信長より200年前、美濃守護 土岐氏の時代、行政府は現岐阜駅の南 上革手(現上川手)
にありました。土岐氏の府で『岐府』とも呼ばれていたようです。
土岐氏は清和源氏 源頼光の流れで美濃守護として長森城に入りました。10代後の土岐
頼芸のとき、油商人長井新左衛門尉の子 斉藤道三によって国盗りをされてしまいまし た。
長良川は『藍川』木曽川は『蘇川』と言い、金華山は土岐様のお山で『岐山』と言いまし
た。
信長は井ノ口を『岐山』『岐陽』『岐阜』から岐阜を選んで確定しました。
信長像...................................................................................信忠 安土城 信長
信長の父信秀は何度も美濃攻めを行いましたが一度も勝つことが出来ません。武田、今川と斉藤に
挟まれた織田家は、斉藤道三の娘を信長の妻にすることで西への備ができました。
道三と小見の方の娘『帰蝶』は美濃の姫で『濃姫』とよばれていました。信長亡き後晩年は『安土殿』
殿と呼ばれ長命であったと言われ、その墓所は京都大徳寺総見院にある由ですが、詳細はわかって いません。
菊 花 展
俳聖松尾芭蕉は岐阜に数度来ており、長良河畔の楼閣で『中国西湖の十景と、洞庭湖の瀟相(しょう
しょう)八景を加えたほどの景色である』と褒めたとかで、その楼閣を『十八楼』と名付けたました。今 もこの名を冠したホテルがあり、眺望をほこっています。
芭蕉が眺めて一句詠った眺めをお目にかけます。
長 良 橋 よ り
鵜匠 山下幹司さんの像
長良川鵜飼は、信長、家康を経て徳川、皇室に保護され現在の観光鵜飼に繋がっています。家康は
長良川の鮎で作った『鮎鮨』が殊のほかの好物で、年4回 岐阜から江戸まで鮎鮨を運ばせていまし た。江戸まで4日で着いたそうです。
そのための道も整備し、特に岐阜から名古屋までの道を「鮨街道」と呼んだそうです。
鵜匠さんは元『宮内省狩猟官』で、現在は『宮内庁式部職』です。
北原白秋も岐阜に遊び、鵜匠山下幹司さんに詩をおくっています。
題は『鵜匠』です。
板垣退助像
明治15年4月6日現岐阜公園で、草創期の自由党の集まりの後、板垣退助は刺客相原尚?(なおぶ
み)に左胸を刺されました。この時『板垣死すとも自由は死せず』の名文句が生まれました。
手当てをしたのが愛知病院長の後藤新平で、この縁で彼もまた政界入りし、東京市長や、南満鉄道
の総裁を勤めました。機縁というべきでしょう。
事件後 全国から自由党員が岐阜へ集結し、人口1万人の岐阜町は乗っ取られたような騒ぎだったそ
うです。
以来岐阜は自由党のメッカとなり、今回の衆議院選挙でも自民党圧勝に繋がっています。歴史は継
続しているのですね。
暴漢相原は、反対派で小学校の教員でした。相原は無期徒刑で北海道に送られましたが9年後、憲
法発布の恩赦で出獄しました。東京で板垣と再会して罪を詫びた後、船で北海道に向かい、北海の 海に身を投じたそうです。
岐阜には、歴史につながったお話が沢山あります。歴史探訪の旅にお出かけ下さい。
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