翌日、昼過ぎに起きたハリーはむっつりとした顔をして着替えを済ませた。
おばさんは既に出かけていた。テーブルには急な予定が入ったこと、帰りは早くても夜中になるという書置きがあった。食事をする気には到底なれない。今日はもう紅茶だけでいいやと思考を放り出して、昨日手つかずのままだった手紙をより分ける。おばさん宛に他の大学や何処かの研究所からの手紙が四通、海外からのエア・メールが二通、請求書らしい茶封筒が一通、それに……ハリー宛の手紙。
 ハリーは手紙をまじまじと見つめた。心臓がばくばくと嫌な音を立てて暴れている。これまでの人生で、ただの一度もハリーに手紙をくれた人はいない。くれるはずの人もいない。友達も親戚もいない……。
 図書館の本だって期日を守って返却するハリーは、「すぐ返本せよ」などという無礼な手紙でさえもらったことはない。それなのに手紙が来た。正真正銘ハリー宛だ。



グレーター・ロンドン  カムデン区  バーンデル通り3番地
ハリー・ポッター様



 何やら分厚い、重い、黄色みがかった羊皮紙の封筒に入っている。宛名はエメラルドのインクで書かれている。切手は貼っていない。震える手で封筒を裏返してみると、紋章入りの紫色の蝋で封印がしてあった。真ん中に大きく“H”と書かれ、その周りをライオン、鷲、穴熊、ヘビが取り囲んでいる。
 ハリーは手紙を見つめたまま、しばらく悩む。そしてやおら意を決すると、それをビリビリに破り捨てた。

 翌朝になっても、おばさんは帰っていなかった。朝の郵便を取りに行って、ハリーは顔をしかめる。昨日と同じ手紙が入っていた。ハリーは無言で、今度は躊躇なくそれを破り捨てた。おばさんは昼前に帰ってきて、朝の挨拶もそこそこに、倒れるように寝てしまった。
 ハリーは紅茶を淹れながら考える。差出人はハリーが最初の手紙を破り捨てたことを知っている。おばさんに何も伝えなかったのも知っている。盗聴か盗撮か、なんにせよ見張られていると考えた方がよさそうだった。けれど、警察や大人に頼ったらおばさんに手紙の事がばれてしまう。きっと、差出人はまた手紙を出すだろう。ハリーは考え抜いた末、郵便局に行ってその手紙は同級生の悪戯なので、またあっても届けずに処分して欲しいと頼み込んだ。郵便局の人は苦笑いして、差出人に返送しておく旨を請け負ってくれた。


 火曜日の早朝、ハリーは胸騒ぎがして目が覚めた。おばさんはぐっすりと眠っている。
 誕生日まであと一週間だとカレンダーを見ながら考えて、ハリーはどんよりとした気持ちになった。これほど誕生日が来なければいいのに、と願うのは初めてのことだった。
 朝の郵便を取りに行こうとして、ハリーは玄関先で凍りついた。緑色で宛名が書かれた手紙が三通も、ドアの下から押し込まれていた。ハリーは半泣きになりながら手紙を念入りに破り捨てた。相当ひどい顔をしていたのか、起きてきたおばさんは挨拶よりも先に「悪い夢でも見たの?」と普段より柔らかい声音でハリーを問いただした。ハリーはつま先を睨んで、終始無言でうなだれていた。


 水曜日。ハリーと手紙の攻防戦はとうとう終わりを告げた。青白い顔で玄関に陣取っていたハリーをせせら笑うように、ドアだけでなく部屋の窓からも手紙がねじ込まれていたのだ。普段大学に泊まり込む方が多いおばさんは、こんな時に限って珍しく家で仕事をしていた。手紙を片手にハリーを呼びにやってきたおばさんは、玄関に散らばる手紙の残骸と、自分の持っている手紙を信じられないような顔をして凝視するハリーに不思議そうに首を傾げ、ややあって、合点がいったように手招きした。

