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(小話793)「古代ギリシャの七賢人(その1)、哲学の祖タレス(ターレス)」 の話・・・
      (一)
古代ギリシャの哲学者タレス(ターレス)は哲学の祖と言われ、ギリシャ七賢人の一人で、イオニア(ミレトス)学派の創始者で、万物の根源は「水」と考えた。日食の予言やピラミッドの高さの測定なども行った。タレスは、紀元前(B.C)624年頃、ギリシャ人の一派であるイオニア人が拓(ひら)いた植民地ミレトス市で生まれた。父はエクサミュアス、母はクレオブゥリネで、フェニキア人の名門テリダイ1族に属していた。タレスは、名門出身だったので、初めは政治家としての道を志したが、少年時代から青年時代までは、商人として船に乗って、商売のためエジプトへ行き、エジプトに何年も住んだ。そして、エジプトの神官たちと交際し、測量術を学び、エジプトの知識と技術を身につけた。タレスは、故郷に帰るときにはすでに優れた学者になっていた。こうしてタレスは、天文学など自然学の研究に熱意を燃やし、万物の根源(アルケー)を探求する自然哲学の祖としての思索を行った。フェニキア人は、アルファベットの文字を考案したことで有名だが、貿易民族として豊かな経済力を誇り、船を操縦する海運の技術にも優れていた。その為、貿易と海運で隆盛したフェニキア人は、星の動きに規則性を見出そうとする天文学を研究するようになり、タレスも天体の運動や規則を研究する天文学に強い興味を示した。ある時、商用でエジプトに行った際、太陽が作る影を利用してピラミッドの高さを測定して、当時のエジプト王を驚かせたという。紀元前(B.C)585年5月28日、ミレトスに起きた皆既日食を予言したため、タレスはミレトスで一躍、大予言者としての名声を得た。
(参考)
@タレス(ターレス)・・・西洋哲学史において古代ギリシアに現れた記録に残る最古の(自然)哲学者である。ソクラテス以前の哲学者の一人で、ギリシャ七賢人の、その最初に挙げられている。デルポイ神殿にも掲げられたアフォリズム(格言)「汝自身を知れ」(ソクラテスは、デルポイのアポロン神殿の柱に刻まれていた「汝自身を知れ」の言葉を自身の哲学活動の根底におき、探求した)は、タレスの言葉にその起源があるという。タレスは七賢人の一人であるが、ギリシャ世界で七賢人と言われるようになったのは、紀元前(B.C)582年頃である。ギリシアの七賢人とは、タレス・ソロン・ペリアンドロス・クレオブゥロス・ケイロン・ビアス・ピッタコス。(その他、アナカルシス・ミュソン・ペレキュデス・エピメニデスも入るという)。又、古代ローマでは、むやみに学問をひけらかす人を「第八の賢者」と呼んで軽蔑したという。
Aタレスは、天文学など自然学の研究・・・タレスの著作は現存していないが、地方に残っていた伝承では「太陽の至点について」「昼夜平分時について(春分と秋分について)」という天文学の著作を書いたと伝えられている。タレスは、太陽の光が消えて昼間に暗闇が訪れる日蝕について、初めて予言をした人物であり、夏至・冬至・春分・秋分など昼夜の長さが季節によって変わる事に初めて気づいた人物とされる。
Bミレトスに起きた皆既日食・・・リュディアとメディアの間に戦争が起こり5年におよんだが、この間、勝敗はつかなかった。戦争は互角に進んで6年目に入った時のことである。ある合戦の折、戦いのさなかに突然、真昼から夜になってしまった。この時の日食は、ミトレスのタレスが、現にその日食の起こった年まで正確に挙げてイオニア人々に予言したものであった。(この日食により、リディアとメディア間の戦が回避されたという)
      (二)
タレス(ターレス)は、中年には優秀な政治家としてのキャリアを積み、財を為す経営の才覚にも恵まれていた。だが、後年に至っては、政治や家族など世俗的な事柄への関心を余り示さなくなった。タレスは、結婚を勧める母親に対して結婚を拒み続けた。青年だった頃の適齢期に、結婚を勧められると「まだ、結婚する時期ではない」と言い、年齢を重ねてから結婚するように言われると「もはや結婚するような時期ではない」と言った。又、貧乏のゆえに哲学は何の役にも立たぬものであると非難されたタレスは、次のオリーブの収穫が豊作であろうことを天文学から知り、まだ冬の間にミレトス(小アジアの西)からキオス(ミレトス沖の島)の全てのオリーブの圧搾機械を借り占めた。すると、収穫の時期が来たときには、多くの人が彼に機械を貸し出すことを要求したので、莫大な利益を得ることになった。こうしてタレスは、彼が欲するなら金持ちになることは可能であったが、そのようなことは彼の関心になかった。ある時、ミレトスの漁港で鼎(かなえ)が引き上げられた。この珍奇な価値のある鼎の所有権を巡(めぐ)って若者達が争っていたところ、アポロン神を祭るデルポイ神殿で「誰であれ、知恵において万人に勝(まさ)る第一の者、その者にこそ鼎は授けられるべきだと言おう。賢者たちの内で、最も役にたった者にその鼎を与えるように」という神託が下り、タレスの元へ送り届けられたという。又、タレスは、ある星の美しい夜、女召使いを供にして、星を観測するために空を見ながら歩いていて、井戸に落ち込んだ。すると、その召使いは「あなた様は、熱心に天のことを知ろうとなさいますが、ご自分の面前のことや足下(あしもと)のことには、一向お気づきにならないのですね」と冷やかした。タレスは、間髪を入れず「宇宙は水で出来ている」と応えたという。ある時、プリエネの王がタレスの教えを受け、その報酬はいかほど支払うべきかを尋ねたとき「もし、わたしからあなたが学んだことをあなたが誰かに述べようとする際、それを自分のものとはしないで、このわたしを発見者として称揚(しょうよう)してくださるなら、報酬はそれでわたしには十分でしょう」と答えたという。ある日、タレスがロバの背に塩を積んで市場に売りに行く途中、川を渡る時にロバがつまづいて転び、塩は川の水に溶けて流れてしまった。翌日も同様に塩を積んで市場へ向かったが、川を渡る時にロバは又つまづいた。ロバは川でつまづくと荷が軽くなる事を覚え、わざとつまづいたのだった。一計を案じたタレスはその翌日、ロバの背に海綿(かいめん)を積んで市場へ向かった。今度もロバはつまづいたが、海綿は水を吸って重くなった。それ以後、ロバがつまづく事はなくなったという。
(参考)
@結婚を拒み続けた・・・話によると、七賢人の一人ソロンがミレトスのタレスのところに行って、タレスが妻や子供を持つことに、全然気にかけないのを不思議に思った。このことに対してタレスは、当分の間なんの返事もしなかった。しかし、数日後、見知らぬ人に、タレスが十日前にアテネを去ったふりをさせ、ソロンが、何か新しい話があるか尋ねると、彼は(タレスに)言われたとおりに言った「若者の葬式以外には何もありません。その葬式には町中の人が出席しました。なぜなら、彼は立派で有徳の市民のご令息であったからです。その市民の方は、その時、家にはいませんでした。長いこと旅をしているのです」。ソロンは言った「なんと惨(みじ)めな人だろう。ところで、彼の名前は何という?」その男は言った「名前は聞きましたが、今は忘れてしまいました。ただ、彼の知恵と正義については、多くのことが語られています」。ソロンが、惨めな人が自分であり、死んだ若者が自分の息子であることを知ると、そこへタレスが現われて、彼の手を取り、微笑んで言った「ソロンよ。こういうことがあるから、私は結婚もしないし、子供を育てたりしないんだ。あなたの恒常心でもってしても、支えるには大きすぎる。しかし、その話のことは、気にしなくてよい。作り話だから」。
A漁港で鼎(かなえ)・・・一説には、同じ七賢人の一人である民主的な政治改革(ソロンの改革)を推進したソロンに送られ、ソロンがデルポイ神殿に返却したという話もある。(小話796)「古代ギリシャの七賢人(その2)、政治家・改革者ソロン」の話・・・参照。
Bデルポイ神殿・・・デルポイはギリシア本土、パルナッソス山のふもとにあった古代ギリシアの都市国家(ポリス)である。アポロン神殿を中心とする神域と、都市からなる。神託は、神がかりになったデルポイの巫女(みこ)によって、謎めいた詩の形で告げられる。
      (三)
タレスの哲学的思索は、政治的問題や社会的現象よりも、自然世界の成り立ちや構造に向けられた。イオニア(ミレトス)学派の創始者であるタレスは、この生々流転する世界は、何から成り立ち、何から発生しているのかという問題意識を持っていた。そして、世界を構成する根本物質や基本原理のことをアルケー(万物の根源)と言った。存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものとしての万物の根元(アルケー)を水と考え、大地は水の上に浮かんでいるとした。そして「世界は水からなり、そして水に帰る」と言い「すべての生命は水を含んでおり、水が無くなれば、乾いてボロボロになって消えてしまう。人間も動物も農作物も、みな水により、生きている。したがって、万物の根本的な存在は、水である」という説を唱えた。タレスは、青年の頃、エジプトに住んでいて、彼はそこでナイル川の氾濫(はんらん)を見た。そして、そのナイル川の氾濫の後に、植物が一斉(いっせい)に芽を吹き出すのを観察した。彼の眼にはナイル川の水が、すべてを新しくして、新しい世界を作っているように映った。彼は、この経験に基づいて「世界の根源は水である」との結論を導いた。タレスは他に「魂(たましい)」についても考察し、磁石が鉄を動かすのは磁石が魂を持つからだと考えた。アリストテレスによれば、タレスは、魂は何かを動かすものと考え、万物は神々に満ちていると考えただろうと推測したという。紀元前(B.C)546年ころ、タレスは体育競技を観戦していて、炎熱と渇き、また老齢による衰弱によって、78歳で死亡した。
