その日の昼前。本丸の廊下で同田貫正国と行き会ったのは偶然だった。
「よぉ江雪、乱の奴見てねぇか?」
「……いいえ、見ていませんが……」
顕現されて以降、挨拶程度にしか言葉を交した事のない相手である。
珍しく話しかけられて困惑しながらも答えれば、同田貫は「そうか」と淡泊に頷いた。
「なら、どっかで顔見たら厩来いっつっといてくれ。あの野郎、今日内番だってのに時間過ぎても来やしねぇ」
「馬当番、ですか……。でしたら、私が代わりを務めても構いませんが……」
同期の蜂須賀は苦手としているようだが、江雪は内番が好きだった。
どこにいるか分からない乱をあてもなく探し回るよりは、自分が代わりに当番を務めた方が早いし、手間も無いだろう。折よく手空きな事もあってそう申し出れば、同田貫は顔を顰めてひらひらと手を振る。
「やめとけやめとけ。当番割り振ってんのは主だからな、あんたが代わると話がこじれる」
「そう、ですか……」
何がどうこじれるのか。疑問はあったが、江雪は素直に引き下がる。
この本丸に顕現されて二ヶ月半。江雪はいまだ、本丸の仲間達のことも、主のこともよく知らない。
特に主は外での仕事も抱えているそうで、本丸にいる間すら何かと慌ただしく、まともに会話したのは数える程度だ。その数える程度の会話すら、出陣前後に設けられている軍議の席での事である。
(勝手に代わると、お叱りを受けるのでしょうか……)
あり得そうな気もするし、無いような気もする。同田貫が、面倒臭そうに「今日主が引っ越しやるっつってたし、それ関係でどっか引っ掛かってんだろうけどなァ」と鼻を鳴らして踵を返した。
その足が厩方面へ向いているところから察するに、どうやら、これ以上探し回る気はないらしい。
「時間取ったな。ありがとさん、江雪」
「いえ……」
同田貫と別れ、江雪は少し考え、本邸の審神者部屋――"引っ越し先"の方へと足を向けた。
主が私室にしている離れの方が厩からは近い。おそらく、そちらはもう先に覗いているだろう。
主であるの本丸内引っ越しが決まったのは、文月の始めの事だった。
主の担っている本丸外での仕事。それに付随して加速度的に増える要保管書類の量に、これは仕事の場を本邸へ移さなければ足の踏み場もなくなる、と危機感を抱いての決定だったらしい。「このまま私室もこちらへ移動してくだされば、言うことはないのですけれど」とは、弟である宗三左文字の言だ。
(……主も、あちらにいらっしゃるのでしょうか)
思い至った可能性に、自然、足が重くなる。
江雪左文字は、自身を顕現した"主"のことが苦手だった。
嫌いではない。そもそも好き嫌いを語れるほどに、江雪は主の人となりをよく知らない。
たぶん、良い主で、良い審神者ではあるのだろう。事実、弟達も本丸の古参男士達も、彼女をよく慕っている。
ただ、江雪が一方的に苦手意識を抱いているだけなのだ。否応なくいくさの世を思い起こさせる、あの主に。
戦の道具、刀剣の主としては、あれこそが正しい有り様なのかも知れないけれど。
(……審神者とは、みな、あのようなものなのでしょうか……)
我知らず零れる溜息は、ずしりと総身に絡みつくようだ。
別に、同田貫からどうしても乱を探して欲しい、と頼まれている訳でもない。多少なりとも手伝おうかと親切心を起こして勝手に探そうとしているだけなのだから、このまま引き返しても何ら問題はない。
それでも、主を理由に探すのをやめるのはどうにもきまりが悪く思えて、江雪は重たい足を引きずるようにして、審神者部屋へと向かう。
鬱々としながら歩く廊下は、片側を外に面している為にかひどく明るい。
雨上がりの水気を多分に含んだ風はじっとりと湿っぽいが、不快感よりは心地良さが勝っている。
江雪の気分とは正反対の賑やかさで、庭では鳥達が気儘な囀りを交わしていた。
その陽気さに半ば背を押されるようにしてたどり着いた審神者部屋は、予想に反してと言うべきか。すぐに誰もいないと分かるほど、しんと静まり返っていた。
「……外れ、でしたか」
ぽろりと漏れた呟きには、落胆とも安堵ともつかなかった。
別件で外しているのか、それとも何処かで休憩でもしているのか。なんにせよ、奇麗にはほど遠い室内を見れば、引っ越し作業がまだ終わっていない事は簡単にうかがい知れた。
