肉の削げ落ちた頬、隈の濃い目元。 鏡の向こうから見返す、褪めた目の女を見据え、彼女はクッと喉を鳴らす。 青白い肌に指先をあてがい、色を失った唇を吊り上げた。 「醜い顔」 爪が肌に食い込み皮を突き破り、赤い液体がとろりと溢れて指をつたう。 それでも彼女は笑みを崩す事は無い。否、それは元より笑みでは無かった。唇を吊り上げただけのその表情は、決して笑みなどという生易しい表情などでは有り得ない。 鏡の向こうで見返す女の髪には白いものが入り混じり、肌は張りも潤いも無く、かさついて幾重にも年月が刻み込まれている。若さを羨む心は確かにあった。この年齢ともなれば当然であると理解しているし、過ぎ去った月日に対して後悔などしていなかった。彼女は理屈ではなく実感として、それをよく理解していた。老いてゆく己に代わるようにして、成長していく最愛の息子の存在があったからこそ、そのような悔いとは無縁でいられた。 いられたと、いうのに。 「何故」 御簾で外界と隔てられた部屋の中、女は呟く。 何処で間違えた。何処で誤った。何処で、何処で、何処で――――――! 煩悶の答えは既に内にある。それでも懊悩が尽きる事はない。 灯台の光は闇の夜であってもほんのりと、室内の二人を照らし出す。もう一人の人物は、女に比べれば若い男だった。 全身を弛緩させ、倒れ伏したままでぴくりとも動きはしないそれは、肉の塊とでも表現した方が適切かも知れない。 「何故」 再度、女は呟く。爪が肉に食い込み血を噴き出させる。女はまた新たに爪を立てて赤い筋を刻む。 現実から逃げているのではない。問うても答えなど知っている。 それでも繰り返して言葉を紡ぎ、繰り返して傷を刻み込むのはただ一つの想いを魂に刻む為。 死体の腐臭漂う部屋の中、血の滴るその指先で鏡面を撫でさする。いとおしい、何よりかけがえの無かった息子と共に押し込められた館の中で。一室で。我が子の遺体の傍らで。 忘れはしない。 この屈辱も、恨みも、受けたものの何もかも。 短刀を鞘から抜き放ち、女はそっと目を伏せた。 躊躇う素振りなど微塵も見せず、切っ先を首に押しあてて。 「わたくしは」 言霊を、 怨 霊 と 成 り て 、 こ の 国 を 滅 ぼ す 。 紡いだ。 自害した前皇后及び、数日前に病死したと思われる元皇太子の遺体が発見されたのは、翌日の早朝の事であった。 775年、春の終わりのこの出来事は大々的に公にされる事も無く、その遺骸は粗末な木切れを墓碑として、捨てるように埋葬されたという――――。 ■ □ ■ □ なまぬるく、空気が澱む。 この平安京は地脈の力が集まる地形を利用し、風水によって四神の守護を組み込んだ結界を張られた都である。 外から来る妖の脅威には当然強いが、しかしそれは結界が完成していればの話。未だ未完成な都は地脈の流れ込む場所であるという特殊な霊的磁場もあり、夜な夜なそれに惹かれて集まる魑魅魍魎が跋扈していた。 既に馴染みですらある邪気を含んだ風を全身で感じ取りながら、は印を組んだ右腕を突き出す。 その先に捉えるのは、黒い霧にも似たこの世ならざるモノ。 「――――あるべき場所へ逝け」 呪によって動きを封じた怨霊に、静かに語りかけて。 「急遽如律令!」 言霊に込められた呪に裂かれ、怨霊は黒い粒子となって闇に溶けた。 邪気が消える。「安らかに」と小さく呟くと、改めて周囲に見透かすような視線を向けて様子を伺う。やがて他にはいないと見当をつけたようで、緊張を解くとは踵を返す。 喉まで出かけたあくびを飲み込み、眠気を払おうと頭を振る。思っていたよりも時間がかかってしまった。 眠気に押され、やや足早に家路を辿る。夜道を通る者はさして多くはないが、そのうちに人ならざるものが混じっている事は言うまでもない事だ。まぁ、せいぜい悪戯程度しかしないような妖まで祓う程に陰陽寮は暇でも残忍でも無い為、そのまま放置しているのだが。しかし、と彼女は僅かに眉宇をひそめる。 (気のせい、か?) 最近どうにも、雑鬼のたぐいが増えているように感じる。 四神の結界が完全では無いとはいえ、完成に向けて工事は進んでいるし、都は自分達陰陽師が警護している。 減るのであればともかく、増えるというのはどうにもふに落ちないものがあった。 ややうつむき加減に歩みを進めていただったが、一瞬鼻先を掠めていった臭いに足を止めて周囲を見回す。 鉄錆の入り混じる、不快に鼻につく独特の臭い。(これは、) 「・・・・・・血の臭い」 認識してしまえば、無視する訳にもいかない。 何か刃傷沙汰でもあったのかも知れない。賊でも出たのだろうか。足早に、臭いだけを頼りに道を辿る。 はあくまでも陰陽師であって検非違使や近衛では無い。