友よ。
 オマエは、生きる意味を見い出せただろうか。
 生きていて良かったと、思える何かはあっただろうか。

 そればかりがただ、気がかりだ。



 ■  ■  ■


 全てが白かった。
 強烈すぎる光が、陰影の一切を焼き潰したからこその白だった。
 本来なら何一つとして認識できないはずの白のただ中で、けれど何故だか、ツキネ達を見下ろすその存在の姿だけは色鮮やかに鮮明だった。
 白に近い銀の尾羽。濃い赤色の風切り羽に、光を編んだかのような金の両翼。
 〝天神〟。その呼び名以外考えられないほどに神々しく煌めく〝ソレ〟は、まさしく天上の太陽がごとく。

 ――い。

 燻る怒りと、けれどもそれを上回る呆れと苦笑の気配を乗せて。
 陽だまりの双眸が、ゆるくたわんだ。

 ――此度の裁定、汝らに免じて延期としよう。

 プロメウが羽ばたく。
 氾濫する白が割れ、砕け、金と白の炎に変わる。

 ――必要あらば、何時なりとも呼ぶが良い。

 頭を、頬を、背中を、腕を、足を。
 ふわりと羽毛のように撫でる炎に灼けつくような痛みはなく、くすぐったくなるような、優しいぬくもりだけがあった。
 あたたかで穏やかな、小春日和の温度をした癒しの炎。
 太陽が遠ざかっていく。光が、炎が遠ざかっていく。
 羽毛のように、花弁のように、雪のように。
 視界を占めていた炎の欠片がふわり、ひらりと消えていく。

 ――ありがとう――

 輝く光の向こう側。
 ひっそりと染み入ってくる夜闇の彼方で、誰かが穏やかにそう呟く。

「マーシャドー……?」

 自嘲と、けれども同じくらいの深い安堵と。
 夜闇に溶け込むように在る、その表情は心の目ですら伺えない。
 それでも、何故だろうか。ツキネにはその小さな影が、ひどく安らいで、笑っているように思えた。

 ――これで、やっと――……

 輪郭が溶ける。
 ほどけ、薄れて霧散する。夜にかえる。
 真冬の寒さが、北風と一緒に戻ってくる。途端に容赦なく肌を刺してくる冷気に、ツキネはぶるりと縮み上がった。

「はぷちっ」
――ィ、ギギギギーッ!?」

 空を見上げて呆然としていたメタングが、くしゃみにツキネを見て絶叫する。

「ツキネまっぱじゃん何で――ってそうかそうだよ服燃えたのか!」
「さっむいのです……」
「だろうね! あーもー、上行こう上! おじさまの毛皮に埋もれたら少しはマシなはず!」

 腹立たし気に腕を振り回すメタングに引っ付いて暖を取りながら、ツキネはフワフワとした気分のまま、空を見上げた。あんなにもあちこち痛くて熱かったはずなのに、一切の痛みが消えていた。
 それどころか、力の過剰行使に伴う疲労感や眠気すらない。まるで、何もかもが夢か幻だったかのように。
 ……もちろん、そんな事は無い。事実、すぐそばに見える時計塔は屋根が半壊状態だし、バベルがあったはずのツキネ達の現在地には、黒く焼け焦げ、剥き出しになった地面が円状になって広がっている。
 なんとなく、分かっていた。あのハンターはもういない。助けたかったマーシャドーも。あの時ああしていれば、こうしていれば。色々な力が使えても、肝心要のその時に、最適を選べる訳じゃない。どれだけ納得いかなかろうと、目の前に横たわる現実こそが、その時々、選択し続けてきた事柄の積み重ねなのだ。

 ツキネが、マーシャドーを助けられなかったように。
 プロメウが、かつて半身を救う事が叶わなかったように。
 後悔は、いつだってついて回る。

 安らいだマーシャドーの顔を思い返し、ツキネは目を伏せる。
 完勝とは、口が裂けても言えはしないけれど。

「……まぁ、良しとするですかね」

 晴れ渡った夜空では、冬の月が優しく地上を照らしていた。


 ■  ■  ■


 都合が良かったから誘惑に乗った。
 利害が一致していたから手を借りた。

 はかりごとに長けた魔女と、闘争にかけては天性のセンスを持ち合わせた強大なはふり。互いに対する情は無くとも、彼等はまさに円満この上ない蜜月関係であった。
 計画は万事順風満帆。残る工程に苦心するほどの難題も無く。
 だからその裏切りは、まさしく魔女にとって、青天の霹靂以外の何物でもなかった。

