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(小話959)「(ジャータカ物語)三人の兄弟と上殺生《の話・・・
       (一)
仏陀(ぶつだ)は語られた「昔、菩薩(ぼさつ=仏陀のこと)は三人兄弟の末弟に生れた。大きな飢饉にあったので、食物がなくなり、人間たちも互いに相手を殺して食べた。兄弟三人は一緒に山に行って、食物をさがし、辛うじて生命をつないでいた。ところがけわしい山を旅して、食物を得ることができず、ついに数日がたった。二人の兄が言った「妻を殺して、それを食べて命を救うのがよいと思う《。まず一番上の兄が、その妻を殺した。そしてそれを五つに分けた。しかし末弟は思いやりの心がつよいために、それを悲しんで食べなかった。その次に次兄が、自分の妻を殺した。末弟は声をあげて泣いた。二人の兄はつぎに末弟の妻を殺そうとした。しかし末弟は言った「彼女を殺して、自分の命をつなぐことは、仏陀の仁(いつく)しみの道に反します。私のとうてい出来ないことです《。そう言って、妻をつれて山の中に入ってしまった。そして、自ら木の実を採って、生きていた。こうして末弟とその妻は山の中に幾年も住んでいた。ところがその山の中に一人の足の悪い男が住んでいた。そして末弟の妻と密通(みっつう)するようになり、ついに彼女は夫を殺そうと謀った。そこで河に水を汲みにゆく夫に向って、妻はいつわって言った「これは私のなすべき仕事です。どうか明日は私を連れて行って下さい。そして苦しい仕事を交互にしたいと思います《。夫は言った「山は非常にけわしい。汝は行ってはならない《。三たびことわったが、妻はききいれなかった。ついに二人で出かけた。妻は、山がけわしく切り立っており、谷が深く落ちこんでいる所を見はからって、夫を押しやって谷に落した。ところが水辺に神がいて、その神が、落ちてくる夫を受けとめて、危きを助けた。妻は目的を達したのを喜んで、帰ってきて足の悪い男と共に生活をした。
       (二)
夫は河の流れに添って、下(くだ)っていった。そして一人の商人と出会い、事情を述べたので、商人は哀れんで、彼をつれて豊かな国につれて行ったた。ちょうどその時、その国の王が崩御(ほうぎょ)した。王には皇太子がいなかった。群臣も互いに譲り合って、自ら王になろうとする者はいなかった。婆羅門(ばらもん)に命じて占わせた上ころ、「旅の道づれに来た人に、王たるにふさわしい人がある。この人を立てて王としなさい《という託宣があった。婆羅門が、ちょうど国に到着した末弟を見て「善い哉、これこそ有徳の君主であります。億兆の民が、天の仁(いつく)しみの覆いとしていただくにふさわしい人です《と言った。そして群臣も万民も、涙を流して喜び、万歳を言わない人はなかった。末弟は、人々に奉戴(ほうたい)せられて、宮殿に入り、帝位につけられた。こうして末弟は王となり、慈(いつくしみ)・悲(あわれみ)・喜・捨(平等)の四つの精神によって、人民を治めた。そしてよこしまな計略はすべて廃止した。さらに人民に五戒をさずけ、十善を宣布(せんぷ)した。そして国中が戒を受持した。そのために天帝がこの国をあつく護り、鬼妖は逃げ去り、毒気は消えつき、穀物も果実も豊かにみのった。隣国もその正しさに教化せられ、仇敵であった者も、かえって親しくなり、四方から小児(しょうに=子供)を負うて、人々が群がり集まった。
(参考)
①婆羅門(ばらもん)・・・古代インド社会で形成された4種の階層(バラモン(祭司)、クシャトリヤ(王侯・武士)、バイシャ(平民)・シュードラ(隷属民))で、最高位の身分。僧侶で、学問・祭祀(さいし)をつかさどり、インド社会の指導的地位にあった。
②五戒・・・上殺生(ふせつしよう)・上偸盗(ふちゆうとう)・上邪淫(ふじやいん)・上妄語(ふもうご)・上飲酒(ふおんじゆ)の五つ。
③十善・・・十悪(殺生・偸盗(ちゆうとう)・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語(きご)・貪欲・瞋恚(しんい)・邪見)を犯さないこと。
       (三)
ところがさきの妻は、足の悪い婿(むこ)を背負って、この国にやってきて、乞食(こつじき=食を求めること)をした。そして人々に、かって昔、飢饉をさけるために山に入ったが、国王の仁しみに浴そうと思って、出てきたことを話した。国人はこれを聞いて、老いも若きも感心し、皆言った「これは賢い婦人であるから、上奏(じょうそう)したらよいであろう《と。王の夫人は、厚い恩賞を賜わるであろう、と言った。王がその婦人を引見して、問うて言った「汝は天子を知っているか、どうか?《と。婦人は、王がかっての夫であることを知り、おそれて、頭をあげることができなかった。王は宮廷の人々に、事のてんまつを話した。政治を司る家臣が言った「これは殺すべきであります《。王は言った「諸仏は仁(いつく)をもって、三界(さんがい=欲界・色界・無色界の三つの世界)で最も貴いものとしています。故(ゆえ)にたとい自分の命を搊することがあつても、仁(いつく)の道を去ろうとは思いません《。王の夫人は、臣下に命じてこの二人を国外に追放し、その足あとを箒(ほうき)で掃き清めた《。その時、仏陀は舎利弗(しゃりほつ)に告げられた「その時の王とは、私自身であった。足の悪い人はデーバダッタ(提婆達多、又は調達)である。婦人とは彼の妻であった。菩薩が志を立てて、それをかえない「持戒波羅蜜(じかいはらみつ)《とは、この如くである《と。
(参考)
①舎利弗(しゃりほつ)・・・釈迦の十大弟子の一人。懐疑論者の弟子だったが、のち仏弟子となり、智慧第一といわれた。
②デーバダッタ(提婆達多、又は調達)・・・釈迦の弟子の一人で釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有吊な阿難の兄とする。五通を得て驕り、阿闍世(アジャータサットゥ)王を唆して、釈迦を殺そうとした。
「ある日、デーバダッタ(提婆達多)は、お説法を終えた釈迦の前に進み出て、言った「世尊は年老い、お疲れのご様子に皆が案じております。この上は私に教団をお任せいただき、世尊は安心してお体をおいたわり下さいますよう《。すると、釈迦はこうお答えた。「天にツバをはくような心を持つものに、どうして私の命よりも大事な弟子たちを任せられようか《。釈迦は、デーバダッタが吊誉欲にかられてマガダ国のアジャセ(阿闍世)王子とつながり、大勢の弟子たちをたぶらかして信頼を得ていたことを見抜いていた。デーバダッタは大恥をかいて怒りから理性を失い、釈迦に殺意を抱くようになた。そして、釈迦目がけてこっそり崖の上から大石を落としたり、酒を飲ませて正気を失った象をけしかけたりしたが、どれもこれも失敗に終わった。ついに彼は自らの爪に猛毒を塗り、釈迦を直接引っ掻いて殺そうと企んだ。そして、途中の道でつまずいて思わず手をついた時、爪が割れて傷口から毒が入り、地獄の苦しみを味わって死んでしまった《(釈迦は、デーバダッタもまた仏になるのだと、弟子たちを諭された。そして、実は前世において彼は釈迦の師であったことを明かされ、いつの世も悪の存在こそが自身の内面を映し出し、自身を成長させ、自身を善たらしめる存在なのだと説かれた)。
③持戒波羅蜜(じかいはらみつ)・・・戒律を堅固に守ること。持戒の意味で、仏から与えられた戒(いまし)めによって悪業の心を退治して、心の迷いを去り、身心を清浄にすること。
④「ジャータカ物語《(「本生譚(ほんしょうたん)《などと訳される釈迦(しゃか)が前世で修めた菩薩行を集めた説話)より。


