おばさんと過ごす魔法界での夏休みは快適だった。
 毎朝「漏れ鍋」でペチュニアおばさんと朝食を食べて、おばさんは仕事へ、ハリーはダイアゴン横町へ行く。
 ハリーはロンドンの町中をぶらぶら歩く代わりにダイアゴン横町をぶらぶら歩いて店を覗いて回ったり、カフェ・テラスに並んだ鮮やかなパラソルの下で食事をしたりした。カフェで食事をしている客たちは、互いに買い物を見せ合ったり(「ご同輩、これは望月鏡だ――もうややこしい月図面で悩まずにすむぞ、なぁ?」)、シリウス・ブラック事件を議論したり(「わたし個人としては、あいつがアズガバンに連れ戻されるまでは、子どもたちを一人では外に出さないね」)していた。
 マグルの世界ではハリーは宿題を家に籠もってするしかなかったけれど、ダイアゴン横町では違う。
 フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのテラスに座り、明るい陽の光を浴び店主のフローリアン・フォーテスキュー氏にときどき手伝ってもらいながら、宿題を仕上げるのだ。店主は中世の魔女火あぶりにずいぶん詳しかったので、羊皮紙がハーマイオニーとどっこいの長さになるほどだった。

 新学期が近づくにつれ、ホグワーツの生徒たちが大勢、ダイアゴン横町にやってくるようになった。ハリーは高級クィディッチ用具点で、シェーマス・フィネガンやディーン・トーマスなど、同じグリフィンドール生に会った。二人が穴のあくほど見つめている箒は、ハリーが毎日通いづめで見に来ているのと同じものだった。



炎の雷・ファイアボルト

この最先端技術、レース用箒は、ダイヤモンド級硬度の研磨仕上げによる、すっきりと流れるような形状の最高級トリネコ材の柄に、固有の登録番号が手作業で刻印されています。尾の部分はシラカバの小枝を1本1本厳選し、研ぎあげて空気力学的に完璧な形状に仕上げています。このためファイアボルトは、他の追随を許さぬバランスと、針の先ほども狂わぬ精密さを備えています。わずか10秒で時速240㎞まで加速できる上、止めるときはブレーキ力が大ブレークします。
お値段はお問い合わせ下さい。



 金貨何枚になるのか、ハリーは値段を聞かなかった。
 こんなにほしいと思ったことは、一度もない――しかし、寮監のマクゴナガル先生がくれたニンバス2000だって、いままで試合に負けたことはなかった。十分によい箒をすでに持っているのに、ファイアボルトのためにグリンゴッツの金庫を空っぽにしてなんの意味がある? おばさんだって、ハリーの自制心を信じて両親の遺産の使い道を一任してくれているのだ。無駄遣いはよくない、無駄遣いはよくないとハリーはしょっちゅう自分自身に言い聞かせ、なんとか誘惑を振り切った。
 それでもやっぱり一目見たくて、気づけばハリーの足は勝手に毎日ここへ来るのだった。
 寮で同じ部屋のネビル・ロングボトムにもでくわしたけれど、とくに話はしなかった。丸顔の忘れん坊のネビルは教科書のリストをしまい忘れたらしく、いかにも厳しそうなネビルの「ばあちゃん」に叱られているところだったからだ。ハリーは神妙な顔で回れ右をした。

 夏休みの最終日には、漏れ鍋にロンとハーマイオニーがやってきた。
 ロンはとてつもなくそばかすだらけに見えたし、ハーマイオニーはこんがり日焼けしていた。二人の家族も一緒だ。ハリーは満面の笑顔で再会の挨拶を交わした。その横では、大人達が難しい顔でシリウス・ブラックについての話をしていた。

「では、ブラックはまだ捕まっていないのですね」グレンジャー夫人が心配そうに言った。
「ウム」ウィーズリー氏は極めて深刻な表情を見せた。

「魔法省全員が、通常の任務を返上して、ブラック探しに努力してきたんだが、まだ吉報がない」

「僕たちが捕まえたら賞金がもらえるのかな?」ロンが聞いた。
「ロン、バカなことを言うんじゃない」よく見るとウィーズリー氏は相当緊張していた。

「十三歳の魔法使いにブラックが捕まえられるわけがない。ヤツを連れ戻すのは、アズカバンの看守なんだよ。さ、それより新学期の準備をしなければ。買う物がたくさんある……」