「バカな」

 片翼を落とされ、地面に這いつくばってのたうちながら、愕然とバルジーナは叫ぶ。
 理解できない。あり得ない。
 心変わりがあるにしろ、男の友であった影衛かげまもりと同じタイミングだと踏んでいたのだ。良心が咎めた、などという世迷い事をほざくにも、あまりに時期が遅すぎる。
 他はどうあれ、少なくともこのような凶行に及ぶほど、男からの恨みを買った覚えも無い。むしろ、自身の助言については、心底の感謝と敬意を受けていたくらいである。
 裏切りなど有り得ないと一笑に付す程度には、彼等は良きビジネスパートナーであったのだ。

「何故だ!? そなたも願っていたではないか、何もかも無くなってしまえと! 国も人もポケモンも、すべて灰燼と帰せば良いと! それ故に、そなたは水の国を――民を扇動し、神殺しにまで手を染めたのであろう!」
「そうだな」

 至極もっとも、と言わんばかりの様子で男が頷く。
 水の神を殺し、水の国を滅ぼして。悪辣な略奪、蹂躙を許容し、その行いを正当化して、逃げのびた水の民への迫害を助長して――そうして憎悪を、殺意を煽って報復を呼び、戦乱が地に満ちた頃。
 招来したプロメウ様へ、この地の不浄、ことごとくを焼き滅ぼして頂く。
 そういう計画だった。ここまですべてが順調だった。
 本当に。男としても心から、バルジーナの計画に賛同していたのだけれど。

「友が、俺を見捨てていたのなら。そうするつもりだったのだが」
「っ! まさか、〝とうめいなスズ〟を盗んだのは………!」
今日こんにちまでの助力に感謝する。荒野の誘惑者、姦計かんけいの魔女。賢くも敬虔なるバルジーナよ」

 沈鬱な落日の瞳が、バルジーナを静かに見下ろす。
 男の振り上げたギルガルドが、陽光を反射してギラリと鈍く輝いた。

――神は最早、ラチナに不要と知るがいい」

 バルジーナの首が飛ぶ。
 血飛沫を上げ、頭を失った胴体がもがくのを止めて倒れ伏す。
 地面に叩き付けられた恨めし気な頭部を一瞥し、男は淡泊に呟いた。

「仕損じたか」
「王、ワが王! どうかご命令を!
 ワシがあの魔女めの魂、しトめてごらんにいれましょう!」
「……いや、良い。あの手傷なら、戻りは早くとも百年は先だろう」

 勢い込んで主張するギルガルドの意見を却下し、男は握っていた剣を盾に預ける。
 災禍の荒野に仕込んであった、予備の器もすべて潰した。
 器が無ければ、魂を癒すにはさらに時間をかけなければならない。百年、あるいはそれ以上に先の未来。今ですら海の巫女と自分以外いないはふりも、その頃には産まれなくなっている事だろう。
 バルジーナの目的には人間という駒が必要不可欠ではあるが、さりとてはふりと異なり、意思疎通に難がある普通の人間相手となれば、行動には自然、多くの制約が付き纏う。賢い彼女であれば、それすらどうにかするかも知れないが――それだけ時間が空いてしまえば、マーシャドーの足取りなど到底追い切れまい。
 それに、と男は言葉を継ぐ。

「この先に必要なのは秩序ではなく争乱だ。お前たち亡霊好みのな」

 奪う、というのは生産性の無い行為だ。
 あるだけ奪い貶め蹂躙し、後に残るのは憎しみだけ。
 そうして生まれた負の情念は、必ず反発を、復讐を招く。
 火の国内部とて、今は男という規格外が力で押さえつけているから纏まっているだけで、いなくなればこの仮初の繁栄は、あっという間に瓦解してしまう事だろう。
 神殺しを成し遂げた。
 残る時間がさして長くはない事は、男が一番知っている。
 そうして、男に長生きする気はまるでなかった。この繁栄を、死後まで長持ちさせる気も。

 ――そうまでして富が欲しかったか! 何もかも奪い尽くさなければ、満足できなかったというのか!?
 皆の命を、尊厳を踏みにじって! この外道の行いに、何ひとつとして恥じることなどないと!?

