バーンデル通りのアパルトマンの一室で、ハリー・ポッターは目を覚ました。
 慣れ親しんだ天井のシミを眺めながら、ハリーは今まで見ていた夢をぼんやりしながら反芻する。いい夢だった。
 夢特有の曖昧さの中に内容は置き去りにされてしまったけれど、空飛ぶオートバイだけは、いやにはっきりと印象に残っていた。前にも同じ夢を見たような、そんな不思議な心地に浸りながらベッドを抜け出す。

 狭いアパルトマンだ。だから、唯一の同居人であるおばさんが戻ってきていない事は確認するまでもなく明白だった。大方、大学の教授室で朝を迎えたのだろう。おばさんの生活が不規則なのも、仕事にかまけて生活をおろそかにするのも今に始まったことではない。欠伸を噛み殺しながら、適当に服を引っ張り出して着替える。
 服は大概おばさんが買ってくれたものか、おばさんの知り合いの人達のお古だ。おばさんも彼らも、年の割に小柄でやせ気味のハリーが今すぐにでもにょきにょき大きくなるとでも思っているのか、服の大半はハリーの三倍か、酷いときには五倍は大きい。着るものがそんなだから、ハリーはますますやせて小さく見えた。
 ハリーは、膝小僧が目立つような細い脚で、細面の顔に真っ黒な髪、明るい緑色の目、丸いメガネをかけていた。
 自分の顔でたった一つ気に入っていたのは額にうっすらと見える稲妻形の傷だ。物心ついた時から傷があった。
 ハリーの記憶では、ペチュニアおばさんにまっさきに聞いた質問は「どうして傷があるの」だった。

「おまえの両親が、自動車事故で死んだ時の傷だよ」

 これがおばさんの答えだった。
 傷の輪郭を指で辿りながら、平坦な声音で返された答えに、ハリーはそれ以上聞くのをやめた。
 幼心に、それがおばさんにとってあまり口にしたくない話題なのだと察したからだ。両親の話はしない――エバンズ家で暮らしていく中で、ハリーが決めた第一の規則だった。
 キッチンで手早く二人分のオープンサンド、それに紅茶をたっぷり入れた水筒を用意する。
 夏休みは曜日の感覚がなくなりがちだ、としみじみしながらカレンダーを確認する。今日は会議が入ってない。ハリーは口元を緩めた。こんな日は、夜まで入り浸ったても何も言われない。大きな鞄に用意したばかりの朝食と水筒、それに参考書を放り込む。教授室で勉強していれば家で勉強するよりはるかに捗るし、何より、いつもは仕事ばかりのおばさんが時々ハリーの勉強を見て、褒めてくれる事さえあるのだ。

 鼻歌を歌いながら、通いなれた道を歩く。
 途中、同じ学校のいじめっ子達に出くわしそうになったが、なんとか気付かれずに通り過ぎる事ができた。
 いつもダブダブの服を着た、やせっぽちで親無しのハリーはいじめっ子達の格好の標的だったのだ――見た目の割にハリーはすばしっこかったので、そうそうサンドバックにされてやる事はなかったけれども。
 そうやって人を避けたり、あるいは挨拶したりしながら大学にあるおばさんの教授室まで辿り着くと、丁度出てきたおばさんと鉢合わせた。
 ペチュニアおばさんは、面長の顔にほっそりとした体をしていて、いつもシンプルな黒っぽい色合いの服を着ている。金色の髪をバレッタで纏めているが、半分くらいは背中に流しているのが常だった。どんな時でも毅然と背筋を伸ばしていて、大概の人間は、おばさんの前に出ると居住まいを正さずにはいられない。
 ハリーはどもりながら挨拶した。

「お、おはよう、おばさん」
「……ああ、おはようハリー」

 温度の無いグレイの目に疲労を滲ませて、おばさんは耳に心地よいトーンのソプラノ・ボイスで、物憂げに挨拶を返した。おばさんの視線が、ハリーを上から下まで見る。何かを確認するように頷いて、おばさんは顎をしゃくった。

「ハリー、荷物はおいてきなさい。出かけるわよ」
「どこへ行くの?」

 ハリーは目を丸くした。おばさんが出かけるのは、大体が者仲間と学者仲間と会議だの討論だのをするためだ。いつもならハリーは置いてけぼりで、近所に住んでいる変わり者のフィッグばあさんに預けられる。
 ハリーはそこがあまり好きではなかった。家中変な匂いがするし、猫至上主義で猫の事しか頭にないばあさんは、ハリーにもそれを強制するからだ。
 おばさんは、なんとも言えない苦い顔で天井を見上げて答える。

先生……恩師が、いきなり動物園のチケットを送って寄越したのよ。偶にはリフレッシュすべきだって。まったく、いつも唐突なんだから」

 まったくその通りだ! ハリーは顔も知らない恩師とやらに心の中で同意を叫んだ。
 おばさんと動物園。信じられないような幸運だ。内心小躍りしながらも、顔だけは神妙に取り繕って不機嫌なおばさんに「準備してくるね」と告げ、ハリーは教授室の定位置に荷物を放り出す。
 二十分後、休暇の申請を済ませたおばさんに連れられて、ハリーは生まれて初めての(ずっと行ってみたいと思っていた)近所の動物園に向かっていた。

