にいさま、と。
幼い、けれど不釣合いなまでに静謐な音が彼を呼ぶ。
左文字の兄弟刀で、彼を兄と呼ぶ刀は一人しかいない。どうぞ、と声を掛ければ音も無く障子が開き、するりと青色の影が室内へと滑り込む。その挙動に音が微かにも伴わないのは短刀の性か、それとも性格に依るものか。
「……ただいま、宗三兄さま」
「おかえりなさい、お小夜。遠征はどうでしたか?」
栞を、読みかけの本の頁へ差し込んで閉じる。
本を片付けながら問えば、小夜は「つつがなく終わったよ」と淡々と応えた。
かちゃり、と陶器の擦れる音が響く。つと視線を手元から上げれば、弟は既に内番着に着替えていたらしい。抱えた盆を畳に置いた小夜が、顔を上げて宗三を見る。険の強い眦が、情愛に撓む。
「宗三兄さま、お茶にしよう。が羊羹をくれたんだ」
「羊羹ですか。濃茶が合いそうですね」
「そう言うと思って淹れてきたよ」
「ありがとう。お小夜は気が利きますね」
常に暗い影を纏った肌が上気する。淡い薔薇色に頬を染めて、小夜は微かにはにかんだ。
嬉しそうな弟の姿に、自然と胸の内が温かくなる。(……可笑しなものだ)宗三はその自嘲を、喉奥に呑み込んだ。同じ刀派の兄弟。兄よ弟よと呼び合っていても、所詮元は刀に過ぎない。来歴に重なるところも無く、鍛冶とて別の人間である。まだ天下人に所有されていた刀剣男士達の方が、自身と余程縁深い。小夜にとってもまた、細川や黒田繋がりの刀剣男士の方が馴染みがあるだろう。人間とは違うのだ。彼等のしている事は兄弟ごっこでしかない。見よう見真似の下らないままごと。そこに益も、意味も無い。
(そのはず、なんですけどね)
鋼には無縁の繋がり。刀には不要の、肉親の情とでも呼ぶべきもの。
理屈では無かった。自分でも気難しい性質である自覚があるだけに、どうにも不可解なばかりである。
この弟を、愛おしいと思う。喜びを分かち合い、共に過ごす事を嬉しく思う。
並んで戦場を駆ければ無様な姿など意地でも見せたくないと感じるし、笑顔を見れば心が和む。傷付く姿を見れば我が事のように怒りを感じ、苦しんでいれば、それを肩代わりできない我が身の不甲斐なさに悲しくなる。
顕現した時分より持ち合わせた感情だ、残念だが今の主の影響ではあるまい。顕現した審神者の影響であるとも思えぬ。となれば本霊由来、あるいは歴代の持ち主の誰かからという事になるが、さて。
「宗三兄さま、今日は何を読んでいたの」
「“ろみをとじゅりえっと”と言う、外つ国の戯曲です。
主の書棚に無かったので買ってみましたが、なかなか滑稽で悪くない」
宗三が書を嗜むようになったのは、刀であった時分の主の影響もあるが――今の主に、侮りを受けぬだけの教養を身に付けて欲しいと思ったが故でもある。
元々書を好んで読む主は、まぁ博識と呼べる部類ではあるのだろう。少なくとも彼を顕現した審神者とは雲泥の差である。だが、そこは平穏な時分の生まれ。四書五経を諳んじるには至らず、和歌や連歌、茶の湯の作法も覚束無い有様で、かつて自身を所有した主らと比べてどうにも不足が目につくばかりだ。
歌仙も文系を自称するだけあって、同じく忸怩たる思いであったらしい。
審神者としての彼女に不満は無い。戦の采配者としても、大将として仰ぐにも。
将としての自覚こそ薄いが、得難い性質の主であるのは確かなのだ。特に、追い詰められる程に鋭さを増す不屈の魂を、宗三はいたく気に入っている。勝機を見逃すまいと戦場を見据える瞳の冷徹さも、残酷な命令を声高に下す温度の無い声も。だからこそ、かつての主らと比べての不足が殊更に口惜しい。
その思いが如実に表れた結果が、日増しに増える蔵書の存在であった。
の所有する書物には、低俗な内容のものも含まれている。どうせ読むなら相応しいものをと思うが、なにせ元は刀の身。そういった事にはてんで疎い。それとなく進言してものらりくらりと躱されるばかりで改める気配も無いとなれば、自分達で見分し、然る後に眼鏡にかなったものだけをに当てがおうという発想に至ったのは至極当然の成り行きと言えた。