「ハリー、いらっしゃい。これは悪戯の手紙などではないから」

 死刑間近の罪人さながらの顔色をしたハリーに、おばさんは眉をひそめて蜂蜜たっぷりのホット・ミルクを淹れてくれた。微動だにしないハリーの前で封を切り、ざっと目を通す。一通り読み終わると、おばさんはコーヒーを飲みながらハリーの方へと手紙を寄越した。

「ミスタ・ダンブルドアは、我が家に成人した魔法使いも魔女もいないのはご存じだから……そうね。おまえの誕生日くらいには、誰かしら案内役に寄越すでしょう」
「 ま ほ う ? 」

 おばさんの口から飛び出た単語に、ハリーは思わず目を剥いた。慌てて手紙を読む。



ホグワーツ魔法魔術学校
校長 アルバス・ダンブルドア
マーリン勲章、勲一等、大魔法使い、魔法戦士隊長、最上級魔法使い、国際魔法使い連盟会員

親愛なるポッター殿
このたびホグワーツ魔法学校魔術学校にめでたく入学が許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。
教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。
新学期は9月1日に始まります。7月31日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。  敬具

副校長ミネルバ・マクゴナガル



「悪戯じゃなくってなんだっていうの?」

 手紙が心配していたような内容でないことに安心する気持ちはあったが、それより意味が分からない、という気持ちの方が強かった。しかも、おばさんはこれが悪戯じゃない、と言った。ここ数日、ハリーをひどく悩ませた手紙が来るのを知っていたような口ぶりだった。

「僕、ホグワーツなんてバカバカしいところ行かないよ! 地元の学校に行くんだもん。だよね? おばさん!」
「……落ち着きなさい、ハリー」

 身を乗り出して詰め寄るハリーに、おばさんはため息と共に、椅子に座りなおすように促した。
 おばさんの目が、カレンダーをちらりと確認する。能面のように表情を消したおばさんの眼光に気圧され、ハリーはしぶしぶ座り直した。

「本当は、誕生日になったら話そうと思ってたんだけどね。
 ――ハリー。これからするのはとても大事な話だから、質問は一通り聞き終わった後になさい」
「………はい、おばさん」

 神妙にハリーが頷くと、おばさんは口をキュッと結んだ。ひどく平坦な声音で話し出す。

「順を追って話しましょう。ハリー、おまえの両親は自動車事故で死んだと話してきたけれど、実際にはある人物に殺されたの」

 青白かったハリーの顔から、さらに血の気が失せた。
 ハリーの後ろにある壁を睨みながら、おばさんは温度の無い口調で続ける。

「その人物の名はヴォルデモート。
 おまえが生まれた頃、おまえの両親は仲間と一緒に、この男と命懸けの戦いをしていたわ。
 多くの人間が、ヴォルデモートやその仲間の手にかかって死んだ。おまえの両親も、同じようにして死んだそうよ」

 おばさんの言葉が、ハリーにはまるで遠くから響いてくるように聞こえていた。
 目も眩むような緑の閃光が見える。これまでに思い出した時よりずっと鮮烈に……そして、これまで一度も思い出さなかったことまで、初めて思い出した。冷たい、残忍な高笑いを。

「まだほんの赤ん坊だったおまえが、どうして生き残ったのかは分からない。
 おまえの額の傷跡はね、ハリー。ヴォルデモートが、おまえを殺し損ねてついた傷なの。
 ……おまえを殺し損ね、おまえの両親を殺したその夜、同じようにヴォルデモートは姿を消したわ。今に至るまで、その生死は分かっていない。おまえを殺し損ねた時にあった“何か”がきっかけで力を弱め、何処かに潜んで力を蓄えている……これが、一番有力な説よ」

 おばさんの口調は、研究内容を語る時のように淡々としたものだった。
 そっとおばさんを伺い見て、ハリーはすぐに後悔した。おばさんのグレイの瞳が、そこにヴォルデモートがいるかのような昏い激情を湛えていたからだ。
 視線だけで人を殺せそうなその眼差しに、ハリーは慌ててマグカップへ視線を落とす。

「ハリー。今までおまえの周囲では、理屈の説明がつかないような、不思議なことが起こったでしょう? 死んだおまえの母親もそうだった。ホグワーツというのはね、その不思議な力……魔法の制御を学ぶために入る学校の事よ」

