灼熱の太陽が、初夏と呼ぶには苛烈過ぎる日差しを下界へあまねく注ぐ。
暴れ梅雨の合間であろうと、外にいる限り、総身に纏わりつく熱気と無縁ではいられない。
それが天により近い場所であるならなおの事だ。
特定機能病院、屋上。
遮るものなど何一つとして無いはずなのに、扉をくぐった途端に刺々しい冷気が悪寒を伴って足元を攫う。
同じ本丸の、同じ主を戴く者達が発しているのだと分かっていてなお、敵意を隠しもしない霊圧は、ほんの数秒といえど身を固くするに十分なものだった。ましてその片割れが、練度上限の三日月をして格上と断じらるほど強大となれば言うまでもない。
かつての戦いの折に呪詛で刻まれた、左瞼から額にかけての傷痕が疼いて鈍痛を訴える。それでも表面上、泰然たる様を崩さなかったのは後ろに続く同派の後輩に対する見栄であり、の刀剣男士としての強い自負に依るものである――が、さすがにこの重苦しい空気の中、にっかり青江が迷いなく蹴りを叩き込みに走ったのは予想の範囲外だった。
「あなや」
鋭く重い打撃音を置き去りに、次郎太刀が吹っ飛ばされて屋上を転がる。
見事な一撃だった。これが味方相手でさえなければ、惜しみない賛辞を送っただろう。
しかし残念な事に蹴りを入れたのも受けたのも同じ本丸の仲間であったし、いかに大太刀といえど、重傷の身で今の蹴りが二発、三発と続けばさすがに危うい。
止めに入ろうとした三日月を、咎めるように纏わる白装束を煩わし気にさばいた青江が振り向いて。
「さて。僕の用件は済んだから、彼をよろしく頼んだよ」
「あい分かった」
そこまで我を忘れてはいなかったらしい。
ほっと胸を撫で下ろし、三日月は鷹揚に快諾した。
「……良かったのかい、一発で」
にっかりのにの字も無い青江に、のっそりと上体を起こして次郎太刀が問う。
「これで物足りないのは、僕じゃなくて君の方だろう」
場を支配していた霊圧は、先程の蹴りによってか分かりやすく和らいでいた。
特に強く痛みを訴え続ける白濁した左目を瞼の上からさすって宥め、斜め後ろに立つ石切丸を伺い見る。青江達の会話の成り行きを気にかけてはいるようだが、その目は無造作に床へ置かれた短刀を険しく見据えたままだった。本体の大太刀に手をかけ、いくらか緩んだ空気にも臨戦態勢を解いてはいない。
「残りは本丸で受け取るといいさ。いつも通りの綺麗な姿で、余さずに……ね」
石切丸が練度上限に達してはいないからか、御神刀だからこそ分かる何かがあるのか。
ともあれここは現世の病院で、多くの人の子が行き交う場だ。害意は無くとも障りとなる者を、長く置いておくべきではない。
話は終わりとばかり、早足に石切丸の方へと歩み寄る青江と入れ替わりで、次郎太刀の傍へ寄る。
「肩を貸した方が良いか?」
「……いーや、自分で歩けるよ」
三日月の差し伸べた手を取って、次郎太刀は億劫そうに立ち上がった。
「既に聞いているだろうが、お主の手入れは政府で行ってくれるそうだ。だが少しばかり道が複雑でな。迷わぬよう、俺が案内を務めよう」
「それは助かる。にしてもアンタ、何だってここにいるのさ? 手配した覚えが無いんだけど。しかも無手」
「はっはっは。いやなに、どうにも大人しく待っていられなくてな」
彼等の主、が現在入院しているこの特定機能病院は現世の施設だ。審神者や刀剣男士の利用はもちろん、出入りも想定されてはいない。
公式に時の政府から立ち入りの許可が下りているのは、次郎太刀が手配したにっかり青江と石切丸の二振りのみ。それも薬研藤四郎の回収に限り、時間制限付きで、という具合である。二振りが署名を求められていた、ぎっしりと文字の詰まった書類から他にも制約があるだろう事は察せられていたが、別ルートでこっそり入れてもらった三日月はそれを把握していなかった。
せっかく政府職員に顔が利く主の刀剣男士なのだ。やりようはいくらでもある。
「まあ、政府の施設で刀は必要あるまいよ」
代わりに本体である太刀を厳重封印の上で預ける事になってしまったが、そこはそれ、必要経費というやつだ。
次郎太刀と連れ立って、階下へ続く扉をくぐる。首を巡らせ一瞥した屋上では、降り注ぐ日差しの強さだけ色濃く、墨を凝縮したような影が静かにとぐろを巻いていた。
