「」
「はい?」
「おや、これはにっかり青江様。殿に何かご用で?」
背後から声をかければ、存在には気付いていたのだろう。
前を歩いていた女主人は、さしたる動揺も見せずに足を止めて振り向いた。
常に彼女の供を務めるこんのすけが、小首を傾げて問うてくる。
(……妬けるなぁ)
不思議そうにこちらを見詰めるに、笑みを深める。
以前のような警戒も、こちらを推し量ろうとするような微笑みも、今では向けられる事は無い。
それを喜ばしいとは思う。しかしそれは、彼等に信を置いた、という事とイコールでは結ばれないのだ。
許されたのは、スタートラインに立つ事だけだ。
全身全霊を賭して信頼を勝ち取ってみせた次郎太刀や、最初から彼女の味方であり続けたマヨヒガ。懐刀で在る事を許容された薬研と、同列に扱われるなどあり得ない。
そして――それはこの、刀剣男士を消耗品として見ているフシのある狐ですら同じ事。
刀剣男士達の中で、この狐を快く思う者など存在しはしないだろう。
それを察していてなお、この狐を当然のように重用してみせるのは、そうする事で彼等の忠誠の程度を推し量っているのかも知れない。の優先順位は明白だ。狐の非道を知りながらも溜息一つで許す程度には、彼女の中で狐は上位に位置している。
「見慣れない羽織を着ていたからね。どうしたのかな、と思って」
「ああ、これですか」
得心したように頷いて、は巫女服の上から羽織った無地の墨染めを摘まんだ。
思案気に目線を彷徨わせ、肩を竦めて苦笑いを零す。
「……けじめみたいなもの、でしょうかね」
「けじめねぇ。初心回帰、とかかい?」
前任者の刀剣男士の中で最初にと顔を会わせたのは、青江だ。
思えば、あの時の彼女は今と同じように黒をその身に纏っていた。
呆然と見開かれた瞳を覚えている。恐怖を滲ませながら取り繕われた声音も。
感情を、必死に押し殺そうとするような無表情も。
彼女が纏っていた黒い洋装。
青褪めた肌。
それらを鮮烈に彩った――
「――初心回帰……というよりは、まぁ、自分の立ち位置を忘れないように、ですね。青江さん達の振るわれていた時代では白が主流だったみたいですけど……私としては、こちらの色の方が馴染みますから」
「殿の時代では、黒は喪を意味する色合いなのですよ」
「ふぅん。変わるものだねぇ」
「こちらの色が一般的になったの、第二次世界大戦以後ですからね。
……そんなにまじまじと見るほど可笑しいですか? この恰好」
「いいや? とてもよく似合っているよ。
ただ、これで刺繍の一つでも入っていればさぞ美しいだろうと思ってね……君が、だよ?」
「…………。……いや、さして大差無いと思いますがね」
困惑と面映ゆさがない交ぜになった様子で、が視線を彷徨わせる。
青江を一瞥した狐がわざとらしく呆れた雰囲気を作った。
の足元で、これ見よがしに鼻を鳴らす。
「殿……このくらいの世辞で狼狽してどうします」
「わかってる、わかってるからおねがいちょっとだまっておねがい」
「うーん、お世辞じゃないんだけどなぁ」
彼女には黒がよく似合っている、と。本心からそう思う。
小柄なを見下ろせば、自然、視線が首筋へと吸い寄せられる。無防備に晒された、ましろい首。(ここに、)細く、頼りない首。(刃を)片手で掴めてしまいそうな――簡単に堕ちる、やわい首。
呆然と、見開かれた瞳を覚えている。
恐怖を滲ませながら、取り繕われた声音も。
感情を、必死に押し殺そうとするような無表情も。
彼女が纏っていた黒い洋装も、青褪めた肌も――鮮烈に彼女を彩った、血の、赤色も。
微笑を唇に刷いたまま、青江はひっそりと恍惚とした吐息を零した。
歪んでいる。その自覚は十分にある。本丸を覆い尽くしていた、呪詛と怨念。それが祓われ、解放されたからといって、一度歪み、捻じれてしまった部分はきっと容易には修正できない。
ただ、正常を取り繕えるようになっただけだ。誰もかれもが同じ事。
(……直そうとは思えないけどね)
血の赤など、幾度と無く見てきた。
にっかり青江は長らく人の手に継がれてきた実戦刀だ。
その彼をして、初めての経験だったのだ――その赤色を、美しいと感じるのは。
血溜まりに佇み、染まる彼女はどれだけ美しいだろうか、と。
そんな事を考えたのはいつだっただろうか。
初めて出会ったあの日。
もっと染めてみたいと、そう思ってしまったのが憎悪でなく感動ゆえにだと気付いたのは。
「ふふ。君には黒と、赤がよく似合うと思うなぁ……本心だよ?」
飾り立てたい。そう願う。
他の誰でもなく、己の手で。
は前任者とは違う。危険な場所にも、進んで飛び込んでいくような審神者だ。
だから――その機会はきっと、幾らだって巡ってくるのだ。
(きっと、返り血がよく栄える)
残念ですが、手遅れです。
「………………」
「どしたのこんさん? 難しい顔して」
「……いえ。悠長に浄化などせず、さっさと焼いてしまうべきだったと思いまして」
「ちょ、ほんとどうしたの」
「殿。今からでも刀剣男士様方、刀解なさいませんか?」
「しないよ!? なんでそんな話になるの!?」
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昔は白が喪を意味する色合いだったっていうね。
白無垢→白い喪服→死装束というフローチャートで使い回し。