星の綺麗な夜だった。
 黒い布の上にビー玉をばら撒いたような、不思議と懐かしく思えるような。呼吸するという至極自然な行為すら忘却の淵へ押し込める、そんな夜空。
 もはや記憶の彼方で輪郭を曖昧にするようになった“前世”。一度だってこんな綺麗な夜空を目にした事は無いはずなのに、当たり前の顔をして煌めいて世界を飾り立てるそれは、いつか見た夜空と同じくらいに切なくて、懐かしい。浮かぶ星を、竹竿振り回して落とそうとする逸話を思い出してふと笑えば、男が疑念と一抹の恐怖を、虚勢で塗り固めて恐い顔をした。
 余裕の笑みにでも見えたのだろうか。……ああ、見えたのだろう。なにせこの島は少女にしてみれば庭同然だ。
 ロギア系とゾオン系、能力の相性だけで言えば男は少女に決定打を与える事などできはしない。
 彼女の保護者も同然の巨人達に助けを求められでもすれば、それで彼の人生は終わる。

「なにを笑っていやがる?」

 殺して、しまおうか。
 小物としか表現できない男の恫喝を凪いだ気分で眺めながら、少女は心中だけで呟く。
 殺してしまうのは簡単だ、それだけなら彼女一人だとてこと足りる。なるべく素早く正確に、足元から泥の槍で一突き。逃げられる事を考えるなら、泥で四方八方から圧殺するのもいい。
 死体は友人である恐竜達に喰わせてしまえば肉片ひとかけ、骨一本とて残るまい。
 耳元で囁く、悪魔の誘惑。
 けれどそれに乗るわけにはいかない。この男は少女でも何とかできるが、もう一人の方はどうにもならない。

「……今まで楽しかったなぁ、って。思い出してるだけ」

 だから、殺してしまえと囁く言葉に耳を塞いで曖昧にぼかす。
 空に浮かぶ、星。それを竹竿程度で落とそうなんて土台、不可能な話だ。
 愚かだ愚かだと後ろ指さされて馬鹿にされる行為。
 けれどそれは、星がどれほど遠くにあるかと知識で知るが故の嘲笑ではないのかと。
 星が欲しいと手を伸ばすのが幼子であれば、果たしてその行為を誰が笑うのか。無知と誹るのか。

 星をその手に掴もうとする、飽くなき欲求無くして人は空へと往けはしなかっただろうに。

 生きるため、それだけのためならば必要ない。宇宙へ至る手段。天体が如何にして動くのか。世界にどれだけの動物が蠢くのか。死者は何処へ逝くのか。何故、どうして、どうすれば。世界に溢れる疑問の数々、最低限生きる事だけを目的に掲げるのであれば、人間と云う種の発展は原人レベルで留まっただろう。
 人間を人間たらしめる所以は何か?
 少女にしてみれば、それはひどく明快である。

 欲望。

 それだけだ。

 より良い境遇をより深い知識をより過ごしやすい環境をより素晴らしい力を。
 誰もが求め誰もが願い誰もが探究し、そうして人間は文明を築き願う場所へと到達できるように足掻いてきた。
 その過程で踏み潰され踏み砕かれ踏み躙られてゆく者達がいたとしても、人の欲望は意にも解さずただ前へと突き進む。弱者はただ消え逝くのみだ。世界に呑まれて消えていく。モノみな平等、弱者は守られてしかるべきなどというのはしょせん甘口の童話にしか存在しない綺麗事でしかない。弱者は蹂躙され、強者は当然のごとく搾取する。
 口先だけの論理ではなく実感として、少女はそれを理解している。優しいまどろみの中に守られているかのような平和な前世、それが夢幻だったのだと嘲笑うかのような産まれてからの八年間。