(参考)
@万物の根元(アルケー)を水・・・タレスは水という単一のアルケー(万物の根源)によって万物の存在と運動を説明しようとしたが、タレスの弟子のアナクシマンドロスは、世界を「熱・冷・湿・乾の四元素」が闘争的流動をする場と考え、水のような単一のアルケーで万物の生成変化を説明することは出来ないと考えた。タレスの孫弟子になるアナクシメネスは「万物は気息(プネウマ)、空気(アエール)であり、万物は空気の濃淡によって生成する」といった。
      (四)
タレスが残した古代社会におけるアフォリズム(格言)は次の通り。 (1)「人間は悪事を働いて、神に気づかれずに済ましてしまうことが出来るか」という問いに対して、「いや、悪い事を心の中で企図していても、神はそれに気づいてしまうだろう」(日本の「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず」)と答えた。
(2)不倫をして姦通罪を犯した男が、「自分は姦通していないと虚偽の誓いをしてもよいかどうか」と尋ねたところ、「偽誓(ぎせい)は姦通より悪くはない」(不倫をしても虚偽の誓いをして隠し通したほうが良い)と答えた。
(3)「人生において困難なことは何か」という問いに対して「自分自身を知ることだ」(私という存在が何であるのか、この人生とは何であるのかという自分自身の存在に対する根源的な問い)と答えた。
(4)「神聖なものとは何か」という問いに対して「始めも終わりも持たないもの」と答えた。
(5)「今までに見たもので珍しいものは何か」という問いに対して「年老いた独裁者」と答えた。
(5)「人はどのようにすれば、逆境を耐え抜くことが出来るか」という問いに対しては「敵のほうがもっと苦境にあることを知るならば」と答えた。
(6)「どうすれば我々は最も善なる人生、最も正しい人生を歩めるのか」という問いに対しては「他人に対して非難するような事を、我々自身が行わないようにするならば正しくて善なる人生を歩めるだろう」と答えた。
(7)「幸福な人間とはどのような人間であるのか」という問いに対しては、「身体が健康で、精神は機知に富み、性質が素直な人が幸福である。自分の事を大切に思ってくれる友人は近くにいるときも、遠く離れているときも忘れないようにしなさい」と答えた。
(8)更にタレスは「外見の美しさのみを競(きそ)って自慢するのではなく、日々の生活の中で行動実践においても美しい者となりなさい」とか、「悪しき手段で富を手に入れてはならないし、根も葉もない流言に欺(あざむ)かれて、君が信頼し信頼されている人たちの悪口を言ってはならない」と語った。又、タレスは、儒教的な両親への忠孝の大切さと子供から尽くしてもらう権利について「あなたが両親に対してどんな世話をしたとしても、それと同じものを子供たちから受け取らねばならない(君の親を、君が取り扱うように、君の子供は、君を取り扱うだろう)」とも述べていた。
(参考)
@神聖なものとは何か・・・神聖なものに対する答えは、タレスの宗教的信念に関係したもので、彼は古代エジプトで信じられた永遠不滅の霊魂の存在を信じていた。古代ギリシャの独裁者である為には、戦士としての責務を勇敢に果たせる強靭な肉体が必要とされた為、高齢になって独裁者として君臨することは難しかった。
Aどうすれば我々は最も善なる人生、・・・自分自身の欲望や感情をより良く理解して、他人が不正であると判断するような行動を取らず、社会から悪であると指弾されるような言動を取らないならば、正しい人生を送れるのではないかとタレスは考えた。
Bタレス・・・「タレス(ターレス)の定理」とは「直径に対する円周角は、直角である」というもので、タレス自身が、円周角上の点と円の中心を結び、2つの二等辺三角形を作って、この定理を証明したために、この名前がついたという。三角形に関する有名な定理「三角形の内角の和は180度」を証明したのもタレスで、電気の分野では、静電気(琥珀をみがくと羽毛を引き付けた)の引力を発見した。
「タレス(ターレス)」の石像の絵はこちらへ
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(小話792)「謎かけ姫(その一)ロシアの王女と美しい青年」 の話・・・
      (一)
民話より。ロシアの広大な領土に住む王に、美貌と知性に恵まれた娘がいた。彼女は始終、求婚者に悩まされていた。そこで高い山を探し、堅固な砦(とりで)を築き、「砦の婦人」としてそこに住むことにした。その高い砦に通じる道に魔像を配置し、砦の門も空高くそびえ立ち、容易に見いだせないようにした。自分に求婚するために4つの条件を課した。第1が名声高く美男子であること、第2が砦に到る道の魔力を取りのぞくこと、第3が砦の門を探し出すこと、第4が父の宮殿で王女の謎解きに成功すること、であった。
      (二)
そして、数多くの者(何万とも何千とも何百とも)が失敗して命(いのち)を失った後、名声高い美しい青年(第1)が、ある賢者に教えを請うた後に王女の謎解きに挑戦した。美しい青年は、赤い服を着ることで、第2の魔像の魔力を解くのにまず成功し、次に太鼓の音で第3の砦の門も発見した。あとは第4の4つの謎を解くだけとなった。王女は第1の謎を出した「(王女)耳たぶから2つ真珠を外して渡す(あなたの命はあと2日だけ)・・・(求婚者)その2つに別の3つを加えて返す(たとえ5日でもすぐ過ぎる)」。王女は第2の謎を出した「(王女)真珠に砂糖を加え一緒に磨(す)りつぶす(一緒に磨りつぶされた真珠と砂糖は分離できるか)・・・(求婚者)乳をかけて返す(乳をかければ分離できる)」。王女は第3の謎を出した「(王女)指輪を送る(結婚への同意を示す)・・・(求婚者)光輝く真珠を渡す(この真珠のように私に匹敵する者は得られない)」。王女は、最期の第4の謎を出した「(王女)彼の真珠に自分の真珠を結びつける(私こそ相応しい伴侶)・・・(求婚者)青い玻璃の玉を間に通し返す(邪視=悪魔の目、を防ぐ。又は、我々2人に匹敵する者はいない )」。こうして、王女とこの名声高い美しい青年の求婚者は結ばれることになった。


(小話791) 「聖ゲオルギウス(聖ジョージ)のドラゴン退治とその殉教の生涯」 の話・・・
         (一)
伝説より。聖ゲオルギウス(聖ジョージ)は、民衆に愛された聖人で、イングランドのみならず、他の多くの国の守護聖人になった。又、兵士、旅行者、農民の守護聖人になり、そして魔女と吸血鬼に敵する者すべての守護聖人にもなった。ゲオルギウスは、三世紀頃のキリスト教が迫害されていた時代、西暦263年(又は270年)にカッパドキア(トルコ)の名門の家に生まれ、若くしてローマ帝国の騎士となった。その後、地位も財産も捨てて聖職者となった。聖人としての主(おも)な事跡は、すべて剣を捨てた後のもので、刑死の目に遭っても何度か生還したり、貧民の死人を蘇生(そせい)させたり、盲人の視覚をとりもどさせたりした。ある時、トルコの西部リビアのシレナ(またはサレム)という町の近くの湖に巨大なドラゴン(悪竜)が棲(す)んでいて、全土を毒と化し、作物も実らず、死人が続出していた。住民は武器を持って、ドラゴン退治に出かけたが失敗してしまった。するとドラゴンは町まで出向いて、さらに毒気を振りまき、病(やまい)を蔓延(まんえん)させた。困った人々は、毎日二匹づつの羊を生贄(いけにえ)にすることで、何とかその災厄から逃れることとなった。だが、羊を全て捧げてしまった人々は、とうとう、町の若い男女を捧げることになった。それも限りがあり、ついには町を治める王の一人娘だけとなった。王は示しをつけるために、八日間、嘆き悲しんだあとで姫をドラゴンに差し出しすため、町の外(はず)れに置いてきた。そこへ旅をしていた敬虔なキリスト教信者である騎士ゲオルギウスが通りかかった。ゲオルギウスは嘆いている姫に事情を聞くと、そこへ巨大なドラゴンが現われた。ドラゴンは毒の息を吐いてゲオルギウスを殺そうとしたが、ゲオルギウスは十字を切りながら、ドラゴンの開いた口に槍を突き刺した。そして、姫に腰帯をドラゴンの頭に投げるように言った。姫が言われたとおりにすると、急にドラゴンはおとなしくなり、彼女の後(あと)に従った。ゲオルギウスと姫が巨大なドラゴンを町に連れて行くと、恐(おそ)れをなした人々は山へ逃げ出した。ゲオルギウスは言った「恐れてはいけない。神様が、あなた達をこのドラゴンから救うために、私をあなた達のもとへ遣(つか)わしたのです。キリスト教を信じ、洗礼を受ければ、私がこのドラゴンを殺してあげよう」。ゲオルギウスは自分が、キリスト教の使者であることを明かし、王や住民たちに改宗することを勧めると、王が真っ先に洗礼を受けた。そこでゲオルギウスは、王と住民たちの前でドラゴンを殺した。こうして、異教の町はキリスト教の教えを受け入れた。王は感謝の印(しるし)として、ゲオルギウスのために教会を建立した。その教会からは、泉が湧(わ)き出して、その水を飲んだ病人たちはたちまち癒(いや)された。王はさらに感謝してゲオルギウスに多くの財宝を与えたが、彼はそれを受け取るや町の貧しい者たちに全て配ってしまった。そして彼は、王たちに「教会をつねに敬(うやま)うこと」「司祭を大切にすること」「ミサを厳(おごそ)かに行うこと」「貧しい者を絶えず思いやること」の四つのことを守るように伝えると、旅を続けるためにシレナの町を後にした。
