ORIBE
1544年 岐阜県本巣郡本巣町山口で生まれる。 幼名 左
介という。
1558年 木下藤吉郎(豊臣秀吉)信長に仕える。
1563年 信長、瀬戸六作を定めて朱印状を与える。
1567年 信長、美濃国を平定し、岐阜城に入る。
1569年 信長の口利きで摂津・茨城城主、中川瀬兵衛の
妹・せんと結婚する。
1570年 千利休が信長に茶湯をもって仕える。
1573年 織部は養父・重安の所領、山城国西の岡萬吉領
を継承する。加藤景豊「大平窒」を開く。
1576年 信長、安土城を築城して移る。
1578年 織部の養父・重安没す。織部は播州・神谷城攻
撃に参加 。
1579年 織部は丹波・丹後攻略のため出陣。
1581年 千利休につき茶湯をまなぶ。
1582年 織部は信長の甲州攻めに先陣として出発。信長6
月2日、本能寺で自害する。
1584年 織部、小牧の戦いのため秀吉に従い出陣する。
1585年 織部は紀州、四国征伐に従軍。7月、秀吉が関白
になるとともに織部正(従五位下)三万五千石の大
名となる。織部は美濃に織部十作を置く。
1587年 10月、秀吉、京都・北野の松原で大茶会を催す。
これが成功のため利休、織部ら奔走する。
1588年 4月秀吉は聚楽第に御陽成天皇を招く、 このとき
織部は行幸の先駆をつとめる。
1592年 秀吉、朝鮮へ出兵。織部は後備衆として肥前へ
出陣する。このとき、秀吉から「茶道の改革」を命
ぜられる。
1598年 8月秀吉没す。織部の実父、重定、秀吉に殉死す
る。このとき織部は隠居する。
1599年 大老、前田利家没して、家康の専横つよまる。織
部、茶湯三昧のなかで春屋宗園につき参禅。
1600年 関が原の合戦となり東軍大勝、織部東軍にあっ
て戦勝加算により一万石となる。
1603年 織部は京都・堀川に菩提寺「興聖寺」を建立する
1610年 織部、清州城にあった゜猿面茶屋」を名古屋城内
に移築。また将軍・秀忠に台子茶湯を伝授、将軍
の茶道指南役とな.る。
1612年 江戸にて「織部百カ条」を書く。
1615年 大阪夏の陣 東軍の大御所、徳川家康、秀忠
が、京都に集結、大阪に向けて出発するのを見届
けて、京都の町に放火、集めた徒党をもって東軍
の大将、家康父子を一挙に葬る計画の主謀者が
古田織部で、実行の責任者が織部の茶堂であっ
た木村宗喜、女婿の鈴木左馬介、連歌師の如玄
ということである ために……切腹(1615年6月11
日・72歳)
織部年譜
改訂 古田織部の世界 著者 久野 治より抜粋
美の「新基準」創った茶人・武将
道の駅 資料館内
道の駅 (資料館内) 織部像