春の夜闇は暴力的なまでに美しい。
冬の間は地面を埋めていた雪の白に代わって若草の緑が地を覆い、頭上では競って枝を伸ばした桜が、今が盛りとばかり爛漫に咲き誇っている。冬の名残を残した風は冷たくとも、冬の刺々しさは喪われていた。
集った一同を見渡し、女主人が盃を掲げる。
篝火の光を総身に浴びて、花の降る庭に佇む主はまるで一幅の絵のようであった。
緩やかに半ば伏せられた双眸は、炎の照り返しを受けて尚、夜闇の色を宿して柔らかに昏い。
「新しい仲間達に。
――そして、帰らなかった仲間達に」
歓迎と、弔いと。
無言のまま、各々が手に持った盃を高く掲げる。
一献目は厳かに。喉を滑り落ちる酒が胃の腑を熱くした。ほう、と喘ぐように息をつく。
半月、あるいは月に一度。本丸では必ず酒席が設けられる。
いつ頃からだったか。元々は主であるが、最も消耗が激しい刀装兵達の為に始めた集まりだ。途中退席自由、参加したくなければ欠席可、となっているにも関わらず、何だかんだで今では警備の当番を除いた本丸の全員が参加する、唯一の催しとなっている。
酒席の常として、厳粛な雰囲気なのは最初だけだ。杯を重ねれば自然と舌は滑らかになり、気持ちも陽気になってくる。少しずつ増えていく喧噪に耳を傾けながら、五虎退は、静かに杯を次ぐ。短刀の身ではあるが、五虎退とて年月を経た付喪神だ。次郎太刀ほどではなくとも酒精を好むことに変わりはない。
「ささ、どうぞ五虎退殿」
「ありがとうございます、小狐丸さん」
杯を干すのを見計らっていたらしい。先頃顕現した小狐丸が徳利を差し出す。
自身が世話係を務める新刃からの酌を受けて、五虎退はひどく面映ゆい気持ちではにかんだ。
「日頃世話になっておりますからな。
私の顕現にあたっても、五虎退殿にお口添え頂いた、と浦島殿より伺っております」
「大した事はしてないです。それに、小狐丸さんはあるじさまに必要だって、思ったから」
「嬉しいことを言って下さる」
小狐丸が破顔した。何処となく狡猾な印象を与える顔立ちが、そうすると一気に開けっぴろげで快活なものになる。
かすかに首を傾げて、目を悪戯っぽく煌めかせながら小狐丸は続けて問う。
「五虎退殿がそう思われたのはやはり、そこな者等の事があるから――ですかな?」
そうやって盃で示して見せたのは筵の端、篝火の照らし出す片隅で、ひっそりと酒席に加わる刀装兵の一団だった。ほんのりと赤らんだ頬を綻ばせ、五虎退は首肯する。
「すぐに気付いちゃうなんて……やっぱり、小狐丸さんで良かったです」
そう。刀装兵の姿を装ってはいるが、彼等は“刀装兵”では無い。
古来より知られるように、狐狸貂猫は化けるモノ。外見を取り繕う程度は容易い事だ。特に刀装兵達は、その有り様故に個が曖昧になりがちである。まして酒の席ともなれば、多少おかしなところがあったとしても浮いてしまう事も無い。が主催する酒席という事もあって、気付いている者達も、目こぼしするのが通例になっている。
「なぁに、あれを見抜けずしては狐の名折れと言うもの。しかし、半ば獣であろうと物の怪には違いない。誰ぞ引き入れねば立ち入れぬはずですが……失礼ながら、あれらは五虎退殿が?」
「いえ。元は、同派の鳴狐さんが」
と言っても、五虎退も直接鳴狐から聞いた訳では無い。
なにせ、それまでがそれまでだ。同派といっても、視線すらろくに交わさないような間柄だった。
五虎退がそれを知っているのは、本丸を“掃除”する過程で彼等のねぐらを見付け、その折に鳴狐の名が出てきたからである。それが無ければ、五虎退はきっと彼等をそのまま処分してしまったに違いなかった。
本丸で顔を見た覚えのない刀の名に、当惑した様子で小狐丸が尋ねる。
「失礼ながら、その鳴狐殿は?」
「昨年、戦死なさいました」
「それは……。お悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます。……とても。とてもご立派な、最期でした」
告げる言葉は春日のように穏やかで、抱く感情に哀惜の色は含まれない。
当然だ。彼等の関係など小狐丸は知るまいが、仲が悪かった、と評してもまだ控え目なくらいである。一時は、本気で憎まれすらもした。だから、の下で肩を並べて戦った経験も、片手で数えられる程度しかない。
――それでも。最期の時、共に轡を並べた者として。
同じ主を戴く同胞として、敬意を払うに値する、素晴らしい刀剣男士であったと思う心に偽りはない。
