肉の器は便利ではあるが、維持は手間だと獅子王は常々考えている。
生来の人間のものより余程使い勝手が良いだろう事は今の審神者や、彼を顕現した審神者。そしてかつての主を思えばなんとなく察せる。ただ、それでも手間なものは手間だ。
特に、満たされない欲求に苛まれている時には強くそう思う。
「審神者ぁー。なんか食うもんねぇ? 腹減った」
半分開け放たれた縁側から、靴を脱いで室内へと上がり込む。
何かと多忙な審神者であるが、今日の近侍である博多とは先程本邸ですれ違ったので、戻っているのは間違いない。というか、不在時の自室に他人を上げる事を許す審神者では無いし、審神者に忠実なマヨヒガもまた同様である。獅子王の声に反応して、審神者が顔を上げた。少しばかりの面倒くささと困惑、そしていくらかの諦念が混じり合って、「またか」と言いたげな表情となっている。まぁ、そんな顔をされたからと言って引き下がる獅子王では無いのだが。
「……おなか空いたなら、本丸さんに頼んだ方が良くないです? 大した物は出せないですよ?」
「あんたの作るものの方が腹に溜まるんだよ。湯漬けで構わないからさ、頼むって」
笑って片手で拝んで見せれば、審神者は溜息をついて億劫そうに立ち上がった。
ひらりと片手を振って、「ちょっと待ってて下さい、残り物あっためてきますから」と言い残して土間へと引っ込む。面倒そうにしながらも、審神者が獅子王の頼みを断った事は一度も無い。最早定番となったやりとりは、結果が決まり切っている以上は時間の浪費に過ぎない。それでも、その浪費を無駄だと感じた事は無かった。むしろ、その許容が心地良くもある。
肉の器に付随する、人の欲求は手間のかかるものだ。餓えればその都度、適度に満たしてやらねばならない。
しかしその満足感さえも曲者だ。満たされれば快いが、時間が経てば懲りずに飢え、また渇く。人の欲とはそういうものだ。満たされる快さを知ってしまえば、次の飢餓は余計に酷く、耐えがたくなる。
以前の審神者に使われていた頃には食事などする事の方が稀であったが、今となってはあの扱いに我慢し続けるのは難しいだろう。昼夜を問わず使われ続け、碌に手入れも施されず、そうして気に掛けられる事もない。折れればそれで終いの日々。
あれをまた味わうくらいなら、獅子王は躊躇いなく本体である己の刀を叩き折る。
飢えて、満足して、渇いて、満たされて。そういう刹那を繰り返す肉の器は成程、呆れるほどに貪欲だ。
土間で動き回る審神者の音を耳で追いながら、室内を目線だけで見回す。
何処かへ使いにでも出ているのか、クダギツネの姿は無い。手持ち無沙汰なのだろう、鵺が畳の上にあった青い布と綿の塊を突いて転がし始める。やたらとふかふかして触り心地の良いそれは、鯨という海の生き物を簡略化して模した人形なのだと、以前に審神者から聞いた覚えがあった。つるつるとした黒い目は、鵺に突きまわされている為なのか、何処となく悲しげにも見える。仮にも主の持ち物だ、鵺とて加減は心得ているので、破ったり汚したりはしないだろう。獅子王は傍観を決め込んだ。
「……鵺さん、そのくらいにしといて下さいね?」
膳を片手に、土間から戻ってきた審神者が苦笑混じりに釘を刺す。
ぱ、と鵺が人形から飛び退いた。獅子王の元まで一足飛びに戻ってきた鵺が、行儀よくお座りの姿勢を取る。
並んで座った彼等の前に、膳と皿が置かれる。獅子王の前には味噌汁と白飯、そして梅干し。鵺の前には湯通した鶏肉だ。
「お待ちどうさまです。鵺さんもどうぞ」
「ぐぁうっ」
「ありがとなー審神者。んじゃまあ、いただきまぁっす!」
手を合わせ、先ずは白米を口に放り込む。
残り物、と審神者が言っていた通り、水分をいくらか失ってぱさついた米は炊き立ての旨さには及ばない。
けれど汁物と合わせるならば、これで十分だ。味噌汁を一口啜れば、出汁と合わせた味噌の味わい、そして根菜の滋養が口の中に広がり、ぱさついた米に潤いを与える。咀嚼すれば遅れてやってきた米の甘みが、舌の上でじんわりと混ざり合っていくのを感じた。味噌汁がやや甘めに感じるのは、具として入っている根菜にサツマイモが含まれるからだろう。
審神者の味噌汁は、具が気紛れに変わる。
ワカメと豆腐だけ、という極めて単純なものの日もあれば、とりあえず目につくものを全て放り込んでみた、と言わんばかりの味噌汁というより味噌煮とでも呼ぶべき味噌汁を出してくる日もある。獅子王は腹に収まれば何でも良い主義であったが、刀剣男士内でもそれぞれに気に入りの味噌汁があるらしい。
ともあれ、口を付けてしまえばあとは怒涛の勢いだ。
欲求に促されるまま、一心不乱に米と味噌汁を掻き込み、梅干しを時折齧ってまた米と味噌汁を交互に食らう。一口、また一口。食道を滑り落ち、胃の腑へ収まる食物の熱。空きっ腹の満ちる感覚もそうだが、旨い、というのは快いものだ。征服欲を伴う満足感に、うっとりと獅子王は目を細める。