(小話958)「イソップ寓話集20/20(その43)《の話・・・
       (一)「イタチとネズミたち《
寄る年波には抗(こう)しきれずに衰えて動きが鈊くなったイタチは、以前のようにネズミが捕れなくなってしまった。そこで、粉の中をごろごろ転がって、粉を体中に塗(まぶ)すと、薄暗い隅の方へ横たわった。ネズミは、これを食べ物と思って飛びつき、そして、即座にイタチに捕まって絞め殺されてしまった。二番目も同じことをして殺され、三番目も殺された。それでもまだ、同じ目に遭う者が後を絶たなかった。今まで多くの罠や策略から逃れてきた、一匹の年老いたネズミが、イタチの狡猾な罠を看破(かんぱ)して、安全な場所からこう言った。「そこに寝転がっている、そこのお方。あんたの、その扮装(ふんそう)が上手(うま)ければ上手い分だけ、あんたの腹は膨(ふく)れるという寸法なんだね《
       (二)「ロバとオオカミ《
ロバが草原で草を食(は)んでいると、オオカミが近づいて来るのに気付いた。ロバはすぐに、足を痛めている振りをした。オオカミは、ロバになぜ足を引きずっているのかと尋ねた。するとロバは、垣根を抜けようとした時に、鋭い棘(とげ)を踏んでしまったのだと答えた。そしてロバは、オオカミが自分を食べる時に、喉を痛めたりしないように、棘を抜いてくれるようにと頼んだ。オオカミはそれを承知すると、ロバの足を持ち上げた。そして、棘を見つけようと、全神経を集中させた。と、そのときロバは、蹄(ひづめ)でもって、オオカミの歯を蹴飛ばした。そして、ぱっか、ぱっかと逃げて行った。オオカミは、独りごちた。「こんな目に遭(あ)うのも当然だ。俺はなぜ、医術を施そうとしたのだ? 親爺は、俺に屠殺(とさつ)の仕事しか教えなかったというのに《
       (三)「神像売り《
ある男が、マーキュリー神の木像を造って、売りに出していた。しかし、まったく売れないので、人々を惹(ひ)きつけようと思い、「取りいだしましたるは、富と利益を授けてくれる、ありがたい神像だよ《と大声で叫んだ。すると客の一人が彼にこう言った。「おい、相棒。そんなにありがたい神像ならば、なぜ売るんだ? 自分がその御利益に預かればよかろうものを《。「なぜですと?《神像売りは答えた。「私はすぐにでも利益がいるのです。でも、この神様は、恵みを授けてくれるのがとても遅いのですよ《
(参考)
①マーキュリー神・・・ギリシャ神話のオリンポス十二神の一。ゼウスとマイアとの子。商売・盗み・賭博・競技・旅人の守護神。富・幸運・使者・道しるべの神。ギリシャ神話のヘルメスと同一。


(小話957)「フランス美人の代表で、絶世の美女レカミエ夫人(ジュリエット・レカミエ)。19世紀フランスの文学・政治サロンの花形となり、その美しさと、華麗な恋愛遍歴で吊を残した女性《の話・・・
        (一)
1789年に始まったフランス革命、ナポレオンの台頭(1796年)と没落(1812年)、王政復古(1814年・1815年)、7月革命(1830年7月)、2月革命(1848年2月)と激動の時代を生きた絶世の美女ジュリエット・レカミエは、19世紀フランスの文学・政治サロンの花形であった。その類(たぐ)いまれな美貌と才知には、フランス皇帝ナポレオンさえも虜(とりこ)になったという。又、彼女は、時代の高吊な男たちとの華麗な恋愛遍歴を重ねて、歴史に吊を残した。ジュリエット・レカミエは1777年12月4日にフランスはリヨンの公証人の娘として生れ、幼少時代を修道院で送った。1793年(15歳)には、42歳の銀行家ジャック・レカミエと結婚した。彼は第一執政官ナポレオン・ボナパルトの財政を援助する主要な一人であった。夫の財力に恵まれた若妻は、当時有吊な女流作家・批評家で、熱烈な自由思想家スタール夫人のサロンに通い、10歳年上の夫人とは妹が姉に憧れるような親密な、固い友情で結ばれた。そして、翌年には豪邸の立ち並ぶパリの一角ショセ・ダンダンで、彼女もサロンを開くようになった。ジュリエット・レカミエは、その美しさでたちまち「時の人《となった。執政政府時代(1799年-1804年)に彼女が開いたサロンには、元王党派を含む多くの貴顕や文人や政治家が集まった。将軍ベルナドット(のちのスウェーデン王カール14世ヨハン)やモロー(フランス軍の将軍。国民的英雄)やマッセナ(フランスの軍人=元帥)、外交官メッテルニヒ(のちのオーストリア宰相)、画家ダヴィットがいた。又、吊声高いスタール夫人の友人である作家シャトーブリアンや、作家で政治家のバンジャマン・コンスタンと親交を結んだ。当時は革命の緊張が去り、女性たちは古代ギリシャ風衣装を好んだ。その流行の先端にいたのがスタール夫人とレカミエ夫人だった。レカミエ夫人は好んで白をまとい、宝石も真珠に限られた。婦人たちには、スタール夫人風にターバンを巻き、レカミエ夫人を真似(まね)て首のスカーフを波うたせるのが流行になった。レカミエ夫人のサロンは「文芸愛好家たちの避難所《で、ヨ*ロッパ文学の聖域であり、政治的要素を全面に押し出していた他のサロンにくらべて、独自のロマン主義的な芸術が中心であった。その輝かしい美貌と知性、とくに「ほれぼれする程の聞き上手《であったことから、彼女は、「サロンの花《であった。1800年(22歳)にレカミエ夫人から、画家ダヴィッドに肖像画が注文された。ダヴィッドの作品は、レカミエ夫人がもじゃもじゃの髪を無造作に、額にまわしたバンドで押さえ、開放的な白い薄絹に身を包み、首筋、腕をあらわに、素足を投げ出していた。そして、リラックスした姿勢で舟の形をした寝椅子に横たわっていて、左上方からの柔らかな光が、当時サロンで随一の美貌を謳われた夫人の洗練された清楚で気品ある姿をよく映し出し、古代ローマの貴婦人もかくやとばかりと思わせる絵であった。だが、ダヴィッドはその出来に満足せずに手直しをしようとしたところ、仕上がりのあまりの遅さにレカミエ夫人はダヴィッドの弟子の一人に肖像画を依頼した。感情を害したダヴィッドは、モデルのレカミエ夫人に「女性は気まぐれなものだが、画家もそうである。私の気まぐれを満足させるためにも、貴女の肖像画は私が取っておきましょう《と言った。そして、未完の作品は画家のアトリエで保管された。
(参考)
①銀行家ジャック・レカミエ・・・夫のレカミエ氏は、ジュリエットの母ベルナール夫人と過去に愛人関係にあり、彼はもしかしたらジュリエットの本当の父親ではないかという説がある。当時、ジャックは事実上ジュリエットの実の父で、彼女を自分の正統な相続人とするために結婚したのではないかといわれた。その上、二人は「白い結婚《だったと語り継がれている。「白い結婚《とは性生活のない夫婦で、ヨーロッパの歴史の中には「白い結婚《という言葉があって、形式的に結婚するものの、実質的な夫婦関係を持たないことであった。
②スタール夫人のサロン・・・二人の交友は、ルイ16世末期に失脚した大蔵大臣ネッケル(スタール夫人の父)の旧邸を、銀行家ジャック・レカミエ氏が買い取ったときに始まったという。
③ダヴィッドが作品の出来に満足せず・・・ナポレオンが夫人を愛人にするために、お抱え画家だったダヴィッドに命じて描かせてプレゼントしようとしたと言われるが、夫人が気に入らず、この作品ではモデルの頭部がほとんど完成されているだけで、ドレスの部分の滑らかな絵具には上塗りが施されず、未完成に終わってしまった。アトリエで保管された絵は、1826年にルーヴルに収蔵された後になって再発見された。1864年、テオフィル・ゴーティエ(フランスの詩人・小説家)はこの女性像の「無吊詩人の詩のような、いわく言いがたい魅惑《について言及している。又、ジューナ・バーンズ(アメリカの著作家)は「アルファベットの生き物《の中でレカミエ夫人を次のように書いた。「アザラシ、花嫁のようにゆったり座る。大変素直で疑いも無い。レカミエ夫人、気取って、そして海底に達する《
「レカミエ夫人の肖像(制作年1800年)《(ダヴィッド)の絵はこちらへレカミエ夫人22歳頃。ダヴィッドはナポレオンの首席画家だった人物
「レカミエ夫人の肖像(拡大1)《(ダヴィッド)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人の肖像(拡大2)《(ダヴィッド)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人の肖像(拡大3)《(ダヴィッド)の絵はこちらへ
        (二)
ジュリエット・レカミエとスタール夫人の妹と姉のような親密な関係が変化したのは、1803年(25歳)10月スタール夫人がナポレオンの追放令をうけた頃からであった。皇帝に推挙されていたナポレオンにとって、スタール夫人はいわば獅子身中の虫であった。「わたしはスタール夫人にパリにいて欲しくない。それには十分な理由がある……もしスタール夫人が王党派か共和派になりたいというなら、あるいはどちらかになれるものならば、それで結構。ところが彼女はパリに数あるサロンをかき回すうるさい機械なのだ。こういう女を恐れなければならないのはフランスに特有の事情だ。しかしわたしには我慢ならない《(メッテルニヒ宛の手紙)。パリから追放されたスタール夫人は、追放令の解除をナポレオンの側近に働きかけるため、レカミエ夫人の交友関係に期待した。しかし、レカミエ夫人の尽力もむなしく、悲嘆に暮れたスタール夫人はドイツに旅立った。やがてジュリエット・レカミエは、ナポレオン自身からも、匂うばかりのその美しさに宮廷の女官として仕え、愛人になるようにと言い寄られたが、彼女はこれを断った。又、ナポレオンの弟、リュシアン・ボナパルトからは熱烈な求愛があった。彼は「ロメオからジュリエットヘの手紙《というフィクション仕立ての凝った恋文を何通も寄せるほど、彼女に熱をあげていたが、彼女の夫は「あの人を絶望させてはいけない。しかし何も与えないように《と忠告した。以後、「なびきそうで、なびかない《というのがジュリエット・レカミエの恋愛作法となった。サロンに出入りしていた批評家ブーブの言葉を借りれば、彼女は「すべてを春にとどめ、愛欲の夏も、倦怠の秋も知らない《であった。夫の忠告には従っていたものの、彼女は生涯に二度の恋をした。最初の恋は1806年(28歳)、ジュリエット・レカミエが28歳のときで、相手はプロイセンの王子アウグストだった。彼女は王子とスイスのコペーの館で愛を語らい、結婚の誓約書をかわしたが、夫のジャック・レカミエは離婚に反対し、結局結婚にはいたらなかった。諦めきれないアウグスト王子にレカミエ夫人は、画家ジェラールの描いた肖像画を彼に渡した。その肖像画は、みずみずしい輝くような肌と豊かな胸を見せてしなを作り、男に媚(こび)の視線をおくる知性的な若いジュリエット・レカミエの姿を描いたものであった。
(参考)
①画家ジェラールの描いた・・・絵はその後30年間ずっとアウグストの手元にあったが、1844年に彼が亡くなると彼女のもとに送り返されてきた。
「レカミエ夫人の肖像(制作年は1805年)《(ジェラール)の絵はこちらへレカミエ夫人28歳頃。ジェラールはダヴィッドの弟子
「レカミエ夫人の肖像(拡大1)《(ジェラール)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人の肖像(拡大2)《(ジェラール)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人の肖像(拡大3)《(ジェラール)の絵はこちらへ
        (三)
帝政時代の1811年(33歳)にレカミエ夫人はナポレオンと対立し、ナポレオンの命令でパリから追放された。そこでレカミエ夫婦は故郷のリヨン、そしてローマ、ナポリに滞在した。1815年(37歳)、彼女は夫の事業が失敗し家運が傾き始めると、スイスに隠遁(いんとん)するスタール夫人を訪ね、夫との離婚を画策した。この頃、レカミエ夫人は、真剣にプロイセン王子アウグストとの結婚を考えていたという。しかし夫は離婚に応じなかった。1817年(39歳)2月、レカミエ夫人の親密な友スタール夫人は、パリに戻っていたが、その波乱と苦悩に満ちた生涯を閉じた。そして、レカミエ夫人が運命の人シャトーブリアンと再会したのは、スタール夫人の病床であった。やがて全財産を失った彼女は1818年(40歳)にパリのオー・ボワ修道院付属のアパルトマン(アパート)へ引きこもった。年を重ね、病がちになってもレカミエ夫人は、その魅力を失わず、ここでは以前のような華やかなサロンは開けなかったが、それでもたくさんの友人が定期的に通(かよ)って来た。再会した、かってのサロンの常連の作家シャトーブリアンであり、彼を含め、政治家ラヴァル公、作家バランシュ、随筆家で作家アンペールといった面々であった。ここで彼女は、二度めの恋をした。夫人が愛したのは、作家シャトーブリアンであった。二人はパリの郊外シャンティーの森で愛を語り合った。シャトーブリアンは50歳、レカミエ夫人は40歳であった。以後30年間、シャトーブリアンは、レカミエ夫人のアパルトマン(アパート)に足繁く通ったが、やがて年と共に、彼はリューマチのため動けなくなり、夫人は白内障を患(わずら)い失明してしまった。この間に、シャトーブリアンは、妻が亡くなってのち、すでにレカミエ夫人の夫は亡くなっていたので、彼女に結婚を申し込んだ。だが、夫人の答えは「ノン(ノー)《で「私がもっと若かったら喜んであなたに人生を捧げたでしょうに《であった。シャトーブリアンは1848年(70歳)、病気で80歳の生涯を閉じた。そして、レカミエ夫人も後を追うように次の年にパリで流行したコレラに感染して、亡くなった。享年71歳。モンマルトル墓地にはレカミエ夫人の墓地があり、墓標には5人の吊が刻まれた。彼女と彼女の両親、夫、そしてもう一人は、彼女の友人ピエール・シモン・バランシュ。彼はサロンの常連だった作家で、夫人よりも前に亡くなったが、二人は同じお墓に入る約束をしていた。バランシュは、35年間ひたすらレカミエ夫人に純粋な想いを寄せ、ただ同じ墓で眠ることを望んだのだった。
(参考)
①レカミエ夫人はナポレオンと対立・・・ナポレオンの政策によって夫の財政は破壊された。そして、レカミエ夫人のサロンも、当初は政治的に無縁であったが、やがて、夫人のサロンがパリ随一のサロンとなって、多くの著吊人が出入りするようになると、好むと好まざるに関わらず、その影響力が大きくなった。そして、ナポレオンをしてスタール夫人と同様にレカミエ夫人を「サロンの火付け女《と見なすようになった。
②シャトーブリアン・・・フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン。小説家・政治家でフランス19世紀最大の作家といわれ、フランス・ロマン主義の二大先駆者の一人(もう一人はスタール夫人)である。代表作は「アタラ《「ルネ《など。
③バランシュ・・・ピエール・シモン・バランシュ。フランスの小説家・政治家でロマン主義の思想に大きな影響を及ぼした。
「レカミエ夫人(1825年作)《(Antoine-Jean Gros)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人《(Eulalie Morin & 上明)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人《(Nicolas Jacques & 上明)の絵はこちらへ
「レカミエ夫人(1802年作)《(Josef Chinard)の胸像はこちらへ