干渉らしい干渉は無い。ゆるく目を伏せて階段を下りていく後ろで、扉の閉まる音が響く。
「主はどうしている? せめて顔なりと見てゆきたいが」
「一人にしてくれってさ」
「そうか……では、残念だが諦める他あるまい」
弱いところを晒そうとはしない人だ。
もっとも心を許している次郎太刀にすらそう言ったのであれば、素直に従っておくべきだろう。
主が生きて戻ったのだと実感したいだけで、負担をかけたい訳ではないのだ。古傷の鈍痛が収まっていくのを感じながら、三日月はしょんぼりと肩を落とした。
「今回の件、何処まで聞いてきたんだい?」
「そうだな。分かる事は概ね全てだ」
酔いの欠片も感じさせない、平静な次郎太刀の問いに気を取り直して指折り告げる。
「転移門の事故で過去へ行っていた事。そこにいた主の古い友人が、歴史修正主義者であった事。お主との別行動中、遡行軍と交戦状態となった主が自害を図った事」
二十階建ての病院とあって、下っていく階段は長い。
院内を通ればエレベーターが使えるが、なるべく人目につかないように、というのが入れてくれた政府職員との約束である。
しかし、仮に通れたとしても三日月が院内の通路を利用する事は無かっただろう。彼等の話は、他の誰が聞いているかも分からないような場所で、おいそれと口にできるものではないのだ。
「遡行軍を一掃した薬研藤四郎が、主の両腕を潰して友人殺しを強いた事。後は、お主が間に合わなかった事もな」
壁を隔てて届く人の子等の喧騒は、現実味を欠いていて何処となくよそよそしい。
今も遡行軍からの侵略を受け、数多の本丸が歴史を守るため、勝利のためにあちこちでしのぎを削っているのだとしても、ここは現世で、戦線からは程遠い後方なのだ。
彼等は刀剣男士。名だたる刀剣が戦士へと姿を変えた付喪神。戦の気配の無い場所に、居場所は用意されていない。
「これらの成り行きについては、本丸の刀剣男士全員に違わず周知されている。此度の件に関しての政府の詳細な報告書や、主やお主に行った調書に目を通したかどうかまでは把握しておらんが」
傷に響くのだろう。
歩調を緩め、常よりもゆったりと歩く大太刀に速度を合わせる。
「随分思い切った真似をさせたな? 小夜殿とこんさんが苦労しておったぞ」
「なーに、アタシが話すよりは良かったさ」
「まあ、確かにな」
次郎太刀は今回の件の当事者だ。
どれだけ冷静に、事実のみを語ろうとも彼の言葉では冷静に耳を傾けてなどいられまい。
それ以前の問題として、日頃の行いを差し引いたとしても次郎太刀は本丸内で難しい立ち位置の刀である。
彼等の主は引継ぎで、二代目だ。前任の刀にも自身で顕現した刀にも、主は分け隔てなく優しく、寛容で、負の感情を窺わせない。仕えるに足る、良き主であろうと努めている。
だというのに引き継いだ刀剣男士の誰かでも、最古参で、前任の初期刀であった山姥切国広でもなく、鍛刀して最初に下りたというこの大太刀を己の"初期刀"として遇している。もっとも重用されている相談役が刀剣男士に辛辣な管狐である事も合わせれば、主が何も言わなくとも、察せられるというものだ。
「お主が戻ったら相当荒れるぞ」
「ぶん殴られるのは覚悟の上だよ。ま、さすがに斬られちゃあげられないけど」
「問題は落としどころか……」
過去はどうだったかは知らないが、少なくとも今の主は本丸の刀剣男士達から認められ、おおいに慕われてもいる。
この機に次郎太刀を引きずり降ろそうと考える者も、主の傍近くを占有しようと考える者もいるだろう。己を重用させるのみならず、意のままにしようとする者もだ。危うい動きだと三日月は思っている。
どんな人間にも欠点はあり、どんな人間にも不足はある。
足りない部分があるのであれば、刀剣男士がそれぞれに得意分野で埋め、支えてやればいい。
彼等の言葉に、感情に、よくよく耳を傾けて。過剰に敬わず、虐げず、媚びず、愛玩せず、へつらわず。時に意見を異にしてぶつかり合いながらも、人と人とがするように、手を携えて歴史を守る事ができるのなら、審神者としては満点だ。