「あるじさまはお優しい方ですから。鳴狐さんも、心配だったんだと思います」
優しい主だ。強い審神者だ。だから、余計な責任まで背負い込む。
自分達も救ってくれる、助けて貰えると勘違いした有象無象まで縋り寄ってくる。
それだけでも厄介なのに、更に面倒なのは、が名を上げてしまっている事だった。
ただ囀るだけの下郎共の悪意、他人の足を引く事しか頭にない下衆からの嫉妬の念、見当違いな恨み辛み……只人ならともかく、それが“審神者”からのもので、数も多いとなれば祓うにしても一苦労である。
篝火の光が届かない外側。夜の暗がりに沈み込んでいようとも、短刀である五虎退の目には昼間同様、そこで起きている出来事がよく見える。に害を成そうとする、小鬼のカタチを成した呪いの群れ。引き摺り出され、叩き潰され、噛み殺されて消えていく、忌々しい塵芥。
鳴狐が彼等を本丸に引き入れたのは、ああした穢れを狩らせる為だ。
に害が及ばないよう次郎太刀が目を光らせてはいるのだが、如何せん大太刀だ、小回りが利かない。五虎退の虎達も頑張ってはくれているが、最近は特に手が足りない、というのが正直なところである。
主の本丸だ。自分達の為の居場所だ。そこをあんな穢らわしいモノが這い回っているなんて――五虎退には到底、許しておけるはずもなかった。
「五虎退殿は、随分と主様を慕っていらっしゃるのですな」
微笑ましげに、目尻を撓めて小狐丸が言う。
いずれ知るかも知れないが、彼はまだ、この本丸の過去を知らない。
……こうして彼と桜の下、和やかに言葉を交わすべきだったのは、ひょっとしたら自分では無い“五虎退”だったのかも知れないと。ふと、そんな考えが頭を過ぎる。
五虎退は、この本丸の何番目かの“五虎退”として顕現された。
当時の本丸においてそれは別段珍しくも無かったし、彼はどちらかと言えば代替わりが少ない方でさえあった。容易く泣き喚いて許しを乞う情けない姿が、おそらくは嬲り甲斐無く思えたかも知れない。
それでも気紛れに撲たれることは再三であったし、怒鳴られることも、伽を(より正確に言うなら自慰の道具として)させられることも珍しくはなかった。その頃の五虎退は本丸を出た事が無かったので、審神者とはすべからくそういうモノなのであると認識していた――審神者の目に出来る限り映らないよう部屋の隅、暗がりの中で蹲っているのが常だった。虎達は寄り添ってくれたけれど、彼等は自分の眷属である。冷え切った指先をぬくめてはくれても、恐怖は常について回った。
そうして脅えて、背中を丸めるばかりであった時期が長かった所為だろう。顕現主である審神者が死に、新しくやってきたの刀になって、戦場へ出陣するようになっても。どれだけ練度を上げ首級を狩り、誉を得ても。それでも、いつも正体も分からない恐怖に駆り立てられるようだった。足元に空いた見えない大穴に、ふとした拍子に転がり落ちてしまいそうで。奈落の底から二度と這い上がる事ができなくなりそうで、怖くて怖くて仕方なかった。
だから。あの日、あの時。あの戦場――あの、演練場での戦いの日も、五虎退は恐ろしかったのだ。
逃げたかった。他の本丸も、同じ本丸の刀剣男士ですらどうでも良かった。逃げられるものならすぐにだって逃げ出したかった。そうしなかったのは逃げ場が無かったからであったし、それ以上に、一人で逃げ出す事の方が恐ろしいと思ったからだった。嗅ぎ慣れた戦場の、むせ返るような血の臭い。死の臭い。常の戦場よりも過酷で、退路も無く、ただひたすらに自分の番が来ない事だけを願って刃を振るう死地。敵が死に、刀装兵が死に、刀剣男士が死に、騎馬さえもが死に、審神者までもが死んでいった。
同じ隊の鳴狐が折れた。
同じ隊の愛染が折れた。
同じ隊の厚が折れた。
隊の殿を務めていた五虎退はそれを見ていた。足を止めれば、助けに入れば自分も折れるのは分かり切っていたのでそのまま進んだ。それが役割であったからでもあったが、それ以上に折れたくなかった。
死ぬのは嫌だった。陽の射し込まない、広くて冷たい部屋の片隅に打棄てられるように這い蹲って、虎達も動かなくて、とても寒かったのに、身じろぎもできず、錆び朽ちるばかりであった記憶がまざまざと蘇ってくる。
底のない薄暗がりの闇の深さを覚えている。刀としてすら扱われず、使い棄てられた自分が、自分達が自分のやってくるのをぎらぎらと目を底光りさせながらじぃいいっと見詰めてくる。待っている。
ああなりたくない。いやだ。あんな思いはもういやだ、いやだいやだいやだいやだいやだやだやだやだやだ……。