 ハリーの頭の中で、まるで火花のように疑問がはじけた。ぐるぐると、とりとめもなく駆け巡って吐き気がする。
 何から先に聞いていいのかわからない。しばらくしてやっと、つっかえながら聞いた。

「知ってたの? おばさん、僕があの、ま、魔法使いだってこと、知ってたの?」
「知ってたわ」

 おばさんの口調が、ほんの少し寂しげなものになる。

「妹も……おまえの母親も、ちょうどこれと同じような手紙が来てホグワーツへ行った。休みで帰ってくる時には、ポケットはカエルの卵でいっぱいだし、コップをねずみに変えてしまうし。父も母も、やれリリー、それリリーって、我が家に魔女がいるのが自慢だったわ。おまえの父親との出会いもホグワーツよ。学校で出会って結婚して、それで生まれたおまえだもの。知ってましたとも。おまえも妹と同じように……魔法使いなんだろうってね」

 魔法使いだって? この僕が? そんなことがありえるだろうか。
 確かによくよく考えてみれば、おかしな出来事は、ハリーが困った時、腹を立てた時に起こった……けれどハリーは喜ぶ気にも、誇る気にもなれなかった。「僕、」マグカップを見つめながら、ハリーはか細い声で呟く。

「僕……普通の学校がいい。普通の学校に行って、それで…………」

 ハリーはぎゅう、とマグカップを握りしめた。

「……お、おばさんみたいな学者になりたい」
――ホグワーツに行きなさい、ハリー」

 おばさんはぴしゃりと告げる。

「ホグワーツにはミスタ・ダンブルドアがいらっしゃる。ヴォルデモートが唯一恐れた魔法使いが。
 奴がいつ舞い戻るかも知れない以上、おまえは魔法を学び、対抗する手段を身に付けなければいけません」

 ヴォルデモート。実感のない、けれども父と母を殺したという魔法使いの名を口の中で唱える。
 額の傷をさすりながら、ハリーは暗澹とした気持ちになった。両親から命を奪って、若かったおばさんの未来を奪って、今この瞬間、ハリーのささやかな将来の夢すら打ち砕いた奴。どこかでのたれ死んでいればいいのに。沈んだ目をするハリーに、そこで初めて、おばさんの口調が柔らかなものになる。

「……おまえが、身を守れるようになって。それでもまだ、学者を志すのなら。その時は、私が責任を持って、おまえに勉強を教えましょう」

 反射的に顔を上げる。
 向かい合ったおばさんの目は、もう、あの昏い激情を湛えてはいなかった。困ったように眉根を寄せて、けれど、ハリーを安心させるような暖かな目で、はにかむように、不器用な微笑みを浮かべていた。ハリーの身体から力が抜ける。全身に血の気が戻ってきたような心地がして、ハリーはようやく、顔を綻ばせて頷いた。

――はい、おばさん」


 ■  ■  ■


 数日後の誕生日。夜も明けないうちからハリーを訪ねてきたのは、見上げるような大男だった。
 ボウボウと長い髪、モジャモジャの荒々しいひげで顔はほとんど隠れていたが、まっ黒な黄金虫のような目がキラキラ輝いているのが見えた。今は玄関のドアを強引にあけたついでに吹っ飛ばした件で、不機嫌そうな顔をしたおばさんによってドアの修繕を強いられている――魔法なしで。

「魔法ならこんくらい、チョチョっと直せるっちゅうに……」
「魔法で直せるなら幾らでも壊して良い、と? ミスタ。私はあなたに、ドアにノッカーがついていることの意味と、子供でも理解しているような社会的ルールを説かねばならないのかしら」