しかし刀剣男士である彼等も心があるものだから、主を品定めして好き勝手に批評して、時に理想を押し付けもする。
悪いことだとは思わない。だが、理想しか見ていないような刀では、彼女を支えられなどしないだろう。
「アンタは随分落ち着いてるね」
「ふむ。仮に俺が護衛を務めていたとしても、次郎さんより上手くやれたとは思えんからなぁ」
全てが終わった後でなら、いくらだって間違いは指摘できる。こうするべきだった、としたり顔で口にできる。
けれどその時、その瞬間、その選択肢が正しいかどうかなんて当事者に分かるはずもない。
そうして刀剣男士が何を言おうと、最終的な判断を下すのは審神者である。責任を負うのもだ。主の古い友人だったという歴史修正主義者について、次郎太刀が何の疑念も抱かず安穏としていたなどと三日月は考えていなかった。
「それに、俺は主が生きて戻った事に安堵した」
薬研藤四郎は、主を死なせてやるべきだった。
たとえ間違いであろうとも、の刀剣男士であるならば、その選択に殉じて然るべきだった。
刀剣男士でありながら、どうして薬研藤四郎が物として扱われ続ける事を選んだのかを三日月は知らない。だが物である事を選んだ以上、使い手に忠実である事は絶対に揺るがしてはならない不文律である。
それが。何より従順であるべき懐刀が、意に反したのみならず、望まぬものを主に斬らせた。
許されざる行為だった。物としても、刀剣男士としても。そうしなければ、主が死んでいたのだとしても。
「矜持を汚され、腕を潰された事に怒るより、生きていてくれて良かったと喜んだのだ。そんな俺に、口を出す権利など無かろうよ」
怒りはある。憤りも。
けれどそれらより安堵や喜びが上回ってしまったのだから、三日月にはもう、何も言えるはずが無かった。
生きていてさえくれればいい。の刀剣男士としては、恥ずべき考えだった。
もっとも、涙と鼻水で顔中ぐちゃぐちゃにしながら「よ゛がっ゛だぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と叫んで抱き合っていた後藤と浦島を始めとして、同期はおおむね三日月と同じ意見ではあったのだが。
「ともあれ、今まで通りとはいくまい。本丸の仕切り直しには良い機会だが……」
三日月がよく知る"主"であれば。悼み、悲しみはすれど立ち止まりはしなかった。
どれだけ身に余る荷を背負おうと、その重みに耐え兼ねて、立ち止まってくれる主ではないはずだった――それこそ、刀剣男士のように。
「お主が表立って動いているのだ。主はよほど酷いのだろう」
「そうだね。ありゃあしばらく動けそうにないかな」
「となると、薬研の処遇についてもまだ決まっておらんか」
「ごめいとーう。処分しろって言ったんだけどね。頷いてさえくれりゃ良かったんだけど……」
ぼやく次郎太刀の横顔は、忌々しいと言わんばかりだ。
ひょっとすれば、それで主とひと悶着あったのかも知れない。無理もないと三日月は苦笑する。
「気に入りの刀だったのだ。とかく甘いところのある人だ、即決とはいかんさ」
ひとたび情を傾けたものを、切り捨てる事は難しい。
主にねだる者こそいなかったが、一度でいいから代わってみたい、と薬研藤四郎は密かに羨望の的だった。それほどまでに、常に傍近くへ置かれていた。三日月とて、羨んだ事が無いと言えば嘘になる。
「まあ、主のことだ。処分は拒むやも知れんが、このまま使い続けるほど愚かでもあるまい。何かと薬研を愛用していたからな。太刀ゆえいささか不利ではあるが、あのくらい"あって当然"になりたいものだ」
「ちゃっかりしてるねえアンタ」
「はっはっは、伊達に巷でらすぼすなどと呼ばれてはおらんよ。次郎さんとて、主に頼られれば嬉しかろう」
「そりゃあね。もっと寄っかかって、委ねてくれたらいいんだけどなぁ」
「世話を焼かれているより、焼く方が性に合うのだろうな。面倒だと常々口にしている割には腰が軽い。世話を焼かれるのは好きだが、主のああいう我が身を省みず、前ばかり見て振り向きもしない冷淡さはちょっと嫌いだ」
自分の代わりが誰にでも務まると本気で思っているのなら、主はとんだ大馬鹿者だ。