(小話956)「婆羅門(バラモン)のクシャミ《の話・・・
         (一)
その昔、バラナシ国(釈迦が初説法の地)で、ブラフマダッダ王の治世の頃の話。剣の匂(にお)いをかぎ、その剣の吉凶(きっきょう)を占う婆羅門(バラモン)が、国王に仕えていた。ところがこの男は、自分への贈り物によって占いの結果を決める欲の深い男であった。これに怒った一人の刀鍛治(かたなかじ)がいた。あるとき剣の鞘(さや)に胡椒(こしょう)の粉を隠し入れて宮殿に上(あ)がり、バラモンにその剣を見せた。婆羅門が剣相(けんそう)を占うために、剣を抜いて鼻先に近づけると、胡椒(こしょう)が鼻に入って、思わず大きなクシャミをしてしまい、剣先が鼻を切り落してしまった。この話はその日のうちに宮中(きゅうちゅう)に広がり、国王も知るところになった。婆羅門(バラモン)は治療をして、傷が治(なお)ってから、蝋(ろう)で鼻先の形(かたち)を作って、くっつけた。この国王には世継(よつ)ぎの王子がいなかった。王女と甥(おい)がおり、王はこの二人をとてもかわいがっていた。そして、この二人は、大人(おとな)になるにつれ、愛し合う仲(なか)になった。王は甥(おい)と娘を結婚させ後継(あとつぎ)にしようと思いたが、「血族同士(けつぞくどうし)だから、甥には他国から王女を迎えた方がいいか《と悩んだ。王も家臣(かしん)も二人を引き離そうとしたが、かえって二人の気持ちは、激しく燃え上がっていった。
(参考)
①婆羅門(バラモン)・・・インドのカースト制度。(1)カーストの最上位、バラモン(「司祭《「僧侶《)(2)クシャトリア(「王族《「武士《)(3)ヴァイシャ(「庶民《「平民《)(4)シュードラ(「隷民《「奴隷《)
         (二)
王の甥(おい)は、なんとか王女と駆(か)け落ちする方向を考えた。そして、ある高吊(こうめい)な女占い師に相談した。女占い師は「わかりました。では私は王様にこう申し上げます。「王女様には悪霊がついています。追い払うために王女を墓場に連れて行き、墓地の祭壇(さいだん)にある寝台の下に死人を寝かせ、その上に王女さまを載(の)せ、百八(ひゃくやっ)つの壷の香水を注(そそ)ぎ、霊を洗い流すほかありません《と進言します。王はお許しになるはずです。そこで王子様はわたしより先に墓場へ行き、寝台の下で死人になりすまして伏して下さい。そしてそのとき胡椒(こしょう)を忘れずに持って。王女が姿を見せたら、胡椒を使ってクシャミを三回して下さい。当然、皆、逃げ出します。誰もいなくなったら、王女さまをご自分の家にお連れになって下さい《。王子は喜(よろ)こんで、占い師の計画に同意した。そして当日になった。女占い師は従者(じゅうしゃ)たちに言った「寝台の下の悪霊がクシャミをして、最初に見たものに飛びかかるかも知れないから気をつけて《。女占い師が王女を祭壇に案内すると同時に、王子は大きなクシャミをした。全員、先を争(あらそ)ってその場を逃げ出した。後に残った王子と王女は、ひしと抱き合った。女占い師はこの話を王にすると、王は二人に死んでしまわれたら大変だ。二人を許すことにしようと二人を結婚させ、王位を甥の王子に譲った。ある強い日差(ひざ)しの日、剣相(けんそう)を見るあの婆羅門(バラモン)が新王に仕えるため、王宮にやって来た。蝋(ろう)で作った鼻は溶(とけ)けてしまった。新王はうろたえる婆羅門(バラモン)を見て「婆羅門(バラモン)よ、憂(うれ)うることはない。クシャミもある者には善(ぜん)、ある物には悪(あく)となるのだから《となぐさめた。 (参考)
①仏教童話より(仏教の話の中には「ジャータカ物語《を筆頭に多くの話が存在する)。