今となっては未熟なばかりの思い出である。恥ずかしくて情けなくて、到底口にもできやしない。
ああ。けれど――。切り取ったように鮮やかな記憶の美しさが、身震いするほどの多幸感が、五虎退の胸の内を温かくする。恐怖を拭い去る。
思えばあの時、あの瞬間こそが。五虎退にとっての転換点だった。
「はい。……ぼく、本当に、あるじさまの刀になれて良かったと思ってます」
本当は、その喜びは自分が得るべきものでは無かったのかも知れないけれど。
でも。それでも、は五虎退をここまで鍛えてくれた。使ってくれた。愛してくれた。乱を始めとした兄弟に守られているだけしかできなかった、部屋の片隅で頭を抱えて震えながら蹲っている事しかできなかった自分を――そうしてきっと、過去の“五虎退”は気紛れに折られていったのだろう――恐怖心に支配されて使い物にならなかったなまくらを、途中で見捨てたりしなかった。ここまで強くしてくれた。
てっぺんから爪先まで、血の一滴から鋼一片に至るまで。五虎退はの刀剣男士だった。の為に戦場を駆け、の為に誉れを得る、の為の刀剣男士。
その幸福を十全に噛み締められるようにあの辛い日々はあったのだとさえ、今となっては思っている。
「ははは、似たような事を三日月殿も言っておりましたよ」
小狐丸の相槌には親しみがあったが、共感の熱には欠けている。それを敏感に嗅ぎ取りながら、五虎退は静かに微笑んだ。仕方がない。彼は顕現して日が浅いし、しか審神者を知らないのだから。
「小狐丸さんにはまだ、理解できないかも知れないですね」
可哀想なことだ。五虎退は心から同情する。
いい子、と。
あの演練場で、あの戦いで与えられた賛辞を覚えている。
五虎退の怖れる黒とはまるで違う、強く、燦めく黒で真っ直ぐに彼だけを見据えて。それまで見た事の無いようなとびきりの、晴れやかな美しい笑顔で。いっそ無邪気でさえあるほどの肯定と、慈愛を乗せて。
それは赦しだった。与えられるべくして与えられた誉だった。他の誰でもない、五虎退だけに与えられたものだった。彼は選ばれた。選ばれ、そうしてとびきりの誉を勝ち取った。“の刀剣男士”として、強く慈悲深い主人の刀として、何も恥じるところなど無いのだと証明してみせた。祝福された。そうしてようやく、五虎退は呼吸を許された。自分は折れていった“彼等”とはまるで違う存在なのだと、心の底、魂の芯から得心できた。
それは正しく、折れていった彼等には持ち得なかったものだった。自分だけが勝ち取った誉だった。“自分”という“五虎退”だけが、正しく“刀剣男士”として、賜ることを受容されたものだった。
あの日、あの時、あの瞬間。五虎退はようやく、の“刀剣男士”に成れたのだ。
「だいじょうぶ、すぐに分かります。だって。あなたも、あるじさまの刀剣男士なんですから」
そうしてきっといつの日か、彼女の喜びが生きる意味になるだろう。
一点の曇りもない顔で、五虎退は笑った。
あなたのもの
「小狐丸さんと五虎退さん、仲良さそうですねー。やっぱり日頃面倒見てる、っていうのが強いか……」
「はっはっは、よきかなよきかな」
「あったかく見守るお兄ちゃん感演出しても、手合わせで練度1の三条仲間フルボッコにした過去は消えないんですよねぇ……」
「ううむ。そんな積もりはなかったのだがなぁ」
「そんな積もりじゃなかったんならアンタ、どういう積もりで手入れ部屋送りにしたのさ」
「うむ……なんというかこう、同じ刀派だと思うとつい張り切ってしまってな?」
「で、ついうっかり上下関係躾けちまったのかい」
「そういえば三日月さん、ちゃんとあの件二人にごめんなさいしました?」
「したのだがなぁ。俺は仲良くしたいのに、何故だか妙に距離ができてしまったのだ。じじい寂しい」
「初っ端で内番手合わせ組んだのもまずかったかぁ……」
「多少加減を間違えてしまったのは確かだが、きちんと指導できていたと思っているのだがなあ。何か妙案は無いものだろうか」
「えー? ご機嫌取りの定番なら、やっぱり贈り物でしょうけど」
「贈り物……贈り物……うむ、もみじのかんざし……」
「つげのくし?」
「こぎつねこんこん」
「やまのなかー」
「はっはっは。化粧なら石切丸もしておるなぁ」
「草の実集めます? オシロイバナ」
「贈り物の算段すんのはいいけどさぁ、正直、意味無いと思うよ?」
「次郎さんから見ても無理そうかあ……。うん。やっぱり三日月さん、当分あの二人との手合わせ禁止、延長で」
「あなや」
TOP