しかしその大馬鹿を、ありえないと笑い飛ばすには日頃の行いが悪すぎるのが彼等の主という人間である。
「え~。ああいうとこも可愛いだろ? 夢見がちでさ」
「ははは、お主はそうだろうな」
唇を尖らせて反論する次郎太刀は、三日月の言い分がおおいに不服なようだった。
あばたもえくぼ、とは思っても口にしない。抱く好意の種類は違えど、己の主なのだ。どうしたってひいき目に見ている自覚は三日月にもあった。
笑みを収めて、案内板へ視線を走らせる。長い階段も折り返しを過ぎ、そろそろ終わりが見えてくる頃合いのようだ。
「しかし、そうだな。頼むから主を攫ってはくれるなよ、次郎さん」
次郎太刀が足を止めた。
「あるいはその方が、主にとっては幸せなのやも知れん。だが、俺は主に生きていて欲しい。心から喜び、生きることを楽しみ、腹の底から笑う。そういう主の姿を、できるだけたくさんこの目にしたいのだ。そこに本丸の皆や、俺も共に在れたなら言う事は無い」
三日月も足を止める。
振り返り、仰ぎ見た次郎太刀に表情は無かった。
無手であろうと、まがりなりにも練度上限の刀剣男士。痛みに動きの鈍った重傷の大太刀相手に後れを取るような可愛げなどあるはずもない。――だというのに。
喉が鳴る。首筋を撫でる寒々しさは、つい先刻、屋上で感じたそれとよく似ていた。
陰り深い、光量の乏しい電灯の下。見下ろしてくる黄玉の双眸は金を帯びて冴え冴えと鋭く、温もりからは縁遠い。呪詛で刻まれた古傷がじんわりと疼く。
「無害なじじいのささやかなお願いだ。叶えてくれると信じているぞ」
真っ向から受け止めて見返し、三日月はあっけらかんと笑ってみせた。
三日月宗近は天下五剣の一振りであり、もっとも美しいとされる太刀である。彼は己の価値の最上位に、自らの美が置かれている事を理解している。
けれど。かつてたやすくは癒えぬ傷を受け、刀解されるも致し方なしと覚悟していた三日月に、主は「私の誇り」だと告げた。これからも働きに期待している、と。
三日月宗近は主の誇りだ。相模国イチマルハチ本丸審神者、その人の誇りなのだ。己が銘に賭けて、相応しく在ると決めていた。
どれほど見つめ合っていたか。ふいに寒々しさが霧散し、古傷の疼きが収まっていく。
とびきり長い溜息を吐きながら、次郎太刀がずるずるとしゃがみ込む。しかめっ面でじとりと睨んでくる様は、やる気を削がれて拗ねているようでもある。
「……なーんでアンタ、そんな逞しく育ったかねぇ………」
「今の主の影響だな」
心底嫌そうにぼやいた次郎太刀に、三日月は得意満面で胸を張った。
■ ■ ■
烈水さんが面会謝絶の病室を訪ねてきたのは、私が入院してたぶん半月くらいが経った頃だった。
日付感覚が曖昧なのは、どうにも頭がぼんやりしているせいが半分。もう半分は、謎の発熱続きで一日の大半を寝て過ごしているからである。
ベッドから起きようともせず出迎えた私に、烈水さんはたっぷり五分ほど絶句して。
「――……それは一体どういうざまだ、女史」
「このザマ」
「そうか。慢性的な痛苦は容易に人を狂わせる為、鎮痛剤と精神安定剤の投与を行っている旨は把握している。副次効果を踏まえた上でもっとも正気で話の通じる時間帯を選択したものと自負しているが」
特徴的な三白眼が、まったく身なりの整っていない私を無感動に刻んでいく。
観察以外の何物でも無い視線は、おおよそ情動と呼べるものの一切を欠いている――ように見える。表情がとにかく薄いので、慣れていても何を考えているのか分かりにくいのだ、烈水さんは。
大抵の人間を萎縮させ、一部にケンカを叩き売る目で私を上から下まで観察し、烈水さんは不満を隠しもせずに鼻を鳴らした。
「それでそのざまか。低劣と評するより他ない」
「へぇ」
いちおう、時間を選んで会いに来てはくれたらしい。
だから? 以外の感想は出なかったが。
寝ていなくても変な幻覚だか白昼夢だかを見ている時もあるし、瞬きすら億劫でたまらない気分の時もある。どうあれ、ここで目が覚めてからというもの、誰かと進んで会話しようという気分になれた試しがない。来客自体お呼びでないのだ。