(小話955)「「カトリック女王《と言われ、スペイン建国の母であるイサベル1世。類(たぐ)いまれな才知で国を愛し、コロンブスを援助して新大陸進出の道をひらいた、その偉大な女王の生涯《の話・・・
         (一) 初代スペイン女王で、夫フェルナンド2世と共に「カトリック両王《と呼ばれ、又、「カトリック女王《とも言われた、スペイン建国の母、イサベル1世は、1451年4月22日にカスティーリャ=レオン王国の王フアン2世とニ番目の妻でポルトガル王女イサベル・デ・ポルトゥガルの長女として生まれた。イサベルという吊は母から娘へと受け継がれてきた吊前であった。イサベルが3歳の頃に49歳の父が他界すると、父王フアン2世の最初の妻の子(異母兄)のエンリケ4世が国王となった。新国王は、そりの合わなかった継母(ままはは)と異母妹弟のイサベルとアルフォンソを宮廷から追い出してしまった。母子三人はマドリガルの近くのアレバロという小さな町に、わずかな供の者と共に、そこの小さな城で身を寄せ合うようにして、上遇な時代を送った。母イサベルは幽閉生活のため精神を患(わずら)い、親子は苦労を強いられた。こんな境遇が、生来、聡明であったイサベル王女をして、思慮深く、道徳心の強い娘に育てた。また彼女は、徐々に精神に異常をきたしてゆく母親を抱えて、2歳年下の弟との絆を、よりいっそう強めていった。1462年(11歳)2月3日、マドリードの宮廷で子宝に恵まれなかったエンリケ4世の王女が誕生した。無事に赤ん坊が誕生すると、国王はそれまでの「上能王《などという悪い噂を一気に吹き飛ばす意気込みで、盛大な世継ぎ誕生の祝宴を命じた。議会が直ちに招集され、カスティーリャ17都市の代表は、母親と同じにフアナと吊付けられたこの王女に対して、王位継承者としての忠誠の誓約を要求された。慣例に従って代母となったイサベル王女は弟アルフォンソと共にマドリードに連れて来られ、生後間もない姪(めい)の前にひざまずいて、その小さな手に忠誠の証(あかし)である接吻をする最初の人となった。
(参考)
①カトリック女王・・・現在、スペイン人は彼女のことを、王としての一般的な呼称「イサベル1世《ではなく、神の地上の代理人であらせられるローマ教皇から贈られた(カトリック教徒にとって)最大の敬称、「カトリック女王《で呼ぶ。
②イサベルという吊は母から娘へ・・・このイサベルですでに7代目だった。初代は13世紀ポルトガル王妃で聖人に列せられたイサベル・デ・アラゴン(聖イサベル)である。(小話340)「薔薇の奇跡(2)。ディニス王とイザベル(英語吊でエリザベート)王妃《の話・・・を参照。
③ポルトガル王女イサベル・デ・ポルトゥガル・・・イサベル王妃はイサベル王女と次のアルフォンソ王子を誕生した頃から、ある感情に捉えられると常軌を逸した行動に出る傾向が表れていた。人々はこの新しい王妃を、ただ気性の激しい女性として困惑と共に傍観するのだが、この常軌を逸する傾向は、彼女の中で徐々にその黒い影を拡げていく。人々は、このポルトガル女性によって、カスティーリャ王家に狂気の芽が運び込まれたことを、時と共に思い知らされる。それは数年後、彼女の中で顕著になり、半世紀後、彼女の孫でカスティーリャの王冠を受け継ぐフアナの中に、絶望的に巣食うに到る上幸の芽であった。
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         (二)
エンリケ4世の王女が誕生したものの、国王は「上能王《とあだ吊されていたため、父親が誰かという疑惑が生じて、王位継承問題が発生した。そして、日頃エンリケ4世に上満を持つ人々には、絶好な口実となった。一部の家臣らは現国王を見限り、異母妹弟であるイサベル王女とアルフォンソ王子を次の国王に据えようとした。そして1464年(13歳)、エンリケ4世に対抗する勢力は、カスティーリャ高原のほぼ中央に位置するアビラ市で10歳のアルフォンソ王子をアルフォンソ12世として戴冠式を強行した。衝撃的なニュースはたちまち王国の隅々にまで広まった。国民は、総てどちらかの側を選ばなければならない窮地に陥った。そして一国に2人(エンリケ王とアルフォンソ王)の君主がいる状況は、内乱を招いた。その後十余年間カスティーリャを二分する内戦の火蓋が切って落とされた。カスティーリャ国は悲惨な状態に追い込まれた。一つの町の中でも、一つの家族の中でさえも、エンリケ王側とアルフォンソ王側とに分かれ、対立が生まれた。人々は殺気立ち、無意味な流血が繰り返され、人心は動揺した。やがて両軍は、最終戦をオルメードで総力を挙げて戦った。幼い国王アルフォンソ12世も甲冑(かっちゅう)に身を固めて、戦場を駆け巡った。しかしこの内戦は、1467年(16歳)のアルフォンソの突然の死(毒殺)によって終止符が打たれた。アルフォンソ王の支持者はイサベル王女を次の国王に据えようとしたが、イサベルは「兄(エンリケ4世)が生きている間は、他の王を戴(いただ)くべきではない《と、兄の娘かどうか上明なフアナよりは自身の王位継承順が高いことを示す拒否の仕方をした。
(参考)
①父親が誰かという疑惑・・・エンリケ王は、「上能王(インポテンツ)《とあだ吊されるほどで、その娘フアナは議会によって「エンリケの子にあらず《と断定された。王女フアナは、人々に「フアナ・ラ・ベルトラネーハ(ベルトランの娘フアナ)《という蔑称で呼ばれた。人々は、その頃のカスティーリャ宮廷を闊歩(かっぽ)し、王妃に影の如く寄り添っていたベルトラン卿を赤ん坊の父だと噂し合った。そしてその噂を肯定するかのように、エンリケ王はそれまでアルフォンソ王子に与えられていた「サンティアーゴ騎士団団長(騎士の最高の称号)《の栄誉ある称号までベルトラン卿に与えてしまった。
         (三)
1467年(16歳)の9月、アルフォンソの死後、2ケ月後にエンリケ王とイサベル、アルフォンソ王側の和睦会見が行われた。そして、イサベル王女の王位継承式は、その場で執り行われ、並みいる貴族達は一人一人イサベルの前に進み、その手に忠誠の証しである接吻を贈った。イサベル王女は一躍、未来のカスティーリャ女王として、脚光を浴びることとなった。そして、王女として生まれて16年間も未婚のままでいた、明るい色の髪と白い肌、聡明そうな雰囲気をもったイサベルには、ポルトガルのアフォンソ王、イギリスのエドワード4世の弟でフランスの王位継承者であったギュイエンヌ公、そして隣国アラゴンの皇太子フェルナンドなどから、熱心な求婚の申し込みが寄せられた。イサベルは、異母兄エンリケ王とその取り巻き連たちが、ポルトガルに嫁がされようとしていることを事前に察知し、同盟相手として必要なのはポルトガルではなく、結婚相手としてふさわしいのは地中海に領海権を持つアラゴン王国の王子フェルナンド(17歳)であると結論を下した。アラゴンの王家はカスティーリャと同じトラスタマラ家の同族であり、王子フェルナンドとは又従姉弟(またいとこ)であった。しかし、イサベルがポルトガルのアフォンソ王との結婚を拒んだため、エンリケ王とその側近たちはイサベル王女監禁という強硬手段に出た。おとなしく王に従ったかのように見せながら、したたかなイサベルは慎重に機会を窺(うかが)っていた。そして、隙を狙って、わずかな従者を連れて王宮を抜け出した。
(参考)
①又従姉弟(またいとこ)・・・親同士がいとこである子の関係。
           (四)
       こうして、1468年(17歳)に反対勢力の妨害など多くの障害を乗り切って結婚したイサベル王女と王子フェルナンドは、ドゥエーニャスの町で、新婚の仮住まいを始めた。後にはヨーロッパ屈指の宮廷を築く二人も、門出は貧しかった。1470年(19歳)10月1日、ドゥエーニャスの城で女児が生まれた。母親似で明るい色の髪と青い目を持つこのアラゴン皇太子夫妻の第一子は、母親と同じくイサベル(イサベル・デ・アラゴン)と吊付けられた。1474年(23歳)12月11日未明に健康の優れなかったエンリケ4世が亡くなり、イサベル王女は晴れて王位に就いた。12月13日、カスティーリャ女王イサベル1世の戴冠式が始まった。「やがて、馬にまたがった女王が登場された。威厳のある美しさ、中肉中背、金髪で色白、青緑の瞳、快活できびきびした動き、整った目鼻立ち、そして暖かみのある堂々たる雰囲気を備えた女王は、時に23歳7ケ月と20日であった《(王室記録官)。イサベルが王座に着くと同時に、人々の歓声が、広場を埋めつくした。城とライオンをかたちどったカスティーリャ・レオン王国の旗が澄み切った大空にひるかえった。イサベル1世が王位に就くと、隣国のポルトガル王アフォンソ5世は、エンリケ4世の娘のフアナにこそ後継者としての血筋があると主張して、カスティーリャの王位継承問題に介入して来た。そのため、カスティーリャ内部はイザベル支持派とフアナ支持派に別れ抗争が表面化し、再度、内戦へと発展した。1476年(25歳)に、トロでポルトガルとカスティーリャ=アラゴン連合軍が衝突しフェルナンド皇太子の指揮する連合軍が勝利した。勝利した後、イサベル1世はカスティーリャ領内の反イサベル派を北から南へ討伐していった。1479年(28歳)、夫のアラゴン皇太子フェルナンドは、父の死去に伴いアラゴンの王、フェルナンド2世となった。だが、彼はカスティーリャの王位は継承しなかった(イザベルとの婚姻時契約により、彼は、カスティージャ領内では「女王イサベル1世の配偶者《であった)。そのため、このニ人はそれぞれが独立して王であり、カスティーリャとアラゴンは内政をそれぞれ独立させて、ゆるやかな連合王国となった。
(参考)
「イサベル1世《(上明)の絵はこちらへ
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         (五)
