――揺蕩う心は、微睡んでいる。
未顕現の刀剣に、心は本来、目覚めない。
例え器が在ろうとも、分霊を降ろせる状態であろうと。
審神者が励起しなければ、器の、“心”は目覚めない。審神者が顕現しなければ、“個”として成り立つ事はない。本霊と繋がったまま、本霊からすればほんの些末な、些細な一欠けらのまま。だから、未顕現の刀剣が微睡むはずはないのだ。夢見る心も、目覚める器も、未だ、存在してはいないから。
目覚めぬ刀は、夢を見ている。
きっと審神者に、“彼”を降ろした自覚は無かった。
だから“彼”は眠っている。肉の器を与えられず、中途半端に励起された心を抱えて。
願われた通りに。願われている通りに。微睡みながら、傍にいる。
“どうか、救われますように”
打算があった。保身があった。煩悶があった。妥協があった。
憐憫があった。同情があった。苛立ちがあった。慈悲があった。
ヒトの心は矛盾の坩堝だ。
等価の熱量で感情と思惑を多種多様に織り込んで、彼女は確かに、そう祈った。
はてさて“彼”が降りたのは、果たして真実、偶然だったか。祈るは人のわざ、聞き届けるのは神のわざ。強い縁と積み上げられた業の重みが、あるいは、本霊へ届いていたのかも知れなかった。
堀川国広は、眠り続ける。
未顕現の器のままで。主である審神者が願った通り、和泉守が願っている通りに。
物言わぬまま、眠り続ける。傍にいる。和泉守兼定の傍らに、ただの刀として在り続ける。
転がり落ちていく石が最早、自分の意思では止まれないのだと知りながら。
微睡む心は夢を見る。
眠る器の奥底で。現を夢見て、揺蕩っている。
■ ■ ■
「しっかし、随分詰まらん奴に成り下がったものだなァ」
「は?」
脈絡のない発言に、加州清光は思わず眉を潜めた。
相模国イチマルハチ本丸、暫定通称”資料室”には何百件とある不在本丸――様々な問題によって通常業務を行う事が叶わない、審神者不在の本丸――の所属刀剣男士の数にその顕現・破壊歴や主であった審神者等の経歴、資材や給金の主な用途などなど、その内情を過去から現在に至るまで、詳細に記載した報告書が束となって収められている。
情報の性質上、あまり人目に晒すのも宜しくない上に陰惨で胸の悪くなるような事例も多いとあって、ここへの出入りが許されている刀剣男士は本丸内でも数少ない。
彼等二人は出入りを許されているのみならず、審神者から管理を任されている身であったが、そうでもなければ入り浸ってはいなかっただろう。室内へ増設されたロフトから上半身を投げ出し、ぶらぶらと気儘に揺れながら陵丸は続ける。
「俺の知る限りじゃどの本丸でも、可愛げと面白味に溢れた奴だったってのに。ここのアレときたら打てども突けども無反応と来たもんだ。せっかく刺激的な主の下にいるというのに、あれでは心を持った甲斐もあるまい」
(……飽きたんだな、書類整理)
振り子のように揺れる陵丸に、加州は呆れた目になった。
喋っている内容こそ主語を欠いていて意味不明であったが、こういった事は初めてでもない。彼がこの本丸に来て以降、教育係兼監督役として頻繁に顔を突き合わせている仲だ。当初は何いきなり語り出してんだコイツ、と困惑していたものだが、最近ではなんとなく、こうして喋り出す意図を察せるようになってきた。
無駄に憂いたっぷりに、大仰な仕草で陵丸が「君はこんなにも人間臭くて愉快な刀なのになぁ……」などと絡んでくるのを「さっさと仕事戻んなよ」の一言で突っぱね、加州は視線を手元の書類へと戻した。
発言内容には突っ込まない。
心底下らない事か、あるいは不用意に踏み込まれたくない事か。この刀が突飛に喋り出す時に出てくるのは、十中八九このどちらかだからだ。何にせよ、仕事に飽きたから休憩時間になるまで喋って時間を潰す算段なのは見え透いていた。
「俺達は刀だぞ? 刀に書類仕事なんて無茶振りが過ぎる。清坊もそう思わんか」
「お・も・わ・な・い。っていうかそんなの今更過ぎだろ」
もっとも。加州とて、陵丸の気持ちが分からなくもないのだ。
イチマルハチ本丸はかつて、不在本丸――審神者達に習って言えば、元ブラック本丸と呼ばれるところだった。顕現してから長らく出陣漬けだった弊害なのか、どうにも書類仕事というモノには苦手意識がある。
