国取り物語



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明智光秀と羽柴秀吉が、天下分け目の合戦をした天王山付近を、京都西岡の地と言うそうですが、
奇しくも戦国時代に庶民から国持大名に成り上がった3大名がこの地の出身だと言うのです。

@ 北条早雲
相模の国に来たときは、伊勢新九郎と名乗っており伊勢(三重県)、備中
(岡山県)説もありますが、京都西岡出身説が浮上しています。
今川家を補佐しながら乗っ取り、伊豆の足利残存勢力を一掃して相模の主にのし上った大大名で
す。

A 斉藤道三
京都の油売りから身を起こし、長井家、斉藤家を乗っ取って、遂には美濃守護土岐家を追い払って
美濃を手中にした蝮の道三です。
信長に娘帰蝶(濃姫)を嫁がせ、我が子義龍に滅ぼされる間際に美濃を信長に譲る書簡を残し、天
下取りの野望を娘婿に託しました。
この道三が京都西岡大山崎の油屋を起こした人物だと言うのです。

B 松永彈正久秀
竹売りの親方の家に生まれましたが、郷土の先輩道三に刺激されて武士になり、三好家を乗っ取り
大名になりました。建築の才が有り大和多門山城に三重櫓を造りました。信長はこれを真似して四重
御殿風櫓を岐阜に作り、さらに発展させ安土に七重の天主閣を完成させました。


   岐阜市の北東 百々ヶ峰から金華山、長良川を望む。遠景の山地は養老山脈。

      
                 斉藤道三の隠居所 鷺山 
   
             岐阜城の天守閣から北西を望む。 『美濃を制する者は、天下を制する』 信長 

斉藤道三は悪役イメージが強いのですが、実際は土岐家の家督争いで、守護代斉藤利明と執権長
井長弘の確執から家臣団が分裂したことが原因でした。
道三はこの長弘を滅ぼして長井氏を名乗り、更に斉藤氏を継ぎ、国政に無能な土岐頼芸を助けたと
言われています。
土岐氏に代わって美濃一国を経営するようになってからも、織田、浅井、朝倉など外敵の侵略には
全て打ち勝っていますが、決して他国への侵略はしていません。

道三は北面の武士 松浪(波)左近将監基宗の子として生まれ、11才のとき京都妙覚寺に入って法蓮
房(坊)と呼ばれました。寺を飛び出して松浪庄五郎と名乗り、油問屋の奈良屋又兵衛の娘婿になり
ました。そのまま油屋を継ぐことを善しとせず、大山崎で独立して油屋を始めています。
京都府大山崎町の離宮八幡宮は、畿内、美濃尾張に燈油の独占販売権を持っていました。この『油
座』の組合権を手に入れたのです。
美濃では一文銭の穴を通して油を器に注ぎ、銭を汚したらお代はいらないというパフォーマンスを演
じて喝采を浴びたという逸話もあります。
岐阜の常在寺に、京都妙覚寺時代の弟弟子四世日運がいました。この伝で仕官し長井家の跡取に
なったようです。
道三の子義龍、帰蝶のほかに数人の子供があったそうですが、消息はわかりません。その内常在寺
の五世日暁、六世日覚は道三の子と伝えられています。

   
  岐阜常在寺  我家の檀那寺です・・・・・・・・・・・            ・  境内にある道三公墓碑

  
       斉藤義龍・・・・・・・・・・・・・・・    斉藤道三 帰蝶が奉納したと伝えられる(常在寺に現存)

斉藤道三の改名
  法蓮坊   または 法蓮房     国取り物語は親子二代説が濃厚と
  松浪庄五郎 または 松波庄五郎  なり、西村勘九郎か長井新左衛門
  西村勘九郎               以前を父親とする見方も有ります。
  長井新左衛門             1518年頃
  長井新九郎規房            1533年頃
  斉藤新九郎利政            1538年頃
  斉藤左近太夫利政          1545年頃
  斉藤山城道三             1548年頃
  斉藤左近太夫道三             〃
    死 亡                1556年

         
                   道三塚説明                 
              
             道  三 塚                        斉藤道三家紋と押印

・・土岐家
八百数十年前、源頼光の子孫が土着して土岐の地名を苗字にしました。室町時代の初期には美濃
守護となり尾張、伊勢の守護も兼ねていました。明智氏、池田氏、揖斐氏など百余家に分岐して栄え
ました。明智光秀、春日の局などの他、徳川家の旗本としても数家が存続していました。
鷺山周辺に土岐家または有力一族の屋敷跡と見られる遺跡が見つかり、今調査が進められていま
す。



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