バーンデル通り3番地に住むハリー・ポッターは、十三歳の割に小柄でやせてはいたが、この一年で五、六センチ背が伸びていた。真っ黒な髪だけは、相も変わらず、どうやっても頑固にクシャクシャしていた。メガネの奥には明るい緑の目があり、額には細い稲妻型の傷が、髪を透かしてはっきり見えた。
この傷は過去百年でもっとも恐れられた闇の魔法使い、ヴォルデモート卿の手にかかって両親が死んだ時につけられた傷だった。母、リリーの愛の守りによって、ヴォルデモートの呪いはハリーを殺すどころか、呪った本人に撥ね返ったのだ。ヴォルデモートは命からがら逃げ去り、ハリーは額に傷を受けただけでその手を逃れた……。
しかしハリーはホグワーツ魔法魔術学校に入学したことで、再びヴォルデモートと真正面から対決することになった。昼近くの光が差し込む窓辺に佇んで、一年生のときにヴォルデモートと対決した時のことを思い出すと、ハリーはよくぞ生き残れたものだ、それだけで幸運だった、と思わざるをえなかった。
窓の外からこっちを見ていた大きな黒い犬に手を振り、籠の中でうつらうつらしているヘドウィグに挨拶して、欠伸しながらキッチンへ行く。キッチンではハリーの唯一の親戚である育て親のペチュニアおばさんが、紅茶を飲みながらテレビを見ているところだった。テレビでは、アナウンサーが脱獄囚のニュースを読んでいる。
「……ブラックは武器を所持しており、きわめて危険ですので、どうぞご注意ください。通報用ホットラインが特設されていますので、ブラックを見かけた方はすぐにお知らせください」
ハリーが入ってきたことに気付いたおばさんが、ハリーを振り返る。
「おはよう、ハリー」
「おはよう、おばさん。起こしてくれればよかったのに」
ペチュニアおばさんは学者で、大学の先生をしている。ハリーがホグワーツに通い出してからというもの、更に仕事が忙しくなったようで、ハリーは長期休みに家に帰れたことがない。
せっかくおばさんといる夏休み。タイミングが合った時くらいは一緒に食事がしたいのにと、拗ねた気分でハリーはおばさんを見た。おばさんが、軽く片眉を跳ねさせる。
「昨日も夜遅くまで眠れていなかったでしょう。誕生日プレゼントが嬉しかったのは分かるけれど、しっかり眠るのは大事よ、ハリー」
ハリーは赤くなった。「だって……」口をもごもごさせて言い訳を探しながら、トースターにパンをセットし、フライパンからお皿にスクランブル・エッグとベーコンをよそう。
おとといの誕生日、ホグワーツでのハリーの親友、ロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーからプレゼントが届いた。ハリーはホグワーツにいくまで友達がいなかったので、二人の親友からのプレゼントが嬉しくてたまらなかったのだ。
特に、夏休みに入ってから頻繁にかかってきていた電話が、二人が家族と旅行に行ってしまっていて最近はご無沙汰気味だったので尚更だった。
それでも、新学期の始まる一週間前には二人と新しい教科書を買いに行く約束をしている。今学期からは週末にホグズミードという魔法の村に行くことも許される。ハリーは今からワクワクしてたまらなかった。
その日はおばさんが一日家で学生のレポートを添削するということで、ハリーも家でホグワーツの先生たちがどっさり出した宿題を片付けることにした。キッチンでおばさんと向かい合って座りながら、ハリーは大きな革表紙の本(バチルダ・バグショット著「魔法史」)を開き、難しい顔で鷲羽ペンのペン先で頁の上から下へとたどって、宿題のレポートを書くのに役立ちそうなところを、眉根をよせてウンウンと唸りながら探す。
「十四世紀における魔女の火あぶりの刑は無意味だった――意見を述べよ」という宿題だ。
それらしい文章が見つかり、羽ペンの動きが止まった。ハリーは鼻にのっている丸いメガネを押し上げ、その段落を読んだ。
非魔法界の人々(通常マグルと呼ばれる)は中世において特に魔法を恐れていたが、本物を見分けることが得手ではなかった。ごく稀に本物の魔女や魔法使いを捕まえることはあっても、火刑はなんの効果もなかった。魔女または魔法使いは初歩的な「炎凍結術」を施し、そのあと、柔らかくくすぐるような炎の感触を楽しみつつ、苦痛で叫んでいるふりをした。特に、「変わり者のウェンデリン」は焼かれるのが楽しくて、いろいろ姿を変え、みずからすすんで四十七回も捕まった。
ハリーは羽ペンをインク瓶に浸し、羊皮紙とにらめっこしながらカリカリとレポートを書き進めていく。集中しているところに突如響いたインターホンの音に、ハリーはあやうくインク瓶を倒しそうになった。
「誰かしら」
