太華山眞聖寺の歴史

 この地は往古より眞聖ヶ洞と言い、古刹がありましたが、たびたびの火災により再建を繰り返してきました。戦国時代、信長によって焼失して後、再建されませんでした。

 〔眞聖寺裏庭より平成8年(1996年)骨壷三個が出土し、調査の結果、老洞古窯(おいぼらこよう)で焼かれた骨壷であると判明しました。大化の改新(645年)ころから寺院が存在したようです〕

開基 曹洞宗 明堂大和尚
・明暦2年(1656年)春、越前(福井県大野町)より来て長山の一草庵に住む。弟子月海和尚(当山2代目)随侍。

開山 湛然道寂和尚  岐阜県美濃市・清泰寺出身
・寛文11年(1671年)長山より現在地(眞聖ヶ洞)に移転。旧名をとり、眞聖寺と命名する。

・元禄14年(1701年)新しく大悲殿を造り観世音(菩薩像)を安置する。〔この時、旧眞聖寺の仏頭(から唐かね金)仏具など多数出土。仏頭は仏師に命じて補修し、御前立の御前立とした〕

・文化2年(1805年)大悲殿再修

・文久元年(1861年)裡門張二間長六間一宇新造立

・明治24年(1891年)10月28日大震災(濃尾震災)に遭う
 本堂、庫裏、倉庫、鐘楼、山門、開山堂、鎮守堂は悉く傾く。裡門、廊下、土塀、井屋二宇は皆全壊。仮修繕をする。

・大正7年(1918年)諸堂改築等完成。1ヶ月にわたり御開帳・授戒会を行う


ご本尊について
☆眞聖寺本尊となった由来
 御本尊は、会津(山形県)米沢城主 上杉景勝公(1555〜1623年)が、戦の守り本尊として奉じていた十一面観世音菩薩像であります。この観音像は、中国毘須羯摩(ビスカツマ)の作と伝えられており、赤栴檀木(セキセンダンボク、香木の一種)でできています。
 景勝公の死後、遺言により和歌山県の高野山に納められるはずでした。しかしこの仏像は、岐阜県大垣市、福井県大野市へ、そして岐阜市芥見長山へ、更に芥見野村の現在地(古眞聖寺跡)へ移り、縁あって当山の御本尊となりました。元禄14年(1701年)本堂を建立後、秘仏となりました。
 平成14年(2002年)9月30日、岐阜市文化財審議会により十一面観世音菩薩像が、岐阜市指定文化財第173号として認定されました。

≪仏像説明≫
 本像は白檀かと思われる硬質材で彫られた檀像である。右腕を含むほぼ全身を一材から彫り出している。後頭部を首の生え際から斜に切り離し、玉眼を装着する。各部の比例はよく、彫技も優れている。顔は若々しく写実的で、姿勢も自然である。衣文は彫が深く、抑揚もあって流動的である。保存状態は良好であり、鎌倉時代の檀像の優品といえる。

◎語句解説◎
*十一面観世音菩薩 
  頭上に十一面の仏面をいただく観音。衆生の十一の苦を転じ、仏果を得さす広大な功徳を形に表したもの。正面は慈悲、左方は憤怒、右方は白牙上出相、後方一面は大笑相。頂上一面は仏を表す。天平時代から信仰が盛んになり、多くの仏像が造られた。
*白檀
 香木の一種。強い香気を放つので、仏像の素材や、数珠に使われ、また香料としても用いる。インドやマレー半島が原産地。
*檀像
 白檀・赤檀等の香り高い檀木に彫刻した像。木の持つ香りを生かすため、目・唇・髪など以外には彩色を施さないのが普通である。中国渡来の像の影響もあり、平安時代初期ごろ、わが国でも盛んに作られた。
*玉眼
 眼球の部分に水晶をはめこみ、水晶の裏面に瞳を描いたり、あるいは裏面に絹に瞳を画いたものをあてて透かせ、彫眼よりも真実の眼に近い感じをもたせる方法。十二世紀中頃から行われる。
*衣文(えもん)
 着衣の折り目、しわ。時代により衣文の表現が異なる。


御開帳について
 当山の御開帳は約20年に一度行われており、過去8回行われております。今年は9回目の御開帳となります。
 前回は平成12年(2000年)4月29日から5月8日までの十日間、21年ぶりに御開帳を行われました。
 前々回は昭和54年(1979年)に行われており、同時に第十六代住持晋山式と授戒会がありました。
 過去の御開帳でも、野村・長山・大洞・岩田各地区から桜の奉納を受けています。これは寛文年間(1661〜1672年)から明治維新(1868年)まで、各務郡芥見村が旗本金田氏、旗本室賀氏、高富藩本庄氏の支配下にあり、延宝二年(1674年)、眞聖寺が旗本室賀氏の菩提寺となって以降、室賀氏と関係のある地区から、桜の奉納が行われてきました。
 今回は2024年4月27日〜5月6日まで、新型コロナウイルス流行で2020年に行う予定が延期となり、24年ぶりの御開帳を行います。野村区から桜の奉納を受け、会場の本堂前を美しく飾り付けていただくことになります。

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