 そうだ。まったくその通り。
 成功した者の足を引っ張り、失敗した者を嘲笑し、勝手に期待しておきながら勝手に評価しあげつらう。少し切っ掛けを与えてやっただけで、容易く本性を露呈する。
 身勝手で傲慢。厚顔無恥極まりなく、どうしようもなく価値がない。人間とはそういうモノだ。
 有用であると徹底して隔離、管理され、政治に関わる事の無かった海の巫女は、今まで知らなかった事だろうが……重なる飢饉に病の流行。火の国の窮状を知りながら、水の国が最低限の手助けに留めて属国化を目論んでいたのと、本質的には同じ事。
 安全圏から可哀想にと憐れむだけの自己満足。飢えに任せて必要以上の富を奪い尽くす残虐さ。所属する国も奉じる神も違えども、欲望のままに貪りながら、仕方なかったと自己欺瞞を口にするところまで何一つとして変わらない。
 だから、男は我慢するのを止めたのだ。
 止めて、バルジーナの誘いに乗った。
 結局バルジーナとは手を切ったが、今でも、男の基本方針は変わらない。争乱を起こし、なるべく長期に渡って地方を混乱に陥れる。
 なにせ〝とうめいなスズ〟を血眼で探しているのは、人間達も同じであるので。
 恨めし気なバルジーナの目を丁寧な手付きで閉じてやり、男はふ、とため息をつく。

「……こんな形で案じるなら、共に来てくれても良かったろうに。まったく、あいつは本当に酷い奴だ」
「とかイいながら顔がゆるっゆるですぞ、ワが王!」
「そうか。……そうか」

 ラチナ全土に版図を広げた統一帝国は、三年余という短期間の治世の後、男の死と共に瓦解する。
 海の巫女の呪いはここに成就した。かくして、残された者達はかつての生国も貴賤も問わず、長い群雄割拠の戦乱期を、等しく傷つけ合いながら過ごす事となる。
 だからどうしたと笑って言えるくらいには、男は何もかもを憎んでいた。嫌っていた。

 けれど、それでも。
 たったひとりの友達には。幸せであって、欲しかったのだ。


 ■  ■  ■


 どれだけ冬が厳しく長いものだとしても、必ず春はやって来る。
 質量をもって世界を白く塗り潰していた雪が淡く溶け消え、春の訪れを感じた虫ポケモン達が、暖かな巣穴から這い出す頃。マシロタウン郊外。崖の上にぽつんと立った屋敷のツキネの自室にて、よにんは神妙な顔で円陣を作って向き合っていた。
 円陣の中央には、〝とうめいなスズ〟と〝にじいろのはね〟。
 あの後、ポケモンセンターで指摘されるまで一切存在に気付かれなかったが、片やいつの間にかツキネの髪に絡まっていて、片やメタングの背中側の角に引っ掛かっていた神具という名の厄介物だ。
 ここ二ヶ月ほど討論に討論を重ねた末の結論に、す、とツキネは片手を厳かに掲げて、宣言する。

「では、鈴はまりりのお師匠様に預けるという事で」
「異議なし」
「むーちゃんも賛成なのよぉ」
「うむ! おししょーはつよつよで頼れるスーパーギャラドスじゃからの! まー当然の流れじゃの!」

 メタングに続いて、飽きるまではツキネの手持ちになる事にしたムンナがかるーいノリで同意を示し、同じく当面ツキネの手持ちでいる事にしたルリリが我が事のように得意満面鼻高々、といった様子で尻尾の上でそっくり返る。
 頷き手を挙げたまま、ツキネは続けて宣言した。

「羽根の方は地方巡りの旅の中で、処分できないかあらゆる思いつきを試していく、という事で」
「異議なし」
「むーちゃんも賛成なのよぉ」
「うむ! なんかよく分からんけどプロメウ様やばやばだったらしいからの! まー当然の流れじゃの!」

