たっぷりと水気を含んだ布を固く絞り、はは広げたその布を拾い子の額に乗せた。 汗で頬に張り付いた髪を払ってやり、その頬にうっすらと差した血の気にわずかながらに口元を緩ませる。 妖の子供を何とか家まで連れ帰ったのは良いものの、深手を負い、失血もひどかった為にその時にはほとんど死人同然だったのだ。妖を恐れて召使い達は子供に近寄ろうとさえせず、手当てにさえ骨をおった。 正直、このまま死んでしまうのではないかとさえ危惧していたのだが―――― 「さすがに、妖だけはある・・・・・か」 人間であれば、死んでいて当然だった。 それでもこの子供が生き延びたのは、ひとえに強靭な生命力を持った“人ならざる者”だったからである。 おそらく、峠は越えた。この回復力ならば数日中には起き上がれるようになるだろう。 衣擦れの音に、廊下に視線を向ける。屋敷に仕える召使いの中でも古株の女性が、静かに頭を垂れた。 「失礼致します、様」 「どうした」 「陰陽頭様がお見えでございます」 「先生が?」 現陰陽頭は、にとっては単なる上司では無い。 父母を早くに亡くした彼女の後見人であり、陰陽術においては師でもある人だ。 実力主義なのでひいきをするような事は無いが、私生活上では何かと目をかけてくれている。 妖の子供を看護する為、ここ数日参内していないから様子を見に来たのだろう。 もっとも信頼できる相手といっても過言では無い――――妖をかくまった事で、多少の小言はあるかも知れないが。 「では別室に酒肴の用意を。夜更けだ、あまり重いものは駄目だぞ」 「畏まりました。では、下がって宜しいでしょうか?」 「ああ―――――いや。待て」 頷きかけて、は前言を撤回した。 一重より動きやすいという理由では狩衣を愛用しているが、狩衣は男物の平服であっても女が着る物では無い。 身内同然の客とはいえ上司で師だ、狩衣姿では失礼にあたるだろう。 (服も改めておくか) そう考えて口を開こうとしたが、その前に現われた人物によっては出しかけた言葉を急遽軌道修正する事になった。 苦笑を浮かべて視線で召使いに下がるよう促すと、は居住まいを正し、師に軽く会釈する。 「・・・・・・・わざわざお越しになられずとも、お待ちくだされば参上したのですが」 「ホホホ、は水臭い事を申す。 今宵は可愛い弟子の顔を見に参ったのみぞ、多少の事は気にかけずとも良い」 仕事帰りらしく正装を纏った年齢不詳の男が、扇で口元を押さえて楽しげに笑った。 その声は気安いが、顔のすべてを覆い隠す仮面がそこはかとない怪しさを醸し出している。 夜道で会ったら思わず回れ右したくなると陰陽寮でも大評判な格好だが、幼い頃からその姿を見慣れたには残念ながら動じる同僚達の方が理解できない。結構毒されている。 「それが拾い物か」 「はい」 「ふむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・あの、菖蒲先生?」 何とも意味深な間に、僅かな不安が胸を過ぎる。 自分の身を守る自信はあるのだが、やや心配性な面のある師匠である。 弟子の自宅に妖を置いておく事に対して思う事はあるだろう。少々物騒な事を考えている可能性は結構高い。 (先生の事だから、この子を滅さないとも限らないしな・・・・・・) それは既に“やや心配性”ではなくて立派に“過保護”の域なのだが、残念ながらその認識はには無い。 やっぱり毒されている。かなりの勢いで。 「まぁ、良い故」 沈黙の後、どうやら危険性無しと判断したらしい。 子供から外された視線に、はそっと胸を撫で下ろした。 「お話中失礼致します。酒肴の用意が整いました」 ■ □ ■ □ 簡素ではあっても好みを押さえた和やかな月見の宴。 