目的地は、ハリーにとっては地元と呼べる場所にあった。
ハグリッドが立ち止る。
「ここだ。『漏れ鍋』――有名なところだ」
ちっぽけな薄汚れたパブだった。ハグリッドに言われなかったら、きっと見落としてしまっただろう。
実際、ハリーは何度かパブの隣の本屋を利用した事があるけれど、パブの存在には一度だって気付いた試しがなかった。足早に道を歩いていく人たちも、「漏れ鍋」にはまったく目もくれない。――どうして気付かなかったんだろう、とハリーは思ったが、そう口にする前にハグリッドがハリーとおばさんを中へと促した。
有名なところにしては、暗くてみすぼらしい。隅の方におばあさんが二、三人腰掛けて小さなグラスでシェリー酒を飲んでいた。一人は長いパイプをくゆらしている。小柄な、シルクハットをかぶった男がバーテンのじいさんと話している。じいさんはハゲていて、歯の抜けたクルミのような顔をしている。三人が店に入ると、低いガヤガヤ声が止まった。みんなハグリッドを知っているようだった。手を振ったり、笑いかけたりしている。バーテンはグラスに手を伸ばし、「大将、いつものやつかい?」と聞いた。
「トム、だめなんだ。ホグワーツの仕事でね」
そう言ってハグリッドが大きな手でハリーの肩をパンパン叩いたので、ハリーは膝がカクンとなった。
「なんと。こちらが……いやこの方が……」
バーテンが、目を見開いてハリーをじっと見る。「漏れ鍋」が、しんと静まり返った。
「ハリー・ポッター……何たる光栄……」
バーテンはカウンターから飛び出してかけ寄ると、涙を浮かべてハリーの手を握った。
「お帰りなさい。ポッターさん。本当にようこそお帰りで」
ハリーは何と言っていいかわからなかった。みんながこっちを見ている。パイプのおばあさんは火が消えているのにも気づかず、ふかし続けている。ハグリッドは誇らしげにニッコリしている。
やがてあちらこちらで椅子を動かす音がして、パブにいた全員がハリーに握手を求めてきた。
そこからは怒涛のようだった。誰もかれもが興奮しながらハリーに会えたことを喜んだ。何度も握手を求めた人もいたし、中には以前にお店で一度、お辞儀していた人もいた。ホグワーツの先生だという人もいたが、なんだかやけに神経質そうで、しかもひどく脅えた様子だったので、ハリーはちょっとだけホグワーツでの授業が不安になった。
十分ほどかかって、ハリーはようやくみんなから離れることができた。ガヤガヤ大騒ぎの中で、ハグリッドの声がやっとみんなの耳に届いた。
「もう行かんと……買い物がごまんとあるぞ。ハリー、おいで」
ハグリッドはパブを通り抜け、壁に囲まれた小さな中庭にハリーを連れ出した。ゴミ箱と雑草が二、三本生えているだけの庭だ。いつの間にか先に来ていたおばさんが、ハグリッドを一瞥する。ハグリッドは気付かずに、ハリーに向かってうれしそうに笑いかけた。
「ほら言ったとおりだろ? おまえさんは有名だって。クィレル先生まで、おまえにあった時は震えてたじゃないか……もっとも、あの人はいっつも震えてるがな」
「へえ、そうなの」
ハリーはおばさんの方をちらちらと気にしながら生返事をした。
きっと待たされただろうにも関わらず、おばさんは一瞥したあとわずかに目を伏せただけで、後はいつも通りの物憂げな顔をしていた。
ハリーはなんとなく、胸の中がもやもやした。ハグリッドはといえば、ゴミ箱の上の壁のレンガを数えている。
「三つ上がって……横に二つ……」
ブツブツ言っている。
「よしと。ハリー、エバンズさんや。ちっとばかし下がってろよ」
ハグリッドは傘の先で壁を三度叩いた。すると叩いたレンガが震え、次にクネクネと揺れた。そして真ん中に小さな穴が現れたかと思ったらそれはどんどん広がり、次の瞬間、目の前に、ハグリッドでさえ十分に通れるほどのアーチ型の入口ができた。その向こうには石畳の通りが曲がりくねって先が見えなくなるまで続いていた。