梅雨明けの陽気な日差しが、雑多に物の積まれた室内のそこかしこに、黒々と濃い影を落としている。
ここにいないとなれば、次は何処を探したものか。開け放たれた障子をそのままに、江雪は思案しながら歩を進める。せっかくだ。乱が見つかるまで探すつもりでいるが、行き違いになっている可能性も十分にある。もう少し探してみて見つからないようなら、離れと馬屋を見に行くのも良いかも知れない。
ぎぃ、
すぐ近くで、床の軋む音が聞こえた。
室内からだ。数歩の距離を戻って、審神者部屋をもう一度のぞき込む。
死角になっていて先程は気付かなかったが、部屋を入ってすぐのところに仕切りがあった。布製の帳が、部屋の片隅を区切るようにして垂れ下がっている。ひらひらと揺れる帳を、すい、と影が掠めて行った。追い掛けて帳をくぐる。
帳の向こう側には階段があった。本来は隠されているものなのだろう。そこだけ畳が外されて、地下への階段がぽっかりと口を開けている。
(……下に)
暗くはない。灯りが備え付けられているようで、柔らかな光が闇をまだらに染めていた。
先んじて通った影らしき姿はもう見えない。
けれどこの明るさなら、夜目の効かない自分でも行動に支障はないだろう。
本丸に地下があるとは知らなかったが、この審神者部屋が長らく使われていなかったのは江雪も知っている。同様に、使われていない部屋がいくつもある事も。
おそらくだが、この部屋への引っ越しついでに、地下の整備もしているのだろう。
身体を屈め、少々手狭に感じる入り口を潜る。足裏から、ひんやりとした石の温度が伝わってきた。
中に入ってしまえば階段は、予想よりも広々としたものだった。江雪の両側で、等間隔に居並ぶ行灯の火がゆらゆらと階段に影絵を落としている。
それは見惚れるほどに華やかな、闇の中でこそ映える極彩色の道行きであった。
行灯の風よけに描かれた花々が光に照らされて、階段いっぱいに爛漫と咲き乱れている。
菊、竜胆、禊萩、花浜匙、鬼灯、金盞花……。地下へと降り行く道中は、花の海への入水を連想させた。
深く、深く、深く。どこまでも静謐に、波紋ひとつ立てずに刀を奥深くへ呑み込む光の花海。
(……馬鹿な事を)
ゆるくかぶりを振って、かすめた妄想を追い払う。
思いがけない光景に、どうやら圧倒されてしまったらしい。
幅の狭い階段を一段一段踏みしめるようにして、慎重に下へと降りていく。
静寂の中に、自身の衣擦れが響いている。耳を澄ませてみるが、先行したはずの誰かの音は聞こえなかった。話し声も、足音もしない。ただ自分の音ばかりが大きく耳元で鳴っている。
と、と、と、と、……
一段、また一段。
石造りの階段を降りていく。花の海を降りていく。
実体を持たぬ花々が、視界全てを埋め尽くすかのようだった。
甘い匂いがふぅわりと薫る。嗅ぎなれたもののようにも思える、胸の痺れるような甘い香り。
クチナシだ。嗅いだことなど無いはずなのに、何故だか江雪は確信していた。クチナシの香りが隅々まで充満する中、闇に溶けて足元を彩る曼殊沙華が、鮮やかに階段の床を染め上げている。
足は止まらない。
あまいあまい、なまめいて瑞々しいクチナシが、濃密に薫る。
蜜の甘さを錯覚するほどに濃く、強い香りが穴という穴を塞ぐかのようだった。
一段、また一段。降りるごとに幻影の花海が、質量を増していく。段を重ねるたびに増殖していく。
(…………?)
違和感があった。致命的な何かを見落としてしまったような、とても小さな引っ掛かり。
けれどその引っ掛かりも、すぐにクチナシの香りに埋もれて消えた。
花弁が、気泡のように立ち昇る。息が苦しい。喉元に手を当てれば、ひゅう、ひゅうぅと空気の音が鳴っていた。
呼吸のたびに、喉からか細い息が漏れる。ひゅう、ひゅうぅ。
嗚咽が漏れる。無限に増え続ける花が、気道を塞ぐ。あまく、やさしく。肺を犯す。
足は止まらない。
階段を、ゆっくりと降りていく。下っていく。沈んでいく。
ひゅうぅ。ひゅぅうう。喉から引き攣れた音がする。頭の片隅で警鐘が鳴っている。
足が止まらない。
沈んでいく。沈んでいく。沈んでいく。沈んでいく。
浮かび上がる術など無いのだから、沈むより他ないのだ。
花海の向こう側で、無数の蝶が羽ばたく。
隣に並ぶ、誰かが言った。
「 」
誰かが言う。
誰かが語り掛けてくる。
誰か――誰か達、が?
