「白骨の御文章(はっこっのおふみしょう)」  (蓮如上人)

---------------------------------------------------------------------------

 

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、凡(およ)そはかなきものは、
この世の始中終(しちゅうしゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。されば未(いま)
だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至
りて、誰か百年の形態(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明
日とも知らず、おくえ先立つ人は、本(もと)の雫(しづく)・末(すえ)の露よりも繁(し
げ)しといへり。

されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)べには白骨(はっこっ)
となれる身なり。既(すで)に無常(むじょう)の風(かぜ)来(き)たりぬれば、即(す
なわ)ち二(ふたつ)の眼(まなこ)たちまちに閉じ、一(ひとつ)の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李(とうり)の装(よそおい)を失いぬるときは、六親(ろくしん)
・眷属(けんぞく)集まりて嘆き悲しめども、更(さら)にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為(な)し果てぬれば、ただ白
骨のみぞ残れり。あはれといふも中々(なかなか)おろかなり。されば、人間のはかなき事
は老少(ろうしょう)不常(ふじょう)のさかひなれば、誰(たれ)の人も、はやく後生
(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいれらせて、念仏申すべき
ものなり。

 

「白骨の御文章」(終)