「ダイアゴン横丁にようこそ」
ハリーが驚いているのを見て、ハグリッドがニコーッと笑った。三人はアーチをくぐり抜けた。ハリーが急いで振り返った時には、アーチは見るみる縮んで、固いレンガ壁に戻るところだった。
何もかもが珍しくて、ハリーは四方八方キョロキョロしながら横丁を歩いた。店の外に積み上げられた大鍋、薄暗い店から聞こえるホーホーという鳴き声、ショーウインドウに飾られた箒、マントの店、望遠鏡の店、見たこともない不思議な銀の道具を売っている店もある。今にも崩れてきそうな呪文の本の山、羽ペンや羊皮紙、薬ビン、月球儀……。
ハグリッドとおばさんが、何か話し合っているのも耳に入らなかった。最初の目的地であるグリンゴッツ銀行についても、ハリーはずっとキョロキョロしっぱなしだった。
「おはよう。ハリー・ポッターさんの金庫から金を取りに来たんだが」
「鍵はお持ちでいらっしゃいますか?」
「どっかにあるはずだが」
ハグリッドはポケットをひっくり返し、中身をカウンターに出しはじめた。
ハリーは左側にいる小鬼とおばさんが、通貨を魔法界のものに両替しているのを眺めていたが、ハグリッドをまじまじと見て首を傾げた。
「僕の金庫があるの?」
「あるに決まっとるだろう。おまえの父さん母さんが、なんにも残していかなかったと思うのか? ……ああ、あった」
ハグリッドはやっと出てきた小さな黄金の鍵をつまみ上げた。
小鬼は、慎重に鍵を調べてから、「承知いたしました」と言った。それを尻目に、ハリーは両替を待っているおばさんに駆け寄って告げる。
「あの、あのねおばさん。僕、父さんと母さんが残してくれたお金があるんだって。だからね、その、今までの僕の生活費とか、これからの学費とか……」
「ハリー」
頬を真っ赤にして言い募るハリーを一言で黙らせ、おばさんは物憂げな顔のままで告げる。
「子供がそんな心配をしなくていいの。おまえ一人を養う程度の稼ぎはあるから」
「でも……」
「一先ず、ミスタ・ハグリッドと金庫の中を確認していらっしゃい。両親の遺産をどう使っていくかは、おまえに一任します。よく考えて使うように」
話を終えて、出したものを全部ポケットに詰め込み終えたハグリッドが、不思議そうに聞いた。
「どうしたんだハリー? 迷子みたいな顔になっとるぞ」
金庫への道行きは、一言でいうと安全ベルトの無いジェットコースターだった。
ハリーは両親の遺産だという、山と積まれた金貨や銀貨、銅貨の前でしばらく難しい顔で悩んだ末、ポケットに何枚かの銅貨と銀貨を収めた。校長からの頼まれ物だという、ハグリッド曰くの極秘の物は薄汚れた小さな包みで、ハリーは中身が知りたくてたまらなかったが懸命にも口をつぐんだ。
激しいトロッコ・コースターに、グリンゴッツを出る頃には、ハグリッドの顔はすっかり青くなっていた。
「制服を買った方がいいな。……だがすまん、『漏れ鍋』でちょっとだけ元気薬をひっかけてきてもいいかな? グリンゴッツのトロッコにはまいった」
ハグリッドといったんそこで別れ、ハリーはおばさんと一緒にマダム・マルキンの洋装店へと入っていった。
マダム・マルキンは、藤色ずくめの服を着た、愛想のよい、ずんぐりした魔女だった。
「まぁ、ようこそ奥様。坊ちゃんはホグワーツでいらっしゃいますの?」
「ええ。制服を一揃いお願いしたいのだけれど」
「お任せくださいな、全部ここで揃いますよ……もう一人お若い方が丈を合わせているところよ」
そのまま、おばさんは安全手袋はドラゴンの革以外でも良いのか、別の材質を使用する事によるメリットとデメリットは何かなど、マダム・マルキンに細々とした質問を浴びせ始めた。
