「白骨の御文章=意訳全文」(蓮如上人)

---------------------------------------------

 

そもそも人間の移り変わっていく、この寄(よ)るべない一生(浮世)を心静かに
想ってみれば、まことに儚(はかな)いものは、この世の生涯の始まり、中頃、終
わりまでの、たちどころに過ぎていく幻のような人の一生である。

 

だから、今までに人が一万年も生きたということは聞いたことがない。一生という
ものは、あっという間に過ぎて行く。今までに誰が百年の命を保っただろうか。命
の終わりを迎えるのは、私が先か他人が先か、今日か明日かも分からず。人より遅
れて死ぬ人も、先立って死ぬ人もいるが、ともかく死ぬ人の数は草木の根元の滴(し
ずく)や葉先の露(つゆ)よりも多い言われている。

 

だから、私たちは、朝には血色のよい元気な顔であっても、夕方には死んで白骨とな
ってしまうかもしれない。ひとたびすべてのものが移り変わるという道理の中で、無
常(死)の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じて呼吸も永遠に途絶えてしま
い、血色のよい元気な顔も変わり果て、桃(もも)や李(すもも)のように美しかっ
た容姿も消えうせてしまうときには、父母兄弟親族などが集まっていかに嘆き悲しん
でもどうしようもない。

 

悲しみ泣いていても、そのままにはしておけないので野辺送りをして夜半に火葬に付
してしまえば、ただ白骨のみが残るだけである。悲しいといっても、こんなに切なく悲
しいことはない。だから、人間が儚(はかな)いことは、老人だから、少年だからとい
う死ぬ順番の区別はないから、誰も彼もが早く、後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏
に深く帰依して、念仏すべきである。

 

※後生の一大事・・死んだ後の地獄にいかなければならないわが身の大事。

 

白骨の御文章(終)

 

(参考)

蓮如上人が山科本願寺(やましなほんがんじ)の住職であったとき、本願寺の近くに一人の
下級武士が住んでいた。ある時、彼の十七歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調(と
との)ったので、彼は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具を揃(そろ)えた。
ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまった。火葬の後、白骨を納
めて帰った彼は「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、数日後、五十一歳
で急逝した。度重なる身内の死に、彼の妻も夫の死んだ翌日、三十七歳で悲しみのあまり死
んでしまった。