 全会一致の可決だった。ツキネは頷き、両手を叩く。

「では、最終確認はこれにて終了、ということで――
「おつかれさまなのよぉ~!」
「旅立ちじゃムシャシュギョーじゃー! 吾先に行ってるからのー!!」

 待ちかねた! とばかりに開け放たれた窓からルリリが飛び降り、「むーちゃんも行くぅー」とムンナが続く。
 ムンナはともあれ、ルリリのテンションがとんでもなく高い気持ちは分からなくもない。
 最初の目的地はナギサタウン。ルリリにとっては、ホトリ達を助けるために飛び出してきて以来の帰郷だ。ゴートで別れた皆のその後も気になっているだろう。
 ツキネも、元気なホトリ達に会うのは楽しみだった。
 ジムバッジは前任のジムリーダーから既に貰ってはいるが、バトルする約束もしている。
「ちゃんと玄関先で待ってなよー?」ふたりの後ろ姿に、メタングが窓を閉めながら釘を刺した。
 鈴と羽根をデイパックに押し込んで、ツキネもふわりと浮き上がる。

「私達も行くのですよ、めた」
「うん。行こっか」

 あの事件から約二ヶ月。
 今日、この家の一人娘が、一年遅い旅立ちを迎えようとしていた。
 ふよふよふわふわ。ガオガエン達一家に出立の挨拶をすべく廊下を進んでいたふたりは、道中ばったり行き会ってしまったニンゲンの姿に、露骨に嫌な顔をする。

「なんでいるのです、お父さま」

 ツキネによく似た面差しに、けれど正反対に虚無的な陰りの色濃い、物静かな佇まい。顔だけならば白馬の王子様、を地で行く国際警察の父が、ゴートの一件でラチナに来ている事はツキネだって知っている。
 賭けはツキネ達の勝ちだった。あの数日間、ゴートで起きたハンター絡みの一切合切は、約束通りにロクデナシのジムリーダーがひきつけを起こすほどに馬鹿笑いしながら「任せとけ」と後始末を請け負ってくれた――ただ、あのハンター達はあちこちの地方を股にかけて活動していた国際指名手配犯である。ツキネから連絡が行っていた事もあり、国際警察としては、ハンター達の身柄について等、ゴートとの話し合いが必要不可欠だったのも分かる。
 ただ、まぁ。わざわざマシロに寄る必要が何処にあるのか、とツキネは思う訳である。
 仕事をするなら、ゴートに部屋でも借りておけばいいだけだし、ツキネに対する聞き取りが必要だとしても、電話で十分事足りる。
 濁ったヘドロのようなハイライトの無い目で、父は返事をする代わりに、バックパックを背負ったツキネをてっぺんから爪先まで眺めやって。

「あの二匹の顔色を伺うのは止めたのか」

 ツキネは心の命ずるまま、即座に叩き割った手近なドアを顔面めがけてブン投げた。
 ヒュン、カ、と軽快な音がして、投げつけた木片がパラパラと斬り落とされる。いつ抜いたのか、父の両手には二振りの剣――もとい、ポケモンのニダンギルが握られていた。
 躊躇なくドアの残り半分をべっきべきにし、続けざまに投げつける。

 ガガガガガガガッ!

 凄まじい勢いで、投げ付けた扉の残骸が床に散乱する。
 廊下の曲がり角向こうから、グラエナと三つ子がひょこりと顔を覗かせた。

「かーさまかーさま、ねーさまがおこ!」
「やっちゃった? やっちゃった?」
「またぞろ、余計な事を口になさったのでしょうよ。……仕様のないこと」
「ねーさまがんばれー!」
「ツキネー、ドアだけにしときなよー」
「分かってるですよ!」

 ツキネだって器物損壊がしたい訳では無い。
 でもサイコパワーで衝撃波とかビームとか出したところで、この父は平然とぶった斬りやがるのだ。
 その点、物を使うと多少の嫌がらせ効果が見込める。具体的には破片とか粉塵で服が汚れたとかちょっぴり破れたとか、足場が悪くなって歩きづらいとか。
 手持ちの木片が尽きてぜーはーと肩で息をするツキネに、父は乙女のように頬を上気させ、うっとりと目を澱ませた。