ハリーは他の魔女に促され、店の奥で制服の採寸をすることになった。先客の、たぶん同年代だろう青白い、あごのとがった男の子の隣の踏み台に立つ。
「やあ、君もホグワーツかい?」
「うん」
「僕の父は隣で教科書を買ってるし、母はどこかその先で杖を見てる。これから、二人を引っぱって競技用の箒を見に行くんだ。一年生が自分の箒を持っちゃいけないなんて、理由がわからないね。父を脅して一本買わせて、こっそり持ち込んでやる」
男の子は気だるそうな、気取った話し方で言う。
「君は自分の箒を持ってるのかい?」
「ううん」
「クィディッチはやるの?」
「ううん」
「僕はやるよ――父は僕が寮の代表選手に選ばれなかったらそれこそ犯罪だって言うんだ。僕もそう思うね。君はどの寮に入るかもう知ってるの?」
「ううん」
「まあ、ほんとのところは、行ってみないとわからないけど。そうだろう? だけど僕はスリザリンに決まってるよ。僕の家族はみんなそうだったんだから……ハッフルパフなんかに入れられてみろよ。僕なら退学するな。そうだろう?」
「ウーン」
やけに自信たっぷりな子だなぁ、とハリーは感心しながら思った。たぶん、魔法使いの親がいるのだろう。
出される話題はことごとく、ハリーにとって理解できない内容ばかりだった。せっかくあれこれ話題を振ってくれているのに、話をうまく弾ませられない自分に、ハリーは少し情けない気分になる。
「ほら、あの男を見てごらん!」
急に男の子は窓の方を顎でしゃくった。ハグリッドが店の外に立っていた。
ハリーの方を見てニッコリしながら、器用に手に持った三本の大きなアイスクリームを指さし、これがあるから店の中には入れないよ、という手振りをしていた。
「あれ、ハグリッドだよ」
ようやく自分にも分かる話になった、とハリーはうれしくなった。
「ホグワーツで働いてるんだ」
「ああ、聞いたことがある。一種の召使いだろ?」
「森の番人だよ」
男の子の口調は、あからさまにハグリッドを見下すものだった。
ハリーは思わずむっとした。
「そう、それだ。言うなれば野蛮人だって聞いたよ……学校の領地内のほったて小屋に住んでいて、しょっちゅう酔っぱらって、魔法を使おうとして、自分のベッドに火をつけるんだそうだ」
「君が見たわけじゃないだろ。彼、いい人だと思うよ」
「へえ?」
語気を強めて言い切ると、男の子は馬鹿にしたようにせせら笑った。
「どうして君と一緒なの? 君、あそこにいる君の母親と一緒に来たんだろう?」
「あの人は僕のおばさんだよ。おばさんは魔女じゃないから、ハグリッドに案内してもらってるんだ」
「魔女じゃない、だって? じゃあ君、マグルかい!」
男の子はハリーとおばさんを交互に見て、大げさなくらいに嫌そうな顔をした。
「君も、手紙をもらうまでホグワーツのことを聞いたこともなかったってやつの一人かい。これだから『穢れた血』は困る! 君みたいな連中さえ入学できるなんて、考えるだけでおぞましいね。『穢れた血』は『穢れた血』同士、マグルの世界で育つのがお似合いだと思うけど」
ネズミを嬲る猫みたいな目をして、男の子が嘲るように言う。
この子、嫌いだ。ハリーは眉間にしわを寄せた。『穢れた血』が何を示すかわからなくても、侮辱なのだろうということくらいは分かる。何か言い返してやろうと口を開くが、その前に採寸が終わったらしかった。
「さあ、これで全部ですわ。――奥様! 坊ちゃんの採寸が終わりましてよ」
「ありがとうございます。ではマダム、手袋はこちらの材質のものでお願いします」
「ええ、ええ。お任せくださいな」
ハリーは少しだけ迷ってから、ポンと踏台を飛び降りた。
腹立たしい気持ちも、やり込めてやりたい気持ちもあったが、それ以上に、この子の顔を見ていたくなかったのだ。
にやにやと嫌な笑い方をしながら、男の子がわざとらしい口調で付け足す。
