ロンドンの地下は、蜘蛛の巣に例えられる。
事実、縦横無尽に張り巡らされた複雑怪奇な地下鉄道網はその例えに相応しい。
現在は使用されていない地下道まで含めれば、その全貌を把握する事は困難極まりない。
――そうして、人々の把握し得ぬ空白には魔が潜む。
幼き日から今日まで。約定が続く限り、枯れる事無き薔薇を胸元に。
そうして両手に恭しく抱え持つのは、かの存在へ捧げられる、定命の薔薇の花束だ。師の下を訪れる際には、必ず深紅の薔薇を携えていく。それがペチュニア・エバンズが彼女と過ごす日々の中で定めた、第一の規則だった。
バッキンガム宮殿からもっとも近い国立公園、セント・ジェームズ・パーク。
そこから限られた存在だけが知る通路を歩き、地下深くへ。光のほとんど無いような道であろうとも、飽きるほどに通い慣れているペチュニアの足取りに迷いは無い。
バッキンガム宮殿下に位置する空間。
そこに、魔法使い達ですら知り得ぬイギリスの深淵。ロンドンに張り巡らされる蜘蛛の巣の主人にして、ヒトならざる者達さえ畏怖する神。ペチュニアの師、は住んでいる。
「やあ、我が弟子。少し早いけれど、晩餐を始めてしまおうかと考えていた所だ」
豪奢極まりない食堂で、多足の侍従達を従えた女が笑う。
雪のように白い肌、長く艶やかな黒檀の髪。薔薇より赤く魅惑的な瞳。
この世の誰よりも美しく輝かしい。それでいて吐き気のするほど邪悪な、相反する印象を見る者に与える女。
侍従に薔薇を預け、ペチュニアは深々と頭を下げる。
「我が師におかれましてはご機嫌麗しく。本日はお招き頂き、誠にありがとうございます」
「ぅふふ。構わないさ、君と私の仲だもの。さ、立ち話も何だ。かけたまえ」
「はい、先生」
頷き、定位置となっている席に腰掛ける。
今日は特別な晩餐だ。師は待ちかねているだろうと予想し、早めに出てきたのは正解だったようだ。
ペチュニアは、無礼にならない程度に客人達の様子を伺う。
一人は人間の男性だ。黒い髪に、師ほどではないが整った顔付き。
意識が朦朧としているのだろう。ぐったりと椅子に身体をもたれかけさせており、顔色は蒼白になっている。
もう一人は、背の高い椅子に腰掛けたしもべ妖精だ。
だぶついた皮膚、肉付きのいい大きな豚鼻。コウモリのような大耳から生えた白髪は綿毛のようにふわふわしているが、てっぺんだけはつるりと禿げ上がっている。深緑を基調にしたぴかぴかのドレスを身に纏った妖精は緊張からか、椅子の上でひたすらに身を小さくして震えている。それでも、人間の男性の事が気になるらしい。大きな灰色の瞳を潤ませ、心配そうに唇を噛み締めながら何度となく男性の様子を窺っている。
ペチュニアの視線を読み取って、が「ああ」と頷く。
「今後を世話してやらねばならないからね。同席させてあげるのが親切というものだろう?」
「……捨て置いても良かったように思いますが。
しもべ妖精はまだしも、魔法族に先生の慈悲は過ぎたものでしょう」
「おやおやチュニー、魔法族だからって皆が皆分からず屋ではないさ。何より、君が拾ってあげた命じゃあないか。そんなにつれなくするものではないよ」
「……それは、あくまでも先生からの仕事ついでです。御夫君との件もあるのですから、あまりかの大帝を刺激しない方がよろしいのではありませんか?」
「ぅふふ、ぅふふふふふっ! 嫌だねチュニー、この子ったら! もう御夫君だなんて気が早いったら! それはまあね? そうなる予定ではあるけれどねっ?」
ペチュニアの言葉に、がぱっと頬を染めて身悶える。
その姿は初々しい乙女のように可憐でありながら、娼婦のように艶めかしい。
ペチュニアは慎み深く目を伏せた。師の背後に伸びる巨大な蜘蛛の影を、決して視界に入れないように。
「――ふう、いけないいけない。エキサイトしすぎたね。ああ、心配してくれてありがとうね? チュニー。でも大丈夫さ。かの大帝は、魔法族を放置して久しい。ナイアおじさまも同じようなものだから、何も案じる事は無いよ」
「……はい。先生がそう仰るのなら」
今にも気絶しそうなしもべ妖精を一瞥して、ペチュニアは淡々と頷く。
客人達が口を開くことはない。けれど師弟はそれをさして気にする様子も見せず、晩餐は粛々と進んでいく。