「良い表情だ。よく似ている……それでこそ妻の娘……ふふ、顔が俺に似てしまったのが残念でならないな……」
「ゃア゛ァ―! シンオウさっさと帰れなのですー!」

 心を読まなくても襲い来る泥沼ヘドロみたいな愛情に、ツキネは涙目で威嚇する。

「うーん、会話にならない」

 ふたりの間で壁を務めながら、メタングは死んだ目でぼやいた。
 母が亡くなって以来、この父子の対面は穏当に終わった試しが無い。

「御免なさいね。洗脳の影響が残っていないか、しばらくトレーナーの経過観察が必要になってしまって……」
「う゛―う゛―う゛ぅ゛―!」

 申し訳無さそうなグラエナの言葉に、ツキネは理性と感情の葛藤でじたじたする。
 グラエナ達は悪くない。経過観察が必要なのも致し方ないし、それはトレーナーとしての義務ですらある。だけどそれはそれとして、父が自分のテリトリー内にいるのは生理的に受け入れ難い。
 父の斜め後ろ。影のごとく控えていたキリキザンが、平静な声音で指摘する。

「ご息女、本日が旅立ちでありましょう。時間は有限。左様にかかずらわず、早々にお発ちになられるべきかと」
「ですなー。少女老いやすく旅路は長しと申しますから!」
「それなー。次にお戻りの頃にはわれ等もシンオウに戻ってる頃合いでしょーし?」

 代わる代わるニダンギルがコメントし、「ねーさまたびだち!」「にーさまいってら!」「おみやげまってるー!」三つ子がきゃんきゃんと元気いっぱいで口々に叫ぶ。

「ツキネ、めた」

 困ったように、優しい声音でグラエナが言った。

「無茶はしないよう――……ああ、違うわね。たくさん、楽しんでいらっしゃい」
「ツキネ」

 ポケモン達の言葉に続いて、玲瓏れいろうな声で父が告げる。

「この家は、妻がお前に遺した箱庭だ。栄うも滅ぶも好きにするといい」
「は?」

 脈絡の無さと意味不明さに、ツキネは困惑顔でそう返した。

「はぁい。行ってきまーす!」

 メタングの腕がツキネを抱え込む。ダッシュで――とはいっても、壁にぶつからない程度の速度だが――玄関ホールへ向かうメタングの腕に抱えられ。ツキネは表情そのままに、くきっと首を折り曲げて、メタングへ再度繰り返した。

「は?」
「いや知らないし。自分にあのヒトの発言意図とか分かる訳ないだろ」
「んんぅううううううう」

 ツキネはシワッシワな顔をした。言葉にできない。

「はいはい気にしないでおじさまと母様に挨拶してこー。まりり達待ちかねてるだろうし」
「ぬー……」

 唸るツキネを抱えて、メタングが庭に出る。
 潮風が肌を撫でていく。
 切り立った崖に面した、水平線の一望できる裏庭。
 母とガオガエンへ挨拶しに行くのに、メタングに抱えられたままでは格好がつかない。
 メタングの腕から降り、地に足裏をつけて、ツキネ達は連れ立って、精緻なレリーフが刻み込まれた石畳の上を歩いていく。
 道の先にあるのは、裏庭の主役である四阿しあだ。かつて東屋あずまやとして使われていた――現在では母の墓標となっているそこは、今も昔も、ガオガエンお気に入りの昼寝スポットである。

「オマエラか」

 今日は起きていたらしい。
 墓石に向き合い、座っていたガオガエンが首だけで振り返る。

「はい。出立のご挨拶に来たのです」
「アー……今日だったっけか?」
「うん」
「そうか」

 覇気のない様子で頷いて、ガオガエンは墓石へと視線を戻した。
 力なく投げ出されていた尻尾の先が、ぱたん、と小さく音を立てて揺れる。ガシガシと首の後ろを掻いて、何かを噛み締めるような、寂寥せきりょうの混じった大きなため息を吐き出す。

「ついこないだまで、オレサマのシッポしゃぶってたおチビがなア」
「えっツキネそんな事してたの?」
「オウ。で、決まって口ン中毛だらけなのに怒り泣きしてたモンだ」
「うわー理不尽」