声は無い。音は無い。
耳の奥で鳴り響く、甲高い音が鼓膜に痛い。
花の海を蝶の群れが渡り飛ぶ。白と銀の翅をした蝶の大群が、網膜に焼き付く。
きらきらと輝く鱗粉が光の花海で幾重にも照り返しを受けて、鏡の破片を散らしたようだった。
鮮やかだった花弁はやがて輪郭を失って、いちめんが白一色に灼けつく。凍えて感覚すら失せ消えた手足とは真逆に、肌の内側は炎に炙られているかのように熱かった。目頭がひりつく。
沈んでいく。
沈んでいく。
沈んでいく。
沈んでいく。
沈んで、
「――さん?」
光の水底で、黒が翻った。
■ ■ ■
「だいじょうぶ」
「そんなに捕まえていなくたって、どこかに行ったりしませんよ」
「ちゃんとここにいますから」
「貴方達の主は、ちゃんと、ここにいますから」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ――……」
■ ■ ■
気付けば、目の前に緋色があった。
(……?)
ぼんやりと眺めるそれは、どうやら布地であるらしい。
緋色の布地に包まれた何か、柔らかいものに頭を寄せて、畳の上に横たわっている。撫でられて、慈しまれている。時折、固く荒れた指が皮膚を掠めるのを感じながら、誰かが話をしているのを聞いている……。
「――部屋の記憶、ですか」
「あそこで色々ありましたからね。もう何もいないのは、次郎さんと本丸さんのお墨付きですし」
「残留思念であるな。本丸殿と我等の霊的属性を考えれば、感情のみが刻み込まれて残る事も十分あり得えよう。しかし、■■殿の様子を見る限りでは中々に強烈な残留思念のようであるが」
「……これが初めてである事を考えると、何か条件でもあるのでしょうか」
「今まで何事もなかった方が偶然、という可能性も否定できぬのが辛いところであるなぁ」
「それなんですよね……」
遠くでカラスが鳴いている。
ひと呼吸する毎に、クチナシの香りが吐息に乗って霧散する。臓腑から、肺から、肌から抜け落ちていく。
代わりにふぅわりと鼻を擽る線香の残り香を感じながら、何故顔が濡れているのか、そんな事を不思議に思う。頭上からため息が聞こえた。
「……引きずられて泣くぐらいならまあ、笑って済ませられるんですけど」
「主君。ご自身で予定の帳尻を合わせるからと言って、笑って済ませる話ではありません」
「カカカカ! 前田殿の言う通り、泣いて主殿から離れなくなるのは問題であるな!」
「この際ですから申し上げますが、主君は働きすぎです。人の器はとかく脆いのですから、どうかご自愛頂きたく」
思考が纏まらない。
ただ、撫でられているのがひどく心地良かった。
夢見心地で身を任せながら、頭を寄せているのは誰かの脚なのだとようやく理解する。
やさしい橙色の日差しを落とす畳の色は、夕暮れ時の訪れを告げていた。
「時に主殿。午睡を取ると体に良いと小耳に挟んだのであるが、監督役は持ち回りで如何であろうか」
「それは名案ですね。添い寝の方が宜しければ、すぐにでも希望者を募って参りますが」
ふいに気付く。
撫でられ、宥められているのは"自分"なのだ、と。
どうして"自分"なのだろう。そう思う。けれど、それが当然なのだとも思った。
ぎゅう、と胸が締め詰められる心地がする。なまぬるい液体が、目から溢れて肌を伝っていた。
悲しかった。悲しくて、胸が張り裂けそうで、悲しくて、悲しいばかりで、どうにかなってしまいそうだった。手を強く握り込んで、上を見上げる。緋色に代わって視界を遮った白藍の隙間から、女性の姿が垣間見えた。
「なんでお昼寝タイム確定事項にしようとしてるんですか嫌ですよ。っていうか前田さん、冗談にしてもえっぐい事言いますね……?」
「主君が無体な真似をなさらないのは、よく存じ上げておりますので」
「冗談ですらなかった」
女性と目が合う。彼女は小首を傾げると、視界を遮る白藍を掻き分けた。
その動作に、あれが自身の髪だった事を知る。
ああ、そうだ。この人は――
「あ、る……じ……?」
掠れた声が単語を紡ぐ。
言葉を発せた。その事実に対する純粋な驚きに続き、数拍遅れて、内容に対する理解が追い付く。
そうだ。目の前にいる女性が、この身を顕現した"審神者"で、己の"主"だ。
「ああ、喋れるまでには戻ってきたみたいですね。自分の名前は言えますか?」
こちらを覗き込んで、主が問う。
「――……? なまえ……わたしの、なまえは……」
問われ、考える。
