誰もいない遊び場に、一人の少女がうずくまっていた。
 遠くに見える街の家並みには既に明かりが灯り、巨大な煙突は夕日に染まって鮮やかに赤い。
 刻一刻と夜が差し迫るその場所で、ぼろぼろと溢れる涙をぬぐいもせず、嗚咽をこらえながら彼女は呟く。

――ひら、け。ひらけ、ひらけ、ひらけ、ひらけ……」

 手の中でくたりと萎れた蕾は固く、少しだって反応する様子を見せはしない。
 それでも少女は、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、嗚咽を必死にこらえながら、祈るように、呪うように、その言葉だけしか知らないかのように一心に唱える。

「ひらけ、ひらけ、ひらけ、ひらけ、ひらけ、……ひら、けっ」

 開くはずがない。咲くはずがない。
 自分に、妹と同じ事ができないのはよく分かっていた。
 知っていて、けれどもそれを「仕方がない」と納得して呑み込んでしまえるほどには、大人にはなれなかった。

「ひらけ、……ひらけ、ひらけぇ……ひらいてよぉ………!」

 唱える言葉が、涙交じりの懇願に変わる。けれども、蕾はぴくりともしない。
 目の前に、す、とましろい手のひらが差し出された。

――どうぞ、悩み顔のお嬢さん」

 差し出された手が翻り、大輪の薔薇が表れる。
 ぱっと顔を上げた。いつからそこにいたのか。微笑みを浮かべてそこに佇んでいたのは、今まで見たこともないような、美しい女だった。長く艶やかな黒檀の髪、薔薇より赤く魅惑的な瞳。
 ぐしゃり、と少女は顔を歪めた。

「おねえさん、魔法使いなの?」
「いいや? 私は魔法使いではないよ」
「うそよ。だって今、花を出したじゃない!」

 目を吊り上げて金切り声で否定する少女に、けれど女が微笑みを崩すことは無かった。

「いいや、いいやお嬢さん。
 私は魔法使いではない――これは本当。けれど、そう。魔法を使う事ができるのも、本当」
「……どういうこと?」

 女は答えない。ただ、少女の問いに笑うだけだ。

「お嬢さん、魔法使いか魔女の身内だろう」
「……どうして分かったの」

 女は答えない。少女の問いに、ただ笑っている。
 なにかがおかしい。なにかがヘンだ。頭の片隅で警戒がむくりと頭をもたげる。
 けれど、それよりも興味の方が勝った。

 魔法使いでないのに、魔法を使えるのだと言う不思議な女。
 それが本当なら。自分にも、同じ事ができるのではないだろうか?

「ぅふふ。あんなにも熱心に、けなげに魔法を使おうとしていれば一目瞭然さ」

 先程までの行為を見られていた事に考えが至って、少女の顔が羞恥に染まる。
 それでも口から罵声や憤りの言葉が出なかったのは、まるでそれを遮るかのように、女がとっておきの“魔法の呪文”を唱えたからだった。

「魔法。使ってみたくはないかい?」
――っ!」

 使いたくないはずがない。
 それは少女が、何より願ってやまない力だ。

 魔法が使いたい。使えるようになりたい。血を分けた、双子の妹のように!
 そう、少女は魔法が使いたかった。妹のように魔法が使えるようになって、数日遅れでもホグワーツに入学して。酷いことを言ってしまったのを謝って、妹と一緒に魔法の勉強をする。
 そんな未来を、少女は諦めきれなかった。生まれてからずっと一緒にいた妹。魔法が使えるか使えないか。それだけの違いで、ケンカ別れする事になってしまった妹。魔法への否定ばかりを口にしていても、本当は、妹と一緒に魔法学校へ行きたかったのだ。

 ――ダンブルドア校長に、嘆願の手紙を出さずにはいられないくらいに!

 ぎゅう、と血が滲むほどに強く、唇を噛む。
 ダンブルドアへの手紙を盗み見られた事への怒り、魔法が使える妹への妬みからくる激情が冷めてしまえば、後に残るのは苦い後悔だ。「生まれそこない」、なんて。そんな言葉、口にするつもりなんてなかったのに。

「君は魔法使いにはなれない。残念ながら、そのように生まれついてしまったからね。
 でも。私なら、君にも使える魔法を教えてあげられる。君が、魔法を使えるように教え導いてあげられる。……ねえ? 魔法、使ってみたくはないかい?」
「……私にも、つかえる、まほう……」

 呆然とオウム返しに繰り返し、少女はまじまじと女を見上げる。

「できる、かしら。……私にも」

 無意識のうちに零した呟きに、女はそっと薔薇を差し出した。
 赤々と美しく、華麗に咲き誇る大輪の薔薇。

「君がそれを望み、挫けないでいられたのなら。
 ……さあお嬢さん、契約の話をしよう。“魔法、使ってみたくはないかい”?」

 女が笑う。
 笑って、薔薇を少女に差し出している。


 ――福音書に曰く。


 赤い。赤い、美しい薔薇を。
 他のなにものも目に入らないくらい、うつくしいものを。

 少女が、欲して止まないものを。


 ――悪魔は、三度誘惑する。


「……使いたい。私、魔法が使いたいわ……!」

 震える手を差し出して、薔薇を捧げ持つ。
 そうして大切な宝物を扱うように。尊いものであるかのように、胸に恭しく押し戴いてそう答えた。
 諦められない。諦められるはずがない。妹の、リリーの顔が脳裏に浮かぶ。「生まれそこない」――そう罵倒した時の、泣き出す寸前のような、涙を湛えた表情。自分がどれだけ願っても持ち得ないものを持って生まれた、血を分けた双子の妹。
 告白しよう。少女は、その傷ついた顔を見た時とても楽しい気分になった。泣けばいい、とすら思っていた。
 ずたずたになって、みっともなく泣きわめいて醜態を晒して。

 ふ、と無意識のうちに詰めていた息を吐き出す。
 違う。確かにそれを、楽しいと思った。愉快だった。だけど、それを望んでいた訳ではなかった。
 「生まれそこない」――そう、生まれそこなったのはリリーじゃない。自分だ。自分こそが、魔女の「生まれそこない」なのだ。

「では、契約成立だ」

 女が笑う。満足そうに。
 少女も笑った。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの、不格好な顔で。
 それでも毅然と、誇り高く――劣等感に押し潰されないよう、背筋を伸ばして。

 少女は気付かない。気付けない。
 女の影が、夕闇に沈み込む世界の中。蜘蛛の形をしていた事に。
 自分の人生がこの瞬間、大きく捻れ曲がった事に。

 ペチュニア・エバンズは、そうして道を踏み外した。




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