だが、せっかく主から任された仕事なのだ。苦手だから、なんて理由で投げ出す訳にはいかなかった。サボりを許す事もまた然り、である。
「文句あんなら主に顕現解いてもらえば?」と視線も向けようとしない加州に、しかし陵丸は「まあ聞いてくれ」となおも舌を止めない構えだ。相手にしなければ、そのうち諦めて仕事に戻るだろう。加州は無視する事にした。
「言われた事をするだけなんざ人形と変わらん。自分で考えすらしないのもな。
だからこうして刺激と苦痛を両立させる書類仕事の傍ら、もっと愉快で好ましい驚きを模索している訳だ」
(えーっと……うっわ読みづらっ。こういう悪筆極まりないの、受け付け段階で再提出にしてくれりゃいいのに。清書するにしても読み取りソフトで解読……いけるかぁ? 後回しにしよ)
「勿論驚きを追求するにしろ、立場を弁えてやるとも。
なにせ今の俺はこの本丸預かりの囚人だ、城督殿の許しが無ければ城下を出歩く事すらままならない。彼女のご意向次第で即座に首が飛ぶ身の上であるからには、落とし穴だのタライ落としだの、そんな誰かを傷付ける真似は絶対しないと誓っていい――まあ、俺がその手の驚きを追求した事は顕現してこの方無いんだがな?」
(これは……綴るだけでいいやつね。あーもう、元ホワイト本丸って交渉段階で難航するとこはやたらと長引くんだよなぁ。そんなに新しい主が嫌なら、さっさと刀解されりゃいいのに)
「驚きはささやかな、それでいて心動かすものであるべきだ。何振りか、随分と俺を見る目が厳しい奴もいるしな。無意味に警戒心を刺激するような、大きな仕込みはしないさ。やるにしても小さな、そうだな……」
(こっちは、いー加減強制退去が視野に入ってきてるやつか。……ああ、結構練度も高いし人数残ってんのね。それで強気に出てんのか。長曽祢さんまで揃ってて……へー、“加州清光”が初期刀かぁ……)
声音だけは神妙に、それでいて勿体ぶるように、陵丸が言葉を切る。
それに反応しないよう努めながら、加州は”初期刀 加州清光”の文字から顕現順に始まる名簿を、視線でなぞった。(……いいなぁ)主の手を煩わせている本丸だ、苛立ちはある。けれど、自分に無いものを持つその本丸の“加州清光”に、羨望を覚えないといえば嘘になる。かつて、前任者の下で何度となく失った。来歴を共にする仲間達の存在もまた、その一つだ。
“大和守安定”。それに――
「和泉守の持っている堀川国広。あれを隠してやるとか、な」
「――は?」
我知らず零れた声は、地を這うように低かった。
顔を上げれば陵丸は瞬きもせず、じぃっと加州を見詰めていた――視線が合った瞬間、にたぁ、と笑みの形に撓んだその顔に思わず舌打ちする。(クソ、やらかした)苦々しい気分で、鋭く陵丸を睨み付けた。
「言っとくけど。和泉守や堀川におかしな事したら、容赦しないから」
「おお怖い。弱体化してるかよわい俺を、そう睨むもんじゃあないぜ?」
逆さに揺れながら、大袈裟に両腕を広げて陵丸がおどける。
(かよわい、ね。よく言う)加州はあからさまに苦虫を噛み潰した。分霊として与えられた“鶴丸国永”の名を封じられ、大幅に制限を課された陵丸は本人の自認する通り、通常の分霊より遥かにかよわい存在だ。
だが、“刀剣男士として弱体化している”事は“警戒に値しない”事とイコールでは結ばれない。
(しばらく目ェ光らせといた方がいいな)
主犯格でこそ無かったものの、陵丸には前科がある。元ブラック出身、という共通点はあっても、享楽的なところのあるこの刀剣男士を野放しにしておけるほど、加州清光はお気楽では無かった。
加州の怒気に言うほど脅えた様子も見せず――むしろ堪えきれない、とばかりに笑いを噛み殺しながら、陵丸は祈るように両手を組んでみせる。
「俺はなぁんにもしないぜ、誓っていい。アレに構うなら、まだ玉鋼を可愛がった方が有意義だからな――おっ。いい塩梅に休憩か」
嗜虐的なにやにや笑いを引っ込め、陵丸は鐘を鳴らした時計に破顔した。
ロフトから蝙蝠さながらの動きでひらりと音を立てずに降りてきた陵丸が、「よし、これで好きなだけ無駄口を叩けるってものだな!」と薄い(※刀剣男士比)胸を張るのに「……そーね」と投げやりな相槌を打って、加州は八つ当たり気味に、書類を机へ叩き付ける。
(長曽祢さんの方のフォローは……同田貫、じゃ和泉守が聞く訳ないな。国広さんに頼んどくか)
