バーンデル通り3番地。今日もまた、ハリーに手紙はこなかった。
夏休みで家に帰ってきてからずっとだ。空の郵便受けに、ハリーはしょんぼりと肩を落とした。
ハリー・ポッターは魔法使いだ――ホグワーツ魔法魔術学校の一年生を終えたばかりのホヤホヤだ。楽しくなるはずだった夏休み。でも、親友のロンからもハーマイオニーからもずーっと連絡がこない。
さびしかった。それなのに、二人はハリーに会いたいとも思っていないらしい。特に、ロンは泊まりにこいって、ハリーを家に招待するって、そう言ってくれていたはずだったのに……。
ハリーは魔法界に居場所がなくなったような気分になり、せっかくの誕生日さえ心から楽しむ事ができなかった。
ペチュニアおばさんが腕によりをかけて作ってくれた骨付きのローストポーク、たっぷりのホイップクリームとスミレの砂糖漬けをそえたケーキ。ホグワーツに行く前のハリーなら、それだけでしばらく幸せな気持ちでいられるようなご馳走だったのに。
唯一誕生日を祝ってくれたおばさんも、急な仕事だとかで出掛けていってしまった。
もう、今日は寝てしまおう。ハリーは重たい足を引きずって、アパルトマンの部屋へと戻ろうとした。
しかし――気づけばすぐそばに、誰かが立っていた。ハリーは危うく叫び声をあげるところだったが、やっとのことでこらえた。アパルトマンの廊下の片隅に佇むように、コウモリのような長い耳をして、テニスボールぐらいの緑の目がギョロリと飛び出した小さな生き物がいた。
互いにじっと見つめ合う。生物は暗がりの中からスルリと滑り出て、廊下に細長い鼻の先がくっつくぐらい低くお辞儀をした。ハリーはその生物が、手と足が出るように裂け目がある古い枕カバーのようなものを着ているのに気づいた。「あ――こんばんわ」ハリーは数秒悩んだ末、不安げにそう挨拶した。
「ハリー・ポッター!」
生物が甲高い声を出した。きっとお隣さんまで聞こえたとハリーは思った。
「ドビーめはずっとあなた様にお目にかかりたかった……とっても光栄です……」
「あ、ありがとう」
ハリーはじりじりと後退りし、ドアの近くの壁にぴったり背中をくっつけた。ハリーは「君はなーに?」と聞きたかったが、それではあんまり失礼だと思い、「君はだーれ?」と聞いた。
「ドビーめにございます。ドビーと呼び捨ててください。『屋敷しもべ妖精』のドビーです」
「あ――そうなの。あの――あの、何か用事があってここに来たの?」
「はい、そうでございますとも」
ドビーが熱っぽく言った。
「ドビーめは申し上げたいことがあって参りました……複雑でございまして……ドビーめはいったい何から話してよいやら……」
「立ち話もなんだし、部屋で話さない?」
ハリーは後ろの部屋を指差して丁寧にそう言った。
しもべ妖精はわっと泣き出した――ハリーがはらはらするようなうるさい泣き方だった。
「へ――部屋でなんて!」妖精はオンオン泣いた。「これまで一度も……一度だって……」ハリーはお隣さんに文句を言われるかも知れないなと思った。
「ごめんね。気に障ることを言うつもりはなかったんだけど」
「このドビーめの気に障るですって! ドビーめはこれまでたったの一度も、魔法使いから部屋で話そうなんて言われたことがございません――まるで対等みたいに――」
ハリーは「シーッ!」と言いながらドビーをなだめる。
地面に座り込んでしゃくりあげている姿は、とても醜い大きな人形のようだった。しばらくするとドビーはやっと収まってきて、大きなギョロ目を尊敬で潤ませ、ハリーをひしと見ていた。
「君は礼儀正しい魔法使いに、あんまり会わなかったんだね」
ハリーはドビーを元気づけるつもりでそう言った。
ドビーはうなずいた。そして突然立ち上がると、なんの前触れもなしに壁に激しく頭を打ちつけはじめた。
「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」
「やめて――いったいどうしたの?」
ハリーは声を噛み殺し、飛び上がってドビーをなだめた。
「ドビーめは自分でお仕置きをしなければならないのです」妖精は目をクラクラさせながら言った。「自分の家族の悪口を言いかけたのでございます……」
「君の家族って?」
「ドビーめがお仕えしているご主人様、魔法使いの家族でございます……ドビーは屋敷しもべです―― 一つの屋敷、一つの家族に一生お仕えする運命なのです……」
「その家族は君がここに来てること知ってるの?」
ハリーは興味をそそられた。
ドビーは身を震わせた。
「めっそうもない……ドビーめはこうしてお目にかかりに参りましたことで、きびしーく自分をお仕置きしないといけないのです。ドビーめはオーブンの蓋で両耳をバッチンしないといけないのです。ご主人様にばれたら、もう……」
「でも、君が両耳をオーブンの蓋に挟んだりしたら、それこそご主人が気づくんじゃない?」
「ドビーめはそうは思いません。ドビーめは、いっつもなんだかんだと自分にお仕置きをしていないといけないのです。ご主人様は、ドビーめに勝手にお仕置きをさせておくのでございます。時々お仕置きが足りないとおっしゃるのです……」
「どうして家出しないの? 逃げれば?」
「屋敷しもべ妖精は解放していただかないといけないのです。ご主人様はドビーめを自由にするはずがありません……ドビーめは死ぬまでご主人様の一家に仕えるのでございます……」