 おばさんの声音は凍えるようだった。
 何事かと音を聞きつけた他の部屋の住人達が見守る中、駆け付けた大家さんにおばさん監督の下、大きな身体を一杯縮めて謝罪させられる大男の姿はなんとも哀愁漂うものだった。
 少しだけ憐れに思ったハリーが紅茶と茶菓をそっと出しに行くと、「オーッ、ハリーだ!」と歓声を上げ、「優しいところが母さんそっくりだなぁ。目も母さんの目だ。でも他は父さんそっくりだな!」とハリーの腕をブンブン振って握手して、誕生日のお祝いにと大きなチョコレート・ケーキをプレゼントしてくれた。
 ありがとうと言うつもりだったのに、大男の後ろで更に悲惨さを増しているドアの姿に、言葉が途中で迷子になった。おばさんはやっぱり不機嫌そうな顔をしていた。直しているんじゃなかったんだろうか……。
 結局四時間以上の格闘の後、ついに泣きが入った大男の懇願により、ペチュニアおばさんは冷徹な声で二度目は無い旨を宣告し、魔法使用を許可した。大男は嬉しそうに、魔法でドアを直していた。瞬く間に直ったドアに、ハリーは目をぱちくりさせていた。
 あまりにも大男は大きかったので、おばさんは部屋に招き入れて物的被害を出されることを懸念したらしい。ドアが直ってすぐ、ハリーは入学に必要なものを買いにつれて行かれることになった。
 ドアの修理から解放されたのがよっぽど嬉しかったのか、大男はにこにこしながら自己紹介する。

「おれはルビウス・ハグリッド。ホグワーツの鍵と領地を守る番人だ」
「あの。知ってるみたいだけど……僕はハリー・ポッターです」
「……改めまして、このたびの道案内にお礼申し上げます。ミスタ・ハグリッド。ハリーの叔母のペチュニア・エバンズです」

 ハグリッドは、ハリーがこれまで出会ってきた誰よりも感情表現が豊かだった。
 毛むくじゃらで顔がほとんど見えないのに、何を考えているのかがとても分かりやすい。

「ハリー、おまえさんはホグワーツですごく有名になるぞ。なにせ、あのジェームズとリリーの息子だ。
 おまえの父さん、母さんもな、おれの知っとる中で一番すぐれた魔法使いと魔女だったよ。在学中は、二人ともホグワーツの首席だった! 世界一の魔法使いと魔女の名門校に入るんだ。七年たてば、見違えるようになろう。これまでと違って、同じ仲間の子供たちと共に過ごすんだ。
 しかも、ホグワーツ歴代の校長の中で最も偉大なアルバス・ダンブルドア校長の下でな」

 ハグリッドに純粋な目で見つめられ、ハリーは頬を染めてうつむく。

「僕……そんな、すごい人じゃ……」
「なあにを言っとるか! おまえさんはまだほんの赤ん坊だったころ、『例のあの人』を降参させたじゃあないか! おまえさんが有名にならんで、他に誰がなるっちゅうんだ、ええ?」
「『例のあの人』?」
「なんだ。おばさんから聞いとらんのか?」
「おばさんはヴォルデモートって人のせいだって……」
「その名前は口にせんでくれ!」

 ハグリッドは身震いした。

「みんなできれば口にしたくも、聞きたくもないもんだ。ホグワーツでも、あんまり口にするもんじゃないぞ、ハリーや」

 ハリーは神妙に頷いた。
 目的地への道すがら、ハグリッドはたくさんの事を話してくれた。
 魔法界の通貨、最初に向かうグリンゴッツ銀行について、ふくろうがどれだけ一般的な郵便手段か、魔法省のこと、銀行で働く小鬼の話、地下で金庫番をしているドラゴン……何もかも新鮮で、まるでおとぎ話の世界のことのようだった。いつしか、ハリーは夢中になってハグリッドの話を聞いていた。故障して動かないエスカレーターを上りながら、ハグリッドは大声で文句を言う。

「マグルの連中は魔法なしでよくやっていけるもんだ」
「マグ――何ていったの?」
「マグルだよ。おまえのおばさんのような魔法族ではない者をわしらはそう呼ぶ」

 ハリーはちらり、と後ろを歩くおばさんの顔を盗み見た。
 挨拶以降、一切口を開く様子を見せないペチュニアおばさんは、能面のような無表情をしている。
 ハリーは心の中で、おばさんの前でその言葉を使わないようにすることを決めた。




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