上に綺麗に盛り付けられているのは、鷲を模った銀色の髪飾りと小さな金のカップだった。ロンドンから容易には動けないの為、ペチュニアが従僕を動かし方々に手を回し、グリンゴッツの小鬼を説得・・して回収してきた品々。今日という日の晩餐が“特別”であるその理由。
の為だけのメイン・ディッシュに、ノリスが驚いたようにニャウ! と鳴いた。

「チュニーが骨を折ってくれてね。いやまったく、我が弟子ながら立派に育ってくれたものだ!」
「ありがとうございます、先生」
「なんと、エバンズの仕事なのかい。若いのにたいしたもんだ」
先生に従僕達をお借りしたおかげですわ、マダム・フィッグ。まだまだ学ぶことは多いものだと、日々痛感するばかりです」

 ペチュニアは困ったように微笑んだ。
 嬉しそうにが、メイン・ディッシュへとスプーンを差し入れる。愛する男が、分割した己の魂の一部を封じた魔法道具を削り抉る。悲鳴が響く。それは冥府の責め苦を思わせるような、ひどく痛々しくも苦しげな悲鳴だった。
 人間の価値観からすれば、それは残酷な所業なのかも知れない――けれど、今宵この食卓、この晩餐において。それを憐れむほどの人間性の持ち主は、誰一人として存在しない。
は笑っている。笑いながら、スプーンを口に運ぶ。丹念に、じっくりと味わいながら咀嚼し、また一口。髪飾りもカップも、どちらもさして大きな物ではない。それほど時間をかける事無く、それらはの胃袋へと収まった。

「……ぅふ。素晴らしい。嗚呼、なんて素晴らしい味だったんだろう……。彼を知るほどに、全てを手に入れる蜜月への期待は高まる一方だ……! 嗚呼、嗚呼。チュニー、我が弟子、我が神官。今後とも、君には期待しているよ」
「はい、先生」

 愛しげに己の腹を撫でる師に、ペチュニアは真剣な面持ちで頷いた。




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