「そうそう。ホグワーツで会っても、声をかけないでくれよ。君みたいなのと知り合いだなんて、恥でしかないからねぇ」
「奇遇だね。僕も同じ意見だよ」
ハリーは冷たく吐き捨てた。
おばさんと店を出て、ハグリッドが持ってきたアイスクリームを食べながら(ナッツ入りのチョコレートとラズベリーのアイスだ)、ハリーは黙りこくっていた。ハグリッドが「どうした?」と聞いたが、ハリーは「なんでもないよ」と嘘をついた。おばさんは何も言わずに、自分の分のアイスクリーム(チョコチップ入りのバニラとミントのアイスだった)を分けてくれた。ハリーは少しだけ元気が出た。
買い物は、なかなか順調には進まなかった。面白いものがたくさんあって、ついついあっちへフラフラ、こっちへフラフラとしてしまうのだ。特に「フロリーシュ・アンド・ブロッツ書店」は難敵だった。ハリーは「呪いのかけ方、解き方」という最新の復讐方法を書き連ねた本に夢中だったし、おばさんはおばさんで、「ルーン文字の変遷と歴史」や「天体の運行――星の輝きと軌道、回転の関連性」といった本を前に、難しい顔で立ち往生していた。ハグリッドは二人のことを、引きずるようにして連れ出さなければならなかった。
「僕、ホグワーツに行った時のために呪いのかけ方を調べてたんだよ」
「それが悪いちゅうわけではないが、おまえさんにはまだどれも無理だ。そのレベルになるには、もっとたーくさん勉強せんとな。――アー、それとだな、エバンズさんや。頼むから、本を読むのは後にしてくれんか」
「おばさん、ハグリッドが困ってるよ」
「……ん、ああ……失礼、ミスタ」
ハリーに促され、引きずられながら本を読んでいたおばさんは、名残惜しそうに本をしまった。
ボサボサ眉毛を困ったように寄せて、ハグリッドがハリーにこっそりと耳打ちする。
「ハリーよ、おまえのおばさん、いつもこうなんか?」
「気になってることがあると、大体こんな感じだよ」
ハリーは肩をすくめた。
大なべや秤、望遠鏡といったものを買った後、ハグリッドはもう一度ハリーのリストを調べた。
「あとは杖だけだな……おお、そうだ、まだ誕生祝いを買ってやってなかったな」
ハリーは顔が赤くなるのを感じた。
「そんなことしなくていいのに……」
「しなくていいのはわかってるよ。そうだ。動物をやろう。ヒキガエルはだめだ。だいぶ前から流行遅れになっちょる。笑われっちまうからな……猫、おれは猫は好かん。くしゃみが出るんでな。ふくろうを買ってやろう。子供はみんなふくろうを欲しがるもんだ。なんちゅったって役に立つ。郵便とかを運んでくれるし」
「動物……」
ハリーは真剣な顔でおばさんを見上げる。
おばさんも同じことに思い至ったらしい、思案気な顔をしていた。
「おばさん、うちでふくろうって飼えるっけ」
「どうだったかしら。ペットの姿を見た記憶はないけれど……大家さんに確認してみないと、なんとも言えないわね」
「そっか……」
しょんぼりと肩を落とすハリーに、おばさんは「飼えなかったとしても」と言葉を続ける。
「生命科学部の教授に話をつけておくわ。場所を借りるくらいはできるでしょう」
「本当!?」
「世話をしに通わないといけなくなるけど。それでも構わない?」
「うん! 僕、ちゃんと世話するよ!」
二十分後、三人はイーロップふくろう百貨店から出てきた。ハリーは大きな鳥籠を下げている。籠の中では、雪のように白い美しいふくろうが、羽根に頭を突っ込んでぐっすり眠っている。ハリーは頬を紅潮させて、ハグリッドに何度も何度もお礼を言った。
「礼はいらん」
ハグリッドの返事はぶっきらぼうだったが、照れ隠しなのはハリーの目にも一目瞭然だった。
「あとはオリバンダーの店だけだ……杖はここにかぎる。杖のオリバンダーだ。最高の杖を持たにゃいかん」