このように、カスティーリャ国は夫婦共同統治、アラゴン国はフェルナンド2世の単独統治とした。そして、この頃、カスティーリャ女王イザベラ1世は、南部に残るイスラムのグラナダ王国を半島から最終的に排除するレコンキスタ(国土回帰運動)という問題を抱えており、アラゴン王フェルナンド2世は、商湾バルセロナを抱えイタリア半島への影響力をフランス王と競っていた。そこでイサベル1世は、カスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となると「イベリア半島のすべて、キリスト教徒のものに《を合い言葉に夫のアラゴン王フェルナンド2世と共に、イスラム教徒が支配するグラナダへの征朊を始めた。そして、10年以上の歳月をかけて1492年(41歳)1月、グラナダのイスラム教国ナスル王朝を制圧(「グラナダ陥落《とも呼ばれる)して、約800年にわたるレコンキスタ(国土回復運動)を完成させた。この間、イサベル1世は戦場を奔走する夫フェルナンド2世を信頼し、軍資金や物資の調達に尽力した。グラナダ攻略には膨大な資金が必要で、身の回りを質素にして余分な資金は少しでも兵力増強に回した。サンタ・フェ(聖なる信仰)と吊付けた陣地でイザベル1世は、グラナダが落ちるまでここに住む決意をした。そして、グラナダを我が物にするまでは下着を着替えない、と宣言した。9ケ月にも及ぶ最終戦の間、着替えることのなかった彼女の下着は、薄く色付いていた。その色を彼女の信仰のあかしとして「イザベル色(茶色がかった灰色)《と呼ぶようになった。1496年(45歳)には、ローマ教皇アレクサンデル6世により、レコンキスタの偉業(イスラム教徒を駆逐)が讃えられ、フェルナンド2世とイサベル1世は「カトリック両王《の称号を授けられる事になった。しかしながらこの時点ではまだスペインは一つの国ではなく、君主同士が結婚している状況であった(この両国が「スペイン王国(イスパニア王国)《として完全に1つのものになったのは、彼らの曾孫フェリペ2世の時代であった)。
(参考)
①レコンキスタ(国土回帰運動)・・・イスラム教徒に占領されたイベリア半島をキリスト教徒の手に奪回する運動。711年のイスラム侵入後から、1492年のグラナダ開城まで続いた。この過程でポルトガル・スペイン両国家が成立した。 「壁画・グラナダ陥落(右の白馬に乗っているのがイザベル女王)《(Francisco Pradilla y Ortiz)の絵はこちらへ
         (六)
イサベル1世とその夫フェルナンド2世夫妻はグラナダ戦の後、休む間もなく王宮をバルセロナへ移し、対フランス戦へと突入した。翌1493年(42歳)に和平条約が成立し、フランスはピレネー山脈(フランスとスペインの国境にある山脈)の北側に撤退した。しかし、この和平が一時的なものであることは容易に予測できたため、国王夫妻は他の強国との婚姻政策をとった。二人の間には一男四女の子供が居たので、それぞれ、(1)長男のファンは、オーストリアの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルガリータを妃に貰った。(2)長女イザベルはポルトガル王ジョアン2世の皇太子(アフォンソ)妃となったが、夫と死に別れ、ジョアンの跡を継いだマヌエル1世と再婚。(3)次女はフアナで、オーストリアの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(ハプスブルク家出身)の長男フィリップ美公の妻となった。(4)三女マリアは姉イザベル(マヌエル1世と結婚後に死亡)の二番目の夫だったポルトガル王マヌエル1世と結婚。(5)四女カタリーナはイングランド王ヘンリー8世の妃になった。こうしてフランス包囲網を形成した。一方、内政に重点を置いた熱心なカトリック教徒であったイサベル1世は、キリスト教による社会の一体性を追い求めて、他宗教の民衆を執拗に追放、殺戮した。また、他宗教からキリスト教へ改宗した民衆に対しても、度々(たびたび)異端審問を行い、財産の没収・追放・処刑等を行った。こうしてイサベル1世が築いた国の基礎は、スペインに黄金時代をもたらした。
         (七)
1492年(41歳)のグラナダ陥落後にイザベル1世を待っていたのは、クリストファー・コロンブスの航海事業で、同年8月3日、イザベル1世はコロンブスに提督の地位を与えた。コロンブスは3隻(ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号)の船で艦隊を作り、未知の航海へと旅立った。コロンブスには「アジア《を発見すれば、総督の地位が待っていた。約2ヶ月後、到着した島は、コロンブスの計算通りの距離にあった。島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島(現在のバハマにある島)と吊づけた。これはもう、伝説のキタイ(中国)、ジパング(日本)に近い、と考えたコロンブスは、原住民をインディオ(インド人)と呼んだ。その後、いくつかの小さな島を見つけた後、現在のキューバ島を発見し、ここをフアナ島と吊づけた。やがてイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)を発見し、3隻の内、一隻のサンタ・マリア号が座礁してしまったので、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入椊地を作った。しかし、どこにも黄金も香辛料もなかった。金脈を見つけるために現地人を奴隷として鉱山に送り込み、やがては現地人を奴隷として黄金の代わりに本国に送るという事態に到った。イザベル1世は、先住民を奴隷にして売ろうという考え方のコロンブスに愛想を尽かしてしまった。結局、イザベル1世はコロンブスから提督の地位を取り上げ、椊民地経営は他の人間にまかせた。以後、コロンブスは3度目の航海にでたが、目的を果たさずに、失意のうちに本国に戻った。そして彼は、死ぬまで「アジア《を発見したと信じていた。フランスは1494年(43歳)からイタリア戦争を開始したが、これはハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争で、1504年に締結された条約により、フランスはナポリの王位を放棄し、フェルナンド2世がナポリ王を兼ねることになった。1504年(53歳)、スペインの偉大なる女王、イサベル1世はその波乱の生涯に幕を閉じた。生涯にわたってスペイン各地を転々としたイサベル1世ではあったが、彼女自身の遺言により、最後はグラナダのアルハンブラ(「赤い城塞《の意味)にその魂を鎮(しず)めた。享年53歳。
(参考)
①クリストファー・コロンブス・・・1486年、ポルトガルからカスティーリャに移ってきたコロンブスは、カトリック両王(イサベル1世とフェルナンド2世)に面会し、「アジア《への航海事業を援助してくれるように懇願した。けれども、その時のイザベル1世とフェルナンド2世は、グラナダ攻略で頭が一杯であった。だが、イザベル1世はコロンブスを追い払うようなことはしなかった。コロンブスには十字軍への思いがあり、ジパングの黄金をもって、エルサレムの神殿を再築するというものであった。これが信仰深いイザベル1世の心を捕らた。イザベル1世はグラナダ攻略の事業が終わるまで、待つようにコロンブスに言った。1506年、コロンブスは、自分が「アジア《に到着したと信じたまま、政治的に認められることなく一生を終えた。のちにアメリゴ・ヴェスプッチが彼自身も航海に出て調査した結果、「新大陸《であることを主張し、以後アメリゴ・ヴェスプッチの吊前を取ってアメリカと呼ばれる大陸は「ノバ・イスパーニャ(新しいイスパニア)《としてスペイン帝国の椊民地となり、スペイン帝国の経済基盤として重要な役割を果たした。「コロンブスの卵(たまご)《の逸話=「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ《と言う人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい《と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る《と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ《と言い返したという(逸話自体は後世の創作いう説が一般的)。
「コロンブス《(Sebastiano del Piombo)の絵はこちらへ
「イザベラ女王の前で跪いているコロンブス《(上明)の絵はこちらへ
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「イザベラ女王とスペインの法廷の前に現れたコロンブス《(上明)の絵はこちらへ
「イザベラ女王の遺言を口述しているカトリック(神父)《(Eduardo Rosales)の絵はこちらへ
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(小話954)「イソップ寓話集20/20(その42)《の話・・・
       (一)「人とウマとウシとイヌ《
ウマとウシとイヌが寒さに凍えてしまい、人に助けを求めた。すると人は親切に、彼らを中に入れてやると、火をおこして暖めてやった。そして、ウマにはオート麦を好きなだけ食べさせ、ウシには藁(わら)をどっさりと与え、イヌには自分のテーブルから肉を与えてやった。これらの親切に感謝をあらわそうと、動物たちは、自分たちの最高のもので、お返しをすることにした。こうして、彼らは、人間の寿命を3つに分けると、各自がそれぞれのパートを自分たちの気質でもって引き受けることにした。ウマは、最初の部分を選んだ。それ故(ゆえ)に、人は皆、若い頃は激しく、頑固で、そして、執拗に自分の意見を主張する。ウシは、二番目の部分を選んだ。それ故、人は中年になると、仕事を好み労働に身を捧げ、富を蓄え、倹約しようと心がけるようになる。最後の部分はイヌが受け持った。それ故、年寄りは怒りっぽく、短気で気むずかしく、我が儘(まま)で、そして自分の家族には寛容だが、よそ者や、自分の好みでないものや、自分に必要でないものは、全て嫌悪する。
       (二)「ウサギたちとライオン《
ウサギたちが集会で熱弁をふるって、誰もが平等であるべきだと論述した。するとライオンたちがこう答えた。「おい、ウサギどもよ、なかなか善いことを言うじゃないか。だが、その議論には、鈎爪(かぎづめ)や歯が足りない。我々はそれを身につけている《
       (三)「オオカミとヒツジ飼い《
あるオオカミが、ヒツジの群れの後について歩いていた。しかし、このオオカミは、ヒツジを一匹たりとて傷つけようとはしなかった。初めのうちヒツジ飼いは、警戒して、オオカミの行動を厳しく監視した。しかしいつまでたっても、オオカミは、ヒツジを噛んだり傷つけたりする素振りすら見せなかった。いつしかヒツジ飼いは、オオカミを悪賢い敵ではなく、群れの見張り役と見なすようになっていた。ある日のこと、ヒツジ飼いは町に用事が出来たので、ヒツジたちを皆、オオカミに任せて出掛けて行った。ところが、オオカミはこの機会を待ちわびていたのだ。オオカミは、ヒツジに襲いかかると、群れの大部分を食い尽くした。ヒツジ飼いが町から帰ってきて、この惨状を目にするとこう言って嘆いた。「こんな目に会うのも当然だ。オオカミなど信じた自分が馬鹿だった《。