 おばさんと歩道を歩きながら、ハリーには一つだけ懸念があった。昔から、ハリーの周りでは不思議なことがよく起きたのだ。それはハリーを助けてくれる事もあれば、反対にひどい目に合わせる事もある。そして最大の問題は、その後始末をするのはペチュニアおばさんである、という事だった。
 別に、ひどく叱責されるとか、折檻を受けるわけではない。おばさんはいつだって、不機嫌そうに目を細めて黙々と後始末をするだけだ。そうして、ため息と一緒に「次からは気を付けなさい」と言われるのだ――守れた試しのない約束を思うだけで、ハリーは身の置き所が無いような気持ちになる。
 だから、今日は絶対におかしなことがあってはならない。
 不安を振り払うように、ハリーはつとめて明るい口調で今朝見た夢を話題に出した。

「おばさん。僕、オートバイの夢を見た」
「……乗ってみたいの?」

 考え込むような口ぶりの問いに、慌てて首を振って付け足す。

「空を飛んでたよ。蜘蛛と一緒に」
「そう。……その蜘蛛も、空を飛んでいたの?」
「ううん。蜘蛛は一緒に乗ってただけ……だったと、思う……。
 その、オートバイが空を飛ばないのはわかってるし、ただの夢だし……」
「夢というのは」

 ハリーの言葉を遮って、ペチュニアおばさんが続けた。

「そもそも荒唐無稽なものよ。面白い夢を見たわね、ハリー」
――うん。僕もそう思う」

 不機嫌そうだった目を和ませたおばさんに、にっこり笑ってハリーは頷いた。
 その日はお天気もよく、土曜日で、動物園は家族連れで混み合っていた。ファーストフードで遅い朝食を済ませた後、ハリーはアイスクリームを買ってもらった。大きなチョコレート・アイスに目を奪われているのに気付いたおばさんが買い与えてくれたのだ。申し訳無さと、けれどもそれをはるかに上回る嬉しさに頬を染めて、ハリーはすっかりご機嫌だった。初めての動物園に興奮している間に昼になり、今度は園内のレストランで昼食を食べた。デザートにはパフェまで食べさせてもらって、こんなに素敵な日は無いとさえ思っていた。

 後になって思えば、こんないいことばかりが続くはずがなかった。
 昼食の後で、爬虫類館を見た。館内はヒヤッとして暗く、壁に沿ってガラスケースが並び、中には照明がついていた。ガラスの向こうにはいろいろなヘビやトカゲがいて、材木や石の上をスルスルと這い回っていた。おばさんは「あっちで待っているわ」と一足先に休憩スペースの方へ行ってしまって、ハリーはゆっくり見て回っていた事を後悔した。そういえば、おばさんは朝からずっと疲れた顔をしていた。
 楽しい気持ちがするするとしぼむ。サッと一回りしたら終わりにしようと考えて、ハリーは館内を早足に歩いていく。

「……大きい」

 思わず目を惹かれて、ハリーは館内で一番大きなヘビのガラスケースで足を止めた。人間なんてぺろりと丸呑みにしてしまいそうなくらいの大蛇だ――ただし今は、ぐっすりと眠っている。少しだけ躊躇ってから、ハリーは控えめにガラスをノックした。ヘビの、ビーズのような目が開く。うんざりした目をしていた。

「何か用かい」
「ご、ごめん……」

 バツの悪い気持ちになって、ガラス越しにハリーは謝った。
 ヘビはゆっくり、とてもゆっくりとかま首をもたげながら舌打ちをした。

「いつもこうだ」
「その、邪魔をしてしまってごめん。ほんとにイライラするだろうね」

 ヘビは激しく頷いた。

「ところで、どこから来たの?」

 ヘビはガラスケースの横にある掲示板を尾でツンツンとつついた。
 そこには [ ブラジル産ボア・コンストリクター 大ニシキヘビ ]と書いてある。

「いいところなの?」

 ニシキヘビはもう一度尾で掲示板をつついた。

 [ このヘビは動物園で生まれました ]

「そうなの……じゃ、ブラジルへ行ったことがないんだね?」

 ヘビが頷いたとたん、ハリーの後ろで耳をつんざくような大声がして、ハリーもヘビも飛び上がりそうになった。

「おい、みんな来てみろよ! ヘビが信じられないようなことやってるぞ!」

 勢いよく突き飛ばされて、ハリーはコンクリートの床にひっくり返った。
 次の瞬間の出来事は、あっという間だったので、どんなふうに起こったのか誰にもわからなかった。ハリーを突き飛ばした年上の少年達が、恐怖の叫びを上げて飛びのいた。
 ハリーは起き上がり、息をのんだ。ニシキヘビのケースのガラスが消えていた。
 大ヘビはすばやくとぐろをほどき、ズルズルと外に這い出した。館内にいた客たちは叫び声をあげ、出口に向かって駆け出した。ヘビがスルスルとハリーのそばを通り過ぎた時、ハリーはヘビがこう言うのを聞いた。