「にも薦めるの?」
「まさか。こんな猥雑なもの、主に相応しくありません」
「そう……」
相槌を打つ声音は穏やかだ。兄の言なれば間違いは無いだろうと、少ない言葉の中にも滲む信頼に頬が緩む。
穏やかな弟だ。凪いだ気質の、影のように静謐に寄り添う短刀だ。かつて。以前の審神者が主であった頃、顕現されては折れてを繰り返した“弟”と比べるまでも無く、その性質の差は顕著である。
復讐を。血の応報を求めて止まぬその性が、変化した訳では無いだろう。
ただ、信じているのだ。
今の主が、己の刃を預けるに足ると。
この弟は、主を心から慕っている。彼を構成する鋼、刻まれた記憶の残滓がそうさせるのかも知れない。
けれどそんな理屈、宗三にはどうでも良い事だった。未熟であれども仕えるに足る主に、最愛の弟。仕舞い込まれて置物宜しく飾られる事は無く、善く使われ手入れされ、理不尽に傷付けられる事も無い。かつては煩わしいばかりだった人の身も、最近では、存外面白いものだとすら思っている。
無論、戦場で刀を振るい、敵を屠り首級を上げる喜びに並ぶものでは無いけれど。
「……宗三兄さま、僕の顔になにかついてる?」
「そうですねぇ……可愛らしい目と鼻と口と眉と……」
「にいさま」
恥じらいに耳を染めて、目を伏せた小夜が困ったように咎める。
愛らしい姿にくすくすと笑いながら、「本当の事ですから」と開き直ってみせれば、小夜はますます身の置きどころが無いようだった。この弟のいじらしい様は、何度見ても胸が温かくなる心地がする。
(本当に、可笑しな事だ)
誤魔化すように茶を呷る弟の頭を、撫でてやりたいと思う。
抱き締めて撫で擦って、そうして叶うならば弟の運命を宿業を結末を、そっくりそのまま写し取ってしまいたい。かつて折れていった“弟”が、彼の為にしてくれたように。同じだけのものを、否、それ以上のものを返してやりたかった。水を注ぐように、ただひたすらに何もかもを与えてやりたい。愛される事に不慣れなこの弟に、自分がどれだけ彼を慈しんでやるか知らしめてやりたかった。
この子はいずれ死ぬだろう。主の為に、喜んでその身を投げ出すだろう。
宗三もいずれは折れるだろう。主の為に、望んでこの身を捧げるだろう。
けれど。いつか至るその日までは――
愛しき日々よ
「どうなさったんですか、殿。納得いかない顔をして」
「いや、宗三さんにそんな低俗なもの読むんじゃありませんって言われて」
「宗三左文字様の採点が辛いのは常の事でしょうに。それに、刀剣男士の方々は現役で使われていた頃の価値観で物事を判断なさるところがありますからね。お気になさる必要などないのでは?」
「いやまぁそうなんだけど、このレベルで低俗って言われるともう教科書系しか読むものなくない?
宗三さんが押し付けてく本がハイレベルすぎて目が滑る……こちとら孫子の暗記も満足にできてない低スペックだよどうしろと。教育熱心なのはこんさんだけで十分なのでほんとやめてほしいです好きに読ませて」
「……それで、殿は何を読んでいたんです?」
「ボードレールの“悪の華”」
「それ、発表当時猥雑だの冒涜的だのってこき下ろされて検閲喰らった詩集じゃありませんでした?」
「たまに無性に読みたくなる不思議。あーくそ、生え抜きにアレな内容の本でも押し付けてやろうかな……」
「それで気が済むのなら止めませんが……。何を押し付けるおつもりで?」
「“性病の世界史”」
「歌仙兼定様を交えての説教コースになるのでは」
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四書五経に和歌や連歌、茶の湯の作法は戦国武士的基礎教養。審神者の必須教養では無い。断じて無い。