 ああ、けれど。
 辛い事の多い八年間、だからこそ――


「やぁやぁ。長々と待たせてしまったね、二人とも」


 噛み締めた感情を断ち切るように、のんびりとした男の声が割り込んだ。
 黒々とした闇の密林、そこに溶け込むようにしていつの間にか立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ背の高い男だ。ワンピース世界の人間にしては特徴というものに欠ける、至極平凡で穏やかな顔立ち。緊張感というモノとは如何にも縁がなさそうなその表情は、見る者に安心感ではなく得体の知れない不気味な印象を与える。
 小物然とした男が、分かり易く顔に安堵を滲ませて憎まれ口を叩いた。

「チッ、まったくだぜ。さっさと来いってんだ」
「いやはや、まったくもって面目ない。
 出掛けに海楼石の鎖を忘れた事に気付いてね? 慌てて取りに戻った次第だ」
「どんだけうっかりしてんだてめぇ!? ダメだろ! 何を忘れてもそれだけは忘れちゃいけねぇだろ!!」
「だからきちんと取りに戻ったじゃあないかね」
「そういう問題じゃねぇだろうがよ! 商売道具忘れるとかねぇよマジで!!」
「はっはっは、なーに問題ないとも。彼女は抵抗しないからね。だろう?」

 軽やかに笑いながら、ウインクしてみせる平凡系不審者。
 それには答えず、少女は屈辱を捩じ伏せたが故の平坦な声音で問い返す。

「……本当に、おじさん達には手を出さないでいてくれるのよね?」
「ん? ああ、勿論だとも。賞金額的にも捕獲の手間的にも、君一人を連れていく方がよほどお得だ」
「まぁ、てめぇの態度しだいだが、なっ!」
「か、ふッ」

 言葉と共に腹部へと叩き込まれた容赦の無い蹴りに、少女の小柄な身体が跳ねる。
 普段なら意図せずとも透過して無効化できる、力に任せたただの蹴り。けれど、それを甘んじて受ける必要が今の彼女にはあった。悪魔の実を口にしてから、久方ぶりに”受ける”暴力。
 無意識のうちに泥へ化して衝撃を逃そうとする防御本能を抑え込み、苦痛に甘んじる。
 男が満足げに笑って、少女の髪を掴んで頭を引き摺り上げた。

「よぉーしイイ子だ。抵抗すんな、逃げようとすんな、能力を使うな。
 前にも言ったが、ちらっとでもそんな様子を見せりゃ、あの巨人どもについて海軍にタレ込むからな」
「はっはっは、まぁそういう事だ。時に、唐突なる暴行からチクリを堂々と宣言のコンボは小物臭がハンパ無いぞ」
「誰が小物だごらぁっ!!」

 がなり立てる男を無視し、スーツ姿の男は少女に視線を合わせて膝を折った。
 のんびりとした、緊張感の無い顔。けれど滲み出す悪寒がぞわりと背筋を撫で上げ、少女は無言で唇を噛み締める。三日月の目を愉悦にきらきらと輝かせながら、青年はおどけた様子で彼女に手を差し伸べた。


「それでは、海軍までご同行願おうか? ”リトル・モンスター”」


 足りない、足りない、力が足りない。
 ルフィのように現状を跳ね飛ばしたくても、今の自分にはそのための力が足りないのだと知っている。
 痛感している。絶望的に。どうしようもなく、覆しがたい程に。
 けれど、それがどうしたというのだ。それがなんだというのだ。
 少ないなら足せばいい、足りないのなら補えばいい、足掻きもせずに無理だと決めつけるような真似ができるようならとうの昔に死んでいる。諦めれば人は何処へも到達できなどしないのだから。


( 今は、無理。 )


だから、少女は諦めない。


( だけど、見ていろ。 )


だから、少女は屈さない。


(  いずれ、必ず  )



 だから、少女は。

【 06.賞金稼ぎは世間的に正義寄り。ただし人道面がハンパなくグレーゾーン。】


 世界は回る、世界は廻る。
 原作と呼ばれる”運命”目指して、予定外の歯車すらも巻き込んで。




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