首を傾げて、おばさんがキッチンから出て行く。聞き覚えのない男の声が何かを言い、おばさんが「どうぞ、ミスタ・ファッジ。玄関先で話す内容では無さそうですから」と言うのが聞こえて、ハリーは慌ててインク瓶の蓋を閉め、広げていた魔法の教科書と羊皮紙をまとめて抱えて隣の部屋へと滑り込んだ。
はた、とティー・カップまで持ってきてしまったことに気づいて、ハリーは教科書一式を置いて、カップ片手にそっとキッチンを覗き込む。
ドアの隙間から、おばさんに続いてとてもチンケな男が入ってきたのが見えた。
見知らぬ男は背の低い恰幅のいい体にくしゃくしゃの白髪頭で、とても深刻な顔をしていた。奇妙な組み合わせの服装で、深緑色のスーツ、金色のネクタイ、細縞の長いマントを着て先の尖った紫色のブーツを履いている。ライムのような黄緑色の山高帽を小脇に抱えていた。魔法使いだ。ハリーはドアを閉めようとしていた手を止め、そのまま隙間に張り付いた。
「どうぞ、ミスタ・ファッジ」机の上を片付けながら、おばさんがいつもの物憂い顔で勧めた。「お掛けになって」
ファッジは緊張した顔で背広のズボンをずり上げ、マント姿のまま、ハリーが座っていた席に腰を下ろした。
「あー――、いや、お構いなくミス・エバンズ。すぐにおいとましますので」
背筋を伸ばしたまま、ファッジは紅茶を入れようとしたペチュニアおばさんを制止した。
「わたしとしてましては、あー――そう、さきほど申し上げた通り、ハリーを残りの夏休み、『漏れ鍋』に預けて下されば、それだけで結構なのですよ」
「ミスタ・ファッジ。魔法大臣じきじきのお申し出なのですから、相応の理由があるのでしょう。それを伺わないことには、私としてもハリーを説得しようがありませんが」
察しの悪い生徒を相手にする教師のように、おばさんが言う。魔法大臣だって? ハリーは驚きで目をまん丸にした。しかも、何か自分に関係のある話をしに来たらしい。ハリーは物音を立てないように気を付けながら、キッチンでの会話に集中する。
「あー――ウーム、いや、確かに仰る通りなのですが……」
汗を拭きながら、ファッジがきょろきょろと目を泳がせて問う。
「失礼、ハリーは今どちらに?」
「たぶん、部屋で勉強しているのでしょう。呼びましょうか?」
おばさんが淡々と答えた。ファッジがあからさまにホッとした顔をする。
「それなら良かった……ああ、呼んで頂かなくて結構。
ときにミス・エバンズ。ブラック脱獄の件は、もうお耳に入りましたかな」
「ええ。つい今朝方、ニュースで」
テレビの方を見やって、ペチュニアおばさんがうなずく。
ファッジが「そう、そうなのです」と興奮したように身を乗り出した。
「シリウス・ブラックが逃げ出した。マグルのあなたは詳しくご存じないかも知れないが、やつは大変危険でしてな……なにせ、『例のあの人』にとても近しい支持者だった男だ。そして、とびきり狂っている」
ファッジはそう言って、ぶるりと身を震わせる。ハリーは思わず息を飲んだ。
「存じ上げておりますよ、ミスタ・ファッジ」おばさんはよどみなく答えた。
「魔法族を一人、偶然居合わせた非魔法族を十二人吹き飛ばしたとして、魔法族の要塞監獄、アズガバンへ収監された男でしょう」
「さよう。さようです、ミス・エバンズ」
ファッジが深刻な顔で声を潜める。
「ブラックは必ずや、ハリーを狙ってくるでしょう……ハリーの安全のためにも、ホグワーツに行くまでのあいだダイアゴン横町でお過ごし頂きたいのです。『漏れ鍋』に部屋が取ってあります。もちろん、ミス・エバンズもご一緒に」
「――お気遣い感謝します、ミスタ。では、甥に話をしておきましょう」
少し思案気に目を伏せて、ペチュニアおばさんがうなずいた。
ハリーは、ブラックが自分を狙ってくる、とファッジがやけに力強く断言したことを不思議に思った。あからさまにホッとした様子で、ファッジが「いや、いや……ミス・エバンズが話の分かる方で本当に良かった……」としきりにうなずきながら立ち上がる。
「では、これで失礼させて頂こう。やることが山ほどあるんでね」
最後に深々とお辞儀して、ファッジはそそくさと足早に帰って行った。
キッチンに戻ってきたおばさんが、扉の隙間から覗き込んでいるハリーに向かって言う。
「ハリー。聞いていたわね? 漏れ鍋に泊まる準備をしていらっしゃい」
「はい、おばさん!」
ハリーは扉を勢いよく開けて、ぴしっと敬礼してみせた。
そのまま寝室へ戻って準備をする前に、ちょっとだけ不安な気持ちで確認する。
「おばさんも一緒なんだよね?」
「仕事の時以外はね」
おばさんは少しだけ笑ってうなずいた。
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