かのう  てっさい
加納鉄哉翁について
 加納鉄哉翁は、明治・大正期に主に鉄筆画を中心として活躍し、明治政府の委嘱により奈良・京都などの古美術調査を行い、また現在の東京芸術大学設立時には彫刻の教授でもありました。

 幕末の弘化2年(1845年)岐阜市本町の生まれ。幼少期に事情があり芥見・後藤善蔵方に仮寓。青年期には美濃加茂市伊深・正眼寺で修行するも還俗、各地を遍歴。やがて佐野常民氏(日本赤十字社創立者)や町田久成氏(初代東京国立博物館長)の知遇を得ました。その後、岡倉天心、フェノロサらと奈良・京都などの社寺の宝物調査を政府の依頼で行いました。

 鉄哉は彫刻(仏像・人形など)・陶芸の絵付け・仏画・煎茶道具等の制作技術を持つ多才な技術の持ち主でありました。晩年には、奈良の最勝精舎に移り住み、作品制作に没頭します。京都宇治・黄檗山万福寺売茶堂にあります煎茶道祖といわれる「売茶翁像」の彫刻は、最晩年の大正14年(1925年)10月、鉄哉最後の作品であり、優品として有名です。

 加納鉄哉翁については、最近まで詳細な調査がなされなかったこともあり、不明な点が多くありました。職人的気質の持ち主であったためか、美術・芸術界に出ることを大変拒んだようで「知られざる名工」、あるいは多芸に富んでいましたので「奇才」とも呼ばれています。

 鉄哉と眞聖寺との関係は、明治9年(1876年)鉄哉の父の葬儀を行ったのがご縁で、度々芥見に立ち寄ったようであり、眞聖寺に対し、生前あるいは没後に寄贈された作品が数多くあります。現在はその作品の多くを美術品として岐阜市歴史博物館に寄託・保管しております。

 眞聖寺弘法堂南にある自然石(岩石)に彫った前述の後藤氏「辞世の句」も、鉄哉作品の一つであります。

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