(参考)
@聖ゲオルギウス・・・古代ローマ末期のキリスト教の殉教者。イタリア語でジョルジョ、英語でジョージ、ドイツ語でゲオルク、フランス語でジョルジュ、ロシア語でゲオールギイ、ギリシア語でゲオルギオス、ラテン語でゲオルギウス。
A巨大なドラゴン・・・竜(ドラコン)として聖ゲオルギウスの仇敵となったのは、怪獣のたぐいではなく、そういうあだ名の人間であった。これはギリシア語では、過酷な法令を実施した為政者に与えられるあだ名で、古代アテネ史上のドラコンという執政者にちなむという説もある。又、聖ゲオルギウスはキリスト教を象徴、ドラゴンは異教徒を象徴しており、「ドラゴン=侵略者・敵」「聖ゲオルギウス=たのもしい解放者」とみなされ「聖ゲオルギウスとドラゴン」は、実はキリスト教の異教徒制圧を象徴しているものとする説もある。
B槍を突き刺した・・・聖ゲオルギウスは、アスカロンと呼ばれる剣を持ってドラゴンと戦い、見事に打ち倒したという説もある。
セントジョージ(ゲオルギウス)とドラゴン」(ラファエロ)の絵はこちらへ
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「セントジョージ(ゲオルギウス)とドラゴン」(パオロ・ウチェッロ)の絵はこちらへ
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「聖ゲオルギウスのドラゴン退治」(カルパッチョ)の絵はこちらへ
「聖ゲオルギウスのドラゴン退治」(ルーベンス)の絵はこちらへ
「聖ゲオルギウス」(モロー)の絵はこちらへ
[聖ゲオルギウスとドラゴン](トゥーラ)の絵はこちらへ
「聖ゲオルギウスと龍」(ティントレット)の絵はこちらへ
「聖ゲオルギウスと竜」(レリオ・オルシ)の絵はこちらへ
         (二)
当時の古代ローマ皇帝ディオクレティアヌスの御世(みよ)は、キリスト信者の大いなる迫害の時期であった。迫害のため一ヶ月に二十二万もの殉教者が出るありさまで、そのため恐れをなした者たちが神に背き、神を棄て、異教の偶像に供物(くもつ)をささげるしまつだった。聖ゲオルギウスは、これを見て取ると、騎士の身なりを捨て、持ち物をすべて売り払って貧民に与え、キリスト信者のいでたちに身をまとい、異教徒たちのただなかにいって叫けびはじめた「異教徒もその信者も、神々と信じるは悪魔どもなり。主(しゅ)こそが天国を造りましたる真の神なり」と。ローマ皇帝統治下のペルシャ皇帝ダキアヌスは、聖ゲオルギウスに言った「なんたるあつかましさだ。いったいいかなる権威を持って、我らの神々を悪魔らとのたまうか。そこもとの素性と名前は何と言う?」。聖ゲオルギウスは答えて言った「わたしの名はゲオルギウス、カッパドキアの騎士であるが、すべてを捨てて天にまします神に仕えております」。皇帝は、自分たちの信仰に聖ゲオルギウスをくつがえさせようとしたが、それはかなわなかった。そこで聖ゲオルギウスを吊るし木に吊るしあげ、大きな棍棒や、鉄の焼き串で打ち据えた。さらに鉄の刃をわき腹につきつけて、あらわになった臓腑に塩をなすりつけた。そして、聖ゲオルギウスを投獄したが、その同じ晩、主(キリスト)がその御姿をあらわし、彼を手厚く癒(いや)された。この大いなる慰めによって、聖ゲオルギウスは心を強くし、いかなる苦痛も恐れなくなった。
(参考)
@ディオクレティアヌスの御世・・・古代ローマ皇帝(在位 284-305)。帝国を東西に分け正帝・副帝をおく四分割統治を実施するなど、専制国家体制の確立に尽力、在位の末年にはキリスト教大迫害を行なった。
         (三)
皇帝ダキアヌスは、聖ゲオルギウスを屈服できないと悟ると、部下の魔道師(魔法使い)を呼び寄せて言った「何やらこいつらキリスト教徒どもは拷問にも怖(お)じない様子じゃ」。すると魔道師は「かならずや、きゃつめの力に勝ってみせます。さもなくば首を刎(は)ねられてもかまわない」と誓いにかけて約束した。そして毒をワインに混ぜ、邪なる神々の名において呪文を唱え、聖ゲオルギウスに飲めと勧めた。聖ゲオルギウスは、手にとった杯に十字を切り、ただちに飲んだが何のさしさわりもなかった。魔道師は、さらに強い毒をこしらえて飲ませたが、それでも何ともなかった。それを見た魔道師は、彼の足元にひざまづき、どうかキリスト信者にしてくれと嘆願した。皇帝ダキアヌスは、魔道師がキリスト教に改宗したと知って、即刻に首を刎(は)ねさせた。そしてあくる朝、両刃の鋭い剣が付いた車輪を用意させて、聖ゲオルギウスをこの車輪で轢(ひ)かせようとしたが、その車輪は壊れてしまい、聖者は無傷で無事だった。今度は皇帝ダキアヌスはぐつぐつと煮えたぎる鉛の入った大釜に、聖ゲオルギウスを放り込ませたが、これも主の加護あってまるで効果がなかった。皇帝ダキアヌスこれを見て、怒り狂いゲオルギウスに棄教を迫った。聖ゲオルギウスは膝(ひざ)を地につけて、天にまします神に祈った。すると、たちまち天から火がふりそそぎ、寺院を偶像や僧侶たちもろとも焼き、そして大地が口を開いてそれらをすべて飲み込んだ。皇帝ダキアヌスは憤怒のあまり、王妃に言った「こやつを何とかやり込めないことには、怒りがおさまらない」。すると、王妃は言った「あなたという方は、なんという暴君なのでしょう。キリスト教の人々に危害を加えてはならないと申し上げたではないですか? 彼らの神は、彼らのために戦ってくださるのですから。私もキリスト信者になりますので、覚えておいてくださいね」「なに、キリスト信者になるとな?」と皇帝ダキアヌスは王妃の髪を引っつかみ、容赦なく殴った。そして、聖ゲオルギウスの目の前で見せしめとして惨殺したが、死の間際(まぎわ)に王妃は聖ゲオルギウスに「私は洗礼を受けておりません」と訴えた。聖ゲオルギウスが王妃の信仰の厚さを祝福し「妹よ、貴方が今流すその血が洗礼となるのです」と答えると、天国を約束された王妃は、満足げに息を引き取った。ある朝、皇帝ダキアヌスは聖ゲオルギウスを市中引き回しの上、打ち首、獄門と判決をくだした。聖者ゲオルギウスは、主の名のもとにそれがかなわんことを、と主に祈った。すると天から声がとどき、願い事はかなえられたとのことだった。その祈りが終わると、聖者ゲオルギウスの首は跳ね飛ばされて、殉教者となった。西暦303年の4月23日のことであった。皇帝ダキアヌスが、斬首の処刑場から邸宅にむかうと、天から火が舞い降りて、皇帝ダキアヌスと彼に仕える者をことごとく焼き尽くした。
(参考)
@皇帝ダキアヌスは王妃・・・ダキアヌスは裁判官ダキアヌスとか、太守ダキアヌスとかいう説もある。裁判官ダキアヌスの迫害や拷問に屈せず、聖ゲオルギウスはダキアヌスの妻アレクサンドラを改宗させた等など。
A殉教者となった・・・聖ゲオルギウスが殉教した日を、スペインではサンジョルディの日とし、この日に女性は男性に本を贈り、男性は愛する女性に赤いバラ(聖ゲオルギウスが退治したドラゴンの血の色)を贈る習慣になったと言われている。
「聖ゲオルギウス」(デューラー)の絵はこちらへ
「聖ジョージ像(聖ゲオルギウス)」の絵はこちらへ


(小話790) 「太陽神アポロンと美少年キュパリッソス。そして、1000年生きた巫女シビュレ」 の話・・・
          (一)
ギリシャ神話より。キュパリッソスはケオス島に住んでいた、真っ黒な瞳をもつ背の高いきれいな少年だった。そして、オリュンポス十二神の一人、太陽神アポロンに愛された少年だった。彼は動物が大好きで牧場生活を好み、休憩時間はアポロン神と遊ぶのを日課にしていた。また彼は神聖なる美しい牡鹿をとても可愛がっていた。それはとても立派な牡鹿で、ニンフ(妖精)たちの聖獣としても扱われていた。ある夏の暑い日、彼は槍の練習をしていた時にその牡鹿がたまたま水を飲みに茂みの中に入ってきた。そうとは知らずキュパリッソスは槍を投げて偶然牡鹿に命中してしまった。いそいで駆け寄ると、牡鹿は無惨な姿で横たわっていた。彼はそれを見て、自分も死んでしまいたいと嘆き悲しんだ。アポロン神が急いでかけつけ慰めたが、キュパリッソスは「永遠に愛するものの死を悼むことを望む」と、かたい決心を和らげることはできなかった。アポロン神はその願いを聞き入れて「私は永遠にお前を悼(いた)もう、お前はまた永遠に人を悼んでいくがいい。そしてお前の居場所はこれからいつも墓場のそばに定めよう」。そしてキュパリッソスは、死者を哀悼する木「糸杉(サイプレス)」となって永遠に人を悼むこととなった。糸杉は、悲しみの樹として、今も教会などに植えられている。
(参考)
@アポロン神・・・大神ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ミューズの女神たちが彼に従っている。光の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。