他の者であれば菖蒲の仮面が口の部分だけ外れている事に関して「なんでその一部分だけ外れるんだ」「てゆうか仮面外せ」とツッコミの一つ二つ入れたかも知れないが、その点に関して既に疑問を抱くどころか違和感すら感じなくなって久しいは気にも留めない。のんびりと杯を重ねながら、話題にするのはのいない間の陰陽寮の事だった。 「そうですか。久芒も人の悪い・・・・・」 「帥仙が懲りぬ故。好敵手を見定めるは良いが、無意味に我を張るのは如何なものか」 「屑桐も、少々言葉に難のある所がありますから」 「それを除いても、帥仙は我が強すぎる故。そなたとて迷惑をこうむった事は一度や二度では無かろう」 「・・・・・・・・・・ええと。ですが、少々過大な程に私の力を評価して下さいますよ?」 フォローは入れるが、迷惑をこうむった点については否定しない。 そこでそんな事は無いと言い切れない程度には、彼女はくだんの同僚から迷惑をこうむっていた。 菖蒲が、深々とため息をつく。 「そちは自己評価が低い故。あれの評価が正当なものぞ」 「そうでしょうか・・・・・・」 師を疑う訳では無いが、はあまり自分の実力を高く評価できない。 無論、日々時間を作っては研鑽を積んでいる。女である事を理由に仕事で手を抜いた事など一度も無いし、それなりに場数を踏んでいるという自負もある。しかし、それでも師には遠く及ばないのだ。まだまだだ、という思いの方が強い。 「・・・・・・そちはいま少し自信を持つ故。時に、最近何か妙な事は無かったか?」 「妙な事、ですか?」 「うむ」 問われてしばし考えてみるが、とりたて妙と言い切れるような事は思い当たらない。 しいて言うならば妖の子供を拾ったことぐらいか。 いまひとつ師の言葉の意味を図りかね、は首を傾げて問い返す。 「特に思い当たりませんが――――私が休んでいる間に、何かあったのでしょうか?」 「未だ事は起きておらぬ。なにやら最近胸騒ぎがする故、問うた迄」 「胸騒ぎ、ですか」 は眉間にしわを寄せた。たかが胸騒ぎ、と侮るわけにはいかない。 当代随一の陰陽師の胸騒ぎだ――――外れる方が珍しい。 「占には、何と?」 「何も見えぬ。故にこそ、問題とも言えるが」 「それは・・・・・・・・・」 確かに問題だ。占の結果が何も見えないなど、前代未聞である。 何らかの自然現象ならまだ良いが、その原因が何者かの妨害だとすれば厄介だ。 下手をすればこの京の都に、大きな災いが降りかかる事になる。 それだけは許す訳にはいかない。怪異から都を、民人を守る事こそが陰陽師の仕事なのだから。 「・・・・・・お役に立てず申し訳ありません。何かありましたら、直ぐにでもご報告いたします」 「すまぬな」 笑って、菖蒲は心底申し訳無さそうにしている弟子の頭を優しく撫でた。 しかしすぐに笑みは消え、真剣な眼差しがに向けられる。 「。あの妖の子供、此度の胸騒ぎに関わりを持っておるやも知れぬ」 とたんに顔を強張らせたに「憶測でしか無いが」と言い足し、菖蒲は続ける。 「もしもの時はどうすべきか。忘れてはおらぬな?」 もしもの時。 それはつまりあの妖の子供が、師の胸騒ぎに関わっていた時。 それはつまりあの妖の子供が、京に何らかの災いをもたらすのだと分かった時。 それはつまりあの妖の子供が、人に仇成す者だと判断した時。 拾い、手当てを施し、看護したあの子供を――――陰陽師として、祓えという事だ。 優先すべきは民人を守る事。京を守る事。 己の行いの責は、己で負わねばならない。それが理というものだ。 情に流されれば、それは致命的な隙となるだろう。理解しているからこそは頷いた。 もしもの時に感じるであろう心の痛みも、辛さも、自責も理解した上で。 「重々―――――心得て、おります」 自分は、陰陽師なのだから。 (ああ。) (けれど、) 何事も、無ければ良い。 静かに静かに呟いた言葉はきっと、月にしか届かない。 TOP 菖蒲「先生」登場です。 そして拾われっ子との絡みはまだ先です。 |