こんさんがいてくれれば良かったんだけど、あいにく、無理筋なお願いをした関係で当分戻って来る望みが無い。
廊下には、刀剣男士が誰かしら控えているのは知っていた。
だから声をかければ無理矢理にでも放り出してくれるのだろうが、今は、刀剣男士を視界の端にも入れたくない。
でも、ガン無視してれば折れて帰ってくれる烈水さんでもないのだ。やってらんね。
「現実が知れて良かったね」
「何をもって良いと評したのかの判断基準を理解しかねるな、撤回を要求する。そのざまが自分に似合いだと規定するのであれば価値観の更新を可及的速やかに行うべきだ。そもそも女史は会話への返答を行う際に必要不可欠な言葉を削る、ないしは普遍性のある定型文で終了させる傾向がままある。この際こちらの悪癖についても矯正を要求する」
つらつらと上滑りに滑っていく言葉はなるほど、時間を選んだだけあって鈍った脳でも捉まえやすい。
ただ、それと理解しやすいかどうかはまったく別の問題である。
「……何の用?」
「見舞いだが。人選理由は箒衆内で許可が下りたのがこの烈水のみであった事、来た理由は行かないよりは行った方が良いと先生が判断なされたからだ。先生がどのような思考の下で必要性を判断されたのかは推測するより他無いが、先生のお考えを拝聴した訳では無いので言葉通りの意味となる。補足しておくが、女史が次郎太刀と政府施設で転移事故に合って以降の出来事についての概要は貴本丸のこんのすけより確認済みだ。機密事項への抵触、あるいは個人情報保護の観点から伏せられた部分も散見されたが、関係者という括りで箒衆幹部は全員が概ねの成り行きと現状を把握している」
分かってはいたがクソ長広舌で回答がきた。いやだっっっる。
見舞いの趣意を分かっているか疑わしい烈水さんは、そもそも日頃から発言毎の情報量が多くなりがちな上、教科書音読する先生みたいな抑揚に乏しい喋り口調なのだ。平時でもちょくちょく聞き飛ばしが発生するってのに、真面目に相手する気になれるはずもなかった。
「理解めんどい。略で話して」
「承知した、努めよう。見舞いに来た。裏は無い、あっても聞いていない。女史の事情は貴本丸こんのすけから確認済みである」
……あー…………そういや、こんさんから箒衆にどこまで話していいか聞かれたな……?
どこまでいいって言ったかな、と思い出そうとしてみるも、出てきたのはめいめい肉の切れ端を咥えて戻ってきたカラス達だけだった。
まあ、どうせ私のことだ。隠すことは何もないと、全部話していいと言ったに決まっていた。
手間が省けてありがたい事である。
「……顔見て会話して。これ以上なんかある?」
「無論ある。来た者の特権だ」
勝手にリクライニングさせられたベッドに押されて、上体が起き上がる。
ベッドサイドに落ち着いた一人が差し出そうとしてきた肉を、小さく首を横に振って謝絶した。点滴で食事の代替してるところにそれは重い。
「歴史修正主義者へ寝返る意志があるかを聞きたい」
「ふーん。それ、あるって言ったらどうなるの」
「先生に共有し、身の振り方を決定するが」
椅子を部屋の隅から移動させる烈水さんは、何故分かり切った事を聞くのか、と言わんばかりだ。
結良さんにか……いや烈水さんだから結良さんに話が行くのはいつもの事なんだけど……そっか……結良さん大変だな……。
ベッド脇へ移動させた椅子へ腰を下ろした烈水さんが、ささやかな感慨を噛み締める私をじいと見つめる。睨んでいる以外に形容しようのない三白眼を見返せば、何かを咀嚼するような間と共に、一つ頷きが返ってきた。
「どちらであれ、可能な限り女史の不利にはならないようにする。確約しよう」
「なにそれ」
「言葉通りの意味だ。それ以上でも以下でもない」
「バカの所業じゃん」
「人間の判断基準の最上位は感情だ。自明の理だろう」
「バカの生き物じゃん……」
そこは裏切りの意志あり、で処断すべきとこだよ。
烈水さんだからなー……まーじで発言通り額面そのままその通りの意しか含んでないんだろうなー……寝返り予定アリでも絶対売らないだろうなー……。いやそこは売って然るべきだろ自分の所属分かってらっしゃる?
