ゆききのまつ

3代目往来(ゆきき)の松  当地域の江戸時代領主は、加納藩主です。
 清村は、加納宿から16町西へ隔たっていたが、中仙道が加納宿を経て河渡宿に至る間にあり、本荘村と中仙道で南北に分かれていました。
 藩主に絡む逸話として、清村に中山道の南1町半(約200m)東灘と呼ぶ耕地の中に天神社(今の菊地神社)があり境内に『往来の松』と呼ぶ名木がありました。
 加納宿の西にある大松なので中山道を往来する旅人が、この松を見て目標にしたといわれています。
 高さ70尺余(20m余)の枝が三つに分かれ、松風を鳴らしていました。加納藩主 戸田丹波守光永は、その情景を讃えて『ゆききの松』と命名しました。その子丹波守光X(みつひろ)は、江戸中期の正徳元年(1711)山城国(現 京都府内)淀城に移封しました。
 淀城の藩主が「ゆききの松」を遥かに思って「あけくれにながめし松を故郷の人の往来の便りにぞきく」と詠みました。以後松には多くの人々から詩歌を寄せられています。この名松は、宝暦の頃枯れたので村人は後継の松を植えましたが、2代目の松は大きく伸び大正時代まで姿がたたえられたが枯れて今は3代目の松が植えられております。
 現在、菊地神社の境内に往来の松の碑が見られます。
 この碑は、明治35年のものと昭和13年のものとが塔のように積み重ねられており、上は高さ約4尺5寸(135cm)の砂岩の自然石、下は高さ約3尺(90cm)直径約2尺(60cm)の円筒形の白御影石で変わった取り合わせである。本殿東北側に松古跡の碑が建っております。
菊地神社境内に設置してある往来(ゆきき)の松の碑

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