最後の買い物の店は狭くてみすぼらしかった。剥がれかかった金色の文字で、扉に [ オリバンダーの店――紀元前三八二年創業 高級杖メーカー ] と書いてある。埃っぽいショーウインドウには、色褪せた紫色のクッションに、杖が一本だけ置かれていた。
ハリーの杖選びは難航したが、最終的にハリーの選んだ(あるいは選ばれた)杖は、柊と不死鳥の羽根でできた、ヴォルデモートの兄弟杖だった。店主のオリバンダー老人は、ハリーを霧のような瞳でじっと見ながら言った。
「こういうことが起きるとは、不思議なものじゃ。杖は持ち主の魔法使いを選ぶ。そういうことじゃ……。ポッターさん、あなたはきっと偉大なことをなさるにちがいない……。『名前を言ってはいけないあの人』もある意味では、偉大なことをしたわけじゃ……恐ろしいことじゃったが、偉大には違いない」
ハリーは身震いした。おばさんは、ぞっとするような無表情でオリバンダー老人を見つめていた。
杖の代金に七ガリオン支払い、オリバンダー老人のお辞儀に送られて三人は店を出た。
夕暮近くの太陽が空に低くかかっていた。三人はダイアゴン横丁を元来た道へと歩き、壁を抜けて、もう人の気配のなくなった「漏れ鍋」に戻った。ハリーもおばさんも黙りこくっていた。
「何か、食べてから帰りましょうか」
途中にあったファーストフード店を見て、おばさんが平坦な声で提案した。
店は既に混み合いはじめていたので、三人はハンバーガーを買い、近くにあった公園で食事をすることにした。
ハリーはぼんやりしながら周りを眺める。既に暗くなってきているからか、公園はがらんとしていた。なぜか、すべてがちぐはぐに見える。
ハンバーガーを大きな口に放り込んで、ハグリッドがハリーに問う。
「大丈夫か? なんだかずいぶん静かだが」
大丈夫か、だって? ハリーは難しい顔をした。まるで不思議の国か、ネバーランドにでも連れて行かれたような気分だった。何と説明すればいいかわからない。ハリーは言葉を探すようにハンバーガーをかじった。
「みんなが僕のことを特別だって思ってる」
ハリーの声は、ひどく陰鬱だった。
「『漏れ鍋』のみんな、クィレル先生も、オリバンダーさんも……でも、僕、魔法のことは何も知らない。それなのに、どうして僕に偉大なことを期待できる? 有名だって言うけれど、何が僕を有名にしたかさえ覚えていないんだよ。ヴォル……あ、ごめん……僕の両親が死んだ夜だけど、僕、何が起こったのかも覚えていない」
ハグリッドが、荒っぽい手付きでハリーの頭を乱暴に撫でた。ハリーの頭がぐらぐらと揺れる。
モジャモジャのひげと眉毛の奥に、やさしい笑顔があった。
「ハリー、心配するな。すぐに様子がわかってくる。みんながホグワーツで一から始めるんだよ。大丈夫。ありのままでええ。そりゃ大変なのはわかる。おまえさんは選ばれたんだ。大変なことだ。
だがな、ホグワーツは、楽しい。俺も楽しかった。今も実は楽しい」
「いいの、かな。僕、このままで」
「ああ。なーんも、心配するこたあねえ」
ハリーは首をさすりながら聞いた。ハグリッドは力強く頷いた。
「ホグワーツ行きの切符だ」
家の前で、ハグリッドは封筒を手渡した。
「九月一日――キングズ・クロス駅発――全部切符に書いてある。そんじゃあエバンズさん、ハリーを頼みますだ」
「分かりました。ミスタ・ハグリッド、今日はありがとうございました。ホグワーツでも、ハリーをよろしくお願いします」
「勿論! じゃあなハリー、またすぐ会おう」
ハリーは、手を振って道をもどっていくハグリッドの後ろ姿を見送っていた。
その後ろ姿は、昔見た奇妙な人達――魔法使い達と同じように、瞬きをしたとたんに消えてしまった。
「ハリー。お誕生日おめでとう」
その晩、おばさんがハリーに誕生日プレゼントをくれた。