私は、誰だっただろうか。
山姥切国広。薬研藤四郎。厚藤四郎。にっかり青江。前田藤四郎。愛染国俊。蜂須賀虎徹。五虎退。同田貫正国。大倶利伽羅。歌仙兼定。鯰尾藤四郎。厚藤四郎。へし切長谷部。獅子王。小夜左文字。骨喰藤四郎。今剣。鳴狐。乱藤四郎。宗三左文字。堀川国広。山伏国広。平野藤四郎。御手杵。陸奥守吉行。加州清光。大和守安定。蜻蛉切。和泉守兼定。
いくつもの名が、次々頭を過ぎっていく。
けれど不思議と、どれも"私"の名ではないという確信があった。
私。
私の名前、は――
「こうせつ、さもんじ……?」
「……まだぼやけてますか。当分は宗三さんか小夜を付き添わせますから、しばらくゆっくり休んで下さい」
合っていたのだろうか。ぼんやりと思う。
正しいような気がするけれど、間違っていたような気もする。
……思考が纏まらない。頭が覚束ない。ふわふわと輪郭が曖昧になって、そのまま端から体が解けてしまいそうだった。自身の存在があまりにも心許なくて、どこもかしこもとても寒くて、身体を縮めて握り込んだ服の裾を手繰り寄せる。再度、主の手が髪を撫でる。暖かく、重みのある手だった。生きているものの手だった。
「あるじ……」
「はぁい」
「あるじ、あるじ、あるじ、あるじ、あるじ、あるじ……」
「はいはい、主はここにいますよ。まだ悲しいです?」
「……はい……さびしい……かなしい……かなしい、です……」
と、と、と、と、……
心臓が拍動している。
主によって与えられた仮初の心臓が、どくどくと耳の奥で鳴っている。命を主張している。
瞼の裏にはいまだ、光に満ちた残影の渚が焼き付いていた。喪われた者達の――そうしてこれから喪われる者達の為の、弔いの花海。
涙が溢れる。次から次へ、ぼろぼろと眦を滑り落ちて畳に落ちる。
「かなしいは、……きらいです……」
「そうですねぇ」
「……いくさも、きらいです……」
「……そうですねぇ」
穏やかに凪いだ同意が返る。
透き通って軽やかな、感情の重みを乗せない風の声音。
冷たいとは思わなかった。ただ、彼方を望む声はこの場を離れてひどく遠い。見上げる姿は涙でぼやけ、その表情を曖昧にしている。こんこんと、途切れもせずに湧き上がってくる哀惜の波間にあって、ふいに疑問が口をつく。
「――……あるじも、いくさは、おきらいですか……」
ぱたり、
途切れなかった返答が止む。
間近で見上げる主の唇から、苦笑と呼ぶには苦味の強い吐息が落ちた。
「戦わずに済むなら、それに越したことは無いですけど」
滲んで揺らぐ世界の中で、主の瞳が真っ直ぐに江雪を見返す。
顕現された時と同じ。何に遮られる事もなく、逸らされる事もない濡れ羽色の双眸へ、幕を引くように、ゆるりと影が落とされる。間延びしたほんの数秒の幕間。つやつやと底光りする瞳の奥底で、様々な感情が弾けて消える。
迷いはない、けれど拭いきれない諦念を帯びた答えが、独白めいて返される。
「戦わないと、喪うばっかりですからね……」
江雪左文字は、自身を顕現した"主"のことが苦手だった。
血なまぐさい戦場で命のやりとりを指揮しながら、いつだって、涼しい顔で澄ましている。
刈り取られた敵の首にも、力及ばず喪われた刀装兵達の亡骸に対しても、重傷を負った刀剣男士の前であろうと、その表情は陰りもしない。戦国の世で目にした武士の如き苛烈さこそ持ち合わせずとも、背筋の震えるような冷徹と平静は、あの時代を想起させるに十分なものだった。
否。そこにいささかの熱も含まないだけ、彼等より恐ろしくすらあったと言って良い。
けれど。
けれど、そうして曖昧に笑ったその表情が、あまりにも"人間"らしかったから。
好きになれるかは分からない。苦手意識が消えるかどうかも。
だけど、きっと――この主のことを、嫌いにだけはなれないだろうな、と。そんな事を、強く思った。
そこにはいない
「……主君。下に、観音像を設置する許可を頂けませんか? 縋る対象があれば、刻み込まれた悲哀の慰めともなりましょう」
「観音像、ですか」
「観世音菩薩の本誓は大慈大悲。前田殿の提案、拙僧は妙案と思うぞ!」
「ああうん、設置はいいですけど。観音像って何処で買えるもんでしょう……城下町で売ってます?」
「ご心配には及びません。資材の使用許可を頂ければこの前田、鋳造に全力を尽くします」
「手作り!?」
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