 熱い風評被害に、ツキネは頬を膨らませて抗議した。

「赤ちゃんの時の話ではないですか。もうとっくに時効なのです」
「そうだなア。もう、昔の話だ」

 懐かしむようにそう言って、ガオガエンがのっそりと腰を上げた。
 メタングと並び、母の墓石の前にしゃがんで手を合わせる。
 そよそよと風が通る。遠くから、潮騒に混じって鳥ポケモン達の鳴き交わす声が聞こえてくる。
 穏やかだった。のどかで、平和で。
 ほんの二ヶ月前の騒動が嘘のような、マシロタウンのいつもの日常。

――おかあさまは」

 じっと向き合う墓石は、何を語る事もない。
 刻まれた記憶は死後のものだけで、感情を秘める事もない。
 仮に、そこに何かがあるのだとしても、それはエスパーに分かる類のものではないのだ。

「私が旅に出ること、お止めになったでしょうか」
「ねエよ。分かってんだろ」

 拗ねたように、ガオガエンが断言した。

「アネさんが生きてたなら、怒られんのはオレサマたちだ。……旅立ち、楽しみにしてたのに一年も付き合わせて悪かったな」
「いいえ、おじさま。謝らないで欲しいのです」

 運が悪かった。そう言うより他ないだろう。
 階段から落ちて。そう大した高さでは無かったけれど、ただ、打ち所が悪かった。
 母が死んだのは事故だった。父でも、ツキネでも、ガオガエン達、母の手持ちだった誰かでもいい。誰かひとりでも居合わせてさえいれば、少しドジをした、というだけで終わったようなつまらない事故。
 偶然その時、誰も居合わせなかったから起きてしまった。
 誰の目も、誰の手も届かなかった、それだけの事故。

「……おじさま達に見送って欲しいからと、旅立ちを遅らせたのは私のわがままだったですから」
「そうだよ。決めたのはツキネなんだし、気にする必要なんてないって」

 あっけらかんとメタングが同意する。
 援護射撃は嬉しかったが言い方にイラっとしたので、ツキネはメタングをぺちぺち叩いて抗議の意を示した。「理不尽~」大げさに嘆いて距離を取るメタングに、ガオガエンが声を上げて笑う。
 大きな手が、ふたりの頭をワシワシと撫でる。

「じゃれるのはそのくらいにしとけ。そういや、ダンナ戻ってきてるがもう会ったか? あんなでもオマエのオヤジだ。アイサツしてから行けよ」
「だいじょうぶなのです。ちゃんとしてきたのです」
「そのツラ、もう一戦やらかした後か……。で? 今日はなに壊しやがった」
「ドア一枚。快挙じゃない?」
「おっずいぶんガマンしたじゃねーか。えらいぞおチビ」
「ふふん」

 ツキネは得意満面で胸を張った。
 強面を優しく和ませ、ガオガエンが視線を合わせてふたりに告げる。

「オマエラは十分強くなったが、無敵じゃあねえ。引き際だけは見誤んなよ。……気ぃ付けて行ってこい」

 ツキネとメタングが旅に出ないままでいれば、きっと、ガオガエン達は安心していられただろう。
 それでも、こうして旅に出ることを認めてくれた。
 ……少し時間はかかってしてしまったけれど、母に代わって、見送る事を選んでくれた。

「はい、おじさま」
「うん。分かった」

 感謝を込めてハグをして、ふたりは、裏庭に背を向ける。

「いってらっしゃいませ」「いってらっしゃいませ」「いってらっしゃいませ」すれ違う召使い達に「行ってきます」を返しながら、急ぎ気味に廊下を進んでいく。
 玄関ホールに控えていた家宰かさいを務める老婦人が、ふたりを見止めて深々と頭を下げた。

「行ってらっしゃいませ、ツキネお嬢様、めた様」
「ええ。留守を任せたのです」
「行ってきまーす!」

 メタングが玄関の扉を押し開ける。
 遠くへ真っ直ぐに伸びる道の、少し先。
 ムンナとルリリが、音に反応して振り返った。

「ごあいさつ終わりー? 退屈して寝ちゃうとこだったのよぉ」
「早く行くのじゃ! 吾、いっぱいいっぱいバトルしたいのじゃ!」
「今行くのです!」

 騒ぐふたりに、声を張り上げそう返す。
 何処までも深い海色をした、ひどく晴れやかな蒼天の下。
 ツキネとメタングは、そろって外へ飛び出した。




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