 ハリーをチラッと見て、ウィーズリー氏は殊更明るい口調で言った。
 実際、買わなければならないものがたくさんあった。薬問屋に行って「魔法薬学」の材料を補充したし、ハリーはローブの袖丈や裾が十センチほど短くなってしまったので、「マダム・マルキンの洋装店――普段着から式服まで」に行って新しいのを買った。一番大切なのは新しい教科書を買うことだった。ハーマイオニーがレジへ山ほど本を持っていくのを見て、ハリーは目を丸くした。

「ハーマイオニー、そんなにたくさんどうしたの?」
「ほら、私、あなたたちよりもたくさん新しい科目をとるでしょ? これ、その教科書よ。数占い、魔法生物飼育学、占い学、古代ルーン文字学、マグル学――
「なんでマグル学なんかとるんだい?」

 ロンがハリーにキョロッと目配せしながら言った。

「君はマグル出身じゃないか! パパやママはマグルじゃないか! マグルのことはとっくに知ってるだろう!」
「だって、マグルのことを魔法的視点から勉強するのってとってもおもしろいと思うわ」

 ハーマイオニーが真顔で言った。

「ハーマイオニー、これから一年、食べたり眠ったりする予定はあるの?」

 ロンはからかうようにクスクス笑っていたが、ハリーは心の底から疑問だった。ハーマイオニーは両方とも無視した。ハーマイオニーがフクロウを買う予定だと言い、ロンも旅行に行ってから様子のおかしいペットのネズミのスキャバーズを診てもらいたいと言い出したので、三人は荷物を先に「漏れ鍋」へ戻るという大人達に預け、「魔法動物ペットショップ」へ行くことにした。
 ロンはスキャバーズのために「ネズミ栄養ドリンク」を買い、ハーマイオニーは結局フクロウではなく、巨大な赤猫のクルックシャンクスを買った。

「君、あの怪物を買ったのか?」ロンは口をあんぐり開けていた。
「この子、素敵でしょう、ね?」ハーマイオニーは得意満面だった。見解の相違だな、とハリーは思った。
 日頃よくスキャバーズを付け狙われているので、ロンは猫が好きではないのだ――ついでに、クルックシャンクスには頭を踏み台にされた恨みもある。ロンの文句に、ハーマイオニーは聞く耳持たなかった。

「かわいそうなクルックシャンクス。お店の魔女が言ってたわ。この子、もうずいぶんながーいことあの店にいたって。誰もほしがる人がいなかったんだって」
「そりゃ不思議だね」

 ロンが皮肉っぽく言った。クルックシャンクスはハーマイオニーの腕の中で、満足げにゴロゴロ甘え声を出していた。グレンジャー夫妻は仕事の都合で一足先に帰って行ったが、その夜はウィーズリー一家とハーマイオニーも「漏れ鍋」に泊まった。宿の亭主のトムが食堂のテーブルを三つつなげてくれて、ペチュニアおばさんも含めたみんなで、そろって夕食を楽しんだ。
 夕食の後、ロンとパーシーの部屋が騒がしかったのでハリーは何事かと部屋を覗き込んだ。

「僕の首席バッジが無くなった」パーシーが言った。
「スキャバーズのネズミ栄養ドリンクもないんだ」ロンはトランクの中身をポイポイ放りだして探していた。「もしかしたらバーに忘れたかな――
「僕のバッジを見つけるまでは、どこにも行かせないぞ!」パーシーが叫んだ。

「僕、スキャバーズの方、探してくる。僕は荷造りが終わったから」

 ロンにそう言って、ハリーも一緒に探すのを手伝うことにした。
 もうすっかり明かりの消えたバーに行く途中、ウィーズリー夫妻の言い争う声が聞こえてきた。そっと通り過ぎようとして、けれど自分の名前が聞こえてきたのでハリーは思わず立ち止まった。

「ハリーがあんな事を引きずったまま学校に戻るなんて、あなた、本気でそうおっしゃるの? とんでもないわ! 知らないほうがハリーは幸せなのよ」
「あの子に惨めな思いをさせたいわけじゃない。わたしはあの子に自分自身で警戒させたいだけなんだ」