包みをあけてみる。それは小さな石のついた、奇妙な意匠の施されたペンダントだった――銀のペンダント・トップに黒い革紐が通してある。触れてみると、何故だか怖いような、それでいてひどく安心できるような、矛盾した感覚に襲われた。ハリーはおそるおそるおばさんの顔を見る。おばさんが、真剣な目をして言った。
「それはお守りだから、肌身離さず付けておきなさい。……できるわね?」
ペンダントを握りしめて、ハリーは神妙に頷いた。
■ ■ ■
出発までの一か月間は、飛ぶように過ぎ去った。
さすがに大学で魔法の本を広げるのはまずいということで、ハリーはもっぱら家で買ってきた教科書を読みふけった。教科書はとてもおもしろかった。
買ってもらったばかりのふくろうは、幸運なことに、アパルトマンの大家から飼ってもいいと許可が出た。ふくろうの名前はヘドウィグに決めた。「魔法史」で見つけた名だ。ヘドウィグは開け放した窓から自由に出入りした。一つだけヘドウィグの難点をあげるとすると、それはしょっちゅう死んだねずみをくわえてくることだった。ハリーは死んだねずみを捨ててくるよう、何度もヘドウィグに言って聞かせることになった。
当日の朝、ハリーは五時に目が覚めた。興奮と緊張で目がさえてしまったので、起き出してジーンズをはいた。魔法使いのマントを着て駅に入る気にはなれない……汽車の中で着替えよう。
必要なものが揃っているかどうか、ホグワーツの「準備するもの」リストをもう一度チェックし、ヘドウィグがちゃんと鳥籠に入っていることを確かめ、おばさんが起きてくるまでソワソワしながら待っていた。三時間後、起き出してきたおばさんと軽く朝食を済ませる。落ち着きのないハリーを、おばさんがたしなめた。
「リラックスなさい、ハリー。まだ時間はあるわ」
「でもおばさん。汽車までもう三時間だよ!」
「まだ三時間もあるのよ」
おばさんが身だしなみを整え終わり、ハリーが汽車で食べる昼食を用意した後、二人はキングズ・クロス駅に向かって出発した。
駅についたのは十時半を少し回った頃だった。ハリーは切符に書かれた文字を読み上げる。
「えーっと。九と四分の三番線から、十一時発……」
ハリーはプラットホームを見た。「9」と書いた大きな札のホームの隣には、「10」と書いた大きな札が下がっている。そして、その間には、何もない。
どういうことだろうか。ハリーは困惑もあらわにおばさんを見上げた。
「九と四分の三番線?」
「……この辺りだったはずだけど。確か、通るためにコツがあったはずなのよね」
改札口の柵に触れて、おばさんが首をひねる。
「この辺りで少し待ってましょうか。誰かしら、ホグワーツに行くために通るだろうから」
「駅員さんに聞けばわからないかな?」
「魔法使いが駅員にいるのならね」
おばさんは肩をすくめた。ハリーは通りかかった駅員を横目で確認する。ダイアゴン横丁や、今まで街中で会ったことのある魔女や魔法使いを思い返して、無いな、とハリーは確信した。
二人の待ち人達がやってきたのは、列車到着案内板の上にある大きな時計が、ホグワーツ行き列車が発車まであと十分であることを告げる頃だった。
「九と四分の三よ。ママ、あたしも行きたい……」
聞こえてきた甲高い声に、ハリーは勢いよくそちらを見た。
ふっくらとしたおばさんと小さな女の子、それに、揃いもそろって燃えるような赤毛の男の子が四人。男の子達はみんな、ハリーと同じようなトランクを押しながら歩いていた。ふくろうもいるから、きっと間違いないはずだ。
距離があるので会話はよく聞こえない。けれど、ハリーが目をこらして見ていると、一団から一番年上らしい男の子がプラットホームの「9」と「10」に向かって進んでいき、柵の前で姿を消した。ハリーは息をのんだ。いったいどうやったんだろう?