荒事は不得手だったが、いざとなれば式紙を使って追い払う程度の事はできる。しかし、進めば進むほどに濃くなる血臭に、は眉間の皺を深くした。 (もはや、生きていないかも知れない・・・・・・) 死は穢れである。そして、穢れを宮中へ持ち込む訳にはいかない。 しばらく参内できない覚悟はしておいた方が良さそうだと考えながら、は建造中の屋敷の前で足を止めた。 血の跡は、屋敷の敷地内へと続いている。屈み込んで、血の跡に触れた。――――湿っている。まだ新しいようだ。 留守、そして建造中とはえ、他人の屋敷に無断で足を踏み入れる事に躊躇ったのは一瞬だけだった。 何が起きても――――それこそ、いきなり賊が斬りかかってきても――――対処できるように懐の霊符に手をかけ、油断無く血の跡を追う。視界の端から、黒い塊が飛び掛ってきた。 「っ!」 とっさに後方へと退く。 先程までいた場所に転がるようにして飛びかかってきたそれと、視線が合った。 黒い髪を振り乱し、鮮やかな赤の瞳に敵意を灯して、殺気もあらわに牙をむき出しにする。 ―――― ウゥウウウウウウウウッ!! (妖!) 表情を険しくし、とっさに反撃に移ろうとして。 しかしその妖からする濃い血臭と顔に色濃くある死相に、動きを止めて相手を凝視した。 血の主が妖で、こんなにも幼いとは思いもよらなかった。 目算だが、背丈はおそらく、彼女よりも頭二つ分は低いだろう。12・3歳くらいだろうか。妖である以上油断は禁物であるはずなのだが、は何やら不思議な感覚を覚えてその、少年の妖を見詰める。(何だ)違和感があった。普通の妖とは、何か。(何だ、この感覚は)威嚇してくる妖から視線を外さぬままに、は自問する。 「怪我を、しているのか」 自問しながらも相手と距離を保ちながら、問いかける。 返ってきたのは唸るような威嚇と、より強烈になった殺意だった。 (・・・・・・どうしたものか) 相手は妖。 しかし、手負いの者を見捨ててしまえる程に彼女は冷酷には徹しきれなかった。 自己満足だという事は承知している。悪い癖だと内心自嘲しながら、は懐の霊符から手を離した。 違和感の理由も気になるからな、と自分で自分に言い訳しながら両腕を広げ、一歩、前へと出る。 「危害は加えない」 「―――――信用、できる、もん・・・・・かっ!」 振り絞るような、途切れがちの声で妖が叫ぶ。 ぽたぽた、ぽたぽたと赤い液体は少年が押さえた腹から際限なく流れ落ち、足下に水溜りを作っている。このまま意地を張っていても死ぬだけだが、少年としてはどうしても譲れないのだろう。 (当たり前か) 初対面の人間で、それも陰陽師に対する妖の心象が良いなどとは思えない。 は両腕を広げたまま、妖に歩み寄る。 「く、るな」 力なく後ずさりする少年。 「誓ってもいい。止めをさすような真似はしない」 は、歩みを止めない。 「・・・くるな!」 ひゅ、と頬を爪が掠める。赤が一筋、肌を伝った。 少年の目の前で、は足を止める。無防備に、両腕を広げたままで。 「―――――くるなって、言ってるだろッ!」 少年が地を蹴った。跳びかかってくる獣じみたその攻撃は、手負いであるためか勢いに欠け、避けようと思えば避けられる。白い牙を剥き出した妖の攻撃を、しかしは避けなかった。 ぶづり、 「・・・・・・・・・っ!」 肉に牙が食い込む。白い直衣に血が滲み、衣服の下で液体が肌を伝うのが分かった。 喉まで出かかった悲鳴をなんとか飲み込んで、肩に深々と牙を突きたてたままで目を見張る少年の背を、そっと撫でる。 じっとりと全身に汗が噴き出す。ざぁっと体温が下がったような感覚がして、傷口は火で炙られるように熱かった。 おせっかいの代償だ、このくらいは甘んじるべきだろう。 おそるおそる、といった様子で、少年が噛み付いていた肩から口を離す。 牙が引き抜かれるのに伴い、さらに血があふれ出してきて着物を濡らしたが、少年に比べれば軽傷だ。安心できるように無理矢理笑みを作って、は痛みに荒くなりそうな呼吸をなんとか整えながら、妖に優しく話しかけた。 「手当て、だけでも、いい。させてくれ」 「――――――・・・・・・」 少年の身体から、一気に力が抜けた。 反射的に崩れ落ちる身体を支え、その瞬間に傷のある左肩に激痛が走っては無言で身悶える。 (利き腕で無かったのが幸いか) そんな事を思って苦笑を漏らし、ふと、重大な事に気付いて愕然とした。 「・・・・・・・・どうやって連れ帰ればいいんだ?」 797年、早秋。 これが京を脅かす怪異の先触れであったなど、この時のは知る由も無かった。 TOP NEXT 細かい時代設定はスルーして下さい。 あくまでもパラレル、が合言葉です(それってどうよ) |