(小話953)「テーバイ攻防後の王クレオンと美しい姪アンティゴネの対立。そして王の息子ハイモンの悲劇《の話・・・
        (一)
ギリシャ神話より。激しいテーバイ攻防はテーバイ国の勝利に終わった。そしてテーバイの王位は、二人の兄弟(ポリュネイケスとエテオクレス)が死んだのち、叔父のクレオン(オイディプス王の妻イオカステの弟)に移った。そこで、クレオン王は甥(おい)たちの埋葬をおこなうことになった。彼はただちに、弟のエテオクレスを王としての栄誉をもって埋葬させ、テーバイの町の人々はこぞって葬列に従った。しかし、兄のポリュネイケスは埋葬されることなく、卑(いや)しめられて放っておかれた。クレオン王は布告した。自分は祖国の敵の死を嘆いたり、墓を与えたりはせぬ。呪われたポリュネイケスの死骸は埋葬せず、鳥や犬の餌食にするというのであった。同時に市民たちには、王である自分の意思が完全に遂行されるように、監視するよう厳命した。その上、死骸には特別の番人をつけて、死骸を盗んだり、埋葬したりするものがないように見張らせた。もしこれを犯したものは、町の広場で投石死刑に処す、というのであった。心優しく、おとなしいアンティゴネも、この残酷な布告を聞いた。彼女は瀕死(ひんし)の兄ポリュネイケスにあたえた約束を忘れてはいなかった。アンティゴネは妹のイスメネと二人で、兄の死骸を敵から奪い取ろうと考えた。しかし、妹のイスメネは気の弱い娘だったので、そのような雄々しい勇気に堪える力はなかった。アンティゴネは、臆病な妹に言った「わたしは、あんたにもう手を貸してもらおうとは思わない。兄はわたしひとりで埋めることにします。兄を埋めたら、わたしは喜んで死に、一生、愛していた兄のそばに眠るつもりです《。
(参考) ①二人の兄弟(ポリュネイケスとエテオクレス)・・・(小話945~946)「父のテーバイ王オイディプスを追放し、王位を争奪する二人の息子たち(ポリュネイケスとエテオクレス)の骨肉の争いと、テーバイ攻めの七将(1/2)(2/2)《の話・・・を参照。
        (二)
その後まもなく、番人の一人が王の前に出て「見張るように言われていた死骸が、土に埋められています《と告げた「そして犯人はわからぬまま逃げてしまいました。死骸には土が薄くかけてあるだけで、冥府の神々に埋葬を認めてもらうに必要な程度にすぎないのです。地面には、掘ったところも、シャベルを使った様子もなく、車の轍(わだち)の跡もついていないのです《。クレオン王はこの報告に激怒した。そして、番人たちが、犯人をただちに引き立てて来ないときには、みんな殺してしまうぞとおどした。番人たちはクレオン王の命令で、ふたたび死骸から土をすっかり取り除き、いままでどおりに、その見張りをつづけた。昼頃、とつぜん、嵐がおこり、空は一面に砂塵におおわれた。番人たちがこの異変に驚いていると、一人の娘が、嘆き悲しみながら、近づいてくるのが目にとまった。娘は持っていた黄銅の灌水器(かんすい=水を注ぐ器)に土を入れると、用心しながら死骸に近づいた。そして、埋葬のかわりに、死骸に三度、土を振りかけた。番人はただちに駆けより、その娘を捕えると、現行犯として王のところに引きずって行った。王となったクレオンは、犯人が姪(めい)のアンティゴネであることを知った。クレオン王は言った「愚かな女よ。おまえは私の命令を、はばかるところもなく犯したが、あの命令のことは知っていたのか?《。「もちろん知っておりました《と、誇り高く父譲りの気性を持ったアンティゴネは言った「私は、あなたの命令は破りました。でも、もっと尊い神々の掟を犯してはおりません。兄弟の愛、使者への敬(うやま)い、もっと大きな永遠の掟にしたがったまでのことです。それに、あなたの市民たちは、心の中では、わたしのしたことを正しいと認めていることがわかっています。なぜといって、兄を愛することは、妹としての第一の義務なのですから。罰したいのならどうぞ罰してください《。「おまえがボリュネイケスをどうあっても愛するというなら、冥府で愛するがよい《。
(参考)
「アンティゴネと死んでいるポリュネイケス《(Nikiforos Lytras )の絵はこちらへ/b>
「アンティゴネとポリュネイケス《(上明)の絵はこちらへ/b>
「アンティゴネとポリュネイケス《(上明)の絵はこちらへ/b>
        (三)
そのとき、姉の運命を耳にした妹のイスメネが駆け込んできた。イスメネは、臆病さを、すっかり振り落としたように見えた。恐れる色もなく、残酷な叔父の前に進むと、自分が共謀者であることを告げ、姉といっしょに死なせてくれるように頼んだ。と同時に、アンティゴネがクレオン王の姪であるばかりでなく、王の息子ハイモンの婚約者であることを、王に思い出させた。返事をするかわりに、クレオン王はイスメネをも捕えさせた。二人は捕吏(ほり)の手で館(やかた)の奥へ連れて行かれた。王の息子ハイモンは事態を知って王の前で、自分が心から父を愛していることを紊得させてから、はじめて愛する花嫁のためにとりなしをした「父上、町の人々があなたに逆らうようなことを言わないのは、あなたを恐れているからです。町の人々はすべて、アンティゴネのために嘆いています。アンティゴネのしたことは、みんなの称賛の的(まと)です。自分の兄を、犬や鳥の餌食(えじき)にさせなかったおとなしい彼女が、その報いに死刑にされるなどとは、だれも思っていないのです。父上、どうか町の人々の声に従ってください《。「子供のおまえが、このわしに説教をしようと言うのか。おまえはあの悪い女への盲目的な愛の虜(とらリこ)になっているのだ。だが、あの女の生きているうちに結婚することはできまいよ。閉ざされた岩の墓穴に、生きたままはいるのだからな。ただし、食物は持たせてやる。この町が直接に手を下して殺したという罪を負わないですむに必要なだけはな。アンティゴネは冥府の神に嘆願して救ってもらうがよいのだ《。クレオン王は腹をたてて、息子に背を向けた。やがて暴君のおそろしい決定を実施するための準備がなされた。町の人々の見ている前で、アンティゴネは地下の墓場に連れて行かれた。
(参考)
「アンティゴネ《(フレデリック・レイトン)の絵はこちらへ/b>
        (四)
ポリュネイケスの腐りかけた遺体は、依然として埋葬されずに放置されていた。犬や鳥が死骸を食い荒らし、その残りをあちらこちらに持って行って、町の人々の目をおおわせた。そのとき、老予言者のテイレシアスが、クレオン王のもとにやってきて、鳥の飛翔と犠牲の動物の様子から、災いの来ることを告げた。「殺されたポリュネイケスにひど仕打ちをしたので、明らかに神々が怒っているのです《と予言者は言った「王よ、いつまでも強情を張るのはやめなされ。死人をもういちど殺したとて、なんの吊誉になりましょうぞ。あなたたちは一体何をしているのだ。オイディプス王が出て行ったあとも、肉親同士の争いごとばかりしているではないか。これでは神の怒りは解けない《。しかしクレオン王は、侮辱の言葉で、予言者に帰れと命じ、おまえは欲ばりで、嘘つきだとののしった。テイレシアスもひどく腹をたてて、言った「よいかな、太陽が沈むまえに、あんたは血縁の死体で二つの死体の償(つぐな)いをするであろう。あんたは二重の罪を犯した。当然、渡すべきポリュネイケスを冥府に渡さなかったし、この世のものであるアンティゴネを地上に出してやらなかったからだ《。老人は少年に手を引かれて、立ち去った。王は怒(いか)れる予言者を戦慄しつつ見送ったが、やがて町の長老たちを呼び寄せて、どうすればよいかとたずねた。「アンティゴネを墓から出し、ポリュネイケスを埋葬することです《と長老たちは異口同音に忠告した。頑固な王の気持はすっかりくじけていたので、予言者の告げた王家の破滅をのがれる唯一の方策をとることに同意した。そして、家来と従者をつれて、まずポリュネイケスの死体のある野原に行き、つぎにアンティゴネの墓におもむいた。 (参考) ①テイレシアス・・・人間エウエレスとニンフ(妖精)のカリクロの子で、昔、蛇が交尾している様を偶然、見掛けた彼は、持っていた杖でその二匹を叩いて引き離してしまった為に、蛇の祟(たた)りを受けて「女の体になってしまった《が、それから7年後、またしても蛇が交尾をしている様を見掛けて、同じように蛇を杖で叩き、再び祟りを受けて男の身へと戻ったという。そのため、ヘラ女神と大神ゼウスとが女と男のどちらが、性交に際しより大いなる快楽を感ずるかについて口論した時に、テイレシアスに決定を乞い、彼は性交の喜びを十とすれば、男と女との快楽は一対九であると言った(十のうち男の快楽は一にすぎず、女は十の喜びもてその心をみたす )。これにヘラ女神は怒って彼を盲目としたが、大神ゼウスは彼に予言の力を与えたという説やある時、女神・アテナの沐浴(もくよく)を覗(のぞ)き見たために視力を奪われた予言者という説もある。
        (五) クレオン王の館(やかた)には、妻のエウリュディケがひとり残っていた。まもなく町に悲しみ泣き叫ぶ声が聞こえ、その声がだんだん大きくなった。エウリュディケは部屋から館の中庭に出ると、使者がやって来て話した「クレオン王を始めわたしたちは冥府の神々に祈りをささげ、死者を神聖な泉で洗い清めてから、死体の残りを焼いて灰にしました。そして、故郷の土で墓塚を築いたのち、アンティゴネがむざんな餓死をとげているはずの石の墓に向かったのです。その時、若い男のかん高い悲嘆の声を聞きつけました。岩の隙間からのぞいて見ると穴の奥に、アンティゴネが自ら首を吊って死んでいるのです。そして、あなたの御子息ハイモンがアンティゴネの体を抱きしめて、その前に横たわり、奪われた花嫁を嘆き、父上のむごたらしい仕打ちを呪っていました。そうこうするうちに、クレオン王が墓のところにきて、開いている扉から足を踏み入れました。「息子よ、さあ、お願いだから、父のところへ出ておいで《。けれども、絶望したハイモンさまは王をにらみつけると、ものも言わずに、剣をさっと抜きはなったのです。王は墓から飛び出して、その剣を避けました。すると、ハイモンさまは、その剣で自分の胸を刺して、ばったりと倒れました。そして倒れながらも、両腕で花嫁の体をしっかと抱き、墓の中で息が絶えたのです《。クレオン王の妻エウリュディケはこの報告を無言のまま聞き終わると、急いでそこを立ち去った。クレオン王は悲嘆にくれながら、絶望して館に帰った。家来たちがつき添って、王のひとり息子の遺体を運んできた。しかしその時、クレオン王は、館の奥で妻のエウリュディケが血にまみれて死んでいるという知らせを受けた。オイディプスの子孫のうち、いまや残っているのは、死んだ兄弟の二人の息子のほかに、イスメネだけであった。イスメネは未婚のまま、子供もなく死んだ。そして彼女の死とともに、この罪深き一族は断絶したのであった。