A糸杉(サイプレス)・・・一説にはキリストが背負った十字架は、糸杉の木で作られたとも言われている。
「糸杉に変身したキュパリッソス」(不明)の挿絵はこちらへ
        (二)
ギリシャ神話より。アポロン神の神託を告げる美しい巫女(みこ)シビュレは、太陽神アポロンから求愛を受けた。そして、求愛を受けるなら永遠の若さを与えようと、アポロン神は巫女シビュレに約束したが、シビュレはこれを拒んだ。怒ったアポロン神はシビュレに呪いをかけた。そのためシビュレは、老いた姿で1000年生かされた。ローマ建国の祖アイネイアス(トロイア戦争の英雄)が冥界を訪問した折、巫女シビュレに道案内をしたが、その時点で彼女は700歳の老婆になっており、さらにこのあと300年生きなければならなかったという。
(参考)
@巫女シビュレ・・・シビュレはアポロンに愛されたため、贈物として、片手に握れる砂粒の数だけの生命をもらった。しかし、最初は長寿を喜ぶが、徐々に衰えをはじめた時に、贈物に永遠の若さを加えなかった事を悔やんだという説もある。シビュレ(シビュラ)はトロイアに住んでいた巫女であったが、アポロンから予言の力を授かり、人々に神託として6脚韻詩で予言を告げた。シビュレの名が広まると、やがてシビュレの名は巫女の総称として使われるようになった。
Aアイネイアス・・・ギリシア‐ローマ神話でトロイア戦争のトロイア方の英雄。女神アフロディーテを母とする。ギリシア軍に敗れてのち諸国を流浪、イタリアに渡ってローマ建国の礎を築いたという。(小話668〜670)「トロイア(トロイ)戦争・スパルタの美しき王妃ヘレネと王子パリスの恋。そして英雄アキレウスの活躍とトロイの木馬(1/3)(2/3)(3/3)」の話・・・を参照。
          

(小話789) オペラ(歌劇)「トゥーランドット(トゥーランドット姫)」 の話・・・
          (一)
いつとも知れない伝説の時代の北京。美しくも冷酷なトゥーランドット姫は、そのたぐい希(まれ)な美しさで、見るもの全ての心を奪い去った。今も宮殿(紫禁城)の城壁前の広場で「美しいトゥーランドット姫に求婚する男は、王族の血をひき、なおかつ彼女の出題する三つの謎を解かなければならない。解けない場合その男は斬首される」と役人が王女トゥーランドット姫の花婿の条件について、群集に向かって布告を読み上げていた。そして、今日も謎解きに失敗したペルシャの王子が、処刑されるという。その処刑を見に行こうとする人々がひしめき合っている中で、若い娘に手を引かれた盲目の老人が倒れた。老人は放浪の身のダッタン国(タタール=モンゴル系部族の一)のかっての王ティムールで、若い娘はティムール王と王子カラフ付きの女奴隷リューであった。彼女の悲鳴に一人の若者が駆け寄って来たが、それは身分を隠して放浪していたダッタンの王子カラフであった。三人は驚くと共に偶然の再会を喜び合った。やがて処刑の時が近づき、処刑されるペルシャの王子が刑場に引き立てられて来ると、月明かりのバルコニーにトゥーランドット姫が姿を現わした。ひと目見てカラフ王子は、姫の美しさに心奪われ、父のティムール王や女奴隷リューの止めるのも聞かず、求婚の合図のドラを叩こうとした。そこに宮廷のピン、ポン、パンの三人の大臣が現われ、カラフ王子の無謀な行為を諌(いさ)め、その上、首切り役人が切り落とされたばかりのペルシャ王子の首を持って現われても、カラフ王子の決心は強まるばかりであった。老いた王ティムールは悲嘆に暮れ、密(ひそ)かに王子カラフを愛する女奴隷リューも悲しい胸のうちを訴えたが彼は優しくリューを慰めると、人々の制止を振り切ってトゥーランドット姫の名を三度叫び、ドラを叩いた。
          (二)
ピン、ポン、パンの三人の大臣は、トゥーランドット姫の為に死刑になった男は今年はもう十三人だと嘆き、この首切り担当大臣に嫌気がさして、三人は故郷を懐かしがった。そして、大臣達は首を切られたサマルカンドやインドの王子達の事を話し、もしトゥーランドット姫の恋が成就したら花嫁の寝室を整えるし、そうなればこの国も平和になるだろうと話し合った。急に宮殿の中が騒々しくなり、三人の大臣達は、またどこかの王子の首が切られるのかと嘆きながら立ち去った。広場に集まった群集は、玉座(ぎょくざ)に座っている皇帝アルトゥムを讃(たた)えた。アルトゥム皇帝はカラフ王子の姫に対する求婚を止めさせようとしたが、カラフ王子の決心は固ったので、掟が厳正である事を宣言した。役人が掟を読み上げるとトゥーランドット姫が現われ、何故、自分がこのような謎を出題し、男性の求婚を断ってきたのかの由来を改めて述べた「かって先祖の美しいローリン姫は、異国の男性に騙(だま)され、絶望のうちに死んだ。自分は彼女に成り代わって、世の全ての男性に復讐を果たす」と。そしてトゥーランドット姫は、第一の謎を出した「毎夜、生まれては明け方に消えるものは?」。カラフ王子は答えた「それは希望」。姫は、第二の謎を出した「赤く、炎の如く熱いが、火ではないものは?」。「それは血潮です」。カラフ王子は二つまで正解した。トゥーランドット姫は、最後の謎を出した「氷のように冷たいが、周囲を焼き焦がすものは?」。カラフ王子は暫(しばら)く悩んだが、これも「トゥーランドット!」となんなく答えた。皇帝は感嘆し群集も万歳を叫んだ。しかし、謎がことごとく打破されたトゥーランドット姫は、父アルトゥム皇帝に「私は結婚などしたくない」と言い、翌日、さらに謎かけができるように皇帝に哀願した。だが、皇帝は「約束は約束」と認めなかった。すると、この様子を見たカラフ王子は、今度は自分からトゥーランドット姫に謎を出して「明朝までに自分の名前を言い当てたら喜んで死のう」と言った。皇帝は、明日は王子を我が子と呼ぶだろうと言い、人々は皇帝の徳を讃えた。
(参考)
@第一の謎を出した・・・第1の謎「暗い闇夜に飛び交い、暁とともに消え、人の心に生まれ、日毎に死に、夜毎に生まれるものは何か?」---「希望」。第2の謎「炎のようにゆらめき、燃え立ち、夕陽のように紅く、ある時は冷たく凍り、しかもそのかすかな呼び声を聴き分けることが出来るものは何か?」---「血」。第3の謎「氷のように冷たくて、汝には火を注ぎ、あなたを自由にまかせるかと思えば奴隷にし、奴隷にするかと思えばあなたを王とするものは誰か?」---「トゥランドット」。又は、第1の謎「毎夜に心によみがえるのは?」---「希望」。第2の謎「燃え上がるが火ではないのは?」---「血」。第3の謎「火をつける氷とは?」---「トゥランドット」などの訳もある。
          (三)
北京の街角のあちこちに、不思議な若者の名前が分かるまで「今夜は誰も寝てはならぬ」と言う布告が出された。カラフ王子は自分の勝利とトゥーランドット姫への愛を確信して、役人の布告の言葉を繰り返した「誰も寝てはならぬ(あと少しで姫は自分のものになる。夜明けとともに私は勝つ)」と。ピン、ポン、パンの三人の大臣がカラフ王子の前に現われ、美女や財宝で王子のご機嫌を取っては、王子の名前を聞き出そうとしたり、北京の町から出て行くように脅かしたりしたが、カラフ王子は全く受け付けなかった。そこへ、老ティムール王と女奴隷リューが、求婚者の名を知る者として捕縛(ほばく)され連行されて来た。そして、カラフ王子の自由を奪ってからティムール王が拷問に掛けられた。盲目で年老いた王が拷問を受けるのを見かねた女奴隷リューが「自分だけが彼の名を知っている」と言って、身代わりに拷問を受けた。そこへトゥーランドット姫が現われた。拷問に耐え、口を割らない女奴隷リューにトゥーランドット姫は「なぜ耐えられるのか?」と問うと、女奴隷リューは「愛の力があるから耐えられる。あなたの氷の心も愛でとけるでしょう」と言い、傍(かたわ)らの兵士の短剣を奪って自害した。ティムール王は哀れな女奴隷リューの遺体に取りすがり、人々は女奴隷リューの死を悼(いた)んだ。その時、姫は不思議な力に心を動かされた。人々が去り後に残されたカラフ王子は、トゥーランドット姫に情熱的に言い寄り抱きしめて接吻した。姫の冷たい心も次第に和らいで、はじめて涙を流した。それでもトゥーランドット姫は、カラフ王子に勝利者として立ち去るように言った。だが、すでに姫の心を征服したと確信した王子は「私はダッタンの王子カラフである」と名乗り、姫に命(いのち)を預けた。トゥーランドット姫は若者の名前がわかったと叫び、人々の待つ広場に向かった。朝日が輝く広場には、人々が集まっていた。トゥーランドット姫は高い玉座の父アルトゥム皇帝の前に進み出て「異邦人の名前が分かった。その名は愛!」と叫んだ。王子カラフはトゥーランドット姫めがけて階段を駆け上がり、姫と固く抱き合った。これを見て、皇帝も人々も歓呼の声を上げた。
(参考)
@作曲者はジャコモ・プッチーニ。作曲年は1921〜1924年。舞台は中世の北京、紫禁城。原作はカルロ・ゴッツィの同名の戯曲から。このオペラはプッチーニの最後のオペラで、第3幕ラストのトゥーランドットとカラフの二重唱からは、プッチーニが残したスケッチを弟子のアルファーノが補筆し完成させた。そのため、このオペラを初演した指揮者のトスカニーニは、二重唱の前のリューの死の場面が終わると指揮棒を置き、「作曲者はここのところで亡くなりました」と言って演奏を中断し、全曲演奏は翌日に持ち越した。