最近とみに不安定さの増している和泉守だ。任せきりにするのは不安があったものの、背に腹は代えられない。
資料室の管理だけでなく陵丸の教育係兼監督役を任されている為、加州が彼と共に過ごす時間は以前に比べて大幅に減っている。同室であるというのに、下手をすれば朝晩にしか顔を合わせないすれ違い生活が続いているのだ。正直、会いにいく機会が減ってしまうのは寂しくもあった。
けれど、陵丸から目を離して、万が一にも堀川に何かあれば――。
考えるだけで、胃の腑が軋む心地がする。和泉守の事を思えばこそ。そして、未顕現の堀川を思えばこそ、どうしたって、誰かに丸投げする気にはなれなかった。
(……上手くいかないな)
長曽祢虎徹が顕現されれば、少しは好転するんじゃないかと期待していたのだが。
ずんと肩に疲労が重たく伸し掛かってくるような錯覚に、加州はぐしゃり、と前髪をかき回す。そんな加州の気苦労など素知らぬ様子で、陵丸はうきうきわくわく「本丸さん、今日も茶請けにとびきり美味しい驚きを頼むぜ!」などと至極楽しそうにしている。
それが大層癪に障ったので、加州は心の赴くまま、陵丸に蹴りを入れた。
「おおっと清坊容赦が無いな痛い痛い」
「痛くしてんだよクソジジイ!」
■ ■ ■
刀は折れる。
命に終わりがあるのと同じく、形あるものにも終わりはある。
歴史修正主義者達との戦の真っ只中だ。敵の首級を山と積み上げておきながら、仲間は一振りだって喪わずにいたいだなんて、そんな虫の良い言い分が通るはずもない。
だからどれだけ練度が上がろうと、どれだけ大切にされとうとも、刀は折れるし、死ぬ。
主が変わろうが、扱いが変わろうが同じこと。
喪う時は、一瞬だ。
――ギィインッ!
弾き飛ばされた木刀が道場の床を転がる。
とうに限界だったのだろう身体が、衝撃を殺す事もできずに崩れ落ちて床を這う。あの倒れ方を見るに、最後の数秒は完全に意識が飛んでいたのは間違いない。それでも完全に気絶しなかったのは、日頃の鍛錬の賜物と言って良いだろう。実戦経験の少なさ、練度の低さを考えれば、気絶しなかっただけ上出来の部類だ。
「立て」
ただ。気絶せずに踏みとどまれていようとも、そのあと反撃に転じる訳でもなく、獣のように五体投地して這いつくばり、地上で溺れるが如くに呼吸も乱れ切った有様は、和泉守の及第点には程遠い。
長曽祢の顔すれすれに、木刀が振り落とされる。
冷然と命じる声には一切の慈悲も、容赦も存在しない。
このまま立てなければ、斬り殺される。
扱っているのは木刀で。ここは本丸の道場で。しているのは手合わせのはずだというのに、そう錯覚せずにはいられないほど、和泉守兼定は殺気すら漂わせながら冷酷に告げる。
「疲れてもう立ねぇなんて、腑抜けたこたぁ言わせねぇぞ」
ふらつきながらも立ち上がろうとした長曽祢が、汗でか、手を滑らせて床に突っ伏す。
無表情にその様を見下ろした和泉守が、無言で木刀を振りかぶって。
「和泉守」
長曽祢の頭上数センチ。突き殺さんばかりの速度で落ちた切っ先が、つむじの上で静止する。
いっそ平坦ですらある、感情の一切垣間見られない事務的な声音に、和泉守は視線だけで声の主を見やった。
声の主。山姥切国広が、淡々とした調子で告げる。
「休憩の時間だ」
「分かった」
彼の言とあれば、従う以外の選択肢を和泉守は持ち合わせない。
長曽祢が山伏に助け起こされるのを尻目に、「再開は一時間後だ」と言い捨てて道場を出る。
(……■れた)
足の向くままに本丸の庭をそぞろ歩きながら、自然、そんな感想が頭を過る。
軽傷以上は負わせないよう注意を払いながら、それでも実戦さながらの過酷な修練を課しているのだ。和泉守とて疲労はある。
それでも、まがりなりにも彼は練度上限だ。この程度で疲れ切ってしまうような、生半可な修羅場は潜ってきていない。だというのに、頭の中に靄がかかっているような感覚があった。
浮かび上がる思考も感情も、纏まる前にふわふわと泡になって消えてしまうような。
――和泉守兼定は、長曽祢の教育係を任せられている。
そうである以上、“長曽祢虎徹”をこの本丸の刀に相応しく育て上げるのは和泉守の義務だ。
教育方針は刀によってそれぞれ違う。何を優先して仕込むかも。そうして和泉守が教育にあたって最優先したのは、練度に関わらず、生き残る為の技術だった。