膝に肉の分け前を積まれながらも、烈水さんが椅子に腰掛ける姿は寸分の弛みもない。正しいことしか口にしていない、とばかりの堂々っぷりだった。これ見よがしなため息も出ようというものである。
あーもうほんっとやになる。頭痛が痛い。結良さん烈水さん今すぐ回収しに来てー……。
「寝返らないよ。意味がない。成功させられるほど優秀でも無いし」
歴史修正は魅力的だ。
間違っている、と思う過去を正す。死ぬべきではなかった人が生きる過去、死ぬべき人間がさっさと死んでくれた過去は、考えるだけで胸がすくほどに素晴らしい。
でも、それだけだ。よしんば歴史を変えられても、それを正史にできないのなら価値なんて無い。
過程にも意味がある、挑戦する事に意義があるのだと言い切れるほど、私は楽天的にも、自己中心的にもなれやしない。歴史修正は結果が全てだ。ただ自己満足で終わるだけの徒労に、キリちゃん先輩を付き合わせるなんてできるはずもない。
私が諦めない限り、あの人が怖くて、痛くて、辛い思いを何度も何度も何度も何度も、気が遠くなるほど繰り返す羽目になるのなら。
そんな願い、ゴミも同然だ。
「……そういや、私の扱いってどうなってんの? 実質敵前逃亡みたいなもんだし、まあ処刑相当かなって思ってたんだけど」
「こんのすけから聞いていないのか」
「そんな心配しなくていいとは聞いてる」
「薬の副次効果を考慮しても大いに聞き飛ばしているな。他者の話へは綿密に耳を傾ける事を推奨する」
やっぱかぁ。悪いことしたな。
真面目に聞く気はあるんだけど、なんでか最近、こんさんの声聞いてると妙に気が抜けるのよな……。
烈水さんの肩やら頭を占拠したカラス数人が、注意される私にけきゃけきゃと嗤う。あんたらは黙って散れ。
「敵前逃亡は重大な軍規違反だが処刑相当ではない。採用基準が審神者の資質の有無のみである以上、厳密に審判すれば時の政府の首が締まる。女史の行為を処刑相当と審判するなら、相当数の審神者が同等の基準でもって審判、処刑されていなければ道理とならない。だが、まず前提条件に相違がある」
カラス達が一斉に飛び立つ。
羽ばたきに満たされた室内で、烈水さんが朗々と宣告する。
「女史の行為は敵前逃亡と呼称されない。ただの自決だ」
「ただのじけつ」
「より正確には自決未遂だ。政府からの罰などあるはずもない。ざまを見ろ」
呻く私とは真逆に心底楽しそうな雰囲気で、烈水さんがせせら笑う。
膝に積まれていた死肉が、崩れてべちゃりと床に落ちた。
そっか。ただの自決未遂。ただの、自決未遂、か。
分かっている。理路整然と説かれてしまえば本当に、馬鹿みたいな自意識過剰の思い違いだ。
私にとって、私の行いはこの上ない裏切りだった。
現実にはこの程度。議題に上げる価値も無い。
無駄で、無意味で、無価値な。
単に痛い目を見たというだけの、それっぽっちの行為。
……どうせ意味が無いのなら、全部ぐちゃぐちゃに潰れてしまえば良かったのに。
「治療は続くが退院は半月後と聞いている。箒衆への復帰予定を確認しておきたい」
「除名でいいでしょ。お荷物になる趣味ないよ」
箒衆は、元々メンバーが入れ替わる事を前提として組織を構築している。
理由は簡単。審神者なんていつ死ぬか分からないからだ。抜けた穴の代用が効かない、特別な誰かがいなければ回らない組織では意味が無い。まあ、連理さんとか結良さんとか筆頭に、凡人ではないですね? って人も何人かいるけど。
私が足抜けする事に、問題があるのは分かっている。ポジションに見合う仕事ができていたかは別としても、一応仮にも組織のトップだったのだ。まだまだ組織として未成熟な箒衆が、手離しても大丈夫、と言えるほどの強度がないのは百も承知の上である。今後の予算確保を始めとして、課題は文字通り山積みだろう。
どうでもいいことだった。誰かを助けたいだなんて、結局のところ自己満足の代償行為にしか過ぎない。付き合ってくれた気のいい人達を巻き込んで、浅ましいにも程がある。