 ウィーズリー夫人の叫びに、ウィーズリー氏がやり返した。

「シリウス・ブラックは狂人だとみんなが言う。たぶんそうだろう。しかし、アズカバンから脱獄する才覚があった。しかも不可能だといわれていた脱獄だ。もう三週間もたつのに、誰一人、ブラックの足跡さえ見ていない。ファッジが『日刊予言者新聞』になんと言おうと、事実、我々がブラックを捕まえる見込みは薄いのだよ。まるで勝手に魔法をかける杖を発明すると同じくらい難しいことだ。一つだけはっきり我々がつかんでいるのは、ヤツの狙いが――
「でもハリーはホグワーツにいれば絶対安全ですわ」
「我々はアズカバンも絶対まちがいないと思っていたんだよ。ブラックがアズカバンを破って出られるなら、ホグワーツにだって破って入れる」
「でも、誰もはっきりとは分らないじゃありませんか。ブラックがハリーを狙っているなんて――

 ドスンと木を叩く音が聞こえた。ウィーズリー氏が拳でテーブルを叩いた音に違いないとハリーは思った。

「新聞に載っていないのは、ファッジがそれを秘密にしておきたいからなんだ。しかし、ブラックが脱走したあの夜、ファッジはアズカバンに視察に行ってたんだ。看守たちがファッジに報告したそうだ。ブラックがこのところ寝言を言うって。いつもおんなじ寝言だ。『あいつはホグワーツにいる……あいつはホグワーツにいる』。ブラックは狂っている。ハリーの死を望んでいるんだ。わたしの考えでは、ヤツは、ハリーを殺せば『例のあの人』の権力が戻ると思っているんだ。ハリーが『例のあの人』に引導を渡したあの夜、ブラックはすべてを失った。そして十二年間、ヤツはアズカバンの独房でそのことだけを思いつめていた……」

 ハリーはそっとその場を離れた。

「ハリー、どうしたの?」

 部屋を尋ねてきたハリーの顔を見て、ペチュニアおばさんは眉をひそめた。

「えっと……その、おばさんと話がしたくって」

 ウィーズリー夫妻の会話への動揺を引きずりながら、ハリーはつっかえつっかえ答えた。
 おばさんはハリーを招き入れて椅子に座らせると、「ハリー、少し待っていらっしゃい」と言って出て行った。
 ハリーはじっと窓の外に広がっている深いビロードのような青色に沈んだ空を眺めながら、ウィーズリーおじさんの言っていた言葉を思い返す。

 シリウス・ブラックは、僕を狙っている。
 ペチュニアおばさんとファッジの会話で、ハリーはそれを知っているつもりだった。けれど、ハリーが考えていた以上にブラックは本気でハリーを狙っているらしい。けれど、なぜかハリーはそれほど恐ろしいと感じていなかった。顔をしかめる。
 それより問題なのは、ブラックが捕まるまでは、ハリーが城という安全地帯から出ないと欲しいと、みんながそう思っていること。そして危険が去るまで、みんながハリーのことを監視するだろうということだった。
 戻ってきたペチュニアおばさんは、蜂蜜たっぷりのホット・ミルクをハリーにくれた。
 ハリーはおばさんと向かい合ってそれをちびちび飲みながら、ぽつり、ぽつりと自分がさきほど聞いてきた話や、思ったことを口にする。

「みんな、僕が自分で自分の面倒を見られないとでも思っているのかな」
「大人は過保護なものよ、ハリー」

 向かいでティー・カップを傾けながら、おばさんが涼しい顔で言った。

「ヴォルデモートの手を二回も逃れたんだよ? 僕、そんなにヤワじゃないよ」
「だからこそ、無茶をしないか心配なんでしょう。そういうものだと諦めなさい、ハリー」
「だって。おばさんは僕を監視したり、うるさく言ったりしないのに」

 ハリーは唇を尖らせた。
 ペチュニアおばさんがティー・カップを置く。

「本人が納得しなければ、万の言葉を尽くした忠告であっても何の意味も成さないわ。それが自分めがけて向かってくる危険なら尚更よ。できるのは、覚悟を決めて備えることだけ。――私もそうだったわ」
「……おばさんも?」