A「トゥーランドット」は、アラビアからペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型で「カラフ王子と中国の王女の物語」を焼き直して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であるという。
B「カラフ王子と中国の王女の物語」の概要。
        (一)
皇帝アルトゥンの娘トゥランドクトは、美貌と知性に恵まれていたが、男性への嫌悪から、結婚を拒んでいた。かつて、チベット王子との結婚話が持ち上がったとき、彼女は憔悴(しょうすい)して病気で死にそうになった。そのため「求婚するには、謎に答えなければならない。しかし正しく答えられなければ、宮殿の中庭で首をはねられる」という彼女の結婚の条件に皇帝は同意させられてしまった。このような過酷な条件にもかかわらず、彼女に魅せられた多くの者が命を落とした。ある日、タタール・ノガイ族の長だったティムルタシュと彼の息子カラフが、幾多の苦難ののち、北京にやって来た。ちょうど謎解きに失敗したサマルカンドの王子が処刑されるところであった。この王子の家庭教師からカラフは、トゥランドクト王女の肖像を見せられると、不思議な動揺に襲われ、即座にすっかり魅せられてしまった。そして彼女に求婚するために、謎解きに挑んだ。第1の謎「世界中のすべての人の友達で、自分と同等の者に我慢できないもの」「太陽」と答えた。第2の謎「子供たちを産んで、大きくなると、彼らをむさぼり食う母親」「海」と答えた。第3の謎「表が白、裏が黒の色の葉をもっている木」「一年」と答えた。カラフは謎解きに成功した。観衆は歓声を挙げるが、王女は絶望し、翌日、さらに謎かけができるように皇帝に懇願した。しかし皇帝は認めなかった。するとカラフは、自分が出す謎に彼女が正しく答えられば、自分の権利を放棄すると言った。「数々の苦労を味わってきたが、今は栄光と喜びの絶頂にある王子の名前は?」トゥランドクト王女は朝までの猶予を求めた。
        (二)
夜遅く、トゥランドクト王女の女奴隷アデルミュルクがカラフのもとへやって来た。彼女はある国の王の娘だったが、皇帝アルトゥンに征服され、今は奴隷で身であった。トゥランドクト王女がカラフを暗殺しようとしていると、女奴隷アデルミュルクはカラフに信じ込ませた。カラフはすっかり動揺し、自分と父の名前を漏らしてしまった。 女奴隷アデルミュルクはカラフに愛を告白し、一緒に自分の親族のところへ逃げようと誘った。しかしカラフはそれを拒否しため、彼女は絶望した。 翌日、トゥランドクト王女は謎に答えた。「王子の名はカラフ、ティムルタシュの息子」カラフはがっくりし、気を失った。正気に戻ると、どんでん返しが起きた。王女は言った。「彼に対して新たな気持ちを感じるのです。彼の能力、父が示した愛情に対して。私は結婚に同意します」。皆は歓呼の声を挙げた。皇帝は娘を抱擁し、名前を知った理由を尋ねた。すると王女は言った。「奴隷の一人が、夜に秘密を巧みに引き出したのです。王子はその裏切りを許してくれるでしょう。私がしたのではないのですから」。すると女奴隷アデルミュルクはベールを取って言った。「私がカラフ王子と会ったのは、名前を知るためでも、王女に仕えるためでもありません。奴隷から脱したかったのです。あなたの愛する人を連れ出して。だが彼は私の頼みを退けました。嫉妬から、私は嘘の告白をしたのです。それで彼は名前を漏らした」そう言うと、女奴隷アデルミュルクは短刀をとり、自害した。彼女の葬儀のあと、トゥランドクト王女とカラフ王子の挙式が取り行なわれ、皇帝の助力で、カラフ王子の父は自分の王国を取り戻した。


(小話788)「斉(せい)の霊公(れいこう)と宰相、晏子(あんし)」 の話・・・
         (一)
中国は春秋時代、斉(せい)の霊公(れいこう)は男装の麗人(れいじん)を好んだ。すると、国中の女性が男装をするようになった。霊公は官吏に命じて、一般女性の男装を禁じる令を出し「もし男装をしている女子を見つけたならば、すぐさまその衣を裂き、帯を切れ」と命じた。ところが、男装をした女性が官吏に衣を裂かれ、帯を切られるということがたびたびあったにもかかわらず、男装の風潮は一向に収(おさ)まる気配がなかった。霊公がその理由を宰相の晏子(あんし)に尋ねた。「わしは女子の男装を禁じさせ、違反した者の衣帯を裂いているというのに、改(あらた)まらぬのは如何(いか)なるわけであろうか?」。晏子(あんし)は「君は宮中では女子に男装をさせる一方で、外ではこれを禁じておられます。これではまるで、「羊頭狗肉(ようとうくにく=表に牛の首を懸けておいて、中では馬の肉を売っているのと同じ)」ではありませんか。どうして宮中でも男装をお禁じにならないのですか。そうなされば、市井でもあえて行おうとする者はなくなりましょう」と進言した。「わかった」と霊公が、宮女の男装を禁じたところ、間もなく国中で男装をするものはいなくなった。
  (参考)
@晏子・・・前6世紀頃、斉(せい)の霊公・荘公・景公の三代に仕えた。税を軽くして人民の生活を安定させ、主君にも奢侈を慎む事を進言し、自らも質素倹約を守り、斉を支えた名宰相。有名な孔子が諸国を遊説して歩き出した初めの頃、斉に就職活動にやって来た。しかし、晏子(あんし)は、あまり英明でない時の君主に、階段の上り下りまでやかましくいう様な儒教は毒にこそなれ薬にはならないと判断して拒否した。「史記」を書いた司馬遷は「今の時代に晏子が生きていたなら、わたしは御者(ぎょしゃ)となってでも仕えたい」と言ったという。
A羊頭狗肉・・・「羊頭を掲げて狗肉を売る」を略した四字熟語。出典は中国宋時代の禅書「無関門(むかんもん)」。店頭の看板には「羊頭(羊の頭)」を掲げ、実際には「狗肉(犬の肉)」を売る意味であった。転じて、見せ掛けは立派だが実物は違うといった意味に使う。
B春秋時代、斉の宰相晏子の書「晏子春秋」より。
         (二)
晏子(あんし又は晏嬰(あんえい))は斉(せい)の霊公・荘公・景公の三代に仕え、その倹約と努力によって斉で重用された。斉の宰相となってからのこと、晏子(あんし)は、食事には肉を二品以上出さず、下女たちには絹を着せなかった。朝廷にいる時は、君主の下問が晏子に及べば正論を述べ、下問が晏子に及ばなければ、誠意をもって政務に励(はげ)んだ。国に正しい政治が行われていれば君命に従い、正しい道が行われていないときは君命を検討し、行うべきことを行った。このため、斉は三代にわたって諸侯に名声が響き渡った。ある時、宰相の晏子(あんし)が外出したことがあった。晏子の御者(ぎょしゃ)の妻は門の間から、自分の夫の御者を窺(うかが)っていた。彼女の夫は宰相の御者となって大きな傘を擁(よう)し、馬に鞭打って意気揚揚として甚(はなは)だ得意気であった。御者の夫が外出から帰って来たとき、彼女は夫に離婚したいと申し出た。夫は理由を聞いた。彼女はこう言った「晏子は、身長は六尺(約135cm)にも達されませんが、その身は斉国の宰相であり、名声は諸侯に響き渡っています。今、私めが晏子の外出される様を見ましたところ、思慮深そうでした。そして、常に自らへりくだっておられます。しかし今、あなたは、身長は八尺(約180cm)ありますが、下僕(げぼく)としての御者に過ぎません。それなのに、あなたは自らこれで得意気に満足しておられるご様子です。私めはこのために離婚したいと申し上げているのです」。その後、晏子の御者はできるだけ自分を抑えるようにした。晏子は不思議に思って、このことについて聞いた。御者は事実を答えた。晏子は、この御者を推薦して大夫(たいふ=領地を持った貴族)にした。
(参考)
@景公・・・王位に上がった景公は晏子(あんし)を入閣させた。その後も景公に対して諫言をなし、国を大いに栄えさせた。晏子(あんし)が亡くなったとき景公は泣哭(きゅうこく)し続け、葬儀における礼を外したので側近が「非礼でございます」といったところ、景公はこう言った「このようなときに礼が何か。わしはかって、一日に三度、晏子に諫(いさ)められたときがある。だが、聴(き)かなかった。今後わしにそうする者はいまい。晏子を失えば、わしの亡びも遠くあるまい。亡ぶ者に礼が必要か」。
A春秋時代、斉の宰相晏子の書「晏子春秋」より。


(小話787)「イソップ寓話集20/20(その23)」 の話・・・
        (一)「マーキュリー神と彫刻家」
ある時、マーキュリー神は、人間がどれくらい、自分を敬(うやま)っているか確かめてみようと思った。そこで、人間の姿に身をやつし、沢山の彫像が陳列してある彫刻家の工房を訪れた。まず彼は、ジュピター神と女神ジュノーの神像の値段を尋ねてみた。そして次に、自分の神像を指してこんなことを言った。「こっちの神像は、もっと高いんだろうね? なんたって、こっちは神々の伝令であり、そして富を司る神様なんだからね」すると、彫刻家はこう答えた。「分かりました。もし、あなたが、ジュピターとジュノーの両方を、お買い上げ下さるのなら、これはおまけします」
(参考)
@マーキュリー神・・・ギリシア神話のオリュンポス十二神の一人で、大神ゼウスの子のヘルメス神のこと。ヘルメス神は神々の使者を務めるほか、富と幸運の神で、商業・発明・盗人・旅行者などの守護神。ローマ神話のメルクリウス(マーキュリー)にあたる。