「ブラジルへ、俺は行く――シュシュシュ、ありがとよ。アミーゴ」

 僕のせいだ。ハリーは全身から血の気が引いたが、爬虫類館の飼育係はショック状態だった。
「でも、ガラスはいったいどこに?」と言い続けていた。
 園長は、騒ぎに駆け付けたペチュニアおばさんに自ら紅茶を入れてペコペコと謝った。おばさんは事態を把握すると、いつものように不機嫌そうに目を細めて、強引に謝罪を切り上げさせて怪我人はいなかったかの確認をしていた。少年たちはわけのわからないことを口走るばかりだったので、ハリーはヘビが誰かを噛んだり、傷つけたりしなかったかをしつこいくらいに確認された。できる限りの受け答えをしながら、ハリーはひたすらにソファーの上で身を縮めていた。
 結局、おばさんとハリーが解放されたのは、とっぷりと夜も更けた頃合いだった。
 行きと違って足が重く感じるような無言の帰り道の道中、おばさんはハリーの前を歩きながら、振り返らずに「次からは気を付けなさい」と、いつものように言った。
 そして珍しく口ごもりながら、「今度の誕生日、大事な話があるから家にいるように」と付け加えた。ハリーにできるのは、うなだれながら「はい、おばさん」と答える事だけだった。


 ■  ■  ■


 狭いアパルトマンの一室で、ハリーは寝つけずにいた。数日後の誕生日が、今から憂鬱で仕方が無い。
 ――今度こそ、追い出されるのかもしれない。心臓を貫かれるような痛みを感じて、ハリーは頭までシーツを引っ張り上げて丸くなる。
 ペチュニアおばさんと暮らして、ほぼ十年が過ぎた。赤ん坊の時から、両親が死んでからずっとだ。両親が死んだ時、自分が車の中にいたかどうかさえ思い出せない。時々、一生懸命思い出をたぐっていると、不思議な光景が見えてくることがあった。目の眩むような緑の閃光と焼けつくような額の痛みだ。緑の光がどこから出ているのかは想像がつかなかったが、きっと事故のショックで光を幻視したんだろうとハリーは思っている。両親のことはまったく思い出せなかった。おばさんが話してくれた事は一度もない。両親の話題となると表情を消して、何かを堪えるようにギュッと口を結ぶおばさんに、ハリーはひどく悪い事をしたような気持ちになって話題を変えるのが常だった。母方の祖父母は既に他界しているし、父方の血縁に至っては何一つ分からない。この家のどこにも、両親の写真はもとより、おばさんにとって妹であるはずの母親の写真さえ存在しはしなかった。
 小さな頃から、ハリーはおばさんにとって自分が重荷であることがよく分かっていた。
 おばさんはハリーが風邪をひいたり問題を起こしたりするたび、大事な仕事を放り出してハリーの世話や後始末に駆けずり回らされる。寝食を放り出すほど仕事が大好きなおばさんにとって、それはどれだけ腹立たしい事なのだろう。ハリーの学費も生活費も、ペチュニアおばさんの懐から出ている。
 それだけじゃない。おばさんがよく出張に行くアメリカの大学から、教授になって欲しいと熱烈にアプローチされているのをハリーは知っている。今のところ、ペチュニアおばさんが「ノー」以外の返事を返した事は無いけれど、それはハリーがいるからじゃないか、と陰で囁かれているのだって知っていた。唇を噛む。アメリカの大学に、行くことにしたのだろうか。だから、ハリーは邪魔になったのだろうか? 小さな頃、ハリーは誰か見知らぬ親戚が自分を迎えにやってくるのを何度も何度も夢に見た。迎えに来た親戚に、おばさんは満面の笑みを浮かべてハリーを引き渡すのだ。背を向けて遠ざかっていくおばさん、見知らぬ親戚はひどい力でハリーを捕まえていて、ハリーはおばさんの背中を追いかける事さえできない……。
 けれどハリーには、ペチュニアおばさんしか家族はいないのだ。時々、街で奇妙な格好の見知らぬ人達がハリーにやけに親しげに手を振ったり、握手してきたりする事もあったが、そういう人達はハリーがもう一度見ようとしたとたん、まるで幻だったかのように消えてしまうのだ。幽霊みたいだ、というのがハリーの偽らざる感想だった。
 ひどく惨めな気持ちで、ハリーは寝返りをうつ。大人達は何かとハリーを気にかけてくれるけど、それはあくまでもハリーがペチュニアおばさんの甥で、おばさんに育てられているからでしかない。学校でも、ダブダブの服を着た親無しのおかしなハリー・ポッターが、いじめっ子達の標的にされていることをみんな知っていたし、彼らに逆らってまで、ハリーと関わろうとする人は一人だっていなかった。

 孤独感に苛まれながら、ハリーは目を閉じる。
 結局夜明けが訪れるまで、悩めるハリーに眠りが訪れる事は無かった。




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