出された食事が尽きるのは、当然あっという間だった。
ふう、と完食して息をついた獅子王に、呆れと感心が半々の表情で審神者が言う。
「もうちょっと定期的に食事した方がいいんじゃないです?」
「つってもなぁ。餓えた時に食うのが一番旨いんだよ」
「ならせめて食事時に合わせて下さいよ……一人分だけ別で用意するの、それはそれで手間なんですから」
「んー」
人の器を持てども、所詮仮初だ。刀剣男士が飢餓で折れる事はない。
曖昧な返事をする獅子王を恨めしげな目でひと睨みし、審神者は空になった膳を持ち上げる。その姿を眺めながら、腹を撫でる。まだ足りない、と腹の虫が訴える。それが何を食べたいのか、獅子王はよく知っていた。
――ひゅおう。
風が哭く。飢えのまま、欲望のままに抜いた太刀は、けれども獲物を引き裂く事をしなかった。
まだ喰えない。まだ、喰ってはいけない。それでもすぐに刃を引くのは名残惜しく、獅子王は審神者の肩口へと押し当てた己の本体を、慎重に、布越しの身体へと滑らせる。服の上からであっても、冷えた鋼に人の体温は熱く感じられた。瑞々しい弾力が彼の刃を押し戻す。芳醇に薫る生の気配に、喉が鳴った。口内に唾が溢れる。
腹に押し込むか、胸を突くか。否、肩から脇へ、ざっくりと斬り付けるのも捨て難い。
想像だけで、ぞくぞくと背筋を恍惚が這い上る。抜き身の刃を突き付けられ、膳を片手で持ち上げたままの姿勢で主は動かない。ただ少しばかりの面倒くささと困惑、そしていくらかの許容が入り混じった、「またか」と言いたげな表情をしただけだった。
「斬りますか?」
主が問う。それこそ食事の感想でも尋ねるような気軽さで、気負いも無く淡々と。
穏やかな声音が耳に快い。獅子王の足元で、鵺が喜悦に目を細めた。我知らず、唇が笑みの形に歪む。
「いいや。我が主は本日も変わりなく、惚れ惚れするほどいーい女だからなァ」
「……それはどうも」
良い主で、好い女だ。今すぐ斬りたくなる位。
飢えて、満足して、渇いて、満たされて。
人の器に付随する欲は呆れるくらい貪欲だ。底無しにすら感じる程に。
或いはこれこそが、“獅子王”という刀の欲なのかも知れない。斬って、刺して、抉って。そうして存分に切り刻んで細切れにして、心ゆくまでその感触を楽しんだら、後は残らず腹に収めてしまいたいと思っている。鵺と一緒に、零れた血を肉片で拭い取りながらだいじにだいじに、よぉく味わい噛み締めて、髪一筋、臓腑のひと欠けに至るまで、主を余さず喰い尽くすのだ。
どんな味がするだろう。苦いだろうか、甘いだろうか。考えるだけで心が躍る。
けれど。どれほど魅力的であろうと――まだ、を斬る事はできない。
いやはや、まったくもって罪深い主様である。
(我慢、しなきゃなあ)
そうひとりごちて、唇を舐める。約束は守らなければならない。
だから今はまだ、出される食事で満足しておくべきだ。味見にしても、やりすぎれば主だって見逃してはくれなくなる。何処までなら許してくれるのか試してみたい気持ちもあるが、次郎太刀の耳に入ったが最後、主が止めようが問答無用で叩き折られるのは目に見えていた。獅子王とて我が身は可愛い。本来の在り様から外れている自覚があるからこそ、尚更に。
息をついて刀を納める。鵺が、いつもの定位置に収まった。
「ごちそーさん。旨かったぜ、審神者!」
「はいはい、お粗末様でした」
飢えは獅子王の友である。息苦しくももどかしい、いつしか馴染んだ肉の欲求。
例えば足の腱を斬り、両腕を落として。逃げる事もできなくなった主を殺す時、彼女はどんな顔をするだろう。どんな目をして、どんな声で泣くだろう。喰えども満ちぬどうしようもない渇望を、獅子王は埒も無い空想で宥める。
獅子王の頭の中。喰い尽くされる主は今日も、総てを受け入れて微笑んでいる。
胃袋で愛せよ
「あー。……ひょっとしなくても、怒ってたりする?」
「ああ、はい。ごもっともなんですけどね。うん」
「……あのさ、ダモクレスの剣ってあるでしょ。
権力者の栄光が、どれだけ危険なものであるかについての故事なんだけども」
「力は薬で、毒なんだよ。どんな種類のものであってもね。正しく使おうと思うなら、相応の心得が要る」
「獅子王さんはさ、私にとってのダモクレスの剣なんだよ。人間は簡単に堕落するし、道を誤る。だからああやって、“約束”がふいにされるのを待ち構えていられるくらいが丁度いい」
「? や、そりゃ私だって命は惜しい――ってああうんごめん、でもあれくらいならまぁいいかなって」
「あだだだごめんごめんごめんなさい本丸さん! はいもうちょっと自分大事にを心掛けます!! だからドングリ降らせるのは勘弁! これ地味に痛い! って待ってドングリ虫めっちゃ出てき、ひぎゃーッ!?」
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