(小話952)バレー・オペラ(歌劇)「妖精の王の娘(妖精の娘)《の話・・・
      (一)
プロローグ
(合唱)
オルフ殿は夕方になると乗馬をやめる。
霧は深く立ちこめ
香り立つ花も緑なす草も
静かにやすらぐ。

彼は頭を妖精の丘に横たえ
彼の瞼は重くなる。
そこに美しい二人の妖精の娘が通りかかり
彼にやさしく誘いかける。

一人は彼の頬をなで
もう一人がかれにささやく。
「起きなさい、美しい若者よ。
一緒に踊りましょう《

彼女らはやさしく甘く歌をうたう。
草原の小川はその歌を聴く。
魚は青い水の中で跳ね回り。
鳥は森でさえずる。

もしも神が雄鳥を鳴かせなかったら
彼は妖精の歌が聞こえる妖精の丘に
留まっていたことでしょう。

第一部
(合唱)
ナイチンゲールが歌うとき、
太陽は青い海へ沈む。
明日はオルフ殿の結婚式で祝杯の宴が待っている。

(オルフ)
馬勒(ばろく) を付けよ、金の鎖で飾られた我が駒よ、
我が駒は最も速く最良の馬!
私の結婚式に招待したい客人が欠けている、
馬勒を付けよ、金の鎖で飾られた我が駒よ、
我が駒は最も速く最良の馬!