「彼等についてだけれどね。しばらくは安全なところに身を潜めてもらわないといけないだろう? しもべ妖精繋がりで、シュブ=二グラスおばさまのところはどうかと考えているのだけれど」
「先生。崇拝する神の世話になる、というのはしもべ妖精にとって酷な話かと。何十年と潜伏させる訳でもありませんし、ダンウィッチ辺りか、ミスカトニック大学へでも放り込むのが良いのではありませんか?」
「けれどチュニー、彼、生粋の魔法族じゃないか。人間社会に溶け込めるか怪しいし……そうだ。クン・ヤンに預けるのはどうかな」
「クン・ヤン、ですか。失礼ながら、あそこは先生の口利きがあっても出られないのでは?」
「うん? そうだったかな」
「はい、先生。私の記憶する限り、彼等はやって来た地上の者を地上へ帰す事はありません。……あそこに預けるくらいなら、まだインスマスの方が望みはあるかと」
「ええ、クトゥルフの眷属連中よりまずいのかい? それはちょっと可哀想か……ううん、なかなか難しいね。それで、君達はどちらが良いかな?」
食事の手を止め、小首を傾げてが問う。
自分達に話しかけられている、という現実に、しもべ妖精の呼吸が止まった。
男性の方は、意識が朦朧としているのもあって、の言葉を飲み込めているかも怪しい。
「ミスタ・ブラック。ミス・クリーチャー。先生は潜伏するならマグルの人間社会と神々の膝元どちらが良いか、希望を聞き入れて下さるそうです」
目を極限まで見開いたしもべ妖精が、口をぱくぱくさせながら縋るように男性を見る。
男性は、擦れた声で「まぐる……?」と呟いた。がころころと笑う。
「おやおや、マグル社会がいいとは純血の魔法族にしてはチャレンジャーな子だ! では、そうだね。そのチャレンジ精神を買って、ミスカトニックにやるとしよう。チュニー、色々困るだろうから助けておやり」
「はい、先生」
ペチュニアは頷いた。男性――レギュラス・ブラックがおそらくは朦朧とした意識の中、知っている単語を繰り返しただけだろうと予想はついたが、それについては言及しない。
「ミス・クリーチャーはミスタ・ブラックと一緒でよろしいですか?」
「……! ……! ……!!」
クリーチャーは必死の形相で、何度も何度も頷いた。その様子に、の笑みが深くなる。
微笑ましい、と言いたげなやさしい表情は、それこそ聖母の如くに慈悲深い。
彼女は“愛”が大好きなのだ。そして、その種類は問わない。
「チュニーは本当に良い働きをしたね。それでこそ我が弟子だ」
「ありがとうございます、先生」
話が丁度良く途切れるタイミングを伺っていたのだろう。
多足の侍従が、今日の晩餐におけるメイン・ディッシュをの前へと饗する。
あたかもスープ皿か何かのように置かれたのは、水盆だった。ロンドンから容易には動けないの為、ペチュニアが回収してきた一品。今日という日の晩餐が“特別”であるその理由。エメラルド色の液体を上品に口へと運びながら、がうっとりと目を細める。
「うん、良い毒。調合した者を褒めてやりたいところだが」
「ミスタ・ヴォルデモートが手ずから調合なさったのではありませんか」
「なるほど彼の手料理か! うんうん、料理の隠し味は愛情と言うからね!」
やがて水盆が空になり、底にロケットが現れた。
の愛する男が、分割した己の魂の一部を封じた魔法道具。幾多の魔法防御のかけられているはずのそれを、のスプーンがゼリーのように容易く抉る。悲鳴がロケットから響く。それは地獄の底から聞こえてくるような、ひどく寒々しい悲鳴だった。は笑っている。笑いながら、スプーンを口に運ぶ。
丹念に、じっくりと味わいながら咀嚼し、また一口。
元々小さなロケットだ。数口とせず、ロケットはの胃の腑へと収まった。
「……ぅふ。素晴らしい。本当に、素晴らしい味だった。彼の全てを手にする蜜月が、まったくもって待ち遠しい……。チュニー。今後とも、君には期待しているよ」
「はい、先生」
愛しげに己の腹を撫でる師に、ペチュニアは顔色一つ変えずに頷いた。
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