Aジュピター・・・ギリシア神話の最高神ゼウスのこと。天候・社会秩序をつかさどる。父神クロノスを王座から追放し、3代目の支配者となった。ローマ神話のユピテル(ジュピター)にあたる。
Bジュノー・・・ギリシア神話で、オリュンポスの最高女神ヘラのこと。大神ゼウスの姉にして妻。女性の結婚生活を守る神とされ、嫉妬(しっと)深く、夫の愛人やその子を迫害。ローマ神話のユノにあたる。
        (二)「ハクチョウとガチョウ」
ある大変金持ちの男が、市場でガチョウとハクチョウを買い、一匹は、食卓に供するために、もう一匹は、歌声を聞くために餌を与えて飼っていた。そして、とうとうガチョウが殺される日が来た。夜、料理人がガチョウを捕まえに行った。しかし、暗かったので、ガチョウとハクチョウを見間違えて、取り違えてしまった。死の恐怖が迫った時、ハクチョウは突然、歌い出し、自分が何者であるかを知らせた。こうしてハクチョウは、自分の歌声で命拾いをした。
        (二)「腹の膨(ふく)れたキツネ」
腹ぺこキツネは、ヒツジ飼いが、カシの木の洞(うろ=内部が空になっているところ)に忘れていった、パンと肉を見つけると、その穴に這い入って、たらふく食べた。しかし、すっかり食べてしまうと、腹がぱんぱんに膨れて、そこから抜け出せなくなっていた。キツネがこの不運を嘆き悲しんでいると、その声を聞きつけて、仲間のキツネがやってきた。そして、事の次第を知ってこう言った。「まあ、そう嘆きなさんな。入った時と同じ姿になれば、簡単に出られるさ」


(小話786)「太陽神アポロンと美少女キュレネ。そして、その息子で養蜂の神アリスタイオス」 の話・・・
       (一)
ギリシャ神話より。悲恋や失恋が多い高貴な太陽神アポロンの恋が成就した数少ない相手の一人は、美しい河のニンフ(妖精)キュレネであった。キュレネは、ペネイオス河神の娘で、三美神にも比されるほどの絶世の美少女でありながら、糸紡(いとつむ)ぎや機織(はたお)りといった娘らしい仕事にはまるで興味がなく、槍を握り剣を帯びて山野を駆け、野獣を狩るのが趣味という女丈夫(じょじょうぶ)であった。キュレネは、アポロン神の姉であるアルテミス女神のお伴(とも)の一人で、その腕前を讃えた女神から、二匹の猟犬を贈られるほどに気に入られていた。その上、美しい彼女は、乙女とも思えぬ剛力自慢であり、恐れを知らない胆力の持ち主であった。ある日、彼女がペリオン山中にたった一人で、しかも素手(すで)で荒々しい大獅子と格闘している現場を目撃した太陽神アポロンは、その勇ましい姿に一目惚れした。たちまち熱い想いに、胸を燃え上がらせたアポロン神であったが、姉のアルテミス神に似ている女狩人はおしなべて処女を誓った男嫌いであり、恋を迫っても報われる確率はなかった。そこで、この美しいキュレネが確実に自分と結ばれる運命かどうか確かめたいと思ったアポロン神は、半人半馬の賢者ケイロンの洞窟に駆け込み、予言力を持つ彼に呼びかけた。「ケイロン、ちょっと出てきてあれを見ろ、もの凄い美人があんな細腕で巨大な獅子を投げ飛ばしている。何たる勇気だ、素晴らしい。あの乙女がどこの誰なのか教えてくれ。ついでに、彼女と俺の運命も教えてもらえるとありがたい」。賢明なるケイロンは、若きアポロン神に言った。「デルポイ神殿の主よ、予言の第一人者たるあなたがそれをお尋ねになるというのですか? でも、ご安心なさい、アポロン様。あの勇敢なる乙女、大河ペネイオスの娘キュレネはあなたの花嫁になるでしょう。天翔(あまがけ)る黄金の戦車に彼女を乗せてリビアの北岸にお向かいなさい。そこが運命によってお二人に約束された、新婚の臥所(ふしど)です」。「おおっ、そうか」。恋の成就のお墨付きを得たアポロン神は、狂喜乱舞した。そうと決まれば即実行で、アポロン神は風のごとくキュレネの背後に迫るやいなや、驚く彼女を天馬の牽(ひ)く黄金の戦車にさらい上げ、大空へと舞い上がった。目指すはリビアで、そこは予言によって示された祝福の地であった。「何するの。あなた誰よ、放しなさいっ」「こらこら、落ち着いて、暴れないで。怪しい者じゃない。我が名はアポロン神、誉(ほま)れも高きレト女神の子だ」。乙女を宥(なだ)めすかしながらアポロン神は戦車を駆り続け、ケイロンの指示通り、リビア北岸に辿(たど)り着いた。不毛な砂漠だらけの中に一際(ひときわ)みずみずしく輝く緑(みどり)豊かなオアシスを見つけて舞い降りると、この大陸の名の元である女神リビュエ(大神ゼウスの孫娘)が喜んで二人を出迎えた。リビュエ女神はアポロン神の花嫁となるべき女性に敬意を表して、美しいキュレネをまばゆい黄金の宮殿に案内した。そればかりか、周辺の土地一帯をも彼女の領地に差し上げようと申し出るほどの、大変な歓待ぶりであった。夢のような待遇に呆然とするキュレネだったが、このとき、日頃はあまり好意的でない愛の美の女神アプロディーテが珍しくアポロン神に肩入れし、閨(ねや)の上に甘い恋のムードを燃え上がらせたので、両者はめでたく結ばれた。
(参考)
@太陽神アポロン・・・大神ゼウスとレトの子で、デロス島に生まれた。神々の中で最も美しい神で、芸術の守護神とされ、ミューズの女神たちが彼に従っている。光の神であり、真理の神、ときには太陽の神とも見られている。
A三美神・・・ギリシャ神話における美と優雅の女神たちカリテス(単数形、カリス)。エウブロシュネ(喜び)、タレイア(花のさかり)、アグライア(輝き)の三女神を指す。美しい若い娘の姿で表わされる。
B賢者ケイロン・・・神々の二代目の王・クロノスとピリュラの子で、大変賢く、音楽、医術、予言の力を手にし、狩りを覚えた。やがて、彼は、テッサリア地方ペリオン山の洞窟に住み、イアソン、ヘラクレス、アキレウス、アスクレピオスなどの多くの英雄を育てた。今回はアポロン神にキュレネを恋人とするように助言したり、アポロン神とキュレネの子供のアリスタイオスを教育したり、アポロン神の子供であるアスクレピオスに医術を教えたり、アクタイオンを育てたりした。
Cリビュエ・・・ポセイドンとの間に、双子のベロスとアゲノルを、レレクスを生む。また、イオの孫娘であり、エウロペの祖母。北アフリカの一帯を支配する女王で、リビュエとは「降雨」を意味している。乾燥しているこの土地で、司祭でもある彼女が行う降雨の儀式は重要な物だった。現在のリビアの語源でもある。
       (二)
こうして誕生したのが、後(のち)に養蜂(ようほう)の神となるアリスタイオスであった。太陽神アポロンは初めての我が子にふさわしい教育を与えるべく、幼いアリスタイオスを母キュレネの手元から引き離し、神々の伝令神ヘルメスに命じて大地母神ガイアと季節の女神ホーライたちのもとへ送った。女神たちはアポロン神の愛児ということで心をこめて彼を育て、神々の食事ネクタルと神々の果実アンブロシアを食べさせて不死身の神にした上、蜜蜂の飼い方やチーズの作り方、オリーヴ油の搾(しぼ)り方といった大変に役立つ知識を授けた。また、アポロン神に仕える詩神ムーサたちも主人の息子であるアリスタイオスを愛し、父のアポロン神の権能である医術と予言術、そして牧畜の業を教えた。一方、母親のキュレネは、愛する息子を取り上げられたので退屈な日々を過ごしていた。愛(いと)しいアポロン神もオリュンポスに帰ってしまった今、キュレネが独りこの地に束縛されていなければならない義理もなく、もともと世俗的な栄誉や富に関心の薄かった彼女はさっさと黄金のリビアの宮殿を飛び出し、姉妹や仲間のニンフ(妖精)たちが暮らす父ペネイオス河神の館へ帰ってしまった。
(参考)
@季節の女神ホーライたち・・・ホーライは複数形で単数形ではホーラという。いずれも時間の意味。また、季節女神とも訳される。大神ゼウスとテミス女神の娘とされる。季節の秩序を司る事から、植物や花の生長を守護する女神とされ、また人間社会の秩序をも司る。それ故、彼女達は、花を手にした優美な乙女の姿で表わされる。三姉妹はエウノミア(秩序の女神)、ディケ(正義の女神。人類を見守り、人類が不正を働いた時にはこれをゼウスに訴えるという)、エイレネ(平和を司る)という。
Aリビアの宮殿・・・アポロン神はキュレネを讃えて喜ばせるため、リビュエが提供してくれた土地にエーゲ海のテラ島から民を集めて植民都市を造り、その町を「キュレネ」と名付けた。リビアでも有数の肥沃な土地に建てられたキュレネ市はその後目覚ましい発展を遂げ、古代地中海世界にその令名を轟かせた。
       (三)
やがて、月日が流れて健(すこ)やかな若者に成長した養蜂の神アリスタイオスは、詩神ムーサたちが持ってきた縁談に従って結婚式を挙げた。その相手は調和の女神ハルモニアがテーバイ王カドモスに嫁いで生んだ四人の娘の一人、アウトノエだった。軍神アレスと美と愛の女神アプロディーテの孫娘に当たり、アポロン神の息子の妻となるにふさわしい、高貴で美しい女性であった。しかし、二人の間に芽生えた愛はさほど深いものではなかった。息子アクタイオンをもうけはしたものの、この息子がアポロン神の姉である月と狩猟の女神アルテミスの水浴を覗(のぞ)いた咎(とが)で怒った女神に殺されてしまうと、悲嘆に暮れた父親アリスタイオスは、妻アウトノエを残してテーバイの地を去ってしまった。そして、諸地域を転々とした末にようやく腰を落ち着けたのは、祖父であるペネイオス河神の清流が流れるテンペの谷で、もともと牧夫の神でもあるアリスタイオスには、豪奢なテーバイ王宮よりも、こういう自然の中で暮らす方が性に合っていた。あるとき、アリスタイオスはデルポイ神殿でアポロンの神託を受け「ケオス島に行け。そこでお前は大変な尊敬を受けることになろう」と告げられた。養蜂の神アリスタイオスがケオス島に赴(おもむ)くと、この地に天狼星(てんろうせい)シリウスが酷暑をもたらし、疫病が蔓延(まんえん)していた。これは、イカリオスを暗殺した罪人たちを島人たちがかくまったためであった。アリスタイオスは、山中に巨大な祭壇を築かせ、大神ゼウスに生け贄を捧げて罪人たちを処刑した。すると大神ゼウスはこれに応えて風の神に命じ、40日間涼しい風を送ったので、疫病もやんだ。このことで、アリスタイオスは島人たちの感謝と尊敬を一身に集め、島では毎年シリウスが空に現れる前に大神ゼウスに捧げものを供えるようになった。