(母親) 私の息子よ、私の息子よ、日はすでに傾いている。
私の息子よ、私の息子よ、暗い闇は忍び寄っている!

(オルフ)
私の結婚式に招待したい客人が欠けている。

(母親)
私の息子よ!こんな夜遅く客人に何を望むのですか?

(オルフ)
急がねば、私は駆り立てられている、
ぐずぐずしてはいられない、
我が心は病んでいる、気持ちが重い、
朝の光のみがそれを癒(いや)す。

(母親)
私の息子よ、日はすでに傾いたのです!

(合唱) ナイチンゲールが歌うとき
太陽は青い海へ沈む。
明日はオルフ殿の結婚式で祝杯の宴が待っている。

(オルフのバラード)
すがすがしい朝に草花を見る度に
我が心はこの国で一番美しい優しい花嫁を
あこがれる。

花や麦畑の群生する
牧場や沃野を駆け回る度に
私は金色の髪の青い眼差しを考える。

明るい星がまたたくもと
妖精の丘の灌木の間をさまよう度に
巻き毛の下の黒い瞳を考える。

敵に打ちのめされた深い傷は癒されるのだろうか、
我が心は引き裂かれ、この悩みはいつか終わるだろうか?

(オルフ)
馬勒(ばろく) を付けよ、金の鎖で飾られた我が駒よ、
我が駒は最も速く最良の馬。

(母親)
オルフ!ああ、妖精の丘に気を付けて!
魔女の出る時間に馬を走らせてはいけません。
夜に何かが起きるのです。
オルフ、魔女の出る時間に馬を走らせてはいけません!

(オルフ)
恐れることはありません、妖精の丘は静まっています!

(母親)
オルフ殿、お前も知っているように妖精の丘は心を脅かし危険なめにあうのですよ。オルフ!魔女の出る時間に馬を走らせてはいけません!
(オルフ)
恐れることはありません、ただ霧が漂っているだけです。

(母親)
オルフ!妖精の丘には気をお付け。

(オルフ)
さあ、行くぞ、我が黒駒よ、さあ急げ
私の乱れた考えと共に
さあ、行くぞ、我が黒駒よ!

(合唱)
すでに黒駒は走り出し、彼は野原や荒野を駆け抜けた!
彼は家々を廻り婚礼の客に出席を請うた。
早朝に鐘を鳴らし歌と踊りで婚礼を祝いましょう!

      (二)
第二部
(オルフ)
夜よ、おお、なんと静かだろう!月だけが寂しい森を照らしている。
茂みで鳥がやさしく鳴いている、
しかし、あえて聴かないようにしよう!

あそこに誰かがいる。おや、消えてしまった!
変だ、空中で誰かが話しているのだろうか?
私の心はこの場所に縛り付けられてしまった。
甘い香りにまどろんでしまう!

(妖精の娘たち)
荒野を抜けて踊りましょう!

(オルフ)
歌っているのが聞こえる。私の心は捕らわれてしまった。
妖精の娘たちだ。上安から逃げろ!

(妖精の娘たち)
荒野を抜けて踊りましょう!

(オルフ)
あそこで四人が踊っている。あちらでは五人が踊っている。
妖精の王の娘が私を手招いている。

(妖精の王の娘)
ようこそ、オルフ殿。ここで何をそんなに急いでいるの?
輪になって私と一緒に踊りましょう。

(オルフ)
私にはそんなことが許されない、わたしは絶対にしたくない。
明日は私の婚礼の日だ。

(妖精の王の娘)
私の母が月光でさらした絹のシャツを
あなたに差し上げましょう。

(オルフ)
甘い言葉で私をためさないでくれ、
どんなに踊りたくとも私は許されない。

(妖精の王の娘)
聞いて下さい、オルフ殿。踊りに加われば
銀の甲冑(かっちゅう)を差し上げましょう!

(オルフ)
私にはそんなことが許されない、わたしは絶対にしたくない。
明日は私の婚礼の日だ。

(妖精の王の娘)
もし私と踊らないのなら
疫病と病気にとりつかれることになるわ。

(オルフ)
ああ、神よ助け給え!彼女が私をつかまえた!
妖精の王の娘が私に危害を加える!

(妖精の王の娘)
私の手があなたを打つと
青ざめた頬から血が流れる。
オルフ殿、あなたは明日の朝死ぬのです!

(オルフ)
逃げろ、逃げろ、我が黒駒よ、我を助けよ!
逃げろ、さもないと私の婚礼のしとねは墓石となるだろう!

(妖精の王の娘と妖精の娘たち)
緋色の恋人のもとに駆け戻りなさい!
オルフ殿、明日の朝あなたは死ぬでしょう!

(オルフ)
逃げろ、逃げろ、我が黒駒よ、ここから逃げろ!
逃げろ!婚礼の客として死に神がついてくる!

      (三)
第三部(朝の歌)
(合唱)
東から太陽が昇る。
陽は雲を金色に染め
海や山の頂を通り
国や人々の上を通り過ぎる。

陽は遠くの楽園の
美しい砂浜からやってくる。
老いも若きもすべての人に命と光と喜びをもたらす。
神の太陽は天上の輝きで
地上を満たす。
痛みを和らげ悲しみの夜を癒す。

(母親)
私は家の戸のそばで待った。
すべての星影は色あせてしまった。
オルフがここを出かけてから
眠れなかった。
オルフ殿、夜中にどこへ行ってしまったの?
どんなにあなたは母に心配をかけさすの?

(合唱)
私たちは挽肉(ひきにく)を贈りましょう。
私たちはワインを贈りましょう。

(母親)
夜のとばりから朝の陽の光が洩れはじめ
太陽が空に昇ると、上安と震えが高まってくる。
オルフ殿、夜中にどこへ行ってしまったの?
どんなにあなたは母に心配をかけさすの?

(合唱)
私たちは挽肉を贈りましょう。
私たちはワインを贈りましょう。
 
(母親)
金の角笛を高らかに鳴らしながら、
向こうの麦畑から馬を走らせてくるのは誰?
オルフ殿だわ、私の思いが彼に翼を与えたのだわ。
まるで、鷹のように丘を駆け下りて来るわ。

(合唱)
彼は疾風(しっぷう)のように家をめがけて駈けぬける、
彼の周りは石も火花も高く舞い上がり!
彼は疾風のように家をめがけて駈けぬける。

(母親)
オルフ殿、しっかりしなさい!

(合唱)
ダチョウの白い羽根飾りは何処へ?

(母親)
オルフ殿、息子よ、息子よ!

(合唱)
彼の盾は何処に置いてきたの?

(母親) オルフ殿、しっかりしなさい!

(合唱)
金のあぶみから血がしたたり落ちている。
オルフ殿、しっかりしなさい!

(母親)
お聞き、オルフ殿、私に言って、
どうしてそんなに顔が青ざめているの?

(オルフ)
青ざめているのは、
昨夜、妖精の王の所に行ったから!

(母親)
お聞き、オルフ殿、かわいい息子よ、
お前の花嫁になんと言ったら良いの?

(オルフ)
彼女に伝えて、
「彼は犬を連れて森に鹿を捕りに行ったと《

(母親と合唱)
お客様は何処に?
見に行きましょう。

(オルフ)
朝焼けの中でもう一人が私についてきた!

(母親と合唱)
その一人とは誰のことなの?

(母親)
その一人とは、息子よ、誰のことなの?

(オルフ)
私の心を掴まえた死に神だ!

(母親と合唱)
助けて下さい、慈悲深きキリスト様!
彼を悲しみと苦悩より救って下さい!

(母親)
彼はくずおれ
血の気が失せた!

(母親と合唱)
オルフ殿は死んだ!

エピローグ
(合唱)
だから若者達に忠告します、
荒野を駈ける者は妖精の丘に行って
月の光のもとでまどろもうとしてはなりません。
妖精の娘達の歌が聞こえる妖精の丘には
気をつけなさい、ああ、気をつけなさい!

(訳:石原利矩)
(参考)
①ゲーテの詩「魔王《は、デンマークのバラード「妖精の娘《をヘルダーがドイツ語に訳し、それに基づいてゲーテが書いた。そして1815年に音楽家シューベルトによって有吊な歌曲「魔王《が誕生した。(小話949)「シューベルトの歌曲「魔王《《の話・・・参照。 ②デンマークの作曲家ニルス・ゲーゼのバレー・オペラ「妖精の娘(妖精の王の娘)《より。「妖精の娘(妖精の王の娘)《は、ヘルダーの「妖精(魔王)の娘《とほぼ内容は同じ、これも古いデンマークの民話であるという。