誰かが必要とするなら箒衆は私がいなくたってきっと残るし、ないなら消える。それだけだ。やりたい誰かがやればいい。
「女史。いやしくも箒衆頭目たる者が、図抜けた馬鹿を晒すものではない」
能面のように表情が乏しい割に、烈水さんの非難がましい雰囲気はこの上なく雄弁だった。
「この烈水を含め、貴嬢の旗下に集っているのは暴力を日常と知る卑俗の輩だ。力を振るう事に抵抗のない人間に正義と呼称可能な活動を組み合わせた場合、過剰な暴力で以て部外者へルールを強制する蛮行は容易に発生し得る懸念事項である。手綱を握るべき箒衆の頭目は、誰にでも務まる類の代用可能な穴ではない。活動指針の変質も不可避だ。不在本丸対応も城下町の警備強化も、懸念事項への早期対応による生存確率向上が根となっている。貴嬢は箒衆においてセーフティネットの底上げをこそ活動指針としているが、業務過多に伴う新規参入者への指導不足、教育制度の整備不足により末端に至るまでの共通認識化を達成しているとは言い難い。表面的な活動を惰性で継続するのみとなれば箒衆は早晩、弱者を踏みにじる反社会的集団に堕すると想定される。何より、政府から業務を委託されているのは女史であって箒衆では無い。箒衆は貴嬢の手足であり、頭の用途では用いようもないのだという大前提を失念するのは脳機能の状態が疑われるので検査を手配しておく次第だ。以上の理由に基づき足抜けは不可能と断じる。そもそも足手まといになる事を憂虞しているが、女史は現場に出過ぎている。職責相応の重みを身に着ける良い機会だとは連理氏の言であり、回復に合わせて職務内容は検討される予定であるため不要な心配である旨を申し添えておくものとする」
略せって言ったの忘れてないかこれ。
うーん……烈水さんの圧と勢いがすごくてなんか怒ってるっぽいことしか伝わってこない……。
「女史」
発言内容をさっぱり理解できずに顔を顰めた私を、烈水さんがじいと見つめる。
目は心の窓と言うが、烈水さんほどそれが当てはまらない目も珍しい。表情も乏しいのになんでこんな雰囲気で伝えてくるのうまいんだろ……そのぶん補って余りあるほどに喋って自己開示してくるから……は、違うなこれ……?
困惑しながらもじいと見返せば、烈水さんは分かりやすく不満の色を滲ませて。
「本気で分からない事と、理解したくないから目を逸らしている事とに明確な区分を要求する。解し難い」
何言ってんだこいつ。
烈水さんの眉間に、薄く皺が寄った。
「箒衆は、戦う理由となり得ないか」
「――」
なんにもなくなってしまった。
なげうったのだから当然だった。
そうやってなげうったものを、わざわざ拾い上げて、差し出すような問いだった。
大事にできない私なんかが持ってていいほど、箒衆は軽くない。何事もなかったみたいな顔で受け取っていいような、どうでもいい、軽いものではないのだ。
重たく胸を占めた圧迫感に、首を垂れて俯く。烈水さんの赤黒く穢れた膝から、足元の床へと視線を滑らす。
ベッドの上だ。角度的にそこは見えるはずもない。見えていてはいけないのだ。打ち棄てられて呻き、震え、這いつくばり、それでもなお救いを求める死肉など。
「感情の問題は、時間が解決する場合もままある。長期戦と先生にも伝達しよう」
惰性でだって生きていける。
食べて、寝て、排泄して。最低条件さえ欠かさなければ、大事なものをなくしたって肉の器は機能する。
そうしていつかは忘れて、慣れて。終わる日までを消費する。
「だが女史、これだけは言っておく」
生きている限り、きっと。何かでは埋まっていくだろう。
からっぽになったその場所を、同じくらい価値ある何かが埋めてくれるとは限らなくても。
戦うことが、できなくなっても。
「ここまで付き合った。見捨てていくな」
対面から聞こえてくる声は、清々しいほど揺るぎなかった。
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