内番やら日々の生活やら細々とした規則規律の類やら。そんな些事は過ごす内に自然と覚わるが、生き残る術ばかりはそうもいかない。
あれは極限下でこそ、学び取る事が叶う技術だと和泉守は考えている。かつての主の下。彼等が、疲労と痛みに朦朧としながら彷徨い続けた戦場で、それを学び取っていったように。
今の主は、酷い扱いを強いる審神者ではない。傷も癒さず放置するばかりか、互いに互いを相争わせて仲間を折らせることを愉しみ、その悲嘆を喜ぶ悪鬼羅刹では決してあり得ない。
彼女は武器の扱い、刀剣男士の扱いをよく心得た冷徹な指揮官で、過ぎるほどに寛大なところのある、優しい主だ――敗色濃厚だと分かり切っていようと退くことが許されないような、苛烈な戦場へ彼等を伴い、赴いていくだけで。
そんな彼女の刀剣男士である以上、生き残る術に長ける事は必須と言っていい。
(慣れない事してっからな)
心の片隅に蟠る危機感に目を瞑り、和泉守はそう判じる。
追い詰め追い込み煽り立て、身体で以て叩き込む。過去の再現をしようにも、訓練と実戦は大違いだ。出来得る限り実戦に近くなるよう努めてはいても、相当生易しく手緩い、という自覚はあった。けれど、それ以上に良い方法を和泉守は知らない――だというのに大抵は加州が。そうして最近では山姥切国広を筆頭とした男士等が、彼の”教育”を頻繁に中断させてくる。
その所為もあるのだろう。長曽祢虎徹の教育は、当初想定していた以上に難航していた。遅くとも前進が見えるだけ、まだ蝸牛の歩みの方が救いがある。
( 「そうだなぁ、あのクソッタレな覚えの悪さ。まるきり昔のお前自身だ。そりゃあ■■って、■りつけたくもなるよなぁ?」 )
うるさいだまれしゃべるなきえろ。
心の中に混ざり込んだ思考を振り払う。
どこか聞き覚えのある、怖気の走るほどに懐かしく忌まわしい声を圧し潰す。
気付けば、本丸の池まで来ていた。
視線を落とした水面には、青々とした蓮の葉がまばらに散っている。
時折視界を掠める魚影が、葉の落とす影を渡り泳ぎながら、ゆらゆらと波紋を生んでいく。
歩き続けるのが億劫で、和泉守は橋の欄干に身を預けた。休憩するならば自室に戻るべきなのだろうが、どうにも、そんな気分にはなれなかった――より正確に言うなら、ここのところはずっと。
……頭の片隅で、馬鹿にした笑い声が響いている。
あの大演練を境に、加州は随分と活発になった。あの部屋で二人、足踏みしながら傷の舐め合いをしていた頃とは大違いに。もう、あの部屋に戻ったところで加州はいない。刀剣男士となってようやく再会できた、自分を置いていった新選組の仲間達。前の主がいた頃から共にいる、和泉守と傷を分かち合う事のできる唯一人。知らないフリをしたって、平気なフリをしたって、本当は、置いていかれて■しいと思っ(違う)(違う違う違う違う違う違う)(■しくなんてない)(俺は刀だ)(刀は、■しいなんて感じない)(それでいいんだ)(だって、主は許してくれる)
(■がなくったって、許してくれる)
ちゃぷん。
水が揺れる。水面が揺れる。影が踊る。
頭が重い。胸に穴が開いているような、そんな奇妙な心地がする。
先程まで、いったい何を考えていただろうか。空白に自問し、長曽祢への“教育”が、たびたび中断させられる事についてだったか、と思い出す。
主に訴えれば、教育を中断させられる事は無くなるだろう。
けれど、和泉守はそうしない。
何かを欲するべきではないからだ。その行為へ、好悪も抱くべきではない。
主から与えられる命令を完遂する、ただそれだけの道具であればいい。彼女は優秀な審神者だ。判断を間違える事など無い。だからそうやって心を鋼にして、ただのモノになってしまえば――……。
( 「そうすれば、■だもんなぁ。なあ、そうだろう? 和泉守ィ――」 )
嘲り笑う囁き声に耳を塞ぐ。その先に続く願望/自我に封をする。
感情なんて、消えていくならそれでいい。本来持ち合わせるはずもない、刀には不要のものなのだから。
無表情に水面を見下ろしながら、和泉守は服の上から、忍ばせている脇差に触れる。何も応えるはずのない未顕現の相棒を抱えたまま、和泉守兼定は置物のように、時間になるまでその場に立ち尽くしていた。
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