おばさんもその一団に気付いたらしかった。そちらへと歩み寄るペチュニアおばさんの後を、慌てて追う。
「すみません、マダム。少々よろしいですか」
「あら、何かしら」
声をかけられたふっくらおばさんが振り向いた。男の子達と女の子の目が、ハリーとおばさんを見る。
戸惑いがちに首を傾げて居住まいを正すふっくらおばさんに、おばさんはいつもの物憂い顔で会釈した。ハリーも軽く頭を下げる。
「この子が今年、ホグワーツに入学なのですけれど、なにぶん初めてなもので勝手が分からず。プラットホームへの行き方を伺えませんか?」
「おや、じゃあロニー坊やと同い年かい」
双子らしい、そっくりの顔をした男の子の一人が楽しそうに口笛を吹いた。
「僕らにとっては後輩だぜ、フレッド」
「だが寮決めがまだだぜ、ジョージ」
「おお神よ、願わくばこのいたいけな子羊がグリフィンドールでありますように!」
「おお神よ、せめてスリザリン以外でありますように!」
双子が大げさな身振りで手を組んで祈りのポーズをとる。ハリーは思わず噴き出した。
ふっくらおばさんが、にこにこしながら頷いた。
「まあ、そうでしたの。マグルの方には分かりづらいみたいですわね。簡単ですわ。九番と十番の間の柵に向かって、まっすぐに歩けばいいだけですもの。大切なのは立ち止ったり、ぶつかるんじゃないかって怖がったりしないこと。坊や、怖かったら少し走るといいわ」
ふっくらおばさんはそう言って、親しげにウインクしてみせた。
列車に乗れない、なんて事態にはならずに済みそうだ。ハリーはぺこりと頭を下げた。
「あの、ありがとうございます」
「私からもお礼を。感謝します、マダム」
「まあまあ、ご丁寧にどうも。さあ坊や、フレッドの前に行って」
「はい」
ハリーはカートをクルリと回して柵をにらんだ。頑丈そうだった。
ハリーは歩きはじめた。後ろでは双子のどちらかが、ふっくらおばさんに向かって抗議していた。
「僕フレッドじゃないよ、ジョージだよ」
「それはおかしいな、僕がジョージだったような気がするんだが」
「いやいやそれはおかしいぞ、僕こそがジョージだったはずだ」
「うーむ、ではあるいは本当に君がジョージだったのか?」
「ひょっとしたらひょっとすると、君がジョージであるような気も」
「二人ともいい加減になさい!」
ふっくらおばさんの叱る声。ハリーは笑いを噛み殺しながら早足になった。
九番線と十番線に向かう乗客に押されながら、ハリーはカートにしがみつくようにして突進する。柵がグングン近づいてくる。もう止められない――カートがいうことをきかない――あと三十センチ――ハリーは目を閉じた。ぶつかる――スーッ……おや、まだ走っている……ハリーは目を開けた。
紅色の蒸気機関車が、乗客でごったがえすプラットホームに停車していた。ホームの上には『ホグワーツ行特急11時発』と書いてある。振り返ると、おばさんが九と四分の三と書かれた鉄のアーチをくぐってくるところだった。機関車の煙が漂い、おしゃべりに混じってふくろうの鳴き交わす声の響く中、二人は空いているコンパートメントの席を探して歩き出す。
先頭の二、三両はもう生徒でいっぱいだった。ハリーは物珍しい気持ちで他の生徒達を横目に気にしながら、おばさんの後をついていく。人ごみを掻き分けてようやく見つけたコンパートメントは、最後尾近くの車両だった。
ヘドウィグを先に入れ、おばさんと協力して重いトランクを客室の隅におさめる。軽く息をつくハリーを見て、おばさんが聞いた。
「ハリー。ペンダントは身につけているわね?」
「うん。ちゃんと下げてるよ」
ハリーが服の下から引っ張り出してみせると、おばさんは目を細めて頷いた。
「結構。ハリー、ホグワーツが安全とはいえ、人のすることに完璧はあり得ません。常に気を張れとは言いませんが、用心深く行動なさい」
「はい、おばさん」
「私から言うことは以上よ。大いに学んでいらっしゃい」
そう言って列車の戸口の階段を下りたところで、おばさんは口ごもりながらハリーの頭を軽く撫でた。
「…………それと。充分、楽しんでおいで」
おばさんは振り返らず、やや早足気味に行ってしまった。
ハリーはぽかん、と口をあけてその後ろ姿を見送っていたが、だんだん顔が熱くなってきて、慌てて両手で頬を押さえてコンパートメントに引っ込んだ。
口元がだらしなく緩むのを抑えきれない。ホグワーツへの不安は、どこかに行ってしまったようだった。
きっと、素敵な一年になる。ハリーの心は躍っていた。
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