 ハリーは戸惑った。けれど、おばさんが言うのだからきっと嘘ではないのだろう。
 ペチュニアおばさんにだって、ハリーと同じ子どもの頃があったのだ――魔法界ならともかく、マグルの世界で命のかかった危険なんて、ハリーにはまったくもって想像がつかないことだったけれど。
 ペチュニアおばさんが少しだけ悲しそうな目で、不器用な微笑みを浮かべる。

「これはあなたの試練です。例え乗り越えられなくて、命や、大切なものを失うとしてもね。――だから、常に冷静に。用心深く行動なさい、ハリー。私が言うのはそれだけよ」
――はい、おばさん」

 マグカップを置いて、ハリーは真剣な顔でうなずいた。


 ■  ■  ■


 翌朝、ウィーズリー氏の車に乗って、ハリー達はキングズ・クロス駅へ行った。
 ウィーズリー氏は駅に入るまでずっと、ハリーの肘のあたりにピッタリ張りついていた。
「よし、それじゃ」ウィーズリー氏が周りをちらちら見ながら言った。

「我々は大所帯だから、二人ずつ行こう。最初はハリーとミス・エバンズからどうぞ」
「ええ。ではお先に、ミスタ。ハリー、行きましょうか」
「はい、おばさん」

 ハリーはおばさんと並んで、9と10番線の間にある柵をスイーッと通り抜けた。
 硬い金属の障壁の先では紅色の機関車、ホグワーツ特急が煙を吐いている。その煙の下で、ホームいっぱいに溢れた魔女や魔法使いが、子ども達を見送り、汽車に乗せていた。
 すぐに、後からウィーズリー一家とハーマイオニーもやってきた。ほとんど誰もいない車両を見つけ、そこにトランクを積み込み、ヘドウィグとクルックシャンクスを荷物棚に載せた。それからウィーズリー夫妻とペチュニアおばさんに別れを告げるために、もう一度列車の外に出た。

「ハリー。何が起ころうとも、学業が学生の本分なことに変わりはありません。今年もおおいに学んでいらっしゃい」
「はい、おばさん」

 ハリーは真面目くさってうなずき、すぐに堪えきれなくなって吹き出した。
 ペチュニアおばさんは、優しい目をしてハリーの頭を軽く撫でた。
 ウィーズリー夫人は子ども達全員にキスをし、それからハーマイオニー、最後にハリーにキスをしてギュッと抱き締めた。ハリーはちょっとドギマギした。

「ハリー、むちゃしないでね。いいこと?」

 ウィーズリー夫人はハリーを離したが、なぜか目が潤んでいた。
「ハリー、ちょっとこっちへおいで」とウィーズリー氏にそっと呼ばれ、ハリーはおばさんとチラッと視線を交わし、ウィーズリー氏について柱の陰に入った。

「君が出発する前に、どうしても言っておかなければならないことがある――

 ハリーの予想通り、ウィーズリー氏の話はシリウス・ブラックのことだった。ただ、奇妙に思ったのは、ひどく真剣な顔でウィーズリー氏がハリーに告げた言葉だ。

「ハリー、わたしに誓ってくれ。ブラックを探したりしないって」

「えっ?」ハリーはウィーズリー氏を見つめた。
 汽笛がポーッと大きく鳴り響いた。駅員たちが汽車のドアをつぎつぎと閉めはじめた。
「ハリー、約束してくれ」ウィーズリー氏はますます急き込んだ。「どんなことがあっても――
「僕を殺そうとしている人を、なんで僕の方から探したりするんです?」ハリーはきょとんとして言った。
「誓ってくれ、君が何を聞こうと――
「アーサー、早く!」ウィーズリー夫人が叫んだ。

 汽車はシューッと煙を吐き、動き出した。ハリーはコンパートメントのドアまで走った。ロンがドアをパッと開け、一歩下がってハリーを乗せた。みんなが窓から身を乗り出し、ウィーズリー夫妻とペチュニアおばさんに向かって手を振り、汽車がカーブして三人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。


 ――これは、あなたの試練です。


 昨夜のペチュニアおばさんの言葉が、なぜかハリーの頭を過ぎった。




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