恐怖が彼を突き動かした。恐怖が彼の足を止めさせなかった。
 死への怖れは彼の背を突き飛ばしたので、彼は転がりまろびつつ、その場から逃げた。力の限り走った。
 背後では見知った男が叫んでいる。見捨てるのか、逃げるのかと叫んでいる。彼は恐怖ゆえに男を見捨てた。始まりつつある惨殺、その舞台に男を、他の者達を。かつて敬愛していた(そして今は恐怖の対象である)父親を置き去りにした。

 彼の父親は昔、海軍の将校であった。その頃の父は優しかった。
 彼の父親は今、唾棄すべき海賊である。父は彼を暴力で支配した。

 恐怖は人を支配する。諦めは逃げる心すら奪う。
 かつてあった親子の情など最初から無かったのだと言わんばかりに(あるいは、親子であったがゆえにこそ)彼の父親は我が子を持ち物同然に扱った。自分に従って当然のものとして酷使した。父の仲間もそれに倣った。誰も止めなかった。助けを求めて縋った父は、庇ってくれるはずも無かった。苦痛に鈍麻した心に反抗心は浮かばない。
 そうして支配したはずの我が子は今、皮肉にも父親へのそれを上回る恐怖ゆえに逃げ出している。
 あるかなしかの体温で溶けた雪が、水になって手足の先を凍らせる。感覚を失ってかじかむ足はもつれ、手からは血が滲む。殴られてばかりで傷だらけの肌に馴染んだ痛みが、じくじくと疼いて彼を苛んだ。
 安物の防寒着から染み入る寒さが恐怖と、何より自身の惨めさを彼の心身へと刻み込む。
 涙が止まらなかった。胸に去来する感情のままに泣き、彼はいつしか叫び、喚きながら走っていた。逃げていた。
 頭の中で幼い自分が責め立てる。正義を、正しさを疑いなく信じた自分が責め立てる。
 どうして逃げた、どうして立ち向かわない、どうして見捨てた――

(煩い、煩い、煩い!!!!!)

 幼い自分を突き飛ばす。耳を塞いで喚いて叫んで蓋をする。
 父と同様、海軍に入って人々を助けるのだと。無邪気な気持ちで、誇らしい気持ちで抱いた夢は泥に塗れ、もはや昔日の面影も無い。海賊に堕ちた父親に何ができた、逃げ出す事も糺す事もできず、いつか昔のように優しい父親に戻ってくれると、儚い妄想を抱きながら付き従う以外にいったい何ができた! 泣きながら、意味の無い言葉を叫び散らしながらひたすらに走る。
 惨劇から逃れようと、見捨てたものから遠ざかろうとひたすらに走る。

――君! 君、大丈夫か!? しっかりしろ!」

 幻聴だろうか。

「少年一名を保護! ひどいな、傷だらけだ……!」
「だいぶ衰弱している……ああ君、もう大丈夫だ。心配しなくていい!」

 幻聴ではなかった。ずしりと重たく、鉛のような身体を誰かの腕が支えている。ぬくもりが染み入ってくる。
 彼を見下ろすのは海兵だ。幼い日の憧れが、形になって彼を安堵させるように優しい顔で見下ろしている。(とうさん、)優しかった、誇らしかった父がもどってきたようだった。ドリィ、と乱暴な手付きで彼の頭を撫でてくれた記憶が去来する。よく耐えた、辛かったろう、さすが俺の息子だ……。ただの夢だ、幻だ。
 現実に彼を支えるのは顔も知らぬ海兵で、彼は惨めに、無様なくらい震えている。
 助かった。そう認識した瞬間彼の胸を過ぎっていった落胆に、ひどい羞恥と自責の念が押し寄せてくる。
 それは自分が何に落胆したのかを理解していたからだった。彼は助かった。海兵に救われた。かつての自分が夢見たような、ただしいひとに救われた。父親を見捨てた自分は、善いひとに救われてしまった。

――どうして、)

 彼は正しくない。善いひとにはなれない。だから、救いを見い出したのは同じ海賊にだった。
 幼い頃。偶然入った路地裏で、盗人崩れに嬲られていた彼を助けてくれた人。
 彼女にはきっと、彼を助けようとする意図は無かっただろうけれど。

 奴隷の英雄。血塗れの解放者。
 幼い少女の見目そのままに、澄み切ったうつくしい目をしていた“リトル・モンスター”。

 彼女の救いをこそ、求めていた。
 同じ年頃でありながら、自分よりも遥かに強く、勇気のある少女。間違った者にすら手を差し伸べる、世界中の嫌われ者。彼にとっての、ダーク・ヒーロー。彼女ならきっと、自分の事も助けてくれるだろうと思っていた。幼いあの日と同じように、彼にさしたる興味も向けず。ただ通りすがったついでに、と言わんばかりの気軽さで。
 打ちのめされた心には、そんな妄想だけが救いだった。弱い心には、そんな淡い希望だけが一縷の望みだった。支える優しい腕を拒絶するように自分の身体を抱き締めて、俯いたまま顔を覆う。涙は止まらない。

「ああ、よしよし。怖かったろう、思い切り泣くといい」

 そんな彼に海兵は、背中を叩いて優しい言葉をかけてくる。
 違う。その言葉を受け取る資格は無いのだ。助けられる価値さえ無かった。こうして庇護され、救われておきながらどうして救ってくれたのが彼女でないのかと身勝手に落胆する、自分はそんな人間なのだ。そして、それを痛いくらい自覚しながら口に出す事もできない。そんな卑怯で矮小な、どうしようもなく弱い人間でしかないのだ。

――どうして――……)

 噛み締めた歯の隙間から、不格好な嗚咽と共に荒い息が零れる。
 救いようがない。救われながら感謝すらできない自分への失望で窒息しそうな心地だった。途切れぬ涙は外気に冷やされ、傷だらけの肌をひりつかせる。裂けた皮膚から染み入る雪の白で、この心も記憶もどうしようもない願望も、自分さえも漂白されてしまえばいいのにと心から願った。
 哀しみと、自己嫌悪と、安堵とでぐちゃぐちゃになりながら、彼は――ディエス・ドレークは頭を抱えて蹲る。

 ドレークは彼女のため、生きることも死ぬこともない。
 まして海軍に救われた彼を、彼女が救いに来るはずもないのだった。

 思い出の中、去りゆく少女が振り返る事は無かった。



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エピソード的にはミニオン島のアレです(原作77巻)。
何気に10話でエンカウントしていたドレークさんでしたー。たぶん初恋。