(参考)
@女神ハルモニア・・・調和の女神ハルモニアは軍神アレスと美と愛の女神アフロディーテの娘である。(小話404)「英雄カドモスのドラゴン退治とテーバイ建国」の話・・・を参照。
A息子アクタイオン・・・(小話428)「月と狩猟の女神・アルテミスと鹿になったアクタイオン」の話・・・を参照。
B天狼星(てんろうせい)シリウス・・・全天で最も明るい星。古代エジプトでナイル川の氾濫(はんらん)を前触れした星として有名で、シリウスは人々から「ナイルの星」と呼ばれるようになった。シリウスは、「英雄アクタイオンが連れていた犬」「狩猟の女神アルテミスの美しい従者プロクリスの連れていた犬」でも一番有名なのが「猟師オリオンの猟犬」との見方が一般的である。(小話13-352)「美しき狩人・オリオンと女神・アルテミス」の話・・・と(小話21-384)「狩人・ケパロスとその美しい妻・プロクリス」の話・・・を参照。 Cイカリオスを暗殺・・・イカリオスは酒神ディオニュソスより葡萄の木と酒の造り方を授かっていた。ある日、村人に神の恵みを分け与えようと葡萄酒を飲ませた。ところが村人達は葡萄酒を毒を盛られたと勘違いしてイカリオスを殺してしまった。この父の行方(ゆくえ)を探がし歩いたのが娘のエリゴネと愛犬メーラであった。(小話516)「各地を遍歴する酒神・ディオニュソス」の話・・・を参照。
       (四)
養蜂の神アリスタイオスは、テンペの谷で蜂や家畜を飼いながらのびのびと気楽な生活を送った。そんなある日、アリスタイオスは川沿いの草原で一人の美しいニンフ(妖精)を見かけた。清楚な姿の女性で、仲間のニンフたちと笑いさざめきながら散歩をしていた。養蜂の神アリスタイオスの心を虜(とりこ)にした、そのニンフの名はエウリュディケで、トラキアに住むドリュアス(木の妖精)の一人で、竪琴(たてごと)の名手オルフェウスと先日、結婚式を挙げたばかりという新婚の人妻であった。そうとは知らないアリスタイオスの胸の炎はますます激しくなるばかりで、ついに我を忘れてニンフたちの群れに突撃した。突然の男の乱入にニンフたちはわっと蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。アリスタイオスは逃げる女を追いかけたが、エウリュディケは長い髪を揺らして逃げに逃げまくり、とうとう彼を振りきって視界から消えてしまった。しかし、アリスタイオスに追われたエウリュディケは、逃げていく途中で草むらに潜んでいた毒蛇を踏みつけ、細い足首を噛まれて死んでしまった。最愛の妻を新婚早々奪われたオルフェウスや、彼女の友人だった木の妖精たち(ドリュアス)は嘆き悲しんだ。妻の死を受け入れられなかったオルフェウスは、命(いのち)ある身でありながら、冥府にまで下ってエウリュディケを取り戻そうとした。冥王ハデスと王妃ペルセポネは「地上に着くまで決して妻の方を振り返ってはならない」という条件付きでそれを許されたが、妻を見たくてたまらないオルフェウスは、最後の最後に振り返ってしまったため、妻は冥界に帰ってしまった。生きることに絶望したオルペウスは、その後の日々をひたすら亡き妻への追悼に捧げ、他の女たちの言い寄りをことごとく拒絶した。そのため、侮辱されたと怒った女たちから袋叩きにされ、四肢(しし)を引き裂かれて殺されてしまった。後(あと)に残された木の妖精たちはますます嘆きを深めると同時に「あの男。あの男さえ、あんな真似をしなければ」という激しい怨嗟が森に渦巻き、強烈な呪詛(じゅそ)となって養蜂の神アリスタイオスの身に襲いかかった。そして、彼が何よりも大切にし、誇りに思っていた蜜蜂たちを瞬(またた)く間に全滅させてしまった。巣箱からこぼれ落ちる無数の蜂の死骸を見てアリスタイオスは呆然とした。
(参考)
@竪琴(たてごと)の名手オルフェウス・・・(小話332)「竪琴(たてごと)の名手オルフェウスとその妻」の話・・・を参照。
         (五)
困り果てた養蜂の神アリスタイオスは、母親のキュレネに相談した。「原因は分かりません。あなたですら分からないのですから、いかに私が神と言えどもそれを知ることはできません。ですが、知恵を授けることはできます。現在・過去・未来のことならば何でも知っている「海の長老」と呼ばれる神プロテウスがいます。彼を訪ねれば、蜜蜂が全滅した原因も、理由も分かるでしょう」「では、彼を訪ねればいいのですか?」。だが、キュレネは言った「プロテウスは頑固者で有名な神でもあります。あなたの要求には耳を貸すどころか、姿すら現わさないかもしれません。少々手荒ですが、ムリヤリ捕らえて脅す必要があります。その方法と策を教えましょう」。こうして、母親キュレネの友人のニンフ(妖精)たちの導きで、アリスタイオスは川のほとりの洞穴に到着した。ここは海の長老プロテウスの住むところで、決まって昼寝の時間だけはこの洞穴で眠った。アリスタイオスが洞穴の影に隠れていると、ほどなく川の中からアザラシの群れと共にプロテウスで現われ、昼寝のためにそのまま洞穴に入り、静かに寝息を立て始めた。プロテウスが眼を覚ました時、既にその体は鉄の鎖に縛られていた。鎖の先は両方ともアリスタイオスの手に握られていた。「プロテウス。俺の質問に答えて欲しい。そうすれば、すぐにこの鎖を解くよ」。プロテウスは逃げようとして様々に姿を変えたが、アリスタイオスの縛った鎖からは逃れられなかった。「分かった。お主のハチを殺した犯人じゃな? それは木のニンフ(妖精)たちの仕業じゃ」「ニンフ?」「うむ。まさか忘れてはないとは思うが、お主がしばらく前に想いを寄せていたエウリュディケ。彼女の死を、友人の木のニンフたちはお主のせいじゃと思うておる」「それでハチを。どうすれば?」「その木のニンフ(妖精)たちのために祭壇を築き、生け贄を捧げ、エウリュディケのために涙を流すのだ。心からな。九日の間、続ければ、生け贄(にえ)に捧げた家畜の死骸に「希望」が残されておろう」。アリスタイオスは忠実にその予言を実行した。エウリュディケの友人である木のニンフ(妖精)たちにまず詫び、彼女たちのために今まで蜂蜜(はちみつ)売りで稼いできた全財産を祭壇の建築に投じた。さらに、エウリュディケの墓の前で九日間、泣き続けた。そして、海の長老プロテウスが約束した九日目になった。そこで、生け贄を捧げた祭壇へ足を運(はこ)んでみた。すると、そこには山のような蜂の巣があった。真摯(しんし)な態度でエウリュディケの死を償(つぐな)った、アリスタイオスに対する神々からの贈り物であった。こうして、アリスタイオスは、再び養蜂の神として、多くの人々の崇拝を受けたのであった。
(参考)
「キュレネを連れ去るアポロン」(ブリッジマン)の絵はこちらへ の絵はこちらへ
「養蜂神アリスタイオス」(不明) の絵はこちらへ
「アリスタイオス」の像の絵はこちらへ


(小話785)「若い主婦と四人の男」 の話・・・
        (一)
民話より。ある夏の暑い日、若い主婦が小さな包みを持って実家へ帰る途中、あまり暑いので街道の大きな木の陰で少し休んでいると、暫(しばら)くしてそこへ僧が涼(すず)みに来て座り、また暫くすると学者が涼みに来て座った。それからまた車を引いた商人が涼みに来て座り、次に鍬(くわ)を担(かつ)いだ百姓が涼みに来て座った。こうして、若い主婦の周(まわ)りに座った僧と学者と商人と百姓は、ちらりちらりと流し目を使いながら、この若い主婦の気を引こうとした。僧は若い主婦に目をやりながら「拙僧の寺に来れば、富貴と栄華が持ちきれないほどの暮らしが出来る」と言った。するとそれを聞いた学者がやはり若い主婦の顔を見ながら「筆、墨、硯(すずり)、綾、錦(にしき)、何でも欲しけりゃわしの家へ来るがいい」と言った。
        (二)
車を引いた商人も黙ってはいない「俺には車が二台ある、俺の屋敷に来れば金は使い放題だ」と言うと、鍬(くわ)を担いだ百姓も負けずに「おいらの鍬も大きいぞ、おいらの家には米、麦、高粱(こうりょう=モロコシの一種)、五穀、何でも食べ放題だ」と言った。若い主婦は何も言わず、ゆっくり休んで涼(すず)むと、小さな包みを持って立ち上がり、ポンと胸を叩くと「あたしの大きな左の乳房はお坊さんに、右の乳房は学者さんに、背中におんぶはお百姓、膝に這(は)い這い商人さん。分かってるのあんたたちは、そうやっておっかさんに甘えて育ったのよ。つまり、あたしはあんたたちのおっかさんというわけ」若い主婦はそう言うと小さな包みを持ってさっさと歩き出した。僧と学者と商人と百姓は何も言えず、若い主婦に一本とられた。


(小話784)「山そう(さんそう)」の話・・・
        (一)