ハリーは目を見張った。
「誰か君を助けてあげられないのかな。僕に何かできる?」
そう言った途端、ハリーは「しまった」と思った。ドビーはまたしても感謝の雨あられと泣き出した。「お願いだから」ハリーは必死でささやいた。「頼むから静かにして。あんまり煩くすると、お隣さんがなんて言うか……」
「ハリー・ポッターが『何かできないか』って、ドビーめに聞いてくださった……ドビーめはあなた様が偉大な方だとは聞いておりましたが、こんなにおやさしい方だとは知りませんでした……」
ハリーは顔がポッと熱くなるのを感じた。
「僕が偉大だなんて、君が何を聞いたか知らないけど、くだらないことばかりだよ。僕なんか、ホグワーツの同学年でトップというわけでもないし。ハーマイオニーが――」
それ以上は続けられなかった。ハーマイオニーのことを思い出しただけで胸が痛んだ。
「ハリー・ポッターは謙虚で威張らない方です」
ドビーはボールのような目を輝かせて恭しく言った。
「ハリー・ポッターは『名前を呼んではいけないあの人』に勝ったことをおっしゃらない」
「ヴォルデモート?」
「あぁ、その名をおっしゃらないで。おっしゃらないで」
ドビーはコウモリのような耳を両手でパチッと覆い、うめくように言った。
ハリーは慌てて「ごめん」と言った。
「その名前を聞きたくない人はいっぱいいるんだよね――僕の友達のロンなんか……」
またそれ以上は続かなかった。ロンのことを考えても胸が疼いた。
ドビーはヘッドライトのような目を見開いて、ハリーの方に身を乗り出してきた。
「ドビーめは聞きました。ハリー・ポッターが闇の帝王との二度目の対決を、ほんの数週間前に……。ハリー・ポッターがまたしてもその手を逃れたと」
ハリーがうなずくと、ドビーの目が急に涙で光った。
「あぁ」ドビーは着ている汚らしい枕カバーの端っこを顔に押し当てて涙を拭い、感嘆の声を上げた。
「ハリー・ポッターは勇猛果敢! もう何度も危機を切り抜けていらっしゃった! でも、ドビーめはハリー・ポッターをお護りするために参りました。警告しに参りました。あとでオーブンの蓋で耳をバッチンしなくてはなりませんが、それでも……。ハリー・ポッターはホグワーツに戻ってはなりません」
一瞬の静けさ――。ハリーは言葉を詰まらせた。
ドビーは全身をワナワナ震わせながらささやくように言った。
「罠です、ハリー・ポッター。今学期、ホグワーツ魔法魔術学校で世にも恐ろしいことが起こるよう仕掛けられた罠でございます。ドビーめはそのことを何ヶ月も前から知っておりました。あなた様は偉大な人、優しい人。失うわけには参りません。ハリー・ポッターがホグワーツに戻れば、死ぬほど危険でございます。ハリー・ポッターは危険に身をさらしてはなりません。ハリー・ポッターは安全な場所にいないといけません!」
「世にも恐ろしいことって――」ハリーは難しい顔をした。「でも僕、魔法をたくさん勉強して、身を守れるようになるっておばさんと約束したんだ。それに、あそこには僕の――つまり、僕の方はそう思ってるんだけど、僕の友達がいるんだ。心配してくれるのは嬉しいけど、やっぱりまた、今年もホグワーツに行きたいよ」
「ハリー・ポッターに手紙もくれない友達なのにですか?」ドビーが言いにくそうに言った。ハリーは眉をひそめた。
「僕の友達が手紙をくれないって、どうして君が知ってるの?」
ドビーは足をもじもじさせた。
「ハリー・ポッターはドビーのことを怒ってはダメでございます――ドビーめはよかれと思ってやったのでございます……」
「君が、僕宛の手紙をストップさせてたの?」
「ドビーめはここに持っております」
妖精はするりとハリーの手の届かないところへ逃れ、着ている枕カバーの中から分厚い手紙の束を引っ張り出した。見覚えのあるハーマイオニーのきちんとした字、のたくったようなロンの字、ホグワーツの森番ハグリットからと思われる走り書き、ハリーがみんなに出した手紙まである。ハリーはヘドウィグが手紙を持たせるたびに怒り狂った様子で帰ってきていた理由を知った。
ドビーはハリーの方を見ながら、心配そうに目をパチパチさせた。
「ハリー・ポッターは怒ってはダメでございますよ……ドビーめは考えました……ハリー・ポッターが友達に忘れられてしまったと思って……ハリー・ポッターはもう学校には戻りたくないと思うかもしれないと……」
ハリーは聞いてもいなかった。手紙をひったくろうとしたが、ドビーは手の届かないところに飛びのいた。
「ホグワーツに戻らないとドビーに約束したら、ハリー・ポッターに手紙をさしあげます。あぁ、どうぞ、あなた様はそんな危険な目に遭ってはなりません! どうぞ、戻らないと言ってください」
「いやだ」ハリーは怒った。「僕の友達の手紙だ。返して!」
叫ぶと同時にふくろうが一羽、二人の間にバサーッと飛び込んできた。羽を逆立て、怒り心頭といった様子で突いてくるヘドウィグに、ドビーが悲鳴を上げる。
ハリーは手紙に飛びついた。しつこく追いかけてくるヘドウィグに、ドビーは鞭を鳴らすような、パチッという音とともにかき消えた。
ハリーは手紙から顔を上げた。ドビーが消えた後を恨みがましい目で見ながら、ヘドウィグが大きな声で鳴いた。
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