宋(そう)(南朝)の元嘉(げんか)年間のはじめである。富陽(ふよう)の人、王(おう)という男が蟹(かに)を捕るために、河のなかへ梁簀(やなす)を作って置いて、あくる朝それを見にゆくと、長さ二尺ほどの材木が梁簀(やなす)のなかに横たわっていた。それがために竹は破れて、蟹は一匹もかかっていなかった。そこで、その材木を岸の上に取って捨て、竹の破れを修繕して帰って来たが、翌日再び行ってみると、かの材木は又もや同じところに横たわっていて梁簀(やなす)を破ること前日の如くである。「これは不思議だ。この林木は何か怪しい物かも知れないぞ、いっそ焚(や)いてしまえ」
(参考)
@梁簀(やなす)・・・竹や葦(あし)を編んで作った簀。梁の魚道に張る。
        (二)
蟹を入れる籠のなかへかの材木を押し込んで、肩に引っかけて帰って来ると、その途中で籠のなかから何かがさがさいう音がきこえるので、王(おう)は振り返ってみると、材木はいつの間にか奇怪な物に変っていた。顔は人のごとく、体は猴(さる)の如くで、一本足である。その怪物は王(おう)に訴えた。「わたしは蟹が大好きであるので、実はあなたの竹を破って、その蟹をみんな食ってしまいました。どうぞ勘弁してください。もしわたしを赦(ゆる)して下されば、きっとあなたに助力して大きい蟹の捕れるようにして上げます。わたしは山の神です」「どうして勘弁がなるものか」と、王(おう)は罵った。「貴様は一度ならず二度までも、おれの漁場をあらした奴だ。山の神でもなんでも容赦はない。罪の報いと諦めて往生しろ」。怪物はどうぞ赦してくれとしきりに掻き口説(くど)いたが、王(おう)は頑として応じないので、怪物は最後に言った。「それでは、あなたの姓名はなんというのですか」「おれの名をきいてどうするのだ」「ぜひ教えてください」「忌(いや)だ、いやだ」。なにを言っても取り合わない。そのうちに彼の家はだんだん近くなったので、怪物は悲しげに言った。「わたしを赦してもくれず、また自分の姓名を教えてもくれない以上は、もうどうにも仕様がない。わたしもむなしく殺されるばかりだ」。王(おう)は自分のうちへ帰って、すぐにその怪物を籠と共に焚いてしまったが、寂(せき)としてなんの声もなかった。土地の人はこのたぐいの怪物を山そう(さんそう)と呼んでいるのである。かれらは人の姓名を知ると、不思議にその人を傷つけることが出来ると伝えられている。怪物がしきりに王(おう)の姓名を聞こうとしたのも、彼を害して逃がれようとしたものらしい。
(参考)
岡本綺堂の「捜神記」より。


(小話783)「聖女ウルスラと10人の側近の乙女。そして、1万1000人の乙女たち」の話・・・
         (一)
伝説より。ウルスラはブルターニュ地方のキリスト教国の王女であった。彼女の美しさは他国でも評判で、イングランドの国王が嫁に欲しいと言ってきた。しかし、当時(5世紀中頃)の英国は、まだキリスト教が少数派で、大半は異教徒(ケルトやローマの神を崇(あが)めていた)であった。父親は異教徒であるイングランド国王に娘を渡したくなく、又、熱心なキリスト教信徒であった娘のウルスラも結婚に応じるはずはなかったが、意外にもウルスラは求婚に応じたのだった。父親の国は小さく、ケルト系やローマ系の異教徒の多いイングランド勢に対抗できなかったのであった。そこで、敬虔なクリスチャンのウルスラはイングランド国王に、次のような結婚の条件を出した。(1)私(ウルスラ)に10人の乙女をつけること(側近のようなもの)(2)私(ウルスラ)と10人の乙女に、それぞれ1000人の乙女を仲間として与えること(計1万1000人)(3)この人数が乗れる船を用意すること(4)この1万1000人がキリスト教によって清められるまで三年間は結婚を待つこと(5)そのあいだに花婿もキリスト教徒になること。こうして、ウルスラは側近の10人の乙女と1万1000人の乙女を率(ひき)いて、キリスト教の聖地であるローマへ赴(おもむ)くことをイングランド国王に要求した。この無理難題にイングランド国王は折れると思われたが、国王はそれを承諾した。国王はそれ程までに美しい王女ウルスラに惚れ込んでいた。かくして、ヨーロッパ各地から乙女たちが集められた。乙女たちが集まるとウルスラは、秘密の計画を打ち明けた。ウルスラは乙女たちをキリスト教徒に改宗させると、まず軍事訓練を始めた。武器を持ち、あるていど自分の身が守れるようになると、船を東へ向かわせた。そして、ウルスラは、側近の10人の乙女と1万1000人の乙女を率(ひき)いて、大陸へ上陸すると、ローマを目指した。ウルスラは、滞在先のドイツのケルンで天使の訪問を受け、天使から「あなたはもう一度ケルンに戻り、殉教(じゅんきょう=自らの信仰のために生命をささげること)の栄光を受けることになります」と宣告された。やがてウルスラたちはローマに到着した。1万1000人の中でまだ洗礼を受けていなかった者は、この地ローマで洗礼を受けた。
(参考)
@聖女ウルスラ・・・聖女ウルスラは、これまで架空の聖人とされてきたが、12世紀、1106年にケルンの聖ウルスラ教会のある場所を発掘したところ、大量の遺骨が発見されたことによって実在の人物であり、ケルンでの大虐殺も事実であったことが証明された。しかし、カトリック教会では、現代においてはウルスラの物語は、歴史的事実に基づかないほぼ完全な創作と見なされて、1969年に教皇パウロ6世は、カトリック教会の聖人のリストの見直し、歴史的実在性の低い聖人たちを聖人暦から除外した。このときウルスラも除外された。
A1万1000人の乙女・・・ドイツのケルンには、聖女ウルスラと乙女の殉教者に関する伝承が存在したが、出典となる記録に応じて数が異なり、2名または11名の少人数の範囲であった。1万1千人の乙女という数字は、9世紀になってはじめて登場したもので、このような膨大な人数が言及されるようになった、その理由として考えられるのは、一つは、殉教者を2名として、その名を「ウルスラとウンデキミリア(11なる千)」または「ウルスラとキミリア(11なる千)」と呼んでいたので、「11なる千」と間違って解釈可能なため、「ウルスラと1万1千人の乙女」という誤読が生まれた。また、いま一つの理由としては、「11名の殉教した乙女(処女)」を意味するラテン語の言葉「 XI (XI はローマ数字で、11 )」。またプリニウスが使った記法では、「X. M」と表記して「10なる千」を表し、これに従うと、「XI. M」は「11なる千」つまり「1万1千」の数字表現となるので、誤って解釈し承されて、「1万1千名の乙女たち」などが出てきたと考えられる(カトリック百科事典 による)。
B乙女たち・・・多くの乙女たちを率いた聖女ウルスラの能力から、女学校教師や女子教員の守護聖人として崇められることになった。守護地域はドイツのケルン。
「聖ウルスラ伝の聖遺物箱」(メムリンク) の絵はこちらへ
「聖ウルスラ伝から「聖女ウルスラと聖女たち」(メムリンク) の絵はこちらへ
「聖ウルスラの船出」(ロラン)の絵はこちらへ
「聖ウルスラ伝から「ケルン上陸」部分」(メムリンク)の絵はこちらへ
         (二)
ウルスラたちがローマに到着すると大歓迎を受けた。法王や信徒たちも勇気づけられた。しかし、ローマ帝国軍が彼女たちを快(こころよ)く思わなかった。1万1000人ものキリスト教徒が大挙して、ローマを巡礼したのだから。脅威に思ったローマ帝国軍は、時を同じくライン河近くまで侵入していたモンゴル系のフン族の騎馬民族に親書を送り、帰途につくウルスラ一行を殺害するよう依頼した。フン族とローマ帝国軍は宿敵同士であったが、ローマは野蛮なフン族を利用し、キリスト教徒の排除を計画したのであった。ドイツのケルンに到着すると、周囲はすでにフン族に包囲されていた。フン族は街へ突撃し、蹂躪(じゅうりん)し尽くした。ウルスラに付き添っていた乙女たちは、ある程度の武装をしているとはいえ、素人(しろうと)の乙女の集団で、彼女たちは容赦なく斬首され、残るはウルスラ一人となった。フン族の長(おさ)がやって来て、ウルスラの美しさに心を奪われ、求婚した。しかし、ウルスラは拒否した。侮辱されたフン族の長(おさ)は弓矢で彼女の胸を射抜(いぬ)いた。天使の宣告通り、ウルスラと1万1000人の乙女たちは殉教した。そして、ウルスラと彼女に従う乙女たちはケルンに埋葬され、その地には、彼女らに奉献された聖ウルスラ教会が建立された。
(参考)
@殉教した・・・ウルスラは殉教することを前から知っていたが、その仲間は道連れになることを知らなかった。だが、あまりにも多人数の殉教という悲劇はキリスト教徒を増やすという、その目的を大きく超えて、永遠に忘れられることのない伝説として後世に残された。
A聖女ウルスラの別の伝説では、ウルスラはケルト族のブルターニュの王女で、若く美しい乙女であった。それが、異端との結婚を強いられ、何とか三年の猶予をもらって、多分10人の乙女を従えて布教活動していたが、その三年も過ぎ、乙女たちを従えて船出し、ドイツのケルンまで行って布教活動していたのが、フン族の襲撃があって、都合11人がそれぞれ千人を従えて、殉教したという。
「聖ウルスラ伝から「聖ウルスラの殉教」部分」(メムリンク)の絵はこちらへ
「守護聖女ウルスラの像」の絵はこちらへ


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